建安けんあん13年(208年)、曹操そうそうとの決戦を決意した孫権そんけんが派遣した周瑜しゅうゆら水軍3万と、劉備りゅうび軍2千が合流した時の様子についてまとめています。

スポンサーリンク

曹操の南征

長坂の戦い

建安けんあん13年(208年)7月、曹操そうそうみずから南征を開始。8月、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが亡くなると、後を継いだ劉琮りゅうそうは戦わずに曹操そうそうに降伏してしまいます。

当時樊城はんじょうに駐屯していた劉備りゅうびは、城をて南に逃走しますが、荊州けいしゅう南郡なんぐん当陽県とうようけん長坂ちょうはん曹操そうそう軍に追いつかれ、散々に撃ち破られました。

孫権に諸葛亮を派遣する

荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうの死が江東こうとうに伝わると、孫権そんけん劉表りゅうひょうの2人の息子と劉備りゅうびと手を結び、共に曹操そうそうに対抗するため、魯粛ろしゅく弔問ちょうもんに派遣しました。

ですが、劉表りゅうひょうの後を継いだ劉琮りゅうそうが戦わずに曹操そうそうに降伏し、劉備りゅうびが逃走したことを知ると、魯粛ろしゅく劉備りゅうびの後を追い、南郡なんぐん当陽県とうようけん長坂ちょうはん劉備りゅうびと面会します。

魯粛ろしゅくは、劉備りゅうびに「孫権そんけんと手を結び、曹操そうそうに対抗する」ように説得し、これに喜んで承諾した劉備りゅうびは、孫権そんけんの元に諸葛亮しょかつりょうを派遣しました。

関連記事

孫権の決断

この時孫権そんけんは、揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)・柴桑県さいそうけんで事態の行方ゆくえうかがっていました。

当時、孫権そんけんの家臣たちの中では「降伏論」が大勢を占めていましたが、諸葛亮しょかつりょう魯粛ろしゅく周瑜しゅうゆらの働きかけにより、ついに孫権そんけん曹操そうそうとの決戦を決意。降伏をとなえる家臣たちの前でつくえを斬りつけて、その決意を示しました。

孫権そんけんは、すぐさま劉備りゅうびの元に周瑜しゅうゆ程普ていふ魯粛ろしゅくら水軍3万を派遣して、力を合わせて曹操そうそうを防がせることにしました。

関連記事

スポンサーリンク


劉備と周瑜の会見

周瑜らの到着

劉備りゅうび魯粛ろしゅくの計に従って、軍を進めて荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん鄂県がくけん樊口はんこうに駐屯していました。

諸葛亮しょかつりょうに行ったまま、まだ帰還しない間、劉備りゅうびは「曹操そうそうの軍が攻め下ってくる」と聞いて恐れおののき、毎日見廻みまわりの役人を水辺にって、孫権そんけんの軍を待ち望んでいました。


