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甘寧が孫権に仕えるまでの経緯と、建安13年(208年)春に行われた孫権の第3次黄祖討伐についてまとめています。
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甘寧が呉に身を寄せる
劉璋から劉表へ
興平元年(194年)、益州牧・劉焉が亡くなると、益州の大官・趙韙らは、人柄が温厚な第4子・劉璋を益州刺史とするように上書しました。
ちょうどその時、長安の朝廷は、豫州(予州)・潁川郡出身の扈瑁を益州刺史に任命して益州・漢中郡に入らせており、扈瑁に呼応して荊州の別駕従事・劉闔が益州に侵攻を開始。また、劉璋の将軍・沈弥、婁発、甘寧らが叛旗を翻しましたが、劉璋を撃ち破ることができず、荊州に逃亡します。
この時、益州・巴郡・臨江県出身の甘寧は、手下や食客8百人を引き連れて荊州牧・劉表の下に身を寄せました。
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劉表から黄祖、そして孫権へ
劉表を見限る
ですが劉表は「儒者気質」で軍事に精通していなかったため、甘寧らは「結局は失敗に終わるに違いない」と見て取って、もし劉表の勢力が壊滅するようなことになれば、自分もその巻き添えを被ってしまうことを恐れ、東方の呉に行こうと考えるようになりました。
ところが、夏口には劉表配下の黄祖がいたため、軍を率いたままそこを通過することができず、仕方なく甘寧らは黄祖の下に身を寄せましたが、黄祖も彼を一般の食客として遇するだけで、それから3年が経っても甘寧を礼遇することはありませんでした。
凌操を討ち取り黄祖を救う
建安8年(203年)、孫権の討伐を受けた黄祖は敗走し、激しい追撃を受けました。
この時、弓を射ることに巧みであった甘寧は兵士たちを指揮して殿*1をつとめ、足の速い舟で単身前進して来た孫権の破賊校尉・凌操を射殺しました。
甘寧の働きのお陰で黄祖はなんとか本営に戻ることができましたが、その後も甘寧に対する待遇は以前と変わりませんでした。
脚注
*1退却する軍列の最後尾にあって敵の追撃を防ぐ部隊。
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呉の孫権に身を寄せる
その後、黄祖の都督・蘇飛がしばしば「甘寧を重く用いる」ように進言しましたが、黄祖はその意見に従わず、逆に甘寧の食客たちに人を遣って「直接自分(黄祖)の下につく」ように勧誘させたので、食客たちは次第に甘寧の下を去って行きました。
事ここに至り、甘寧はいよいよ黄祖の下から離れようと考えますが「脱出は不可能だろう」と思い、独り悶々としていました。
甘寧の気持ちを汲み取った蘇飛は、甘寧を酒宴に招いて言いました。
「私は度々あなたを推挙しましたが、ご主君(黄祖)はその意見を採用されませんでした。月日は瞬く間に過ぎ去るもの。人生は長くはありません。大きな志を持ち、あなたを理解してくれる主君と巡り会うことを願われるのがよろしいでしょう」
これに甘寧はしばらく考えてから、
「その志はあっても、どうすれば良いか分かりません」
と答えると、蘇飛はまた言いました。
「私が上言して、あなたを邾県の県長に推挙して差し上げよう。もしそれが認められれば、どこに行かれるのも、板の上で玉を転がすよりも容易になります」
こうして蘇飛の上言により荊州・江夏郡・邾県の県長に赴任することになった甘寧は、1度は自分の下を離れた食客たちや新たに志願して来た者など、数百名の部下を揃えて邾県へと出発し、その後呉に身を寄せました。

荊州・江夏郡・邾県
