董卓とうたくの死後、その死をあわれんだために獄死したことで知られる蔡邕さいようとは、どんな人物だったのでしょうか。

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出自

蔡邕・伯喈

はじめに

後漢書ごかんじょ蔡邕伝さいようでんには、蔡邕さいようの著作や上奏文がかなりの長文で記載されています。

その内容は非常に興味深いものですが、すべてを紹介すると逆に混乱してしまう恐れがありますので、本文では省略または要約して紹介しています。

全文を読みたい場合は、「+タップ(クリック)すると開きます。」の部分をタップ(クリック)すると全文が表示されます。

出身地 / 生没年

蔡邕さいようあざな伯喈はくかいと言い、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん圉県ぎょけんの人です。

生没年は132年または133年〜192年。

蔡邕さいようの生年は、享年きょうねん61歳から逆算すると132年。178年の上奏文の時点で46歳とあることから逆算すると133年となります。

後漢書ごかんじょに列伝があります。


兗州・陳留郡・圉県

兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん圉県ぎょけん

家族

祖先

蔡邕さいようの6代前の祖先・蔡勲さいくん黄老思想こうろうしそうを好み、前漢ぜんかん平帝へいてい期[元寿げんじゅ2年(紀元前1年)〜元始げんし5年(5年)]に郿令びれいとなり、王莽おうもう期の初めに厭戎連率えんじゅうれんそつ*1に任命されました。

ですが蔡勲さいくんは、「私はかんの人間だ。りゅう氏とおう氏の二姓に仕えることなどできない」と言って、家族と共に山奥に逃亡しました。

脚注

*1厭戎えんじゅうは漢代の隴西郡ろうせいぐん連率れんそつは漢代の太守たいしゅにあたります。

  • 父:蔡棱さいりょう
    蔡邕さいようの父・蔡棱さいりょうも清廉潔白をむねとし、貞定公ていていこうおくりなされました。

  • 娘:蔡琰さいえん蔡文姫さいぶんき
  • 娘:蔡氏さいし司馬師しばしの妻・羊徽瑜ようきゆの母

従弟

蔡谷さいこく

叔父

蔡質さいしつ


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遁世期

孝行で知られる

蔡邕さいようはもともと孝行心にあつい性格で、病気の母を看病する3年の間、季節の変わり目以外はえりおびを解いたことがなく、寝台で眠らない日が70日に及んだこともありました。

母が亡くなるとお墓の側に粗末な小屋を建て、常に礼に従って行動したため、蔡邕さいようの周りにはうさぎが集まりなつき、連理木れんりぼく*2が生えたと言われています。


また、3世代で財産を分けずに叔父おじや従弟と同居して暮らしたため、郷里の人々は彼の義を高く評価しました。


蔡邕さいようは若い頃から博学で、太傅たいふ胡広ここうに師事しました。また、文章・算術・天文を好み、特に音楽をかなでることを得意としていました。

脚注

*22本の樹木の枝、または1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着ゆちゃく結合したもの。吉兆きっちょうの1つ。

『釋誨(しゃくかい)』を著す

後漢ごかんの第11代皇帝・桓帝かんていの時代[本初ほんしょ元年(146年)〜永康えいこう元年(167年)]のこと。

蔡邕さいようの琴の腕前が優れていることを聞きつけた中常侍ちゅうじょうじ徐璜じょこう左悺さかん五侯ごこう*3は、天子てんし桓帝かんてい)に申し上げ、陳留太守ちんりゅうたいしゅに勅命を下して蔡邕さいよう洛陽らくように呼び出しました。

この時蔡邕さいようは仕方なく洛陽らくように向かいますが、司隷しれい河南尹かなんいん匽師県えんしけんに至ったところで、やまいいつわって郷里に帰ってしまいます。


匽師県(えんしけん)

司隷しれい河南尹かなんいん匽師県えんしけん


この後、蔡邕さいようは人々との交際を断ち、東方朔とうほうさく楊雄ようゆう班固はんこ崔駰さいいんといった人々の著作を読みふけり、様々な言葉を照らし合わせてあやまりを正して釋誨しゃくかいあらわしました。

『釋誨(しゃくかい)』の引用全文
タップ(クリック)すると開きます。

務世公子むせいこうしという者がおり、華顛胡老かてんころうに教えさとして言った。


「聞くところでは、聖人の大いなる宝物を位と言い、ゆえに聖人はじんにより位を守り、財産により人を集めると言う。そうであれば、位があってとうとく、財産があって富裕で、を行い道に達することはの勤めである。

それゆえ伊摯いし伊尹いいん)はかなえを背負ってみずからを売り込み、仲尼ちゅうじ孔子こうし)は露払いの任に関する言葉を吐き、甯子ねいし甯戚ねいせき)には清商せいしょうの歌を歌った逸話があり、百里ひゃくり百里奚ひゃくりけい)は牛を飼育したのである。そもそもこうしたことは、聖哲の普遍のおもむきと古人の明らかなこころざしのなすわざである。

孔子こうしは清らかで和らいだ世に生まれて純粋で穏やかな精神を振るい、典籍に深く思いをせて六経りくけいを大事にしまい、貧困の身に安住して卑賤ひせんの身を楽しみ、世間と共に行動することはなかった。精神を深い境地に沈め、こころざしを高くかかげて無限に包み込み、無形なものを総合的に分析してすでに久しい。

かつて人々の中から抜きんでて群を抜き、香りをただよわせてはなやかさを振りまき、天の宮廷に参内して人倫を順序立て、天下の汚濁をはらって宇宙の塵埃じんあいを清め、明るく光輝く太陽に並べて燃え上がる気を景雲(めでたいことの前兆となる雲)に連ねることができない。時が過ぎて年が暮れ、黙って聞こえない。

私はこれに戸惑い、そこで述べる次第である。

今、聖上せいじょう天子てんし)は聡明で、輔弼ほひつ天子てんしを輔佐する人)は賢明であり、英傑は地にちず、徳を広く修めた者は宰相さいしょうになって封地を分け与えられ、才能があり余っている者は栄華と高貴さを身に備えて賜与を受ける。どうしてまた道を迂回して到達することを求め、昇降して容認されようとし、当世の利益を求めて確固たる功績を挙げ、一族をこの時代に栄えさせて、不滅の足跡を残さないのか。

そもそも貴方はただ1人、いまだそのことに思いをせないのか。なぜ貧しく卑賤ひせんな状態にとどまって、栄華を極めて高貴な状態に達しないのか」


これを聞いた華顛胡老かてんころうは、尊大に笑って、


務世公子むせいこうしのような者は、いわゆる曖昧模糊あいまいもことした利得に目を奪われ、明確な損害を忘れて必ず成功すると思い込み、失敗する可能性を無視する者に過ぎない」


と言う。

すると務世公子むせいこうし華顛胡老かてんころうを凝視してたもとをまとめ、「なぜそのようなことを言うのか!」といきどおって聞き返した。

華顛胡老かてんころうは、「まあ座れ、君にその理由を解き明かすとしよう」と言って次のように話した。


「昔、天地の始めから君臣関係がはじめて起こり、羲皇ぎこう伏羲ふくぎ)の大いなる安寧の世ととうぎょうしゅん)の志高の時代が存在し、三代(いんしゅう)の隆盛にも清明の気風があった。さらに五伯ごはく春秋しゅんじゅうの五覇)はおとろえようとするものをたすけ、慰撫いぶすることにつとめた。

