建安13年(208年)、劉琮を降伏させた曹操が、南に逃走する劉備に仕掛けた追撃戦「長坂の戦い」についてまとめています。
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目次
劉表の後を継いだ劉琮の降伏
曹操の荊州侵攻と劉表の死
建安13年(208年)7月、曹操は自ら南征して荊州牧・劉表の討伐に出陣しました。
8月、曹操軍がまだ到来しないうちに、劉表は背中に疽(悪性のできもの)を発症して亡くなってしまいます。
すると蔡瑁・張允らは、劉表の少子・劉琮に後を継がせ、劉琮を説得して、荊州を挙げて曹操に降伏してしまいました。
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劉備が劉琮の降伏を知る
劉琮は曹操に降伏を乞いながら、劉備にそのことを知らせようとしませんでした。
この時、荊州・南陽郡・樊城にいた劉備は、しばらくしてこれに気づき、身近の者を遣って、劉琮に尋ねさせます。
劉琮は、属官の宋忠を劉備の元に派遣してその趣旨を説明させましたが、その言葉の中で「曹公(曹操)が(荊州・南陽郡・)宛県にいる」ことを知った劉備は、仰天して言いました。
「卿(あなた)らはなんと言うことをしてくれたのかっ!
早くから相談もせず、禍が目前に迫った今、初めて私に知らせるとは、あまりにも酷いではないかっ!」
劉備は刀を引き寄せて宋忠に突きつけましたが、思い直して、
「今、卿(あなた)の首を叩き斬っても怒りを解くことはできぬっ!それに、大丈夫たる者が別離に際して卿(あなた)のような輩を殺すことを恥じるものだ」
と言い、宋忠を退出させました。
樊城と宛県
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劉備の逃避行
劉備が荊州の住民を抱える
曹操が荊州・南陽郡・宛県に迫り、すでに劉琮が降伏したことを知った劉備は、軍勢を率いて樊城を去りました。
劉備の軍が劉琮のいる荊州・南郡・襄陽県を通過する時、諸葛亮が劉備に言いました。
「いま劉琮を攻撃すれば、荊州を支配することができます」
ですが劉備は、「私には忍びない」と言ってその策を取り上げませんでした。
そこで劉備は、襄陽県に馬を留めて劉琮に呼びかけましたが、劉琮は恐れをなして腰を上げることもできず、これを見た劉琮の側近や荊州の人々の多くが劉備に帰順しました。
劉備は劉表の墓に別れを告げに立ち寄り、涙を流して襄陽県を去りました。
豆知識
『蜀書』先主伝が注に引く孔衍の『漢魏春秋』には、
「(劉琮の使者・宋忠を去らせた後、劉備は)部下を召集して相談した。ある者が劉備に『無理矢理にでも劉琮や荊州の官吏・兵士を引き連れ、直ちに南方の江陵県に行くように』と勧めた。劉備は答えて、
『劉荊州(劉表)殿は臨終に際して、私に孤児を託された。その信義に背いて我が身の安全を図るなど、私にはできないことだ。死後、どの面下げて劉荊州(劉表)殿に会うのか』
と言った」
とあります。
関羽に水路を進ませる
劉備軍が荊州・南郡・当陽県に着いた頃には、10余万の人々と数千台の荷物がつき従うようになっていたので、1日に10里(約4.3km)余りしか進むことができなくなっていました。
そこで劉備は、関羽に命じて数百艘の船に彼らの一部を乗せ、水路を進ませて江陵県で合流することにします。
この時ある人が、
「速やかに行軍して江陵県を保持すべきです。今、大勢の人々を抱えているとは言っても、武装している者は僅かですから、もし曹操の軍勢がやって来たならば、どうやって抵抗するのですか」