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孫権の黄祖討伐(黄祖の死)
甘寧の献策
甘寧が呉に身を寄せると、周瑜と呂蒙が揃って彼を重く用いるように推挙しました。すると孫権は、甘寧に特別の待遇を与えて元からの配下と同じように扱います。
すると甘寧は、荊州の戦略的重要性と黄祖軍の乱れた様子を説き、「まずは黄祖が守る荊州・江夏郡に侵攻して荊州を攻略し、巴蜀(益州)に軍を進める足がかりとする」ことを献策しました。
甘寧の献策・全文
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現在、漢王朝の命運は日に日に衰え、曹操はいよいよ欲しいままに振る舞っており、やがては帝位を簒奪するでしょう。
南荊(荊州)の地は、山や丘の有り様が便宜に適い、大小の河川が流れておりまして、真に御国(呉)が西方に勢力を伸ばされる際の拠点となる地でございます。
寧(私)は劉表の様子を詳しく観察しておりましたが、彼には遠い将来への配慮がない上に、その息子たちも彼以上に無能です。とても父親の仕事を継いで、その基盤を後代に伝えられるような者たちではございません。
陛下(孫権)には、急ぎ荊州攻略の計をお立てくださいますように。曹操に遅れを取られてはなりません。
荊州攻略の策としては、まず第1に黄祖(荊州・江夏郡)を手中になさるべきです。黄祖はすでに年老いて耄碌がひどく、金も食糧も乏しくなっておりますのに、側近の甘言に乗せられて役人や兵士たちから搾取しております。役人や兵士たちは不満を募らせ、舟も兵器も壊れたまま放置されて、農耕に励む者もなく、軍法は守られず兵士たちはバラバラになっております。
今、陛下(孫権)が軍を進めましたならば、必ずや黄祖を破ることができるでしょう。黄祖の軍を破られました上で、隊伍を整えて西方に向かい、西方の楚関*2を占拠されますならば、味方に有利な情勢はさらに展開して、やがては巴蜀の地の攻略も可能となるでしょう」
脚注
*2『資治通鑑』胡三省注によると「楚関は扞関を指し、かつて蜀が楚を攻撃した時、楚が扞関で抵抗したことから、楚関と呼ばれるようになった」という。
孫権はこの意見に深く頷きましたが、そこに同席していた張昭が、
「現在、呉下(孫権の領内)においてもまだ人心は安定しておらず、もし軍が本当に西に向かったならば、きっと反乱が起こるに違いありません」
とこれに反論します。
すると甘寧は張昭に向かって言いました。
「陛下(孫権)はあなたに、蕭何(漢初の宰相)の任を託しておられますのに、あなたが留守を任されながら反乱を心配されるようでは、古人と同様の勲功を立てたいと望んでおられることと矛盾するではありませんか」
この言葉を聞いた孫権は、自ら甘寧の杯に酒を注ぐと、
「興覇(甘寧の字)どの、本年の軍事行動はこの酒のようにすっぱりと、すべてあなたに引き受けて貰おう。
あなたは ただひたすら軍略に心を巡らされ、黄祖攻略を確実なものにされよ。それを可能にすることこそがあなたの務めである。張長史(張昭)の言葉など気になされるな」
と言いました。
豆知識
これまで孫策・孫権は、
- 建安4年(199年)12月:孫策
- 建安8年(203年):孫権
- 建安12年(207年):孫権
の3度、黄祖討伐を行っており、今回の出陣は孫権にとって3度目、孫策の時代も含めると4度目の黄祖討伐になります。
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黄祖討伐戦
建安13年(208年)春、かくして孫権は黄祖討伐に出陣し、西に軍を進めます。
孫権の侵攻を受けた黄祖は、沔口(夏口)を守るため、2隻の蒙衝*3を横に並べて棕櫚(ヤシ科の樹木)の大縄に石を結んで碇とし、船上の千人に弩を乱射させたので、矢が雨のように降り注ぎ、呉軍は進むことができませんでした。

