北海相であった孔融が将作大匠として朝廷に入ってから、曹操に処刑されるまでをまとめています。
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目次
孔融が曹操を頼る
孔融の北海相時代
孔融が青州・北海国の相(太守)であった時、青州の周辺では袁紹と曹操の勢いが盛んでしたが、孔融はそのどちらにも与しようとしませんでした。
当時、孔融は数百に満たない兵士と1万石に足らない穀物しか所有していなかったので、顧問の左丞祖が孔融に、「袁紹か曹操のどちらかを後ろ楯とするよう働きかける」ことを勧めました。
ですが孔融は、袁紹・曹操が「最終的には漢室を滅ぼすことを企んでいる」と考えていたことから「どちらにも与したくない」と思い、怒って左丞祖を殺害してしまいました。
袁譚に敗れる
建安元年(196年)春、袁譚が孔融を攻めました。
この時孔融は、劉備の上奏により青州刺史となっていましたが、当時の青州は、
- 公孫瓚が任命した田楷
- 曹操が任命した袁譚
も青州刺史を名乗るという、混沌とした状態でした。
夏に至って城は陥落し、孔融は東山に逃れ、孔融の妻子は袁譚の捕虜となりました。
そしてこの頃、豫州(予州)・潁川郡・許県に献帝を迎えた曹操は、孔融を徴召いて将作大匠とします。
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曹操の反感を買う
孔融の独壇場
献帝が初めて許県に都を遷した時、孔融は高官たちを引き連れて、
「古代の制度に則って王城の地を定め、司隷校尉の管轄する地域を是正して、千里(約430km)四方の境界内には諸侯を封建しないようにすべきです」
と上書しました。
ですがこの時、天下は新しく建て直されたばかりで、曹氏と袁氏のどちらが権力を握るのかすらまだはっきりしておらず、孔融の意見は「時世に即した対策」を理解していないものでした。
また、後に少府に転任した孔融は、朝会で献帝から意見を求められる度に、正論をかざして議場の主導権を握ったので、他の公卿・大夫たちはただそこにいるだけで、いつも孔融の独壇場となっていました。
馬日磾の亡骸
袁術に捕らえられた太傅・馬日磾の亡骸が京師(許県)に戻って来ると、朝廷では「馬日磾の亡骸を特別な礼をもって葬る」ことが議論されました。
ですが孔融は、「馬日磾は太傅という尊い地位にありながら、姦臣(袁術)に媚びへつらった」として特別な礼を加えないように主張し、朝廷はこれに従いました。
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肉刑の復活に反対
また孔融は、「入れ墨や鼻削ぎ、足切り、宮刑などの肉系を復活させること」が議論された時にも、建議してこれを阻止しました。
劉表の弾劾に反対
また、荊州牧・劉表が定められた貢ぎ物を納めず、多くの僭越な振る舞いをして、ついには郊外で天地を祭り、自らを天子に擬えるに至ると、献帝は詔書によりその悪事を天下に知らしめようとしましたが、孔融はこれを不問に付すように上疏しました。
特別な祭祀を行うことに反対
建安5年(200年)、南陽王・劉馮と東海王・劉祗が亡くなると、献帝はその早世を悼み、2人のために四季の祭祀を行おうと思って孔融に下問しましたが、孔融は「『礼』の規定に合致せず、先帝がお定めになられた法に違反する」として反対しました。
曹丕の嫁取りを揶揄
建安9年(204年)8月、曹操が冀州・魏郡・鄴県を陥落させた時のこと。
曹操の子・曹丕が袁紹の邸宅に入っていくと、袁紹の妻・劉氏の側に仕える幽州刺史・袁煕の妻・甄氏の姿が目に止まりました。甄氏は劉氏の膝の上に顔を伏せて怯えていましたが、曹丕がその顔を上げさせたところ、その容姿が非凡なのを見て大変気に入ります。
曹操は曹丕の希望を聞いて彼のために甄氏を迎え、曹丕に甄氏を娶らせました。
このことを知った孔融は、曹操に次のような書簡を送りました。
「周の武王は殷の紂王を討伐し、稀代の悪女と名高い妲己を周公に下賜しました」
この言葉の意味が分からない曹操が「その話は何のどの経典を典拠としているのか?」と尋ねると孔融は、
「今回の出来事(曹操が甄氏を息子の妻として与えたこと)から推測してみますに、きっと武王も周公に妲己を与えたのだろうと思っただけです」
と答えました。
つまり、「あなた程の人物が行ったことなら、きっと古の聖人も同じことを行っていたことでしょう」と、曹操を皮肉ったのです*1。
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脚注
*1実際は、殷に勝利した武王は、妲己の首を斬って小白旗に懸け、紂王が滅んだのはこの女が原因であるとした。
烏丸征伐を批判する
建安12年(207年)に曹操が烏丸を征伐すると、孔融はまたこれを嘲笑して、
「大将軍*2(曹操)は遠征して異民族を殺害し尽くし、辺境の地を人気なく寂しくさせましたようで。袁氏を匿った烏丸の罪を問うのであれば、昔、肅愼氏が楛(イバラの一種)の矢の貢ぎ物を怠り、丁零が蘇武の牛や羊を盗んだことも、合わせてお取り調べになれば良い」
と言いました。
脚注
*2当時の曹操は大将軍ではなく司空。ここで言う「大将軍」は官職を指しているものではないと思われる。
禁酒令に反対する
ある時飢饉の年があり、戦争もあったので、曹操は上表して禁酒令を布告しました。