それ以降、天網てんもう(悪人や悪事を逃さないように天が張りめぐらしたあみ)はゆるみ、人紘じんこうゆるみ、王道は壊れ、太極は崩れ、君臣関係は崩壊し、上下関係は瓦解した。

ここにおいて知恵者は詐術をろうし、遊説家ゆうぜいかは自説を主張し、武人は軍略を巡らし、戦士は戦闘を習った。そうして雷のように驚かせて風のようにせ、霧のように散り散りになって雲のように広がり、駆け引きを様々に巡らし、時勢に合致した。ある者は一計を案じて一万金を手にし、ある者は朝食前の時間に弁舌を振るって瑞珪ずいけいたまわった。例えば、連衡策れんこうさくを説いた張儀ちょうぎ六国りっこくせいえんかんちょう)の宰相さいしょうの印を帯び、合従策がっしょうさくを説いた蘇奏そそうが並べたじゅは光り輝いたのである。

高貴なこと勢い盛んであり、富貴なこと限りなく、巧智を頼みとして機会を得、それによって危険を忘失する。そもそもはなは根元から離れてしぼみ、えだみきから離れて枯れ、女は容姿を整えて淫乱になり、士人は道理にそむいて罪を犯す。

人はその満ち足りたことを誹謗ひぼうし、神はその邪悪なことを憎悪し、利益を掴む瑞緒が芽生えた途端に害へと向かう兆候が見られる。卑賤ひせんの身で車を並べ、夭折ようせつしてわざわいが降りかかり、その屋根を大きくして、その家を覆って暗くしてしまう。

それゆえに天地は閉ざし、聖哲は身を潜め、石門の門番は朝の門の開閉を守り、長沮ちょうしょ桀溺けつできは2人で耕作し、顔歜がんしょくあらたまみがいていない玉)を抱え、蘧伯玉きょはくぎょくは生を保ち、孔子こうし斉人せいひとが楽人を贈ると去り、また、雍渠ようきょえい霊公れいこうの車に陪乗ばいじょう(同乗)すると、えいでの地位を捨てて他国に去った。

そもそも君主に対して傲慢ごうまんな態度を取り、国家に盾突いたりしようか。正義は傾けくつがえすことは出来ないのである。


また私は次のように聞いている。

冬至に太陽が最も南に至ると黄鍾こうしょうの音律に応じ、北東の風が吹き魚が氷の上にのぼり、蕤賓ずいひんの音律が響くと陰爻いんこうが1つ生じる兆候がきざし、蒹葭けんか(スダレヨシとアシ)が青々と生い茂り光る露が凝固して霜に変化する。また、寒さと暑さが互いに押し合い、陰陽が代わる代わるおこり、運が極まれば変化し、治と乱が互いに受け継ぎ合う。

今、大漢だいかん陶唐とうとうぎょう)の偉大な功績を引き継ぎ、天下の無残な災厄を洗い流し、地を覆い隠す天の立派さを高め、あまねく大地の基礎を切りひらいている。皇帝の道が広く行き渡って、皇帝の道はあきらかとなり、整然と秩序を守っている民草は、甘味を口に含んで旨味を吸っている。六合りくごう(天・地・東・西・南・北という天下の万物)を点検して、和らぎ楽しめるようにし、百官はそれぞれ自分の職務をうやうやしく務めて、聖なる君主は宮殿の2本の柱の下で無為のままで天下は治まっている。君臣関係はうやうやしく、公正さによりその状態を守り、威儀の盛んな多くの士人は、礼服を着て赤白色の佩紐はいじゅうを身につけ、地上を進むおおとりが階に満ちるように朝廷に集まり、群れ集まったさぎが宮中に満ちあふれるように朝廷に仕えた。

これを例えるならばちょうど鍾山しょうざん崑崙山こんろんさん)のぎょく泗水しすいの石のような賢臣が多く、それらの珪璧けいへきを積み重ねても満ち足りるようなことはなく、浮磬ふけいの石を採集しても尽き果てることがないほど人材が豊富なようである。

先頃、洪水の原因を取り去って人々が四方の土地に集い、しゅう武王ぶおういん紂王ちゅうおうを討つという武功を挙げて武器が収められ、獫狁けんいんが追い払われ、尹吉甫いんきつほが宴会で楽しみ、城濮じょうぼくの軍勢に勝利してしんの軍勢が凱旋がいせんした。

それゆえ事が起こると、みのと笠を共に身につけて、甲冑を貫いてほこを掲げ、職務に従事しないのである。その一方で、事が起こらなければ帯を延ばしてび飾りをゆるめ、ぎょくを打ち鳴らしながら歩き、綽々しゃくしゃくとした態度で余裕を持っている。


そもそも代々の臣下・名門の子弟・近侍の臣の一族は、天はその幸福を高め、君主はその俸禄を増し、胸中はゆったりと落ち着き、爵位が自然とついてまわり、あごひげを整えほおひげをおさめ、官位を余らせ高貴な身分に身をゆだねる。

彼らが栄達出世することは、傾きに従って玉を転がすようだといっても、その簡便さに例えるには足らない。後退し、また前進するといっても、その容易さに例えるには足らない。彼らは男ごとに群を抜いた才能があり、人ごとに智恵があると思い込んでいる。

子供は疑問を徳をそなえた老人に問おうとはせず、愚か者ははかりごとを先生にあおごうとはしない。心は高貴な身分を守ることに執着しゅうちゃくせず、気持ちは満ち足りていることを維持するために何もしない。燦然さんぜんと輝くのは華やかなものである。賢明な人物は物静かで、安寧するところを見失わない。

これに対して、物狂おしく心が揺れ動いて感情をき乱し、貪欲な者は財貨にじゅんじ、おごり高ぶる者は権勢に死ぬのである。これらの事をあおぎ見て、体は落ち着かず心は思いわずらう。満ち欠けの効果に暗く、増減の理に迷い、駑馬どば(のろい馬)を舗装された道路にせ、駿馬を恋い慕ってますます駆け、外戚がいせきの邸宅の門にひれ伏し、天子てんしの側近にはべる貴人の栄誉に助けをう。

栄誉の獲得はいまだにかなわないのに、彼らと共につまづき倒れ、軽い場合は連座の罪に問われ、重い場合は族誅ぞくちゅうされる。前方の車がひっくり返っているのに、後方の車はなお、その軌道をたどってせる。かつてのわざわいかんがみることにより、おそれをいだくことは無い。

私はそれを痛ましいと思い、どうしてそのようになるのかと思う。天は高く地は厚いが、用心のために身をかがめて抜き足をする。うらみはどうして明らかなところだけから起ころうか。わざわいは思ってもいないところに生じるのであれば、戦々恐々として必ずその間違いをつつしむべきである。


