建安13年(208年)夏6月、後漢王朝は三公の官を廃止して、再び丞相と御史大夫を設置しました。曹操の丞相就任と、丞相府の主な人事についてまとめています。
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後漢王朝の変革
司徒・趙温の罷免
建安13年(208年)春正月、司徒の趙温が曹操の子・曹丕を召聘しましたが、曹操が、
「趙温は臣の子弟を招聘いたしましたが、その選抜は故意に実質を無視しております」
と上奏したので、献帝は侍中守光禄勲の郗慮に節(使者の証)を持たせ、趙温を免職とする辞令を伝えさせました。
玄武池の造営
春正月、曹操は冀州・魏郡・鄴県に帰還すると、鄴県の玄武苑に玄武池を作り、そこで水軍の訓練をしました。
曹操が丞相に就任する
夏6月、漢王朝は三公の官を廃止して、再び丞相と御史大夫を設置して、曹操を丞相に任命しました。太常の徐璆が、曹操の元に赴いて丞相の印綬を授けます。
またこの時から、御史大夫は御史中丞を部下とせず、長史1人を置くようになりました。
豆知識
丞相と御史大夫
丞相とは、天子を助けて万機(政治上の多くの重要な事柄)を治める官職です。
今回、三公を廃止して曹操が丞相に就任したということは「朝廷の権力が曹操 1人に集中するようになった」ということです。
また、荀綽の『晋百官表』の注に、
「献帝は御史大夫を置き、その職務は司空のようで侍御史を統御しなかった」
とあります。
太常の徐璆
徐璆は字を孟玉*1と言い、徐州・広陵郡・海西県の人で、父の徐淑は度遼将軍として辺境で名を馳せました。
徐璆は若い頃から博学で、清潔で爽やかな生き方をし、朝廷においては厳正な態度を取っていました。
- 兗州・任城国
- 豫州(予州)・汝南郡
- 徐州・東海郡
の太守を歴任し、各地で教化を行き渡らせました。
召し返されて中央に帰還しようとした時に袁術に無理矢理引き止められ、建安2年(197年)に袁術が帝号を僭称すると、袁術は徐璆に上公の位を授けようとしましたが、徐璆は最後まで屈服しませんでした。
袁術が死んでその軍が敗れると、徐璆は袁術が盗んだ伝国璽を手に入れて朝廷に返還し、衛尉、太常を拝命します。
建安13年(208年)夏6月、使者として節を持って曹操を丞相に任命すると、曹操は丞相の位を徐璆に譲りましたが、徐璆は受け入れませんでした。
その後徐璆は、太常の官に就いたまま亡くなりました。
脚注
*1『後漢書』による。『魏書』武帝紀が注に引く『先賢行状』の原文では「孟平」だが、「字は諱(名)と意味の上で連関を持つのが普通である」ことから、ちくま学芸文庫『正史三国志』でも「孟玉」としている。「璆」は「美しい玉」の意味を持つ。
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丞相府の人事
丞相府任官者一覧表
曹操が丞相府を開き、人事を行いました。
以下は『資治通鑑』を基に作成した丞相府の任官者一覧表です。
官職 | 職掌 | 前職 |
---|---|---|
任官者 | ||
西曹掾 | 公府(丞相府)の官吏登用。 | 冀州別駕従事 |
崔琰 | ||
東曹掾 | 二千石*2・長吏及び軍吏の人事。 | 司空東曹掾 |
毛玠 | ||
主簿 | 黄閣(丞相府の庁舎)の文書作成などの事務。 | 元城令 |
司馬朗 | ||
文学掾 | 書記。 | ー |
司馬懿 | ||
法曹議令史 | 郵駅*3を取り仕切る。 | 冀州主簿 |
盧毓 |
その他備考
- 文学掾は郡曹(郡吏)だが、曹操は公府(丞相府)にも文学掾を設置した。
