建安けんあん13年(208年)、劉琮りゅうそうの降伏を受けれた曹操そうそうの、荊州人けいしゅうじんに対する処遇についてまとめています。

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曹操の荊州平定

劉琮の降伏

建安けんあん13年(208年)7月、曹操そうそうみずから南征して劉表りゅうひょう討伐に出陣。8月には劉表りゅうひょうが亡くなり、その少子・劉琮りゅうそうが代わって荊州けいしゅう南郡なんぐん襄陽県じょうようけんに駐屯します。

9月、曹操そうそう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん新野県しんやけんに到達すると、劉琮りゅうそうは州をあげて曹操そうそうに降伏してしまいました。

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劉備が夏口に逃走する

劉琮りゅうそう曹操そうそうに降伏した当時、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん樊城はんじょうにいた劉備りゅうびは、城をて、旧知の呉巨ごきょを頼って交州こうしゅう蒼梧郡そうごぐんを目指し、その途上、荊州けいしゅうの人々の多くが彼に従いました。

曹操そうそうはすぐさま劉備りゅうびの追撃を開始。南郡なんぐん当陽県とうようけん長坂ちょうはんで追いついた曹操そうそう軍は、劉備りゅうび軍を散々に撃ち破ります。

その後、長坂ちょうはん孫権そんけんの使者・魯粛ろしゅくと会見した劉備りゅうびは目的地を夏口かこうに変更。途中、劉表りゅうひょうの長子・劉琦りゅうきと合流した劉備りゅうびは、夏口かこうに到着すると、孫権そんけんと手を結ぶべく諸葛亮しょかつりょうを派遣しました。

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荊州人の処遇

劉琮

荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけんに軍を進めた曹操そうそうは布告を下して、「荊州けいしゅうの官民と共に過去を洗い流し、新たに出発すること」を宣言すると、降伏した劉琮りゅうそう青州刺史せいしゅうししに任命し、列侯れっこうに封じました。

蒯越

その他、蒯越かいえつをはじめこうとなった者は15人。荊州人けいしゅうじんの優劣をひんによって表現し、みな抜擢して登用し、蒯越かいえつ光禄勲こうろくくんに任命されました。

韓嵩・劉先・鄧羲

また、曹操そうそうは獄につながれていた韓嵩かんすうを釈放し、その名声を尊重して大変手厚く礼遇しました。

  • 韓嵩かんすう大鴻臚だいこうろ
  • 劉先りゅうせん尚書令しょうしょれい

に任命され、かつて劉表りゅうひょう袁紹えんしょうと結んだ際に、劉表りゅうひょういさめて引退した鄧羲とうぎも、劉表りゅうひょうの存命中は仕官しませんでしたが、曹操そうそうによって侍中じちゅうに任命されました。

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文聘

曹操そうそうもとに出頭し、曹純そうじゅんと共に劉備りゅうびを追撃した文聘ぶんぺいは、手厚い礼をもって処遇され、江夏太守こうかたいしゅに任命されました。

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和洽

以前、袁紹えんしょう冀州きしゅうにいた時、使者を送って豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん士大夫したいふを迎え入れました。

ですが、汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけん出身の和洽かこうだけは、


冀州きしゅうは土地が平坦で住民は強く、英雄・豪傑の活躍に都合の良い土地で、四方からの攻撃にさらされる危険な土地である。本初ほんしょ袁紹えんしょう)は以前からの蓄積によって強大になったとは言え、英雄・豪傑が兵をげている今、安全だと言い切ることはできない。
荊州けいしゅう劉表りゅうひょうは、取り立てて言うほどの遠大なこころざしは持っていないが、人を愛し、士を好み、土地は険阻であり、山はなだらかで住民は弱いので身を寄せやすい」


と考えて、親戚・旧知と共に南におもむ劉表りゅうひょうに従い、劉表りゅうひょうは上客の礼をもって和洽かこうぐうしました。

ですが和洽かこうは、


本初ほんしょ袁紹えんしょう)に従わなかったのは、争奪の地を避けたからである。暗愚あんぐな君主(劉表りゅうひょう)に馴れ馴れしく近寄るべきではない。長くれば、必ずや邪悪な人間が出て来て君主(劉表りゅうひょう)との間をくものだ」


と言い、荊州けいしゅう南部の武陵郡ぶりょうぐんに移りました。


荊州けいしゅうを手中におさめた曹操そうそうは、和洽かこう丞相府じょうしょうふ掾属えんぞくに任命しました。

劉望之・劉廙

劉表りゅうひょうは、世間に名声があった荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の劉望之りゅうぼうし辟召まねいて従事じゅうじとしました。