その上、世の中が自分を認めてくれるのであれば行動を起こすということは聖人のおしえである。世の中から見捨てられるのであれば、隠れるというのは至って従順な身の処し方である。

そもそも九河きゅうがの水が満ちあふれれば、一介の土くれでは防げない。百万人の兵士には、1人の勇者では対抗できない。今、あなたは匹夫に求めるのに宇宙を清めるようにとしているが、どうして水害と旱魃かんばつが起こったことによりぎょういん湯王とうおうの罪を問うことができようか。また、弱々しい煙や炎が消えることを心配しているが、どうしてまぶしく輝く光を掲げる必要があろうか。

しかも、そもそも地震が起ころうとすると樞星すうせいはまっすぐになり、井戸に影が映らなければ肉眼では分からない日食が起こり、君主がだらけていると月が月末に西方に見え、諸侯とおうがかしこまっていると次は1日に東方に見える。これによって君子は微細な事柄をし広げて顕著な事柄に通達し、露を踏んで暑さを理解するのである。

時が進めば行き、時が止まれば止まり、盛衰と満ち欠けは、天の法則にのっとる。それにより泰卦たいか(六十四卦の1つ)が出て開通することを良しとし、それを共に否卦ひかが出て閉塞する状態にいることもできる。天の法則を楽しみ自分の運命を知り、精神を保持して自分のしたいようにする。多くの車が険しい道を列をなして走っているが、どうしてそれらの車と軌跡を共にできようか。

私は、危難に思いをせてゆったりと構え、そのため卑賤ひせんの身にあっても恥じる事は無い。そしてまさに、典籍の崇高な道をせ、仁義の淵ややぶで休息し、周公旦しゅうこうたん孔子こうしの邸宅を何回も訪れ、儒家じゅか墨家ぼくかに会釈して友人になろうとする。これを伸ばせば四方の彼方を照らすのに十分であるが、これを収めれば何を身につけているのか誰にも分からない。

もし千載一遇の幸運に恵まれ、神霊の(お眼鏡)にかなえば、天の門である閶闔しょうこうを開き、天上の大道で車に乗り、花の車蓋しゃがいようして皇樞こうすう天子てんしを象徴する星)を捧げ持ち、玄妙な計策を聖徳なる天子てんしの耳に入れ、太平を実現する方策を天下に申し述べよう。それによって計策が時勢に合いはかりごとが聞き入れられるのは、私の意図の通りである。もし勲功が立たなければ、私の罪である。亀と鳳凰ほうおうに例えられる賢人は山に隠れ、きりつゆに例えられる暗闇は取り除かれず、荒れ地に躍り上がってただその愚かさを示すだけである。

私を知らない者は、あるいはこれを迂遠うえん(実際の用に向かないさま)であると言うだろう。業を修め真実に思いをせるに、これを捨て去って一体どこに行くのであろうか。私は静かに命を待ち、いとうことなく変わらないままでいる。そして、百年の後にその墓に身を寄せよう。幸運にも称賛を得られれば、天の導きである。知られなかったのであっても、自分の罪過ではない。

昔、伯翳はくえい伯益はくえき)は鳥の声をすべて理解し、葛廬かつろは牛の鳴き声を判別し、董父とうほ拳龍かんりゅうという氏をたまわり、奚仲けいちゅうは車のくびきながえの先につけ、牛馬の首にあてる横木)とながえ(馬車・牛車ぎっしゃの前方に平行に出した二本の棒。その前端にくびきを渡し、牛馬をつないで車を引かせる)の作製に徳をもっぱらにし、倕氏すいしは巧みな技術者として国政を盛り立て、造父ぞうほ驊騮かりゅう(名馬)をぎょし、非子ひしは優れた馬の良き飼育人であったため封地を授けられ、狼瞫ろうじんは囚人を捕らえた功績を持って車右しゃゆうに任命され、弓父きゅうほは弓の製作に精神を傾け、佽非じひ長江ちょうこうの流れに身を投じて勇気を明らかにし、吾丘寿王ごきゅうじゅおう格五かくご(すごろく)が得意で立身の基礎を作り、東方朔とうほうさくは笑い話や演戯により寵愛ちょうあいを求め、上官桀じょうかんけつは車のほろを支えることに力を注ぎ、桑弘羊そうこうようはかりごとを巡らし宰相さいしょうの地位を得た。

しかし、私はこれらの人々の足跡を踏襲できないので、あらたまみがいていない玉)を抱いてのんびりと気ままに暮らしているのである」


ここに至って、務世公子むせいこうしは首を上げて階より降り、忸怩じくじたる思いを抱いて退出した。華顛胡老かてんころうは眉毛と目の間を上げて笑みを浮かべて琴を引き寄せ、


「我が心を鍛えて太清たいせい(天)にひたし、けがれをすすいで正しい精神を保つ。和らいだ気持ちが行き渡り精神は安寧となり、感情が落ち着いて心は高くそびえ立ち、欲望が消えて生じなくなった。宇宙を超越して世俗を忘れ、はるか遠方に身軽に1人で向かう」


と歌った。

脚注

*3 単超ぜんちょう徐璜じょこう具瑗ぐえん左悺さかん唐衡とうこうの5人の宦官とこと。桓帝かんていに協力して外戚・梁冀りょうき誅殺ちゅうさつした功績により、5人揃って列侯れっこうに封ぜられた。


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第1仕官期

橋玄の辟召に応じる

建寧けんねい3年(170年)、司徒しと橋玄きょうげんは、蔡邕さいよう司徒府しとふ辟召へきしょう*4して大変にうやまって待遇しました。

その後蔡邕さいようは、地方に転出して河平長かへいちょうに任命されます。

脚注

*4大将軍だいしょうぐん三公さんこう九卿きゅうけい太守たいしゅ県令けんれいなどの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。この制度によって、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができた。

『六経(りくけい)』を校定する

さらに中央政府に徴召ちょうしょう*5されて郎中ろうちゅうを拝命した蔡邕さいようは、東観とうかん*6で秘蔵書の校訂を行いました。

この時蔡邕さいようは、これらの書(経籍けいせき)が余りにも古いため、文字の間違いも多く誤った解釈をしてしまう恐れがあるとして、

  • 五官中郎将ごかんちゅうろうしょう堂谿典どうけいてん
  • 光禄大夫こうろくたいふ楊賜ようし
  • 諫議大夫かんぎたいふ馬日磾ばびつてい
  • 議郎ぎろう張馴ちょうじゅん韓説かんえつ
  • 太史令たいしれい単颺ぜんよう

らと共に上奏して、六経りくけいの文字を正しく校定*7することを願い出ます。


霊帝れいていの許可を得た蔡邕さいようは、みずから朱書きした文字を職人に刻み込ませて、太学たいがくの門の外にを建立させました。これを熹平石経きへいせきけいと言います。


熹平石経(きへいせきけい)

熹平石経きへいせきけい
「特別展 三国志」東京国立博物館
2019年7月9日〜9月16日


熹平石経きへいせきけいが建立されると、街路は1日に千余両もの車で埋め尽くされ、後学こうがくの者はみなの文字を書き写し、経典けいてんの正しい文字を知ることができるようになりました。

