荊州牧・劉表の後継者争いと建安13年(208年)7月の曹操の荊州侵攻、劉表の死とその後を継いだ劉琮が曹操に降伏するまでの経緯をまとめています。
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蔡氏の陰謀
劉表の2子
荊州牧・劉表には2人の息子がいて、長子は劉琦、少子を劉琮と言いました。
劉表新興は初め、劉琦の容貌が自分に似ていたことから、大変彼を愛しました。ですが、後に劉琮が「劉表の後妻・蔡氏の姪」を娶ると、蔡氏は劉琮を愛して劉琦を憎むようになります。
劉表は後妻の蔡氏を溺愛していたので、いつも彼女の言うことを疑うことなく信じており、また、劉表は、
- 蔡氏の弟・蔡瑁
- 外甥(姉妹の子)・張允
を寵愛していましたが、どちらも劉琦を誹謗し、劉琮を褒めそやしていました。
諸葛亮の助言
劉表が後妻の蔡氏や蔡瑁、張允らの言葉を信じて少子の劉琮を愛し、日に日に長子の劉琦への愛情を失っていくと、劉琦は自分の身に不安を抱くようになります。
劉琦は、劉備の下にいる諸葛亮の才能を極めて高く評価しており、何度も諸葛亮に自分の身の安全を守る方法を相談しようとしましたが、その度に諸葛亮に断られていました。
そこで劉琦は、諸葛亮を連れて後園(裏庭)を散策し、共に高殿に登って宴を開きます。そして、その間に梯子を外させて、諸葛亮に言いました。
「今は、上は天に届かず、下は地面につきません。言葉はあなたの口から出て私の耳に入るだけです。どうか話していただけないでしょうか」
すると諸葛亮は、ついに劉琦の身の上について口を開きます。
「あなたは申生が国内に留まったために危険に晒され、重耳が国外に出たために身の安全を得たことをご存知ではありませんか*1」
心の内でこの言葉の意味を悟った劉琦は、秘かに都(劉表の治所:荊州・南郡・襄陽県)の外に出る計略を巡らせ、ちょうどこの頃、江夏太守の黄祖が死亡したことから、劉琦は希望して江夏太守となりました。
劉琦の逃亡
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脚注
*1申生と重耳は春秋時代の晋の献公の子。申生は太子、重耳は公子。
晩年の献公は、驪姫という美女を寵愛した。驪姫は自分の子・奚斉を後継ぎにしようと企み、太子・諸公子を讒言して申生を自殺に追い込み、諸公子は国外に逃亡した。後に重耳は国に帰り、春秋時代の覇者・晋の文公となった。
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劉表の死
劉表の死
蔡瑁・張允らの妨害
建安13年(208年)7月、曹操は自ら南征して劉表討伐に出陣しました。
8月、曹操軍がまだ到来しないうちに、劉表は背中に疽(悪性のできもの)を発症して重体に陥ってしまいます。
劉表の容態が悪化したことを聞いた劉琦は、赴任した江夏郡から父の元に戻って病を見舞いに行きました。
蔡瑁・張允らは、劉琦は慈悲深く孝行者なので「ここで劉表が劉琦と会うと、父子間に感じるものがあり、改めて劉琦に後事を託そうという気持ちを起こすのではないか」と恐れ、そこで劉琦を室外に遮って、
「将軍(劉表)はあなたに江夏郡の鎮撫をご命令なさり、国の東の固めになされたのです。その任務は極めて重要です。
今あなたが、その軍勢を放り出してお出でになったのですから、きっとご立腹なさるでしょう。親の機嫌を損ない病気を悪化させるのは、親孝行ではありません」
と言い、劉琦を戸外に押し止め、劉表に会わせないようにします。劉琦は涙を流して去り、人々はこれを聞いて心を痛めました。
劉表の死
劉表が亡くなると、蔡瑁・張允らは劉琮を後継者とし、劉琮は劉琦に侯の印綬を授けました。*2
