建安13年(208年)、曹操の南征を受けた孫権が「曹操との決戦」を決断するまでの経緯をまとめています。
スポンサーリンク
目次
劉表の死と孫権
魯粛を弔問に派遣する
建安13年(208年)、荊州牧・劉表の死が江東に伝わると、魯粛が孫権の御前に進み出て、「劉表の2人の息子と劉備と手を結び、共に曹操に対抗する」ことを献策し、自分を劉表の2人の息子のところへ弔問に派遣するように進言します。
孫権は魯粛の進言を受け容れ、すぐさま魯粛を荊州に向けて出発させました。
諸葛亮が呉に向かう
荊州・南郡・襄陽県を目指して夏口まで来たところで、「曹操がすでに荊州に向かった」と聞いた魯粛は昼夜兼行で先を急ぎますが、やっと南郡に入った時、
「劉表の息子の劉琮が曹操に降ってしまい、劉備は取るものも取りあえず脱出して、長江を渡って南へ走ろうとしている」
との知らせが入ります。
魯粛は方向を変え、劉備を迎えるべく真っ直ぐそちらに向かい、荊州・南郡・当陽県の長坂で劉備と面会しました。
魯粛は劉備に孫権の意向を伝え「江東の地が曹操にも簡単には手が出せないこと」を述べて、劉備に孫権と力を合わせるように説きます。劉備はこれを聞いて大変喜びました。
また魯粛は、劉備の側にいた諸葛亮に、
「私は子瑜(諸葛亮の兄・諸葛瑾)殿の友人です」
と言い、2人はその場で交わりを結びます。
その後劉備は追撃してきた曹操軍に敗れ、そのまま魯粛と共に夏口まで来ると、諸葛亮は、
「事態は切迫しております。ご命令を頂いて孫将軍(孫権)に救援を求めたいと思います」
と進言し、魯粛に随行して、当時、揚州・豫章郡(予章郡)・柴桑県で事態の行方を窺っている孫権の元へ向かいました。
劉備は魯粛の計に従って、軍を進めて荊州・江夏郡・鄂県の樊口に駐屯します。
劉備の逃走・関連地図
赤字:漢水
関連記事
スポンサーリンク
孫権の決断
諸葛亮の説得
揚州・豫章郡(予章郡)・柴桑県に到着した諸葛亮は、孫権を説得して言いました。
「天下は乱れに乱れ、将軍(孫権)は兵を起こして江東を所有され、劉豫州(劉備)もまた漢水の南方で軍勢を収め、曹操と並んで天下を争っています。
今、曹操は大乱を斬り従え、北方をほぼ平定しました。そしてさらに荊州を破り、その威勢は四海を震わせております。
英雄も武を用いる余地なく、そのため劉豫州(劉備)は遁走してここにこられたのです。将軍(孫権)よ、あなたも自分の力量を計ってこの事態に対処なされませ。
もしも、呉・越の軍勢をもって中原(曹操)に対抗できるのならば、即刻国交を断絶されるに越したことはありませんし、もしも対抗できないのならば、兵器・甲冑を束ね、臣下の礼をとってこれに服従なさるがよろしいでしょう。
今、将軍(孫権)は、外では服従の名に寄りかかりつつも、内では引き延ばし政策をとっておられます。事態が切迫しているのに決断をお下しにならないのならば、災禍は日ならずして訪れるでありましょう」
これに孫権が、
「もし君(諸葛亮)の言う通りだとしたならば、劉豫州(劉備)はどうして、あくまでも曹操に仕えないのか?」
と問うと、諸葛亮はまた答えて言いました。
「田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、それでも義を守って辱めを受けませんでした*1。
まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎ込むのと同じです。
もし事が成就しなかったならば、それは天命です。どうして曹操の下につくことなどできましょうか」
これを聞いた孫権がムっとして、
「儂は、呉の全土と10万の軍勢をそっくりそのまま持ちながら、人の掣肘(干渉)を受けるわけにはいかない。儂の決断はついた。
