【三国志年表詳細】209年の主な出来事と三国志群雄勢力図
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209年【漢:建安14年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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209年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
丞相 |
曹操 |
御史大夫 |
郗慮 |
執金吾 |
伏完 |
車騎将軍 |
孫権 |
前将軍 |
馬騰 |
左将軍 |
劉備 |
安降将軍 |
韓遂 |
伏波将軍 |
夏侯惇 |
偏将軍 |
馬超 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
曹操 |
豫州牧 |
劉備 |
徐州牧 |
孫権 |
荊州牧 |
劉備 |
益州牧 |
劉璋 |
徐州刺史 |
臧覇 |
遼東太守 |
公孫康 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
杜畿 |
会稽太守 |
孫権 |
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209年の主な出来事
月 |
出来事 |
3月 |
- 曹操が豫州(予州)・沛国・譙県で水軍の訓練をする。
- 曹操が孫権が包囲する揚州・九江郡・合肥国に援軍として将軍の張喜を派遣する。
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不明 |
- 揚州別駕の蔣済(蒋済)が一計を案じる。
- 孫権が蔣済(蒋済)の偽りの手紙を信じて合肥国の包囲を解いて撤退する。
|
7月 |
- 曹操が水軍を率いて揚州・九江郡・合肥国に陣を取る。
- 曹操が布令を出す。
- 曹操が揚州の郡県に長吏を置き、芍陂から水を引いて屯田を始める。
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不明 |
■曹操・孫権
- 廬江郡の陳蘭と梅成が曹操に叛逆する。
- 孫権が揚州・廬江郡・居巣国に入って陳蘭・梅成を援助する。
- 臧覇が居巣国を攻撃して撃ち破る。
- 梅成が于禁と臧覇に降伏する。
- 臧覇が逢龍と夾石で呉の韓当と戦い撃ち破る。
- 臧覇が揚州・廬江郡・舒県に駐屯する。
- 臧覇が舒口に駐屯する孫権を撃ち破る。
- 梅成が再び背いて陳蘭と合流し、天柱山に砦を築く。
- 張遼が陳蘭・梅成らを攻撃してその首を斬る。
■孫権・劉備
- 荊州・南郡・江陵県を守る曹仁が城を放棄して撤退する。
- 劉備の上表により孫権に車騎将軍代行の任が与えられ、徐州牧を兼任する。
- 荊州刺史の劉琦が亡くなる。
- 劉備が荊州牧となる。
- 劉備が荊州・南郡・公安県に陣営を構える。
- 孫権が妹を劉備の夫人として嫁がせる。
- 曹操の命令により蔣幹(蒋幹)が周瑜を訪問する。
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12月 |
- 曹操が軍を率いて豫州(予州)・沛国・譙県に帰還する。
- 曹操が張遼・楽進・李典を合肥城に駐屯させる。
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209年の群雄勢力図
1月
209年1月の群雄勢力図
第1次合肥の戦い
前年の建安13年(208年)、赤壁の戦いの勝利を受けて攻勢に転じた孫権軍は、周瑜らが荊州・南郡・江陵県を包囲し、12月には孫権自ら10万の軍勢を率いて揚州・九江郡・合肥国を包囲しました。
第1次合肥の戦い
これに曹操は、赤壁の敗戦から間もないため大軍を動かすことができず、将軍の張喜に単身・千騎を率いさせ、汝南郡を通過する際にその兵を配下に収めて、その兵によって敵の包囲を解かせることにしましたが、やはりかなりの兵が疫病にかかってしまいます。
揚州別駕・蔣済(蒋済)は、そこで一計を案じ、孫権に「援軍が到着した」という偽の情報を流し、孫権軍を撤退させました。
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廬江郡の陳蘭・梅成の反乱
建安14年(209年)、揚州・九江郡・合肥国を包囲していた孫権が撤退すると、豫州(予州)・沛国・譙県にいた曹操は水軍を率いて南下し、合肥城に陣を取りました。
その後、廬江郡の陳蘭と梅成が曹操に対して反乱を起こすと、孫権は居巣国に入って陳蘭・梅成を援助しようとしますが、曹操が派遣した臧覇に阻まれてしまいます。
陳蘭と梅成は天柱山の山頂に砦を築いて抵抗を続けますが、張遼・張郃・于禁らに敗れて首を斬られました。
天柱山の戦い
12月、曹操は譙県に軍を還し、張遼に命じて楽進・李典らと共に7千余人を率いて合肥城に駐屯させました。
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12月
209年12月の群雄勢力図
赤壁の戦い後の論功行賞
孫権は「赤壁の戦い」と「江陵の戦い」における諸将の功績に報い、周瑜を南郡太守に、程普を江夏太守に任命しました。孫権は劉備の上表により車騎将軍代行と徐州牧を兼任し、劉備が荊州牧となることを認めて、長江の南岸の地を与えました。劉備は油江口を公安と改め、そこに陣営を構えます。
荊州の配置
劉備と孫権の妹の結婚
孫権は、劉備が元劉表の吏卒を取り込んだことで、次第に劉備を畏れるようになり、妹を劉備の夫人として嫁がせて友好関係を固めました。
蔣幹(蒋幹)の訪問
この頃、周瑜の評判を聞きつけた曹操が、揚州・九江郡出身の弁士・蔣幹(蒋幹)を派遣して彼を配下に加えようとしましたが、失敗に終わりました。
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前年の12月から揚州・九江郡・合肥国を包囲していた孫権は、百余日が経っても落とすことができず、包囲を解いて撤退しました。
その後、廬江郡の陳蘭と梅成が曹操に対して反乱を起こすと、孫権は居巣国に入って陳蘭・梅成を援助しようとしますが、曹操が派遣した臧覇に阻まれ、陳蘭と梅成は、張遼・張郃・于禁らに敗れて首を斬られました。
一方、荊州・南郡では周瑜が江陵県を陥落させ、孫権は劉備に、南郡の長江より南の地を与えますが、次第に警戒感を増し、自分の妹を嫁がせて友好関係を固めました。
またこの頃、曹操の命令を受けた蔣幹(蒋幹)が周瑜を訪ねますが、周瑜に孫権を裏切らせることはできませんでした。
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タグ : 劉備, 正史, 曹操, 韓遂, 周瑜, 于禁, 楽進