この仕打ちに大いに怒った劉琦は、印綬を地面に投げつけて、喪に駆けつける機会を利用して劉琮と事を構えようと考えますが、ちょうど曹操軍が荊州・南陽郡・新野県に到着したため、江南(夏口)に逃れました。
今回、劉琮が後を継いだ州牧(荊州牧)は、本来世襲するものではなく、前任者が死亡した場合、朝廷から新たに任命されるべき官職です。
これより以前[興平元年(194年)]、益州牧・劉焉の死後、子の劉璋がその後を継いでいますが、これは劉璋が、朝廷が任命した益州刺史・扈瑁を追い出したことで、仕方なく朝廷が追認した形になります。
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脚注
*2劉琮が荊州牧を継ぎ、劉表の爵位である成武侯を劉琦に継がせたものと思われる。
劉表は劉備に荊州を託したのか
『蜀書』先主伝が注に引く『英雄記』と『魏書』に、『三国志演義』で有名な「劉表が劉備に荊州を託そうとする」エピソードが載せられています。
『英雄記』
劉表は病気になると「劉備に荊州刺史を担当させたい」と上奏した。
『魏書』
劉表は病気が重くなったので、劉備に国を任せようとし、病床で彼の方を向いて、
「私の子供は才能がない上、頼りとする諸将もみな死んでしまった。私の死んだ後は、どうか君が荊州を統治してくれ」
と言ったが、劉備は、
「ご子息たちはそれぞれ賢明な方々です。あなたは病気のことだけ考えてください」
と、これを断った。
ある人が劉備に「劉表の言葉通りにした方が良い」と勧めると、劉備は、
「この方は、私を手厚く遇してくださいました。今その言葉に従うならば、人々はきっと、私を薄情だと思うでしょう。私にとってそれは耐え難いことなのです」
と言った。
この『英雄記』と『魏書』の記述について裴松之は、
「劉表夫妻は平素より劉琮をかわいがっており、嫡男(劉琦)を差し置いて庶子(劉琮)を立てるという気持ちも計画も、はるか以前から決まっていたはずである。劉表が臨終にあたって、荊州を挙げて劉備に与える理由がない。これもまたあり得ない話である」
と言っています。
豆知識
『蜀書』先主伝が注に引く孔衍の『漢魏春秋』には、
劉備は「劉荊州(劉表)殿は臨終に際して、私に孤児を託された。その信義に背いて我が身の安全を図るなど、私にはできないことだ。死後、どの面下げて劉荊州(劉表)殿に会うのか」と言った。
とあり、劉表が劉備に荊州を託そうとしたことはなかったとしても、息子・劉琮の後見人として補佐することを要望したであろうことは考えられます。
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劉琮の降伏
蒯越と傅巽の進言
章陵太守・蒯越と東曹掾・傅巽は「曹操に帰順するように」と劉琮に進言しました。
これに劉琮が、
「今、諸君とともに楚(荊州)全土を押さえ、先君(劉表)の事業を守って天下の状勢を観望(眺め見渡すこと)しようと思う」
と言うと、傅巽は次のように言いました。
「ものの逆順には基本的な道理が存在し、強弱には決まった状勢が存在します。
臣下でありながら君主に刃向かうのは、道理に逆らうことであり、新興の楚国をもって国家(天子)に抵抗するのは、状勢からいって対抗できません。
劉備をもって曹公(曹操)に敵対させるのは、やはり対抗できることではありません。
この3点すべてが劣りながら、天子の鋭鋒(鋭い勢い)に反抗しようとするのは、必然的に滅亡への道に繋がります。
将軍(劉琮)はご自身と劉備を比べてどう思われますか」
劉琮が「私の方が及ばない」と答えると、傅巽はまた言いました。