孔融は何度も書簡でこれに反対します。
「天には酒旗の星があり、地には酒泉の郡が連なり、人には美酒の徳があります。だから、堯は千杯の酒を飲まなかったなら、その聖徳を完成できなかったでしょう。それに桀と紂は女色によって国を滅ぼしたのに、今、命令を出して婚姻を禁止しないのですか」
この時、すでに曹操の漢を簒奪する大それた野心と、それを粉飾する偽りが明らかになってきたと感じていたので、孔融は辛抱することができず、その内容には曹操を侮辱し、慢心した言葉が多く含まれていました。
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孔融の死
孔融を罷免する
曹操は孔融の議論する範囲が次第に広くなってきたことを嫌っていました。ですが、孔融の名声が天下に重きをなしていたので、曹操は外見上は寛大な態度を見せてはいたものの、内心穏やかではいられませんでした。
この曹操の気持ちを汲み取った御史大夫の郗慮は、些細な違法行為を理由に孔融を免官にしました。
太中大夫に任命される
それから1年余りして、孔融は太中大夫を拝命します。
孔融は性格が寛容で人を憎むことが少なく、士を好み、進んで後進の人々を導き助けたので、太中大夫という閑職に退いたとは言え、彼の家の門は毎日訪問客で溢れていました。
孔融は自らの才能を愛で、酒を楽しみ、常に嘆息しながら、
「座席はいつも客で埋まっており、樽の中の酒は空にならない。儂には心配することはない」
と言っていました。
また孔融は蔡邕と親しかったので、彼が亡くなってからというもの、酒宴が酣となる度に、蔡邕に似た虎賁の士(近衛兵)を招いて同席させ、
「(『詩経』大雅・蕩之什に)『老練成徳の人はいないと言っても、(先王以来の)典刑は残っている』とある。蔡邕どのはもうおられぬが、その形、すなわち容貌は残っている」
と言っていました。
孔融は、人の善い点を聞けば、それを自分のことのように喜び、人の言葉に採用すべき点があれば、必ず敷衍*2してこれを実行し、また、本人に面と向かってその短所を指摘することはあっても、その人がいないところでは長所を称賛しました。
彼が推薦した者には昇進した者が多く、優れた人物の存在や他人の善行を「知っていながら言わない」のは、自分の過ちであると考えていたので、天下の英傑・俊才たちはみな孔融に信服していました。
脚注
*2意味の分かりにくい所を、やさしく言い替えたり詳しく述べたりして説明すること。
孔融の死
その後も曹操は、孔融に対する憎悪を募らせていました。
建安13年(208年)8月、郗慮は孔融の罪を捏造し、ついに丞相軍謀祭酒の路粹に、状況を曲げて孔融を弾劾する上奏をさせました。
路粹の上奏・全文
この上奏は受理され、孔融は獄に下されて棄死(晒し首)となりました。享年56歳。その妻子もみな殺されました。
脚注
*3「劉」の字を分解したもの。
豆知識
孔融の子
初め、孔融の娘は7歳、息子は9歳と幼かったので、助けられて他人の家に預けられていました。
孔融が捕らえられた時、2人の子はちょうど双六をしていましたが、慌てる素振りを見せませんでした。周りの者が、
「父が捕らえられたというのに慌てる素振りを見せないのは、どういう訳だね?」
と聞くと、子供たちは、
「巣が壊されて、どうして卵が割れないということがありましょうか」
と言いました。
また、主人が子供たちに肉汁を送った時のこと。
息子は喉が渇いていたのでその肉汁を飲もうとしましたが、娘の方は、
「今日、父上が殺されるという禍があったというのに、どうして私たちも長く生きていられましょう。兄上は、どうして肉の味が分かるのですか?」
と言って飲もうとしませんでした。この言葉を聞いた兄は、慟哭して飲むのをやめました。
ある人がこのことを曹操に告げると、曹操は(孔融の子らが優れていることを恐れて)ついにその子供たちを殺すことにします。
捕り手がやってくると、妹は兄に、
「もし死者に知覚があるのなら、あの世の父上と母上にお会いすることができるのです。それこそ切なる願いではありませんか」
と言い、顔色一つ変えず、自分から首を伸ばして処刑されました。
孔融と脂習
司隷・京兆尹出身の脂習は、少府の孔融と親交がありました。
曹操が司空となり、その威光・温徳が日増しに盛大となっていく中にあって、孔融は以前、曹操と同等であった時の感情を持ち続けていました。
そんな孔融が書く曹操への書簡は高慢そのものだったので、脂習はいつも孔融を咎めて態度を改めさせようとしましたが、孔融は従いませんでした。
孔融が処刑されると、当時許県の街にいた官吏たちの中には以前から孔融と親交のあった者もいましたが、誰もその遺体を引き取って弔おうとしませんでした。
そんな中、脂習は1人出かけて行き、遺体をさすりながら言いました。
「文挙(孔融の字)よ、卿は儂を捨てて死んでしまった。儂はこれから誰と語り合えば良いのだ」
このことを聞いた曹操は、脂習を逮捕して裁判にかけようとしましたが、やがてその行為の素直さを認めて許すことにしました。
袁譚に敗れ、曹操に拾われて朝廷に入った孔融は、その名声を頼りにいつも正論をかざして議場の主導権を握っていました。
その態度は曹操に対しても例外ではなかったので、曹操は孔融の議論を忌み嫌うようになり、建安13年(208年)8月、ついに曹操は孔融の罪を捏造して処刑してしまいました。