脚注

*5臣下が推薦した人材を、天子(てんし)が直接招聘しょうへいして任用する制度のこと。

*6洛陽城らくようじょうの東側に位置する書物を保管・管理していた場所のこと。

*7古典などの異同や誤りのある本文について、他の伝本・資料と比較・検討して、本来あるべき形を特定すること。

「三互の法」の廃止を上奏する

これより以前、州郡の長官たちがお互いに党派を組んで不正を行っていたことから、

  • 自分の出身の州・郡・県には任官できない。(本籍回避)
  • 異なる州・郡・県の家が婚姻を結んだら、お互いの州・郡・県には任官できない。(親族回避)
  • 異なる州・郡・県の出身の二者が、同時期にお互いの州・郡・県には任官できない。

という「三互さんごほう」が制定されていました。


その後「三互さんごほう」の禁止事項は次第に細かくなって人材の選任に支障を来すようになり、幽州ゆうしゅう冀州きしゅうでは長らく欠員が出たままとなってしまいます。

そこで蔡邕さいようは、上疏して言いました。


幽州ゆうしゅう冀州きしゅうは近年の兵乱と飢饉ききんのため民草は寄る辺なく、官吏たちは新たな任官者を心待ちにしておりますが、三府さんふによる選挙は月を越えても定まりません。諸州の刺史ししの中で力量があって相互に交代させ得る者たちは、刺史ししの任期と三互さんごほうの規定にかかわらず、選定していただきますよう願います」


ですが、この蔡邕さいようの上奏は裁可されませんでした。

蔡邕の上奏文全文
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伏して見ますに、幽州ゆうしゅう冀州きしゅうは元々鎧と馬の産地でしたが、近年の兵乱と飢饉のために次第に枯渇しております。今、民草は寄る辺なく、万里の広さを持つその地域は物寂しくなり、官職に欠員のあるまま時を経て、官吏たちは首を伸ばして新たな地方長官に期待を寄せておりますが、三府さんぷによる選挙は月を越えても定まりません。

わたくしはいつもそのことを奇怪に思っておりますが、論者は「三互さんごほうで禁止されている事柄を回避するためである」と申します。全国の13州のうち、11州の出身者に「三互さんごの禁」があるならば、幽州ゆうしゅう冀州きしゅうの2つの州の出身者を任用すべきです。

あるいはまた、2つの州の士に任期を限定すれば、ぐずぐずと遅れ時宜じぎ(タイミング)を失うでしょう。

わたくしが考えますに、「三互さんごの禁令」は禁の中でもゆるいものであります。今、ただ天子てんしの威光を重ねて強め、その取り締まりの規則を明らかにすれば、在官者はどうしていましおそれないでおられましょうか。それなのに、これといった理由もなく「三互さんごほう」をもうけ、自分から任用のための障害を生み出すことがありましょうか。

昔、韓安国かんあんこくは刑徒の身から登用され、朱買臣しゅばいしん卑賤ひせんの身から立身しましたが、共に才能が優れていることによって出身地の太守たいしゅとなりました。また、張敞ちょうしょうは亡命者でしたが、抜擢されて要衝の州の長官をさずけられました。どうしてまた「三互さんごほう」をかえりみて遵守し、こうした劣った制度を引き継ぐことがありましょうか。

三公さんこう幽州ゆうしゅう冀州きしゅうの1つの州が要衝にあたり、長官を速やかに決定すべき場所であることを、明らかに理解しておりますので、禁令を越えて才能ある者を採用し、それによって時世の閉塞へいそくした状況を救うべきであります。ところが諫臣かんしんの節義をかえりみず、かりそめに些細ささいとがを避け、任用が遅滞して適材を失っております。

わたくしが願いますに、陛下におかれましては、上は先帝にのっとり、近年制定された禁令(三互さんごほう)を除き、諸州の刺史ししの中で力量があって相互に交代させ得る者たちは、刺史ししの任期と「三互さんごほう」の規定にこだわることなく、その中から選定して下さいますように。

霊帝を諫める

霊帝れいてい鴻都門こうともん下に諸生を集める

以前から学問を愛好していた霊帝れいていは、みずか皇羲篇こうぎへん全50章をあらわします。

また、もともと経学けいがく儒教じゅきょう)を重んじて人材を招いていましたが、次第に文章や鳥書ちょうしょ篆書てんしょ*8が得意な者たちを招くようになり、その人数は数十人に及びました。


侍中祭酒じちゅうさいしゅ楽松がくしょう賈護かごらが品行が優れず権勢を求めるやからを数多く招き、洛陽城らくようじょう南宮なんきゅう鴻都門こうともん下に集めて各地の風俗や民間の些細な事柄を述べさせると、霊帝れいていはこれを大変喜び、彼らに破格の位を与えました。

また、商人でありながら宣陵せんりょう桓帝かんていの陵墓)に服喪した者が数十人おり、霊帝れいていは彼らをことごと郎中ろうちゅう太子舎人たいししゃじんに任命しました。

脚注

*8鳥書ちょうしょ篆書てんしょ共に書体の名前。

蔡邕さいよう諫言かんげん

ちょうどこの頃、雷と突風が起こって樹木を傷つけ引き抜き、地震やひょう蝗害こうがいが相次いで発生します。また、鮮卑せんぴが辺境に侵攻したことにより、民衆に多大な労役が課されました。


熹平きへい6年(177年)7月、霊帝れいていは制書*9によって天譴てんけん(天罰)を受けた自分の罪過を挙げ、群臣に施行すべき事柄を述べさせました。

これに蔡邕さいようは、次のように上奏します。


「季節の節目には巡礼を行うべきであり、皇廟こうびょう祭祀さいし辟雍へきようで行う儀式は、天子てんしの大切な仕事です。祖先をうやまわず、些細ささいな理由で国家の祭祀さいしを取りやめたりするから、天災や奇怪なできごとが起こるのです。

また、古来から推挙される資格があるのは孝廉こうれん・賢良・文学に優れた人物のみです。書画やに優れているからと言って、国政に関与させてはいけません。

先日、宣陵せんりょうに服喪した小人を太子舍人たいししゃじんに任命しましたが、先帝の親族でもない者に陵墓を守らせるから盗掘が起こるのです。そのような者たちを太子舍人たいししゃじんにしてはいけません」


この上奏を受けた霊帝れいてい蔡邕さいようの意見を聞き入れ、なまけていた祭祀さいしを再開し、宣陵せんりょうに服喪した者たちを太子舍人たいししゃじんから外して県丞けんじょう県尉けんいに任命しました。

蔡邕の上奏文全文
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わたくしが伏して陛下のご意向のしたためられた制書*9を拝読しますに、しゅう成王せいおうが吹きすさぶ風にって、その原因を執事しつじ(事務官)に尋ね、しゅう宣王せんおう旱魃かんばつって、つとはげんでつつしおそれたと言いましても、陛下の制書*9に加えることはございません。