と言いましたが、劉備は、
「そもそも大事を成し遂げるためには、必ず『人』を基としなければならない。今、人々が私に身を寄せてくれているのだ。私には、彼らを見棄てて去ることはできない」
と言い、彼につき従う大勢の人々を連れて行軍することを止めませんでした。
王威の進言
この頃、すでに曹操に降伏した劉琮配下の王威が「油断している曹操を奇襲して捕らえる」ことを進言しましたが、劉琮は聞き入れませんでした。
王威の進言・全文
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長坂の戦い
曹操の猛追
一方曹操は、荊州・南郡・江陵県に軍需物資が集積されていたことから、劉備が江陵県を占拠することを恐れ、自軍の輜重(武器・食糧などの軍需物資)を後方に放置して、身軽になった軍勢で荊州・南郡・襄陽県に急行しました。
ですが、「劉備がすでに襄陽県を通過した」と聞いた曹操は、精鋭の騎兵5千を率いて一昼夜に3百余里(約129km)を駆ける強行軍で追撃し、荊州・南郡・当陽県の長坂橋で劉備軍に追いつきました。
荊州・南郡・当陽県・長坂橋
文聘の出頭
劉琮が荊州を挙げて曹操に降伏した時、文聘は、
「私は州を保つことができませんでした。処罰を待つのが当然です」
と言って、劉琮と行動を共にしませんでした。ですが曹操が漢江を渡ると、やっと曹操の元に出頭して来ました。
曹操が、
「どうして来るのが遅かったのか?」
と尋ねると、文聘はすすり泣き、涙を流しながら言いました。
「私は劉荊州(劉琮)を補佐して国家に仕えることができませんでした。荊州は滅びましたが、常に漢川(漢江)を拠り所として領土を守備・保全し、生きては若年の孤児(劉琮)を裏切らず、死しては地下の方(劉表)に恥じないことを願っておりましたが、計画はどうにもならずここまで来ました。実際、悲痛と慚愧の思いに、早くお目通りする顔もなかったのです」
曹操は文聘の言葉に心を打たれ、
「仲業(文聘の字)、卿(あなた)は真に忠臣である」
と言い、手厚い礼をもって彼を処遇し、文聘に兵を授けて、曹純と共に劉備を追撃させました。
長坂の戦い
曹操軍の猛追を受けた劉備は、妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎と共に逃走したため、曹操は劉備が連れていた民衆や輜重(武器・食糧などの軍需物資)を多数捕獲しました。
趙雲が阿斗を救う
この時、「趙雲が北方に去った(曹操に寝返った)」と言う者がいましたが、劉備は手戟でその者を打ち据えると、
「子龍(趙雲の字)は私を見棄てて逃げたりしない」
と言いました。
程なくして、趙雲はその身に阿斗(劉禅)を抱き、阿斗(劉禅)の母・甘夫人を保護して戻って来ました。
張飛が長坂橋で一喝する
曹操軍が長坂橋まで迫って来ると、劉備は張飛に20騎を指揮させて背後を防がせていました。
張飛は川を楯にして橋を切り落とし、目を怒らせ矛を小脇にして、
「我こそは張益徳なりっ!かかって来い、死を賭して戦おうぞっ!」
と呼ばわります。
これに思い切って近づこうとする者はなく、ついに劉備は曹操軍の追撃から逃れることができました。
徐庶との別れ
この時徐庶は、諸葛亮と共に劉備に従っていましたが、曹操軍の追撃により、徐庶の母が捕虜となってしまいました。
徐庶は、自分の胸を指して劉備に言いました。
「私はこの1寸四方の場所(心臓)において、将軍(劉備)の王業・覇業をお助けしたいと欲しておりましたが、今すでに老母を失って、私の1寸四方(心臓)は混乱しております。