- 盧毓は盧植の末子。
- 当時、公府(丞相府)の諸曹(各部署)には、みな議令史が置かれました。
脚注
*2官秩(俸禄)のランクの1つ。太守の代名詞。
*3諸道に設けられた公用の旅行者のための施設(厩)。
崔琰
曹操が丞相となると、崔琰は公府(丞相府)の東曹掾に、さらに西曹の属官となり、徴事となりました。
最初、東曹の属官を授けられた時の任命文では、
「君は伯夷*4の風格、史魚*5の誠実さを持ち、貪夫(欲深い俗人)は君の名声を思慕して清潔となり、壮士(勇壮な男子)は名誉を尊重して奮い立っている。これこそ時代を指導できる人物であり、だからこそ東曹の官を授けたのである。行ってその職務に当たられよ」
と称えられています。
脚注
*4古代、殷末・周初の伝説上の人物。殷の孤竹君の子。国君の後継者としての地位を弟の叔斉と譲り合って共に国を去り、周に行った。その清廉さを孔子に称えられた。
*5春秋時代の衛の忠臣。その誠実さを孔子に称えられた。
毛玠
曹操が丞相となると、毛玠は東曹掾となって、崔琰と共に官吏の選抜を担当しました。
彼等が推挙して採用した者たちはすべて清潔で公正な人物で、当時にあって評判が高くても、その行動が本心に根差していない者は、いつまで経っても昇進することができませんでした。
毛玠は慎ましさで人の模範となるように努力していました。
その結果、天下の士人は清廉な生き方をしようと励まない者はなく、高官・寵臣であっても、規定を越えた車馬・衣服を用いる勇気はありませんでした。
そのことを知った曹操は感歎して、
「人を起用する者がこのようであれば、天下の人々をして自ずと身を整えさせることになる。儂は何もする必要はないな」
と言いました。
司馬懿
司馬懿は若くして並外れた節度を持ち、聡明でよく先々を見通しました。
また博学にして見聞広く、儒学の教えに傾倒しており、漢の末期になって天下が大いに乱れると、常に憤り、天下を憂えていました。
南陽太守で司馬懿と同郡(司隷・河内郡)出身の楊俊は人物鑑定の才があることで知られていました。司馬懿を観た楊俊は、
「まだ成年に達していないのに、司馬懿には『非常の器』がある」
と評しました。
また、司馬懿がちょうど成年に達した頃、司馬懿の兄・司馬朗と親しかった崔琰は、
「あなたの弟(司馬懿)は聡明誠実で剛毅果断。一際優れた人物で、おそらくあなたの及ぶところではありますまい」
と言いました。司馬朗はその意見に賛成しかねましたが、それでも崔琰は意見を変えませんでした。
建安6年(201年)、河内郡が司馬懿を上計掾に推挙しました。
すると当時司空であった曹操は、その名声を聞いて司馬懿を召聘しました。ですが司馬懿は、漢の命運が衰えているとは言え、節を曲げて曹氏に仕えたいとは思わず、風痺(手足が痺れる病。中風)で起き上がれないことを理由に辞退します。
司馬懿の仮病を疑った曹操が、人を遣って夜中にこっそり司馬懿の様子を探らせたところ、やはり司馬懿はじっと臥せたまま動きませんでした。
曹操が丞相となると、曹操はまた司馬懿を公府(丞相府)の文学掾に召聘しました。
この時曹操は、その使者に「もしまた愚図るようであれば、捕縛せよ」と言い含めていたので、司馬懿は懼れて職に就きました。
その後司馬懿は、曹操の子・曹丕と交際するようになります。
建安13年(208年)夏6月、漢王朝は三公の官を廃止して、再び丞相と御史大夫を設置し、曹操を丞相に任命しました。これにより、朝廷の権力が曹操 1人に集中するようになります。
曹操は崔琰・毛玠・司馬朗・司馬懿・盧毓らを丞相府に招きましたが、この時初めて司馬懿が出仕しました。