劉豫州(劉備)以外に曹操に当たれる者はいない。だが、劉豫州(劉備)は曹操に敗れたばかりだ。この後、どうしてこの難局にぶつかることができようぞ」
と言うと、諸葛亮は次のように続けます。
「劉豫州(劉備)の軍は長坂で敗北したとは申しましても、現在、逃げ帰った兵と関羽の水軍の精鋭合わせて1万人。劉琦が江夏の軍兵を集めれば、これまた1万人を下りません。
曹操の軍勢は、遠征で疲れ切っております。聞けば劉豫州(劉備)を追って、軽騎兵は1日1夜、3百里(約129km)以上も駆け続けたとのこと。
これは所謂『強弩に射られた矢も、その最後は魯縞(魯で生産される薄い絹)さえ貫けない*2』という事態です。故に兵法ではこれを禁忌とし、『必ず上将軍(前軍の将)は倒される(『孫子』軍争篇』)』と言っております。その上、北方の人間は水戦に不慣れです。
また、荊州の民衆が曹操に靡いているのは、軍事力に圧迫された結果であって、心から従っているのではありません。
今、将軍(孫権)が本当に勇猛なる大将に命じて兵士数万を統率させ、劉豫州(劉備)と計を共にし、力を合わせる事がおできになるならば、曹操の軍勢を撃破するのは間違いありません。
曹操軍は敗北したならば、必ず北方へ帰還いたしましょう。そうなれば、荊・呉の勢力は強大になり、三者鼎立の状況が形成されます。成功・失敗の切っ掛けは今日にあります」
これを聞き、孫権は大いに喜びました。
脚注
*1田横は戦国時代・斉の王族であったが、秦の滅亡後に斉を支配した。漢の建国後、高祖(劉邦)に召された田横は、都の手前まで来ると、自殺してその首を高祖(劉邦)の元に届けさせた。
*2『史記』『漢書』韓長孺伝に見える韓安国の言葉。
曹操の書簡
当時、曹操は新たに劉表の軍勢を手に入れて、圧倒的な勢いを示していたので、孫権の家臣たちもみなその勢いに畏れをなし、孫権に「曹操の指図を受け容れるように」と勧める者が多くいました。
そんな中に届いた曹操の書簡に、
「近頃、罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗(軍勢)が南に向かったところ、劉琮は何の抵抗も示さず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整え将軍(孫権)とお会いして、呉の地で狩猟*3をいたそうと思う」
とあり、孫権がこの手紙を家臣たちに示したところ、震え上がって顔色を変えない者はいませんでした。
脚注
*3「一緒に狩猟をする」という言葉には「戦って雌雄を決する」という裏の意味がある。
降伏派の主張と魯粛の進言
降伏派の主張
「曹操が東に軍を進めようとしている」との情報を得た孫権が、家臣たちに「どのように対処すべきか」を尋ねると、みな一致して「曹操を迎え入れて帰順する」ことを勧めました。
孫権家臣たちの意見・全文
ですが、その中でただ1人、魯粛だけは何も言いませんでした。
魯粛の進言
たまたま孫権が手洗いに立つと、魯粛がその後を軒端まで追って来たので、孫権は魯粛の気持ちを察し、その手を執って「あなたは何か言いたいことがあるのか」と尋ねました。
すると魯粛は、
「先程からみなの議論をじっと聞いておりましたが、将軍(孫権)を誤らせようよする議論ばかりで、共に大事を図るには足らぬものでございます。
今、私には曹操を迎え入れることができますが、将軍(孫権)にはそれができないのです。
なぜならば、私が曹操を迎え入れましたならば、曹操は郷里に付託して、私についての人物評価をさせ、その結果に基づいて官職を与えてくれるでしょうが、私には郷里にいささか名望もありますゆえ、その官位は下曹従事より下がることはなく、牛車に乗り、役人や兵士を従者として従え、人士たちと交わり、官位を歴任いたしますれば、やがて州の刺史や郡の太守となれますこと、間違いございません。