「実際に劉備が曹公(曹操)に対抗できないのならば、たとえ楚(荊州)の地を保持されていたとしても、自力で存立することはできないでしょう。
逆に劉備が曹公(曹操)に対抗できるとするならば、劉備は将軍(劉琮)の下位に居続けるはずがありません。どうか将軍(劉琮)には、お迷いなさらないように」
『魏書』劉表伝、『後漢書』劉表伝では、劉琮に「曹操に帰順すること」を勧めた人物の中に韓嵩の名前もありますが、この時韓嵩は獄に繋がれているはずですので、除外しています。
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王粲の進言
また王粲が、劉琮に次のように進言します。
「天下は大いに乱れ、豪傑が並び起こっておりますが、変転極まりない時代のこと、その強弱はまだはっきりしません。そのため人はそれぞれ違った思惑を抱いているのです。このような時節においては、家々はみな帝王になろうと望み、人々はみな公侯となろうと望むものです。
古今の成功・失敗の例を観察いたしますと、あらかじめ事の変化を見通すことのできた者は、常にその幸運を受けました。今、将軍(劉琮)はご自身で曹公(曹操)と比べてみて、どうでしょうか」
劉琮が答えられずにいると、王粲は続けて言いました。
「私が聞いた通りならば、曹公(曹操)は元々人傑(知識・才能が目立ってすぐれた人物)です。
その雄略は時代の第一人者であり、智謀は世に抜きん出ておりまして、袁氏(袁紹)を官渡に打ち砕き、孫権を長江の向こうに駆逐し、劉備を隴右に追いやり、烏丸を白登に撃破しました。その他、掃滅・平定した相手は、数えきれぬ程であり、しばしば神の如き能力を発揮しております。
したがって、今日の事態において誰につけば良いか判断できるでしょう。将軍(劉琮)がもし、私の計をお聞き入れくださいますならば、鎧をしまい、戈を逆さにして、天命に順応して曹公(曹操)に帰服なさいませ。曹公(曹操)は必ずや将軍(劉琮)を重んじ、徳といたしましょう。
我が身を保ち一族を全うし、長く幸福を享受し、それを後継者たちに受け継がせますことは、それこそ万全の策でございます。私は動乱に遭遇して流浪し、この州に生命を託し、将軍(劉琮)父子の重い恩顧を被っておりますからには、思い切って言葉を尽くして申し上げずにおられましょうか」
劉琮はこれらの意見に従って、曹操に降伏することにしました。
劉琮の降伏
9月、曹操軍が荊州・南陽郡・新野県に至りました。
その後、曹操軍が荊州・南郡・襄陽県に到着すると、劉琮は曹操に降伏し、荊州刺史の割符を持って曹操を出迎えます。
曹操の将軍たちはみな、この降伏を偽りではないかと疑っていたので、曹操は婁圭に意見を求めると、婁圭は答えて言いました。
「天下は乱れ騒ぎ、各人は天子の命令を貪り取って高官に任命されております。今、劉琮は官位を返上するため割符を持ってまいりました。これは真に真心からです」
曹操は「大いによろしい」と言い、軍隊を進発させました。
豆知識
『魏書』曹洪伝に、
「(曹洪は)太祖(曹操)とは別に劉表を征伐し、舞陽・陰葉・陰葉・堵陽・博望において劉表の別将を撃破した。その手柄によって厲鋒将軍に昇進し、国明亭侯に封ぜられた」
とあります。
建安13年(208年)、荊州では荊州牧・劉表の後妻・蔡氏と蔡瑁、張允らが少子・劉琮を後継者とするように画策し、劉表も長子・劉琦を遠ざけるようになっていました。身の危険を感じた劉琦は諸葛亮に助言を請い、孫権との戦いで戦死した黄祖の後任として江夏太守となることで中央から離れ、身の安全を図ります。
7月、曹操が自ら南征して荊州の劉表討伐に出陣。その翌月に劉表が亡くなると、蔡瑁らは劉琮に荊州牧を継がせ、その後曹操軍が荊州・南郡・襄陽県に到着すると、戦わずに降伏してしまいました。