このような状態では、将軍(劉備)のお役に立つことはできません。ここでお別れさせてください」
そう劉備に別れを告げると、徐庶は曹操の下に赴きました。
豆知識
『魏書』曹仁伝には、
「(曹仁の弟・曹純は)太祖(曹操)のお供をして荊州征伐に赴き、劉備を長坂に追いつめて彼の2人の娘を捕らえ、輜重(武器・食糧などの軍需物資)を捕獲して敗残の兵を手中に収めた」
とあります。
魯粛の来訪
荊州牧・劉表の死が江東に伝わると、魯粛が孫権の御前に進み出て、「劉表の2人の息子と劉備と手を結び、共に曹操に対抗する」ことを献策し、自分を劉表の2人の息子のところへ弔問に派遣するように進言します。
魯粛の進言・全文
ところが、魯粛が夏口まで来たところで「曹操がすでに荊州に向かった」と聞き、昼夜兼行で道を急ぎました。
魯粛が荊州・南郡まで来ると、今度は「劉表の息子・劉琮が曹操に降ってしまい、劉備は取るものも取りあえず脱出して、長江を渡って南へ走ろうとしている」との知らせが入ります。魯粛は劉備を迎えるべく真っ直ぐそちらに向かい、南郡・当陽県の長坂で劉備と面会しました。
そこで魯粛は、劉備に孫権の意向を伝え、天下の状勢を論じて孫権と力を合わせるように説き、さらに劉備に、
「豫州(劉備)殿は、今どこへ行かれるおつもりですかな?」
と尋ねます。これに劉備が、
「(交州・)蒼梧太守の呉巨と昔なじみなので、彼に身を寄せるつもりでいます」
と答えると、魯粛は言いました。
「孫討虜(孫権)は聡明にして仁徳のあるお方です。賢者を敬い士人を礼遇されるので、江東の豪傑はみな心服しております。
すでに6郡*1を支配され、軍兵は精鋭であり兵糧も豊かですので、大業を打ち立てられるに充分なものをお持ちです。
今、あなたのために考えますに、腹心と頼む人をお遣わしになり、東方(呉)と手を結ばれ同盟関係を大事になさって、一緒に子孫に伝わる大業を成し遂げられるに越したことはありますまい。
それなのに、呉巨に身を寄せたいとのお言葉。呉巨は平凡な人間で、はるか僻地の郡におりまして、いずれ誰かに併呑されてしまうでしょう。一体、頼りになさる価値がありましょうか」
劉備はこの申し出を大変喜びました。
脚注
*1会稽郡、丹楊郡(丹陽郡)、豫章郡(予章郡)、廬陵郡、呉郡、廬江郡の6郡。
諸葛亮を派遣する
長坂で曹操軍に敗れた劉備は逃げ回りながら漢津へと向かい、そこでちょうど関羽が率いる船団と出会ったので、沔河(漢水)を渡ることができました。
その後、同じく曹操軍から逃れていた劉表の長子・劉琦の軍勢・1万余人と出会い、共に進んで夏口に到着しました。
そこで諸葛亮は劉備に、
「事態は切迫しております。ご命令を頂いて孫将軍(孫権)に救援を求めたいと思います」
と進言し、魯粛に随行して、当時、揚州・豫章郡(予章郡)・柴桑県で事態の行方を窺っている孫権の元へ向かいました。
劉備は魯粛の計に従って、軍を進めて荊州・江夏郡・鄂県の樊口に駐屯します。
劉備の逃走・関連地図
赤字:漢水
建安13年(208年)7月、曹操は自ら南征を開始。8月、荊州牧・劉表が亡くなると、後を継いだ劉琮は戦わずに曹操に降伏してしまいます。
劉備は当時駐屯していた樊城を棄て、旧知の呉巨を頼って交州・蒼梧郡を目指し、その途上、荊州の人々の多くが彼に従いました。
曹操はすぐさま劉備の追撃を開始。南郡・当陽県の長坂で追いついた曹操軍は、劉備軍を散々に撃ち破ります。
その後、長坂で孫権の使者・魯粛と会見した劉備は目的地を夏口に変更。途中、劉表の長子・劉琦と合流した劉備は、夏口に到着すると、孫権と手を結ぶべく諸葛亮を派遣しました。