ですが、将軍(孫権)が曹操を迎え入れましたならば、どのような身の落ち着き所が得られるとお考えでしょうか。どうか、急ぎ大計を定められて、彼らの議論はお用いになりませぬように」
と言いました。
魯粛の進言を聞いた孫権は嘆息して、
「あの者たちが主張する意見は、甚だ私を失望させるものであった。
今、あなたは大計を開示してくださったが、私の考えるところに些かの齟齬もない。これは、天があなたを私に授けてくださったのだ」
と言いました。
豆知識
『呉書』魯粛伝が注に引く『魏書』と『九州春秋』に、
「曹公(曹操)が荊州の征伐に向かうと、孫権は大きな懼れを懐いた。魯粛は内心、孫権に曹公(曹操)を拒絶するよう勧めたいと考えて、わざわざ逆説的な表現で孫権に言った。
『かの曹公(曹操)と申します者は、容易ならざる敵でございます。袁紹を幷せ取ったばかりで、兵馬は甚だ精鋭であり、戦勝の勢いに乗って、混乱を極める国を伐つのでありますれば、勝利は揺るがぬところでございます。
それ故、兵士を遣って彼を援助すると同時に、将軍(孫権)のご家族を人質として鄴へお送りになるに越したことはございません。そうされねば、お立場は危ういものとなります」
孫権は大いに腹を立て、魯粛を斬ろうとした。魯粛はそこで言った。
「今、事態が急を告げております時、曹操に帰順するような計は取りたくないとお思いなのでしたら、なぜ兵士を遣って劉備を助けようとはなされずに、私を斬ろうなどとされるのですか』
孫権はその意見を「もっともだ」と思い、周瑜を派遣して劉備に助力させた」
とあります。
孫盛はこの内容を否定していますが、『三国志演義』では、この魯粛の言葉を諸葛亮の言葉として採用しています。
周瑜の進言と孫権の決断
この時周瑜は、使者の役目で揚州・豫章郡(予章郡)・鄱陽県に行っていましたが、魯粛は孫権に進言して、周瑜の後を追って使いを遣り、彼を召し還すように勧めました。
揚州・豫章郡(予章郡)・鄱陽県
揚州・豫章郡(予章郡)・柴桑県に到着した周瑜は、家臣たちの前で孫権に言いました。
「曹操は漢の丞相の名を盾にしておりますが、その実は漢に敵なす賊徒でございます。
一方、将軍(孫権)は優れた武略と大きな才能を備えられ、加えて父上さま、兄上さまの烈を基に、江東の地に割拠されましたが、その土地は数千里に及び、兵士は精鋭で十分にお役に立ち、英俊の士たちは国のために忠義を尽くそうと心に願っているのですから、天下を思うままに闊歩して、漢の王室のために害を為す者どもを除き去られるべきなのでございます。
ましてや曹操は自ら死地へ飛び込んで来たというのに、それを迎え入れる(帰順する)などということがあって良いものでしょうか。
将軍(孫権)のために今後の方略を立てさせていただきますれば、たとえ北方の土地がすでに安定して曹操に内憂がなく、このまま久しく平穏を保ち、戦場に出て敵と交戦する余力があったとしても、我々と水軍によって勝負を争うことなどできる筈がありません。
ましてや今、北方の地は未だに安定しておりませぬ上に、馬超と韓遂がなお関西にあって、曹操にとっての後患となっております。
それに加え、騎馬を捨て舟を用いて呉や越の者に勝負を挑むのは、元々中原の者たちの得手とするところではございません。
さらに現在は、寒さが厳しくて馬には馬草がなく、そうした中で中原の軍勢を駆り立てて遠く水郷地帯を跋渉(各地を歩き回ること)させているのですから、土地の風土に慣れず、必ずや疫病が発生するでしょう。
これら幾つもの点は、みな兵を用いる際に忌むべきところです。しかるに曹操は、そのすべてを犯して事を押し進めております。今こそ将軍(孫権)が曹操を捕虜にされる好機です。
