210年【漢:建安15年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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210年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
丞相 |
曹操 |
御史大夫 |
郗慮 |
執金吾 |
伏完 |
車騎将軍 |
孫権 |
前将軍 |
馬騰 |
左将軍 |
劉備 |
安降将軍 |
韓遂 |
伏波将軍 |
夏侯惇 |
偏将軍 |
馬超 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
曹操 |
豫州牧 |
劉備 |
徐州牧 |
孫権 |
荊州牧 |
劉備 |
益州牧 |
劉璋 |
徐州刺史 |
臧覇 |
遼東太守 |
公孫康 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
杜畿 |
会稽太守 |
孫権 |
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210年の主な出来事
月 |
出来事 |
春 |
- 曹操が『求賢令』を出す。
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2月 |
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冬 |
- 曹操が冀州・魏郡・鄴県に銅爵台(銅雀台)を築く。
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12月 |
- 曹操が『述志令』を出す。
|
不明 |
- 劉備が京城(京口)に赴いて孫権と会見する。
- 孫権が劉備に武陵郡・長沙郡・零陵郡・桂陽郡の江南4郡を貸す。
- 周瑜が蜀(益州)侵攻を進言する。
- 劉備が「共同して蜀(益州)を攻める」という孫権の申し出を断る。
- 周瑜が病死する。
- 孫権が劉備に南郡を貸す。
- 孫権が揚州・豫章郡を分割して鄱陽郡を立てる。
- 孫権が歩騭を鄱陽太守に任命する。
- 孫権が荊州・長沙郡の北部を分割して漢昌郡を立てる。
- 周瑜の後任として魯粛が陸口に駐屯する。
- 孫権が蜀(益州)侵攻のため、孫瑜を夏口に駐屯させる。
- 劉備が孫権の蜀(益州)侵攻を阻む。
- 劉備が龐統を治中従事に任命する。
- 劉備が龐統を治中従事に任命する。
- 劉備が龐統を軍師中郎将に任命する。(時期不明)
- 孫権が歩騭を交州刺史として交州に送り込む。
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210年の群雄勢力図
1月
210年1月の群雄勢力図
『求賢令』と『述志令』
春、曹操は「家柄や行いの善悪に捕らわれず、ただ才能のみを基準として推挙せよ」という、いわゆる『求賢令』を布告しました。
また、冀州・魏郡・鄴県に銅爵台(銅雀台)を築いてその威勢を示す一方で、反対派に配慮して『述志令』(『譲県自明本志令』)を布告し、天下に「これからも臣下として漢王室を助ける」という態度を示しました。
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京城会見
この年、荊州・南郡・公安県に陣営を構えた劉備の下に「元劉表の吏卒たち」が投降して来ると、周瑜にあてがわれた土地だけでは住民を落ち着かせるには不充分となった劉備は、自ら京城(京口)*1に赴いて、孫権に「荊州の都督とならせて欲しい」と求めました。
この時、魯粛だけが「荊州の土地を劉備に貸し与え、共同して曹操を拒けるのが良い」と孫権に勧め、孫権は即座にこの意見に従って劉備に荊州の武陵郡・長沙郡・零陵郡・桂陽郡の江南4郡を貸し与えました。
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12月
210年12月の群雄勢力図
周瑜の死と孫権の蜀(益州)侵攻
周瑜の死
この年、孫権から蜀(益州)侵攻の許しを得た周瑜は、遠征の準備に取りかかろうと荊州・南郡・江陵県に向かいました。
ですが、巴丘県(巴陵県)まで来たところで、周瑜は病気を発症して亡くなってしまいます。
孫権は、周瑜の遺言に従って魯粛を周瑜の後継者とし、また魯粛の進言に従って劉備に荊州・南郡を貸し与えました。
周瑜死後の配置
孫権の蜀(益州)侵攻
周瑜から蜀(益州)侵攻の進言を受けた孫権は、荊州の劉備に「協力して蜀(益州)を取ろう」と持ちかけましたが、「自分が蜀(益州)を取るつもり」であった劉備は、
「今、同盟国(益州)を訳もなく攻撃するのは、曹操に中枢を貸すようなものでしょう。敵にその間隙につけ込ませるようなことは、優れた計略ではありません」
と丁重に断りました。
すると孫権は、独力で蜀(益州)に侵攻しようと孫瑜に水軍を率いさせ、夏口に駐屯させますが、劉備は長江の北岸に関羽・張飛・諸葛亮を駐屯させ、自らは南岸の荊州・武陵郡・孱陵県に駐屯し、
「お前が蜀(益州)を取るつもりならば、私は髪を振り乱して山に入り、隠遁して、天下に対して信義を失わないようにするだろう」
と言って、孫権の蜀(益州)侵攻を阻みました。
孫権の蜀(益州)侵攻
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呉下の阿蒙にあらず
周瑜の後任に任命された魯粛は、任地の荊州・漢昌郡の陸口に向かう途上、呂蒙の軍営の近くを通りかかりました。
魯粛は呂蒙のことを軽く見いていましたが、人に勧められるまま挨拶のために立ち寄ると、呂蒙は「(劉備配下の)関羽と領地を接することになった対処法」を問い、魯粛に「5つの策略」を献言しました。
これまで武勇一辺倒だった呂蒙の成長振りに驚いた魯粛が、
「私は大弟が武勇一辺倒だとばかり思っていたのだが、今では学識も優れて博く、呉の町(呉下)にいた頃の阿蒙(蒙くん)とは見違えてしまった」
と言うと呂蒙は、
「士たるもの、3日会わずにおれば、(その間にどんな成長をするやも知れず、)まったく新しい目で彼を迎えねばならぬのです」
と言いました。
魯粛は、呂蒙の母親に目通りをし、友となることを約束して呂蒙と別れました。
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龐統の抜擢
建安15年(210年)、荊州の治政を握るようになった劉備は、周瑜の功曹であった龐統を治中従事*1に抜擢し、後に諸葛亮と並んで軍師中郎将に任命しました。
脚注
*1刺史・牧の属官。州の官吏の選任、その他の事柄を取り仕切る。
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孫権の交州進出
この年、孫権は新設した揚州・鄱陽郡の太守に歩騭を任命しましたが、その年のうちに歩騭を交州刺史として、交州に派遣しました。
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この年、曹操が冀州・魏郡・鄴県に銅爵台(銅雀台)を築きました。
一方劉備は、自ら京城(京口)に赴いて孫権から荊州の江南4郡を貸し与えられ、荊州に地盤を得ることができました。その後周瑜が病死すると、さらに荊州・南郡を貸し与えられ、劉備は曹操と領地を接することになります。
また孫権は、歩騭を交州刺史に任命すると、交州牧・張津の死後、政情不安定であった交州に送り込みました。
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三国志年表
タグ : 劉備, 関羽, 張飛, 正史, 曹操, 韓遂, 周瑜, 諸葛亮