わたくしが聞くところでは、「天が災異を降すのは、地上のあらゆる現象を原因として起こる」と申します。

雷がしばしば発生するのは、ほとんどは刑罰が煩多であるために生ずるものです。風というものは天の号令であり、人を教え導くためのものです。

そもそも明らかに上帝じょうていに仕えれば、自然と多くの幸福がもたらされ、宗廟そうびょうに尊敬の念を捧げれば、祖先の神霊の守りが現れます。国家の大事は、誠に祭祀さいし典礼てんれいを第一とし、それは天子てんしの御身がうやうやしく仕えるべき対象であります。

わたくし宰相府さいしょうふにおりました頃から朱衣しゅい(祭官)に任官されますまで、気を五郊ごこうに迎えましたが、車駕しゃが(陛下)は迎気のためにみずから外出されることはまれで、季節に応じた祭祀さいしに尊敬の念を捧げる行為を度々有司ゆうし(担当の役人)に委任され、みずからの行為に対する天の譴責けんせき(悪い行いや過失などをいましめて責めること)に対して罪をびることがあっても、なおもおろそかにしておられます。それ故、大いなる天はよろこばれず、この諸々もろもろの災異をあらわしたのです。

鴻範五行伝こうはんごぎょうでんに「政治が正道に反し徳が隠れれば、その風は屋根をあばき木を折る」とございます。またこんを地の道とし、周易しゅうえきでは「地の徳にかなった態度を安貞あんてい(安らかで正しい)としております。陰の気が盛んであれば、静めるべきであるのにかえって動き、道理として下位の者が叛逆はんぎゃくすることになります。

そもそも権力が上位の者のもとになければ、ひょうが物を傷つけ、政治が苛酷かこくであれば、虎や狼が人々をらい、為政者が利益をむさぼり民を傷つければ、いなごが農作物を痛めます。

去る6月28日、太白たいはく(金星)が月と相迫り、軍事活動を行うことはこれを憎むべき状況になりました。鮮卑せんぴが辺境を侵犯するのは今に始まったことではなく、今軍隊を出すことは、いまだにその利を見出せません。このような軍事行動は、上は天文の運行に違い、下は人事に逆らっております。

陛下におかれましては、誠に様々な意見を広くご覧になられ、その中で安全な方策に従うべきであります。わたくし憤懣ふんまんやるかたなく、つつしんで実施すべき7つの事柄を箇条書きにしてしたためます。


第一、

明堂月令めいどうがつりょうに、「天子てんし四立しりゅう(立春・立夏・立秋・立冬)および季夏きか(6月)の節に五帝ごていこうに迎える」とあります。

この祭祀さいしは、神気を導いて豊年という幸福を祈願するためのものです。また、祖霊をまつ清廟せいびょう祭祀さいしを行い、往事をしのんで孝行恭敬の心を示し、辟雍へきように養老の礼を行って、人々に礼による教化を示すことは、みな帝王の大業であり、代々の天子てんしつつしんで受け継いできたものです。ところが有司ゆうし(担当の役人)はしばしば血縁関係の薄い諸侯の葬儀、宮中における出産、および吏卒りそつの病気や死去を理由に、祭祀さいしの執行をたびたびみ避けております。

密かに見ますに、南郊なんこう祭祀さいしにおける天の祭りは、いまだかつて廃止されておりませんが、その他の祭祀さいしについては、とかく異議を唱えております。どうして南郊なんこう祭祀さいしいやしくその他の祭祀さいしが尊いのでしょうか。

孝元皇帝こうげんこうてい前漢ぜんかん元帝げんてい)の策書に、「礼の最も尊いものとして、祭祀さいしより重いものはない。心を尽くして親しく行い、それによりうやうやしさを示すためのものである」とあります。また元和げんわ年間(84年〜87年)の故事でも、章帝しょうていはまたいにしえの典籍に言及しております。

前後して下された制書*9は、心をはかることねんごろでありましたが、近年来、制度を改めて祭祀さいしの執行を太史たいしに委任し、礼の尊さの大いなることを忘れて禁忌きんきの書物に心をゆだね、些細な事柄をこだわり信じて、大いなる典礼を傷つけております。

礼記らいきによれば、妻妾さいしょうが出産する際には、斎戒さいかい(飲食や行動をつつしんで、心身を清めること)すれば側室(脇部屋)の門には入りませんが、出産にあたって祭祀さいしを廃止するという文言はございません。また、宮中で死者があれば、3ヶ月間祭祀さいしを行わないというのは、士や庶民のような狭い家屋に一緒に暮らしている者に対して言っているに過ぎないのです。

どうして広大な皇宮を持ち、多くの奴婢を抱える陛下のことを申しているでしょうか。今から斎戒さいかいの制度は、旧来の典籍のようになさるべきであります。それにより、願わくば大風や雷の災異が示す天譴てんけん(天罰)におこたえになられますよう。


第二、

わたくしが聞くところでは、国家が興隆しようとすると、しばしば至言しげん(事物の本質を適切に言い当てた言葉)が聞かれ、内には自分の政治の得失を知り、外には民の心情をうかがうと申します。それ故、先帝(桓帝かんてい)は聖明な天子てんしとしての姿をそなえていながら、なおも広く政治の得失を求めたのです。また先帝(桓帝かんてい)は災異の発生に伴い、隠者を招聘しょうへいし、賢良けんりょう方正ほうせい敦朴とんぼく有道ゆうどうの選挙を尊重し、峻烈な言葉と厳しい諫言かんげんは、朝廷に絶えることがありませんでした。

陛下が親政されて以来、連年にわたって災異が発生しておりますが、いまだに特別な察挙さっきょと広範に人材を求める選挙のご命令を聞きません。誠に昔をかえりみて旧来の事跡を述べ修め、忠義を抱いている臣下に狂おしいほどの実直さを述べさせて、易伝えきでんに「政治が正道に反して徳が隠れた」とある言葉を紐解かれるべきであります。


第三、

そもそも賢人を求める道は、必ずしも1つだけではありません。賢人は、あるいは徳によって現れ、あるいは言葉によって評判が上がります。

近頃、朝廷に仕える士人は、かつて忠信によって賞賛されることがなく、常に誹謗ひぼうの罪を着せられ、ついには下々の者に口を閉ざさせ、正しい言葉を考えることをなくしました。

郎中ろうちゅう張文ちょうぶんは以前、ただ1人狂おしいまでの直言を述べ尽くしましたが、陛下はその言葉をお聞き入れになり、三司さんし三公さんこう)を叱責されました。これによって臣下は胸のつかえがなくなり、民草は喜悦しました。

臣愚わたくしが考えますに、陛下にはどうか張文ちょうぶんを枢要官に抜擢して、忠誠を尽くすことを奨励し、天下に名声を示して、広くご政道をお聞きになるべきであります。


第四、

そもそも司隷校尉しれいこういと諸州の刺史ししは、不正を監察して是非を分別するための官職であります。伏して見ますに、幽州刺史ゆうしゅうしし劉虔りゅうけんは、それぞれ国家のために尽くして姦悪なものを憎む心を抱き、楊喜ようきたちによる糾察きゅうさつ(罪状を取り調べて明らかにすること)は、その効果が最も上がっております。