願わくは、瑜めに精鋭兵3万をお預けくださり、夏口まで兵を進めさせてください。必ずや曹操を撃ち破ってご覧に入れます」
すると孫権は、
「老いぼれの悪者めが漢帝(献帝)を廃して自らが帝位につこうと目論んでおるのは、今に始まったことではない。ただ袁氏の2人と呂布と劉表と私を憚って、実行できずにいたのだ。現在、これらの実力者たちも滅んでしまい、私だけが残っている。
私と老いぼれの悪者めとは、両立できぬ趨勢にある。あなたは、彼に攻撃を加えるべきだと言われたが、それは私の思うところとまったく合致した。これぞ天があなたを私に授けてくださったのだ」
と言うと、刀を抜いて前に置かれた上奏文を乗せるための案を斬りつけて、
「部将や官吏たちの中に、これ以上、曹操を迎え入れるべきだと申す者がおれば、この案のようになるのだっ!」
と言いました。
周瑜・程普・魯粛の派遣
その夜、周瑜は孫権に目通りを願い出て言いました。
「ただ曹操が寄越した手紙に水軍と歩兵が80万あると言っていることだけを見て、みな恐慌を来してしまい、その真偽を考えてみることもせず、すぐに『投降すべきだ』と主張しただけですので、そうした主張にはまったく意味がございません。
今、事実を基に勘案いたしますに、彼が率いております中原の人数は15〜16万に過ぎません。しかも、その兵士たちは軍事行動が長く続いて疲れ果てており、荊州で手に入れた劉表の軍勢も最大限で7〜8万止まりで、まだ完全に曹操に心服しておりません。
疲れ切った兵卒を率い、心の動揺している軍勢をまとめようとしているわけですから、その人数が多いとは言っても、まったく畏るるに足りません。精鋭兵5万が手中にあれば、十分にこれを防ぎ止めることができます。どうか将軍(孫権)には、ご心配なさらないでください」
すると孫権は、周瑜の背中を撫でながら言いました。
「公瑾(周瑜の字)どの、そんな風に言ってくださる卿の言葉は、私の思うところに寸分の違いもない。
子布(張昭の字)や文表(秦松の字)たちは、それぞれ妻子に心が引かれ、個人的な事情を配慮するばかりで、私の期待にはまったく応えてくれない。ただ卿と子敬(魯粛の字)だけが、私と心を1つにしてくれる。これぞ、天が私を助けるため、卿方2人を授けてくださったのだ。
5万の兵は急には集め難いが、すでに3万人を選んで、船も兵糧も兵器もみな準備してある。卿は子敬(魯粛の字)、程公*4(程普)と共に、すぐさま先鋒として出発して欲しい。
私は引き続き人数の動員にあたり、なるべく多くの物資や軍糧を送って卿を後方から支援しよう。卿の力で曹操に勝てるようであれば、どうか勝負を決して欲しい。もし何かの都合で意図通りに事が運ばなかった時には、すぐさま軍を返して私の元に戻るように。その時は、私が孟徳(曹操の字)と勝負をつけよう」
こうして孫権は、周瑜と程普を左右督に任命して周瑜に総指揮を任せ、魯粛を賛軍校尉(総参謀)に任命して周瑜が戦略を立てる時の助言者とし、すぐさま周瑜・程普・魯粛ら水軍3万を派遣して、諸葛亮について劉備の元に行かせ、力を合わせて曹操を防がせることにしました。
脚注
*4江東の諸将の中で程普が最年長であったため、程普は「程公」と呼ばれていた。
建安13年(208年)7月、曹操が自ら南征を開始すると、病死した劉表の後を継いだ劉表の少子・劉琮は曹操に降伏。劉表の下に身を寄せていた劉備は南に逃走しますが、その途上に出会った孫権の使者・魯粛の説得を受け、孫権と手を結ぶべく諸葛亮を派遣しました。
当時、呉には「曹操の書簡」に怯えて降伏を唱える者が多かったのですが、諸葛亮、魯粛、周瑜らの説得により、孫権は「曹操との決戦」を決意。力を合わせて曹操を防ぐべく、劉備の元に周瑜・程普・魯粛ら水軍3万を派遣しました。