夏口
呉の偏将軍・董襲は、別部司馬・凌統と共に先鋒となり、それぞれ百人の決死隊を率い、みな鎧を2重に着て大型の船に乗ると、遮二無二進んで敵の蒙衝*3の腹の下に潜り込みます。
そして、董襲が自ら刀でもって2本の紲(縄)を切ると、敵の蒙衝*3は勝手に流れ出してしまい、呉軍はそれに乗じて大挙して攻め込みました。
これに黄祖は、都督の陳就に命じ、水軍を動かして呉の軍を迎え撃たせました。
すると呉の平北都尉・呂蒙は、先鋒を指揮して自ら陳就の首級を挙げ、将士たちは勝ちに乗じて黄祖の城に攻めかかります。
凌統・董襲らの精鋭もこれに続いて攻め立てたので、ついに黄祖の城は攻め落とされ、黄祖配下の男女数万人が捕虜となりました。
黄祖は「陳就が死んだ」との知らせを聞くと、城を棄てて身一つで逃亡しましたが、騎士の馮則がそれを追って首級を挙げ、その首級を晒しました。
これにより甘寧は、兵を授けられて当口(当利口?)に軍を駐めることになりました。
脚注
*3敵船中に突入するための戦艦。駆逐艦。
黄祖討伐戦の出典
上記の内容は、下記の複数の列伝の記述を組み合わせてまとめたものになります。
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『呉書』呉主伝
建安13年(208年)春、孫権は再び軍を動かして黄祖を攻めた。黄祖はまず水軍を遣って孫権の軍を阻もうとしたが、都尉の呂蒙がその先鋒を撃ち破り、凌統・董襲らが精鋭をすべて投入して攻め立てたため、黄祖の城はついに攻め落とされた。
黄祖は身一つで逃亡したが、騎士の馮則がそれを追って首級を挙げ、晒しものとした。黄祖の配下の男女数万人を捕虜とした。
『呉書』呂蒙伝
孫権に従って黄祖の討伐に向かった時のこと。黄祖は都督の陳就に命じ、水軍を動かして呉の軍を迎え撃たせた。呂蒙は先鋒を指揮して自ら陳就の首級を挙げ、将士たちは勝ちに乗じて黄祖の城に攻めかかった。
黄祖は「陳就が死んだ」との知らせを聞くと城を棄てて逃亡したが、兵士たちがこれを追って捕虜とした。
孫権は「事がうまく運んだのは、陳就を先に始末することができたからだ」と言い、呂蒙を横野中郎将に任命し、銭千万を賜った。
『呉書』董襲伝
建安13年(208年)、孫権は黄祖を討伐した。
黄祖は 2隻の蒙衝*3を横に並べて沔口(夏口)を守ろうとした。棕櫚(ヤシ科の樹木)の大縄に石を結んで碇とし、船上の千人が弩を乱射し、矢が雨のように降ってくるので呉の軍は進むことができなかった。
董襲は、凌統と共に先鋒となり、それぞれ百人の決死隊を率い、その部隊の者たちはみな鎧を2重に着て大型の船に乗ると、遮二無二進んで敵の蒙衝*3の腹の下に潜り込んだ。
董襲が自ら刀でもって2本の紲(縄)を切った。敵の蒙衝*3は勝手に流れ出してしまい、呉の軍はそれに乗じて大挙して攻め込んだ。
次の日、盛んな祝宴が開かれ、孫権は杯を挙げると董襲に手渡して言った。
「今日、こうした宴会が開けたのは、碇の大縄を切るという手柄があったればこそだ」
脚注
*3敵船中に突入するための戦艦。駆逐艦。
『呉書』凌統伝
後に孫権が再び江夏郡に軍を進めると、凌統はその先鋒を命ぜられた。彼は、自分が平素から目をかけている兵士たち数十人と1つの船に乗り、常に本隊から数十里おいて先行した。
そのようにして兵を進めた彼は右江に入り、黄祖の部将・張碩を斬ると、水夫をすべて捕獲した。
戻ってこのことを孫権に上言した後、軍の本隊を先導して道を急ぎ、水軍と陸上部隊とが集結した。この時、呂蒙が敵の水軍を破り、凌統が先に立ってその城を攻撃したので、大勝利を収めることができた。
豆知識
建安12年(207年)、孫権が黄祖の討伐を計画していたところ、呂範が、
