205年【漢:建安10年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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205年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
大司馬 |
ー |
太尉 |
ー |
司徒 |
趙温 |
司空 |
曹操 |
執金吾 |
伏完 |
将作大匠 |
孔融 |
前将軍 |
馬騰 |
左将軍 |
劉備 |
輔国将軍 |
伏完 |
安降将軍 |
韓遂 |
伏波将軍 |
夏侯惇 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
曹操 |
豫州牧 |
劉備 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉璋 |
青州刺史 |
袁譚 |
揚州刺史 |
劉馥 |
遼東太守 |
公孫康 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
王邑 → 杜畿 |
会稽太守 |
孫権 |
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205年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 曹操が冀州・勃海郡・南皮県を攻め、袁譚・郭図らを斬る。
- 李孚が曹操に帰順し、青州・平原国・平原県を落ち着かせる。
- 袁譚の遺体を受け取りに来た王脩(王修)が曹操に帰順する。
- 王脩(王修)の機転により管統が曹操に帰順する。
- 陳琳が曹操に帰順する。
- 曹操が冀州に布告を出す。
- 幽州・涿郡の王松が曹操に帰順する。
- 袁煕の将軍・焦触、張南らが、袁煕と袁尚に背く。
- 袁煕と袁尚が3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)の元に逃走する。
- 焦触、張南らが曹操に降伏し、列侯に封ぜられる。
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4月 |
- 黒山賊の張燕が軍勢10余万を率いて降伏し、安国亭侯に封ぜられ、封邑500戸を与えられる。
- 幽州・涿郡・故安県の趙犢・霍奴らが、幽州刺史と涿郡太守を殺害する。
- 3郡の烏丸族が幽州・漁陽郡・獷平県にいる鮮于輔を攻撃する。
|
8月 |
- 曹操が趙犢らを征討し、獷平県の鮮于輔を救援する。
- 3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)が国境の外に逃走する。
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9月 |
- 曹操が「冀州の風俗を正す」内容の布令を出す。
- 献帝が百官の中で甚だ貧しい者に、差をつけて金帛を下賜した。
|
10月 |
- 曹操が冀州・魏郡・鄴県に還る。
- 幷州刺史・高幹が、荊州の劉表と結んで幷州(并州)をあげて反乱を起こす。
- 曹操が楽進と李典に高幹を攻撃させる。
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不明 |
■高幹の反乱以降
- 司隷・河内郡出身の張晟の軍勢1万余人が、司隷・弘農郡の二崤山*1と澠池県(黽池県)周辺を荒らし回る。
- 司隷・河東郡出身の張琰が張晟に呼応する。
- 河東郡の衛固・范先らが秘密裏で高幹と繋がる。
- 曹操が王邑に代えて杜畿を河東太守に任命する。
- 衛固らが杜畿の河東郡入りを拒む。
- 曹操が衛固らの討伐に夏侯惇を派遣する。
- 杜畿が軍勢の到着を待たずに河東郡に入り、衛固・范先らを手玉にとって力を削ぐ。
- 張晟が河東郡の東垣(垣県)に侵攻する。
- 高幹が同じく河東郡の濩沢国に侵攻する。
- 杜畿が4千余人の兵を集め、堅壁(堅固な壁塁)に赴いて防ぐ。
- 曹操が馬騰らの将軍たちを呼び寄せて張晟らを討ち、張琰・衛固は首を斬られる。
|
脚注
*1二崤山は澠池県(黽池県)の南に位置する。
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205年の三国志群雄勢力図
1月
建安10年(205年)1月の三国志群雄勢力図
袁譚の滅亡
この年の春正月、曹操は冀州・勃海郡・南皮県に逃走した袁譚に攻撃を開始します。
袁譚の反撃により多数の死者を出した曹操軍ですが、虎豹騎を率いる曹純の活躍により袁譚の首を斬り、曹操は袁譚の妻子や郭図らを処刑。これにより冀州は完全に平定されました。
また、袁譚が敗れると、張遼が別軍の将として青州の海岸地帯を攻略し、幽州・遼東郡の賊・柳毅らを撃ち破りました。
袁譚配下たちの帰順
河北を平定した曹操は、郭嘉の進言に従って、青州・冀州・幽州・幷州(并州)の各州で名を知られた人物を多数招聘し、
- 李孚
- 王脩(王修)
- 管統
- 陳琳
- 王松
- 劉放
らが帰順しました。
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袁煕・袁尚が烏丸族を頼る
またこの月(春正月)、袁煕の将軍・焦触・張南らが、袁煕・袁尚に背いて彼らを攻撃し、袁煕・袁尚は、
- 幽州・遼西郡の蹋頓
- 幽州・遼東郡の蘇僕延
- 幽州・右北平郡の烏延
ら3郡の烏丸族の元に逃走。焦触・張南らは曹操に降伏し、列侯に封ぜられました。
黒山賊・張燕の降伏
夏4月、黒山賊の張燕がその軍勢10余万を率いて降伏し、安国亭侯に封ぜられ、封邑500戸を与えられました。
幽州の騒乱
幽州では、涿郡・故安県の趙犢・霍奴らが、幽州刺史と涿郡太守を殺害し、また、3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)が幽州・漁陽郡・獷平県にいる鮮于輔を攻撃しました。
秋8月、曹操はこれを征討して趙犢らを斬り、潞河を渡って獷平県の鮮于輔を救援すると、烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)は国境を出て遁走します。
9月、曹操は「冀州の風俗を正す」内容の布令を出し、冬10月に冀州・魏郡・鄴県に還りました。
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12月
建安10年(205年)12月の三国志群雄勢力図
※袁煕・袁尚は漢の塞外(国境の外)の烏丸族を頼っています。
幷州刺史・高幹の背反
10月、曹操が烏丸族を征討したことを聞いた高幹は、荊州の劉表と結んで幷州(并州)をあげて反乱を起こします。
曹操が楽進と李典に攻撃させると、高幹は引き返して壺関城[幷州(并州)・上党郡・壺関県]を守りました。
河東郡の反乱
高幹が反乱を起こすと、司隷・河内郡出身の張晟の軍勢1万余人は誰にも従属することなく、司隷・弘農郡の二崤山*1と澠池県(黽池県)の辺りの地域を荒らし回り、また、司隷・河東郡出身の張琰が旗揚げして張晟に呼応しました。
これに曹操は、王邑に代えて杜畿を河東太守に任命。河東郡に入った杜畿は、裏で高幹と繋がっている衛固・范先らを丸め込んで力を削ぐ事に成功します。
その後、張晟と高幹が河東郡に侵攻すると、杜畿は曹操が派遣した討伐軍(馬騰らの将軍たち)の到着まで敵の攻撃を防ぎ切ったので、その結果、張琰と衛固は首を斬られました。
脚注
*1二崤山は澠池県(黽池県)の南に位置する。
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曹操が冀州・勃海郡・南皮県に逃走した袁譚を滅ぼした頃、幽州では袁煕の将軍・焦触・張南らが袁煕・袁尚に背き、敗れた袁煕・袁尚は3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)の元に逃走します。
その後、曹操が幽州で反乱を起こした趙犢らを征討し、3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)を国外に敗走させると、幷州刺史・高幹が幷州(并州)をあげて反乱を起こし、司隷・河東郡に侵攻しますが、曹操が派遣した討伐軍に敗れ、荊州に逃走しました。
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