ある時、劉望之りゅうぼうしの2人の友人が讒言ざんげんと非難によって劉表りゅうひょうに処刑されたため、劉望之りゅうぼうしは正論をもって諫言かんげんしましたが、劉表りゅうひょうは意にかいさなかったので、駅亭えきていに身を投じて帰郷の意志を伝えました。

この時、劉望之りゅうぼうしの弟・劉廙りゅうよくは、


ちょう鐸鳴たくめい犢犨とくしゅを殺害し、仲尼ちゅうじ孔子こうし)は引き返したとか。今、兄上(劉望之りゅうぼうし)には柳下恵りゅうかけい春秋しゅんじゅう時代のの賢人)を手本とし、また、智慧ちえの輝きを隠して俗世ぞくせと同調なさることをこの地でできぬからには、よろしく范蠡はんれい春秋しゅんじゅう時代の越王えつおう句践こうせんの臣)を模範として他所の土地に移られるべきです。じっとしたまま自分から時間に見放されることは、まったくいけません」


荊州けいしゅうから離れるように勧めましたが、劉望之りゅうぼうしは従わず、結局しばらくして殺害されてしまいます。これに恐怖を覚えた劉廙りゅうよく揚州ようしゅうに逃亡し、のち曹操そうそうに身を寄せました。


荊州けいしゅうを手中におさめた曹操そうそうは、劉廙りゅうよくし出して丞相府じょうしょうふ掾属えんぞくに任命し、のち五官将ごかんしょう曹丕そうひ)の文学ぶんがくに転任させました。

韓曁

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の韓曁かんきは、袁術えんじゅつ召命しょうめいを避けて南陽郡なんようぐん山都山さんとさんに移住し、劉表りゅうひょうが礼を尽くして辟召まねいても逃げ隠れ、荊州けいしゅう南部の武陵郡ぶりょうぐん孱陵県せんりょうけんに移り住みました。

韓曁かんきは行く先々で敬愛を受けましたが、劉表りゅうひょうが深くうらんでいると聞くと、危険を感じて命令に応じ、宜城県長ぎじょうけんちょうに任命されました。


荊州けいしゅうを手中におさめた曹操そうそうは、韓曁かんき丞相府じょうしょうふ士曹属しそうぞくに任命しました。

裴潜・王粲・司馬芝

司隷しれい河東郡かとうぐん出身の裴潜はいせんあざな文行ぶんこう)が動乱を避けて荊州けいしゅうおもむくと、劉表りゅうひょう賓客ひんかくの礼をもって待遇しました。

ですが裴潜はいせんは、秘かに親しくしていた王粲おうさん司馬芝しばしに、


劉牧りゅうぼく劉表りゅうひょう)は『覇王の才』もないのに、みずからを西伯せいはくしゅう文王ぶんおう)になぞらえている。その失敗は遠くはないだろう」


と言い、荊州けいしゅう南部の長沙郡ちょうさぐんおもむきました。


荊州けいしゅうを手中におさめた曹操そうそうは、

  • 裴潜はいせん丞相参軍事じょうしょうさんぐんじ
  • 王粲おうさん丞相府じょうしょうふ掾属えんぞく関内侯かんだいこう
  • 司馬芝しばし青州せいしゅう済南国せいなんこく菅県かんけん県令けんれい

に任命しました。


資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注に、

丞相府じょうしょうふには、戸曹こそう賊曹ぞくそう兵曹へいそう鎧曹がいそう士曹しそうがあり、えんぞく(属官)は各1人。兵曹へいそう鎧曹がいそう士曹しそうの3そう曹操そうそうが置いた」

とあり、職官分紀しょくかんぶんきには「当時は用兵のため丞相府じょうしょうふ参軍事さんぐんじが置かれた」とあります。

梁鵠

昔、幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐん出身の王次仲おうじちゅうは、隷書れいしょたくみで、初めて楷書かいしょの書法を作りました。

霊帝れいていが「書道好き」だったので世間には能書家のうしょかが多く、その中でも第一人者の師宜官しぎかんは自分の才能を自負じふしており、 しょを書くごとにいつも、技法を盗まれないようにその簡札かんさつ木簡もっかん)をけずり取ったり焼いたりしていました。

ある時、涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん出身の梁鵠りょうこくは、たくさんの簡札かんさつ木簡もっかん)をつくっておき、師宜官しぎかんを招待して酒を飲ませ、彼が酔った隙をうかがって師宜官しぎかんしょが書かれた簡札かんさつ木簡もっかん)を盗み出して、その簡札かんさつ木簡もっかん)によって書法を研究し、選部尚書せんぶしょうしょ*1の官にのぼりました。