その他の者はすべて、糾察きゅうさつにあたって法をねじ曲げており、職務に堪えません。ある者は罪を犯し傷を抱き、下の者とやまいを同じくしていても、法度はっと弛緩しかんして、互いに悪事を摘発し合わず、公府こうふ台閣たいかく(政府)もまた黙るばかりです。

熹平きへい5年(176年)の制書*9では、議して8人の使者を派遣し、また、三公さんこうに民情を反映した民間の歌謡を上奏させました。この時、国家のために尽くす者は喜悦してこころざしを抱き、邪悪な者はうれおそれて顔色を失いましたが、いまだにそこで議された事柄が沙汰止さたやみとなった原因をつまびらかにされてはおりません。

昔、劉向りゅうきょうは、「そもそもためらいがちに計略を立てる者は、悪人たちに門を開き、優柔不断な気持ちを養う者は、讒言ざんげんの口を招く」と上奏しました。今、はじめて善政がかれたことを聞き及びましたが、たちまちにして再び悪政へと変更され、そのことは天下の人々に朝政の善悪をはからせるのに十分であります。

陛下におかれましては、過去にさかのぼって8人の使者を派遣する案を実行に移し、不正を摘発し、あらためて忠心にあつ清廉せいれんな者を選任して、賞罰を公平にすべきです。三公さんこうは、年末にその年の殿最でんさい(人事考課)を評定し、に国家のために尽くす幸福と私利を追求するわざわいを知らしめれば、数多くの災異を招いている原因を取り除くことができると願います。


第五、

わたくしが聞くところでは、いにしえの人材登用では、必ず諸侯に1年ごとに人材を献上させたと申します。孝武皇帝こうぶこうてい前漢ぜんかん武帝ぶてい)の世には、郡より孝廉こうれん察挙さっきょし、また賢良けんりょう文学ぶんがくの選挙がありました。ここに至って名臣を輩出し、文武が共に興隆しました。

かんが人材を登用する方法は、武帝ぶていの世から始まった孝廉こうれんという常挙、賢良けんりょう文学ぶんがくなどの制挙という数種類だけです。そもそも書画と辞賦は小さな才能であり、国家を匡正きょうせい(間違っているものを正しく直すこと)して政治を治めるために、いまだにその能力はありません。

陛下は即位された当初、まず経学を渉猟しょうりょう(多くの書物を読みあさること)されましたが、やがて国政の合間に詩文をお読みになり、いささか御心みこころを遊ばされました。それらはまだ博弈はくえき(遊び)の代用にはなり得るものですが、天下を教化し人材を登用する根本の道ではありません。ところが諸生は利を競い合い、詩文の作者はたくさん生まれました。

その中でもまともな者は、少しは経書の訓戒や婉曲えんきょく風刺ふうしの言葉を引用しておりますが、下の者は俗な言葉を連ねて対句を作り、まるで芸人のたぐいのようです。ある者は既成の文章を窃盗せっとうし、一角ひとかどの作者を気取っております。

わたくしみことのり洛陽らくよう城内の盛化門せいかもんで拝受するたびに、それに応じて文章を上奏し、等級づけられて及第しておりますが、いまだ及第に達しない者も、また仲間に従ってみな抜擢されています。

すでに彼ら文学で登用された者に恩恵を与えられておりますので、また撤回することは困難でしょう。しかし、彼らの俸禄を保障するだけで恩義は十分であります。それゆえ、彼らをまた人々を統治したり、州郡に出仕させたりするにはおよびません。

昔、孝宣皇帝こうせんこうてい前漢ぜんかん宣帝せんてい)は儒者を長安ちょうあん城内の石渠閣せききょかくに集め、章帝しょうていは儒者を白虎観びゃっこかんに集め、経書の異同を通じさせ、経文の義を解釈させました。その事業は優れた偉大なものです。

しゅう文王ぶんおう武王ぶおうの道は、2つの会議の結果に従うべきり所があります。もし小さな能力と些細ささいな善行に見るべき点があるとしても、孔子こうしは「天下国家の遠大な政治を遂行するには、小道では行けなくなることを恐れる」と述べております。君子は、それゆえに大道である儒教を志すべきなのです。


第六、

墨綬ぼくじゅを帯びる長吏(県令けんれい)は、職務として人々を統治することをつかさどっております。そのため、彼らはみな恩恵や利益を民に施すことを成績とし、在任期間を功労とすべきであります。

ところが現在は、在任中に功績をかえりみる事はなく、中央政府に帰った者は多く徴召ちょうしょう*5されて議郎ぎろう郎中ろうちゅうを拝命しております。もし力量が優れて立派であれば、その者を冗散官じょうさんかん(特定の仕事のない官職)に就けるべきではありません。

また、仮に罪を犯しているのであれば、当然その者に対して刑罰を厳格に適用すべきであります。どうして罪に伏し取り調べをおそれているにもかかわらず、かえって転任を求め、互いに真似をして善悪のけじめが十分にならないことがあって良いものでしょうか。

先帝の旧典きゅうてんには、いまだかつてこのような事柄は見えませんので、すべて断ち切り、真偽を明らかにすべきであります。


第七、

して見ますに、陛下はすべて桓帝かんていの陵墓たる宣陵せんりょうに服喪した「孝子こうし」を太子舎人たいししゃじんに任命しました。しかし、わたくしが聞くところでは、孝文皇帝こうぶんこうてい前漢ぜんかん文帝ぶんてい)は喪服を36日間と制定し、位を継承した天子てんしで極めて親しい父子の関係にある者でも、公卿こうけいや大官で深い恩義を受けた者であっても、みな情愛を曲げて文帝ぶんていの制度に従い、あえて服喪の期間を越える事はなかったと申します。

今、宣陵せんりょう孝子こうしと呼ばれる嘘偽りの小人は、もとより桓帝かんていの肉親ではありません。また、桓帝かんてい寵愛ちょうあいされた恩義はなく、朝廷に出仕した事実もありません。かような者どもは、いたみ悲しみ思慕しぼしようとしても、その感情はどこから生じるというのでしょう。

ところが小人は、桓帝かんていの陵墓に群れ集まり、名声を得てこうと称されても、行いは心に痛まず、り所はありません。さらに、姦悪な者がその中にまぎれ込むに至りました。

桓思皇后かんしこうごう竇皇后とうこうごう)の祖祭にひつぎを車に乗せたとき、東郡とうぐんで他人の妻を盗んだ者があり、逃れて「孝子こうし」の中におりました。本籍地の県の役人は追跡して逮捕し、賊は罪に伏しました。「孝子こうし」たちの嘘にまみれけがれていること、口にし難いものがあります。

また「孝子こうし」たちは、先に至った者は官を拝命でき、後から来た者たちは排除されました。ある者は何年も陵墓のかたわらの陣屋で墓守をしておりましたが、しばらくの間郷里に帰ったことで任官より漏れ、ある者は他人を自分の代わりに立てましたが、任官の寵栄ちょうえいこうむりました。

そのため「孝子こうし」たちは訴えを起こし朝廷に怨恨を抱き、街道に騒ぎ立てました。故に「孝子こうし」たちから太子舎人たいししゃじん剥奪はくだつし、太子たいしの属官には立派な徳を修めた者を探し出して選任すべきであります。どうして陵墓に集まった悪人どもだけから選任する必要がありましょうか。その不吉なこと、これよりはなはだしいものはございません。