劉備と周瑜の会見・関連地図

劉備りゅうび周瑜しゅうゆの会見・関連地図

赤字漢水かんすい


ある日、見廻みまわりの役人が周瑜しゅうゆの軍船を見つけ、馬を走らせて劉備りゅうびに報告します。

すると劉備りゅうびは、


「どうして青州せいしゅう徐州じょしゅうの軍(曹操そうそう軍)でないと分かるのか?」


たずね、これに見廻みまわりの役人が「船を見て分かりました」と答えると、劉備りゅうびは彼らをねぎらわせるため、人を派遣しました。

その使者が戻って言うには、周瑜しゅうゆは、


「軍の任務がありますから、持ち場を離れることができません。もし曲げて(劉備りゅうびが)おいでくださるならば、心を込めてご希望に沿うようにいたしましょう」


と言ったとのこと。

すると劉備りゅうび関羽かんう張飛ちょうひに向かって、


「彼は私に出向かせようとしているのだ。今、自分の意志で東方(孫権そんけん)と結んでおきながら、ここで出向かないのは同盟の本旨ほんしに反する」


と言い、1そうの船に乗って 周瑜しゅうゆに会いに出かけました。

劉備と周瑜の会見

周瑜しゅうゆと面会した劉備りゅうびが、


「今、曹操そうそうと対陣なさるにあたって、きっと深い計略がおありのことでしょう。兵士はどのくらいおりますか」


周瑜しゅうゆたずねると、周瑜しゅうゆは「3万です」と答えました。

これに劉備りゅうびが、


「惜しいことに、少なすぎますな」


と言うと、周瑜しゅうゆはこれに答えて、


「これで我が方は充分です。豫州よしゅう劉備りゅうび)殿は、私が曹操そうそう軍を撃ち破るのを、ただご覧になっていてください」


と言いました。

また、劉備りゅうびが「魯粛ろしゅくらを呼んで一緒に語り合いたい」と願ったところ、周瑜しゅうゆは、


「命令を受けている以上、勝手に持ち場を離れることはできません。もしも子敬しけい魯粛ろしゅくあざな)にお会いになりたければ、別の機会に訪れてください。

また孔明こうめい諸葛亮しょかつりょうあざな)殿も一緒に参りましたから、ここ2、3日の内に到着いたしましょう」


と言いました。

劉備りゅうびは深く恥じ入り、周瑜しゅうゆ傑物けつぶつだと思いましたが、内心では周瑜しゅうゆが必ず北軍(曹操そうそう軍)を撃破できるものとはまだ信じられなかったので、進退どちらにも対応できる体勢を取るため、2千の兵をひきいて関羽かんう張飛ちょうひと共に周瑜しゅうゆの後方に下がって、えて周瑜しゅうゆと関わろうとしませんでした。

豆知識

上記は蜀書しょくしょ先主伝せんしゅでんが注に引く江表伝こうひょうでんもとにしていますが、裴松之はいしょうしはその注の中で、


劉備りゅうびは雄才をいだきながら滅亡必死の状況に立ち、に危急をうったえて救助に駆けつけてもらったからには、長江ちょうこうの岸辺で形勢を観望して先々の計算をするはずはない。江表伝こうひょうでんの記事は、の人が一方的に自国を賛美せんとした言葉に違いない」


という孫盛そんせいの言葉をせています。

そのため上記の、


劉備りゅうびは深く恥じ入り、周瑜しゅうゆ傑物けつぶつだと思いましたが、内心では周瑜しゅうゆが必ず北軍(曹操そうそう軍)を撃破できるものとはまだ信じられなかったので、進退どちらにも対応できる体勢を取るため、2千の兵をひきいて関羽かんう張飛ちょうひと共に周瑜しゅうゆの後方に下がって、えて周瑜しゅうゆと関わろうとしませんでした」


の部分を資治通鑑しじつがんでは、


劉備りゅうびは(魯粛ろしゅくを呼ぼうとしたことを)深くじ、(周瑜しゅうゆの頼もしさを)喜んだ」


とだけしるしています。


建安けんあん13年(208年)7月、曹操そうそうみずから南征を開始。荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうの後を継いだ劉琮りゅうそうが降伏すると、劉備りゅうび曹操そうそうの追撃を受けて敗北をきっしました。

この時、孫権そんけんの使者・魯粛ろしゅくと面会した劉備りゅうびは、孫権そんけんと手を結んで曹操そうそうに対抗するため、孫権そんけんの元に諸葛亮しょかつりょうを派遣します。

諸葛亮しょかつりょう魯粛ろしゅく周瑜しゅうゆらの働きかけにより「曹操そうそうとの決戦」を決意した孫権そんけんは、周瑜しゅうゆ程普ていふ魯粛ろしゅくら水軍3万を派遣。劉備りゅうびが駐屯する荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん鄂県がくけん樊口はんこうで、無事劉備りゅうび軍と合流しました。

関連記事