その当時[熹平きへい3年(174年)〜熹平きへい6年(177年)頃]、曹操そうそう洛陽らくよう県令けんれいになりたいと思っていましたが、梁鵠りょうこくは彼を洛陽らくよう北部尉ほくぶいに任命し、のち荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを頼りました。


荊州けいしゅうが平定されると、曹操そうそうは賞金を出して梁鵠りょうこくを探し求めたので、恐れた梁鵠りょうこくは、みずから縄をかけて軍門に出頭します。

すると曹操そうそうは、梁鵠りょうこくを軍の仮司馬かしばに任命して秘書ひしょの地位に置き、しょを書かせることによってその能力を発揮させました。

曹操そうそうは常に彼の書き物を天幕の中にり下げたり、壁にくぎで打ちつけたりして愛玩あいがんし、また、「師宜官しぎかんよりもすぐれている」と言い、の宮殿の題字はすべて梁鵠りょうこくしょを採用しました。

脚注

*1官吏の起用・移動を取り仕切る官職。

王儁

豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん出身の王儁おうしゅんは、若い頃から范滂はんぼう許章きょしょうに認められて、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の岑晊しんしつと親しくなりました。

曹操そうそうがまだ平民であった頃、特に王儁おうしゅんに愛情を持ち、王儁おうしゅんもまた「曹操そうそうには治世の才能がある」とたたえていました。

袁紹えんしょうと弟の袁術えんじゅつが母を失って、葬儀のために南陽郡なんようぐんに帰っている時、王儁おうしゅん曹操そうそうと供に葬儀に参列し、その参列者は3万人にのぼりました。

この時曹操そうそうが、外に出てこっそり王儁おうしゅんに、


「天下は乱れようとしている。動乱の中心人物となるのはこの2人だ。天下を救い、民衆の命を救おうと願うならば、この2人を先に始末しないと、今に動乱が起きるだろう」


と語りかけると、王儁おうしゅんは、


きみの言葉通りであれば、天下を救う者はきみ以外に誰がいるのだろうね?」


と返して笑い合いました。


王儁おうしゅんは外見上は物静かでしたが、内面は道理に明るく、州郡や三府さんふ三公さんこうの政庁)からの任命にも応じませんでした。公車こうしゃ(朝廷の車)によってし出されたてもおもむかず、難を避けて荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐんに移住します。また、その後許都きょと許県きょけん)に都を置いた献帝けんていが再び尚書しょうしょとしてし出しますが、やはり王儁おうしゅんは就任しませんでした。


袁紹えんしょうの強盛振りをみた劉表りゅうひょうが秘かに袁紹えんしょうよしみを通じると、王儁おうしゅんは、


曹公そうこう曹操そうそう)は天下の傑物けつぶつです。必ず覇道を起こし、せい桓公かんこうしん文公ぶんこうの功績を継承できる男です。今、近くの者を放置して遠方の者に味方されるとか。もし突然の危機があっても、はるか北方の砂漠からの救援を期待するのは困難ではないでしょうか」


曹操そうそうにつくことを進言しましたが、劉表りゅうひょうは従いませんでした。

王儁おうしゅんは64歳の時に武陵郡ぶりょうぐんで亡くなりましたが、曹操そうそうかなしみいたみ、荊州けいしゅうを平定すると自身で長江ちょうこうのぞんで遺体をむかえ、改めて江陵郡こうりょうぐんほうむって、先哲せんてつ(昔のすぐれた思想家や賢者)として表彰しました。


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荊州人の処遇一覧表

荊州人けいしゅうじん 処遇
劉琮りゅうそう 青州刺史せいしゅうしし列侯れっこう
蒯越かいえつ 光禄勲こうろくくん
韓嵩かんすう 大鴻臚だいこうろ
劉先りゅうせん 尚書令しょうしょれい
鄧羲とうぎ 侍中じちゅう
文聘ぶんぺい 江夏太守こうかたいしゅ
和洽かこう 丞相府じょうしょうふ掾属えんぞく
劉廙りゅうよく 丞相府じょうしょうふ掾属えんぞく
韓曁かんき 丞相府じょうしょうふ士曹属しそうぞく
裴潜はいせん 丞相府じょうしょうふ参軍事じさんぐんじ
王粲おうさん 丞相府じょうしょうふ掾属えんぞく関内侯かんだいこう
司馬芝しばし 青州せいしゅう済南国せいなんこく菅県かんけん県令けんれい
梁鵠りょうこく 軍の仮司馬かしば秘書ひしょ
王儁おうしゅん 故人。先哲せんてつとして表彰