どうか「孝子こうし」たちを郷里に帰らせ、彼らの虚偽を明らかにすべきであります。


光和こうわ元年(178年)2月、蔡邕さいよう諫言かんげんにもかかわらず、霊帝れいていはついに鴻都門学こうともんがくを設置します。

鴻都門学こうともんがくの諸生は、まず州郡や三公さんこう辟召へきしょうされ、地方に転出して刺史しし太守たいしゅ、中央に戻って尚書しょうしょ侍中じちゅうとなり、列侯れっこうに封ぜられる者もいましたが、心ある者はみな彼らと同列となることを恥としました。

脚注

*9恩赦おんしゃ贖罪しょくざいの命令を下す場合などに用いられた天子てんしが下す文書の書式のこと。

光和こうわ元年(178年)の災異

光和こうわ元年(178年)、たびたび怪しげな災異が発生しました。

光和元年(178年)の災異
災異
正月
  • 合浦郡がっぽぐん交趾郡こうしぐん烏滸蛮おこばんが反乱を起こす。
4月
  • 地震があった。
  • 侍中じちゅうの役所の雌鳥めんどりが化けておすとなった。
    全身の羽毛はみな雄鶏おんどりのようになったが、鶏冠とさかは変化しなかった。
6月
  • 黒気が起こり、温徳殿おんとくでんの庭の中に落ちた。
7月
  • 青虹が玉堂の後殿の庭の中に現れた。

これを受け、同年7月、霊帝れいていみことのりを下して蔡邕さいよう徴召ちょうしょう*5し、

  • 光禄大夫こうろくたいふ楊賜ようし
  • 諫議大夫かんぎたいふ馬日磾ばびつてい
  • 議郎ぎろう張華ちょうか
  • 太史令たいしれい単颺ぜんよう

と共に洛陽城らくようじょう内の金商門きんしょうもんから崇徳殿すうとくでんに招き入れ、中常侍ちゅうじょうじ曹節そうせつ王甫おうほに災異や変異を消し去る方法について意見を求めさせました。これに蔡邕さいようは、心を込めて応対します。

蔡邕の進言全文
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洪範五行伝こうはんごぎょうでんによれば、五事ごじ書経しょきょうにある、礼節を守る上での大切な五つの事柄。ぼう・言・視・聴・思のこと)のぼうが恭敬さを欠けば、鶏禍けいかが生じると申します。

宣帝せんてい黄龍こうりゅう元年(紀元前49年)に、未央宮びおうきゅう雌鳥めんどり雄鶏おんどりになりましたが、鳴き声は上げず蹴爪けづめもございませんでした。この年、元帝げんていが即位しておう皇后こうごうを立てております。

初元しょげん元年(紀元前48年)に至ると、丞相史じょうしょうしの家の雌鳥めんどり雄鶏おんどりとなり、鶏冠とさか蹴爪けづめ・鳴き声を備えておりました。この年、皇后こうごうの父の王禁おうきん陽平侯ようへいこうとなり、その娘が正式に皇后こうごうになっております。

哀帝あいていが崩御しますと、王皇后おうこうごう(当時は太皇太后たいこうたいごう)が幼い平帝へいていに代わって政治を行い、王莽おうもう王皇后おうこうごうの甥であることから大司馬だいしばとなり、これに乗じて乱を起こしました。

わたくしひそかに推察しますに、頭は元首げんしゅであり人君のかたちでございます。

今、にわとりの全身はすでに変化しましたが、陛下は変化が頭にまでは至っていない段階で、これをお知りになりました。これは変事が起きようとしているが、不完全なままで終わることのかたちであります。

もしこの異変にしっかりと対応せず、政治を改善しなければ、鶏冠とさかまでもが雄鶏おんどりのものに変わってしまうかもしれず、わざわいもますます大きくなるでしょう。

蔡邕さいよううらみを買う

霊帝れいていはこれらの災異について三公さんこう九卿きゅうけいや士人たちに尋ねましたが、誰からも要領を得た答えを聞くことはできませんでした。

そこで霊帝れいていは、再度蔡邕さいようみことのりを下して内密に忌憚きたんのない意見を求めました。

霊帝の詔・全文
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近頃災異と変異が交互に発生しているが、いまだにその原因となる罪が判明せず、朝廷ではこれを大変危惧きぐしている。また、三公さんこう九卿きゅうけいや士人たちに諮問しもんして忠臣の諫言かんげんを求めたが、みな口を閉ざしてはっきりと意見を述べる者はいなかった。

蔡邕さいようは経学を深淵までおさめていることから、ひそかに特に諮問しもんする次第である。得失を披露ひろうし、政治の重要な事柄を指摘するように。また、ためらって疑念と遠慮を抱くことのないようにせよ。

経学に基づいて詳細に答え、書状を黒い袋の中に収め、封緘ふうかんして奏上せよ。


これに蔡邕さいようは、霊帝れいていの願い通り「災異の原因となっている悪人の実名」をげ、正直に忌憚きたんのない意見を上奏します。

蔡邕の上奏文・全文
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わたくしが伏して思いますに、陛下は聖なる徳が誠に明らかで深く災異の発生を痛み、わたくしの末学を褒めて特にご下問なさいましたが、わたくしは虫けらやありのような才能ですので、その任にかなうものではございません。ですがこれは、誠に心の内をさらけ出し、命を投げ出すほど貴重な機会であります。どうして直言による我が身の災難を省みて、害悪を回避し、陛下に厳しいいましめの言葉をお聞かせしないでおられましょうか。

わたくしが伏して思いますに、様々な災異はすべて国家の滅亡を示すものです。天の大漢だいかんに対する接し方は、ねんごろなことこの上ありません。それ故天は、度々怪しげな変異を発生させ、それによってとがめ責め、人君に自分の罪過を感じ悟らせて、危険を改めて安寧につかせようとしているのです。

今、災禍の発生は、他の場所においてではなく、遠方でも宮殿の門と垣根、近隣では官庁に起こっており、それらのいましめとしての役割は、非常に厳しいと言うべきです。

虹が地上にちて鶏の雌雄が変化する災異は、すべて女性が政治に関与することが引き起こしたものです。以前、(霊帝れいていの)乳母の趙嬈ちょうぎょうは天下にとうとび重んじられました。生前に私蔵する財貨の量は、宮中の倉庫に収蔵されているものに並び、その墳墓の規模は皇帝の陵墓を超え、2人の子は封侯ほうこうされ、兄弟は太守たいしゅに任官して郡をつかさどりました。

続いて永楽門史えいらくもんし霍玉かくぎょくが城壁の中に住み着くねずみのようにおもねって、よこしまな行動を取りました。

今、ちまたでは紛々ふんぷん程大人ていたいじん程璜ていこう)という権勢を振るう者が現れたと言っております。その風説を勘案いたしますに、程大人ていたいじんは国家のうれいになろうとしております。

