建安けんあん13年(208年)の曹操そうそうの南征に対する益州牧けいしゅうぼく劉璋りゅうしょうの反応と、曹操そうそう劉璋りゅうしょうの使者・張松ちょうしょうの確執についてまとめています。

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曹操の南征と益州牧・劉璋

陰溥を派遣する

建安けんあん13年(208年)、益州牧けいしゅうぼく劉璋りゅうしょうは「曹操そうそう荊州けいしゅうを征討し、すでに漢中かんちゅうを平定した*1」と聞いて、司隷しれい河内郡かだいぐん出身の陰溥いんほを派遣して曹操そうそうに敬意を伝えさせました。

これに曹操そうそうは、

  • 劉璋りゅうしょう振威将軍しんいしょうぐん
  • 劉璋りゅうしょうの兄・劉瑁りゅうぼう平寇将軍へいこうしょうぐん

に任命しましたが、その後劉瑁りゅうぼうは精神病により亡くなりました。

脚注

*1蜀書しょくしょ劉璋伝りゅうしょうでんより。この時曹操そうそう漢中かんちゅうには侵攻していないが、誤記ではなく、当時の益州けいしゅうにはこのように伝わっていた可能性もあるため、そのままにした。

張粛を派遣する

劉璋りゅうしょうはさらに益州えきしゅう蜀郡しょくぐん出身の別駕従事べつがじゅうじ張粛ちょうしゅくを派遣して、しょく兵3百人と種々の御物ぎょぶつ曹操そうそうに送ったところ、曹操そうそう張粛ちょうしゅく広漢太守こうかんたいしゅに任命しました。

豆知識

以上は蜀書しょくしょ劉璋伝りゅうしょうでんもとにしていますが、魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎにも、


益州牧けいしゅうぼく劉璋りゅうしょうが初めて役夫えきふの徴集を受けれ、兵を派遣して軍に提供した」


とあります。曹操そうそう劉琮りゅうそうの降伏を受けれ、荊州けいしゅうの人材の登用を行った後のことです。

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劉璋が曹操との関係を絶つ

張松を派遣する

劉璋りゅうしょうはまた、別駕従事べつがじゅうじ張松ちょうしょう曹操そうそうの元に派遣しました。

ですが、曹操そうそうはこの時すでに荊州けいしゅうを平定し、長坂ちょうはん劉備りゅうびを敗走させていたため、慢心まんしんしてもう張松ちょうしょうにもかけなかったので、張松ちょうしょう曹操そうそうの自分へのぞんざいな扱いにうらみをいだきました。

豆知識

張松ちょうしょうの兄・張粛ちょうしゅくは威儀正しく堂々たる容貌ようぼうをしていました。

一方、張松ちょうしょうは生まれつき小男で勝手気ままに振る舞い、品行を整えようとしませんでしたが、すぐれた見識と判断力を有するさいわん*2を持っていました。

この時、曹操そうそう主簿しゅぼ楊脩ようしゅう楊修ようしゅう)は張松ちょうしょうの人物を高く評価し、曹操そうそう張松ちょうしょうかかえるように言上しましたが、曹操そうそうは承知しませんでした。


楊脩ようしゅう楊修ようしゅう)が曹操そうそう編纂へんさんした兵書を張松ちょうしょうに見せたところ、張松ちょうしょうは宴会の間にそれをつうらんしてどころ暗誦あんしょうして見せたので、楊脩ようしゅう楊修ようしゅう)はますます彼を特別視するようになりました。

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脚注

*2頭がよく働き、物事をてきぱきと処理する手腕。

張松の進言

その後曹操そうそうは、赤壁せきへき周瑜しゅうゆ劉備りゅうびらに敗北をきっし、さらに軍中に疫病えきびょう流行はやって死者が続出し、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに撤退しました。


張松ちょうしょう劉璋りゅうしょうもとに帰還すると、曹操そうそう誹謗ひぼうし、劉璋りゅうしょう曹操そうそうとの絶交を勧め、


劉豫州りゅうよしゅう劉備りゅうび)は使君しくん劉璋りゅうしょう)の親類です。彼と手を結ばれるべきです」


と進言します。

劉璋りゅうしょう張松ちょうしょうの言うことすべてに「もっともだ」と考えました。

豆知識

裴松之はいしょうし蜀書しょくしょ劉璋伝りゅうしょうでんの注に、この時の曹操そうそう慢心まんしんに関連して習鑿歯しゅうさくしの言葉を引いています。


「昔、せい桓公かんこうひとたびおのれの功績をほこると、反乱する者は9ヶ国に及んだ(しゅんじゅうようでん僖公きこう9年)。また、曹操そうそうがわずかの間慢心まんしんに陥ると、天下は3つに分かれた。

どちらの場合も数十年もの間努力し続けたことを、一瞬のうちにて去ることになったのである。なんと残念なことであろう。

だからこそ君子は、日が暮れるまでけんきょさをもって努力し続け、人にへりくだることを考え、手柄が高くともけんじょうの態度を固く守り、地位がとうとくても低姿勢を取り続けるのである。

一般の人々に近い心情を持っているからこそ、高貴であっても人々からその重さを嫌われず、民衆に行き渡る徳をそなえているからこそ、事業は広大となり、天下からいよいよその恵みを喜ばれるのである。

そもそもこのようであるからこそ、その富貴を保ち、その功業を保持して、その時代においては隆盛となり、百代の後までも幸福を伝えることができるのである。決して慢心まんしんしてはならない。

このことから、君子(識者)は曹操そうそうが結局天下を併合できなかった次第を理解するのである」


建安けんあん13年(208年)9月、曹操そうそう荊州牧えきしゅうぼく劉琮りゅうそうを降伏させると、益州牧けいしゅうぼく劉璋りゅうしょうは2度にわたって使者を派遣して役夫えきふの徴集を受けれ、兵を派遣して軍に提供します。

ですが、劉璋りゅうしょうが3度目に別駕従事べつがじゅうじ張松ちょうしょうを派遣した時には、曹操そうそうはすでに荊州けいしゅうを平定し、長坂ちょうはん劉備りゅうびを敗走させていたため、慢心まんしんして劉璋りゅうしょうの使者である張松ちょうしょうをぞんざいに扱いました。

そして、これにうらみをいだいた張松ちょうしょうは「曹操そうそうと絶交し、劉備りゅうびと手を結ぶ」よう劉璋りゅうしょうに勧め、劉璋りゅうしょうは彼の進言を受けれます。

曹操そうそうはその慢心まんしんにより、労せずして益州けいしゅうを手に入れる好機をのがしてしまいました。