「今は利が少ないので、来年になさる方がよろしいでしょう。明年[建安13年(208年)]は戊子の歳にあたり、荊州の劉表も死んでその国が滅びます」
と進言しました。
ですが孫権は呂範の言葉を聞き入れず、黄祖の討伐を行ったところ、結局、彼を降すことはできませんでした。
そしてその翌年、孫権が再び黄祖討伐の軍を起こして揚州・廬江郡・尋陽県の近くまで来たところ、再度「風気」を観察した呂範が孫権の御座船までやって来て「必ずや黄祖を破ることができるでしょう」と祝賀を述べました。

揚州・廬江郡・尋陽県
そこで孫権は、兵を急がせて道を進ませると、黄祖の本拠地に着くやいなや、瞬く間に黄祖の軍を撃ち破りましたが、黄祖は夜闇に紛れて逃亡してしまいます。
孫権が「黄祖を取り逃がしてしまうのではないか」と心配していると、呂範はまた言いました。
「まだ遠くに行ってはおりません。きっと黄祖を生け捕りにすることができます」
そして呂範の言った通り、五更(明け方)になって黄祖は捕らえられました。
甘寧と蘇飛の絆
孫権は、前もって2つの函を作り、討ち取った黄祖と蘇飛の首を収めるつもりでいました。呉の捕虜となった蘇飛は、人を遣って「自分の身が危ないこと」を甘寧に告げさせます。
孫権が部将たちのために設けた酒宴の席でのこと。
甘寧は席を外すと、頭を床に打ちつけ、血と涙を流しながら孫権に言いました。
「蘇飛は、かつて私に恩義を施してくれました。もし蘇飛と出会っていなければ、私はずっと以前に路傍に野垂れ死にしていたに違いなく、将軍(孫権)の麾下にあってご命令を奉ずることなどできなかったのでございます。真に蘇飛の罪は誅戮に値するものではございますが、どうか将軍(孫権)には、彼の首級を私にお預けくださいますよう、曲げてお願いいたします」
この甘寧の言葉に心を動かされた孫権が、
「今、あなたに免じて彼の罪を問わなかったとしても、もし彼が逃亡したらどうするのか」
と問うと甘寧は、
「蘇飛は、身体と首が分かれる禍を免れ、死すべき命を生かされたというご恩を受けた上は、追い立てたとしても決して逃げたりはいたしません。どうして逃亡を図ることなどありましょうか。
万一、蘇飛が逃亡いたしました場合には、代わりに私の首を函に入れていただきましょう」
と答えたので、孫権は蘇飛を赦すことにしました。
凌統の遺恨
凌統は「父親の凌操が甘寧に殺されたこと」を怨んでいたので、甘寧は常に凌統を警戒して会おうとせず、また孫権も、凌統に「遺恨を晴らそうなどと考えてはならぬ」と命じていました。
ある時、呂蒙の家に人々が集まった時のこと。
酒宴も酣となった頃、凌統が刀を持って舞い始めると、甘寧も「私も双戟の舞いが舞えます」言ってと立ち上がります。
それを見た呂蒙は「甘寧にもできるだろうが、私には及ばぬ」と、刀を取り楯を持って2人の間に割り込んで、最悪の事態が起こることを防ぎました。
後に孫権は、凌統の気持ちの深さを知ると、甘寧に「兵を率いて速やかに半州*4に移ってそこに駐屯するように」と命じました。
脚注
*4半州の位置は不明。『中国歴史地図集』の「東晋」の地図には、後漢時代の揚州・豫章郡(予章郡)・柴桑県の辺りに「半州」という地名があります。

東晋時代の半州
建安13年(208年)春、甘寧の献策を受けた孫権が黄祖討伐に出陣しました。
そして、軍の指揮を甘寧に任せた今回の戦いは、呂蒙・凌統・董襲らの活躍により城を攻め落とし、逃亡した黄祖を騎士の馮則が斬る大勝利に終わります。
孫権は、3度目(孫策の代を含めると4度目)にしてついに孫呉の宿敵である黄祖を斬り、悲願を成就させることができました。
※「甘寧が呉に身を寄せた時期」と「甘寧が半州に移った時期」は不明ですが、ここにまとめて記載しています。