陛下には、どうか堤防を高く築き、禁令を明確に制定し、趙嬈ちょうぎょう霍玉かくぎょくの悪行を深くお考えになられて、それらを厳しいいましめとしてください。

今、神聖なる陛下の御心みこころは勤め励んで、正邪の分別を明らかにしようとお考えになっております。ところが聞くところでは太尉たいい張顥ちょうこう霍玉かくぎょくに推挙され、光禄勲こうろくくん姓璋せいしょうは貪欲であると申します。また、長水校尉ちょうすいこうい趙玹ちょうげん屯騎校尉とんきこうい蓋升がいしょうは、共に時世におもねって手にした幸福をむさぼり、栄華で裕福なことを十分すぎるほどであります。

彼らは小人が高い位に就くことの罪過に思いをせ、身を退しりぞいて賢明な者に地位を譲ると言う幸福を考えるべきでしょう。

伏して見ますに、廷尉ていい郭禧かくき純粋篤実じゅんすいとくじつ、老齢で徳を有し、光禄大夫こうろくたいふ橋玄きょうげんは聡明で物事に通じ、方正実直ほうせいじっちょくであり、元の太尉たいい劉寵りゅうちょうは忠実で正義を守るものです。彼らをみな謀主にえ、度々諮問しもんすべきであります。

そもそも宰相さいしょうと大臣は、君主の股肱ここうの臣(信頼できる家臣)であります。任務をゆだねて成果を求め、その結果すでに優劣が分かれております。陛下には、どうか小吏の意見を聞き入れて、大臣を官位から退しりぞけて罪を問うことのないようにしてください。

また、尚方しょうほうの工芸品と、鴻都門学こうともんがくの文学作品は、しばらくの間作成を中止し、それによって憂慮ゆうりょの念を示すべきです。

詩経しきょうに、「天の怒りをおそれ、あえてたわむれない」とあります。天のいましめは誠にたわむれるべきではありません。宰相府さいしょうふ孝廉こうれんは、士人にとって最高の察挙さっきょです。

近頃、辟召へきしょうによる任用が横行しているため、そのにない手である三公さんこうを厳しく責めとがめております。ところが今つまらぬ文章により選挙を超えて抜擢し、清託せいたくの門戸を開き、明王めいおうの規範に反し、人々の心は納得しておりませんが、あえて文学を尊重することへの異議を述べる者はおりません。

わたくしは、陛下がえ忍んでこのような風潮を断ち切り、政務全般に思いをせ、天の望みに応じられますよう願っております。聖朝せいちょう(陛下)が御身を厳しく引き締めれば、左右の近臣もまた教化に従うべきとなります。

人々がみずから抑制して、とがめといましめとして天が下す災異をふさげば、天道は満ちているものを削り、鬼神は謙譲なものに幸福を授けるものですから、災異も止みましょう。

わたくしは愚かであるために感激して我が身を忘れ、あえて禁忌きんきに抵触し、上奏文を手づからしたためて詳細におこたえいたしました。そもそも君主と臣下が機密を守らなければ、上には言葉を漏洩ろうえいするいましめがあり、下には命を失う災禍が降りかかります。

陛下にはわたくしの上奏文を隠し、忠義を尽くす吏が姦悪な者から怨みを買うことのないようにお願いいたします。


蔡邕さいようの上奏文を読んだ霊帝れいていは、ため息をついてかわや(トイレ)に立ちました。

この時、宦官かんがん曹節そうせつがその上奏文を盗み見て、その内容を側近に言いふらしたため、蔡邕さいように批判された者たちはみな報復を決意しました。

髡鉗(こんけん)の刑に処される

蔡邕さいよう弾劾だんがいされる

蔡邕さいよう司徒しと劉郃りゅうこうと折り合いが悪く、蔡邕さいよう叔父おじ衛尉えいい蔡質さいしつは、中常侍ちゅうじょうじ程璜ていこう娘婿むすめむこである将作大匠しょうさくたいしょう陽球ようきゅうと不仲でした。

ある時、(蔡邕さいようが批判した)程璜ていこうは、ある人にこう言わせました。


蔡邕さいよう蔡質さいしつは、しばしば劉郃りゅうこう私事わたくしごとで特別の計らいを頼んでいましたが、劉郃りゅうこうが聞き入れないためうらみを抱き、誹謗中傷ひぼうちゅうしょうしようとしております」


これに蔡邕さいようは、弁解の上奏をしますが、


蔡邕さいよう蔡質さいしつ天子てんしに仕える臣にうらみを晴らし、大臣をあげつらって傷つける議論をし、その罪は大不敬にあたり、棄市きし(打首獄門)に処すべきである」


弾劾だんがいされました。

蔡邕の上奏文・全文
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わたくしは召し出されてご下問を受け、大鴻臚だいこうろ劉郃りゅうこうが以前に済陰太守せいいんたいしゅだった時、わたくしが吏の張宛ちょうえんの長期休暇を100日間にするようにと請託せいたくし、劉郃りゅうこう司隷校尉しれいこういであった時、河内郡かだいぐんの吏の李奇りき州書佐しゅうしょさに任用するようにと請託せいたくし、元の河南尹かなんいん羊陟ようちょく侍御史じぎょし胡母班こぼはんを擁護したものの、劉郃りゅうこうが便宜をはからなかったので怨恨えんこんを抱いたという罪状を科されております。

そのため、わたくしは不安にかられて恐れおののき、肝は土にまみれて生死の在処ありかも分からない有り様です。

みずから思い返して考えますに、わたくしは確かに張宛ちょうえん李奇りきについて請託せいたくいたしましたが、羊陟ようちょく胡母班こぼはんに関しては身に覚えがございません。小吏を休暇させるのは、うらみを抱く根本にはなりません。我が一族は羊陟ようちょくと姻戚関係にありますので、どうしてあえて私的なつながりのある者を助けるよう申しましょうか。

もしわたくしたちが互いに劉郃りゅうこうを中傷しておとしいれようとすれば、台閣たいかく(政府)に事の子細を明確に申し上げ、怨恨えんこんを抱くに至った要因を詳細に開陳すべきでしょう。わたくしの心の内にはわずかばかりもやましいところはありませんが、わたくし誹謗ひぼうする書状が外で発せられております。

どうかわたくし劉郃りゅうこうを対面させてお取り調べ下さい。

わたくしは学問によって特別に高く評価され、秘館ひかん(東観)において職務にあたり、御前において筆を走らせ、姓名と容貌ようぼうがわずかに陛下の御心みこころかないました。

今年(178年)の7月、わたくしは召し出されて金商門きんしょうもんおもむき、災異の発生に対する方策について諮問しもんされ、さらにみことのりを下されてご意向を示され、わたくしうながして意見を述べさせました。

わたくしはまことに愚かで、ただ忠を尽くすことを知るだけです。そのためわたくしは、命を投げ出し我が身を忘れ、のちに降りかかる危険を顧みず、ついに公卿こうけいの悪事を誹謗ひぼうして、その対象は陛下の寵臣ちょうしんにまで及びました。

それによって陛下の諮問しもんにおこたえし、災異を消し去り、陛下のために安寧をもたらす計を立てようと考えたためです。

しかし、忠臣の直言はおおい隠すことができず、誹謗中傷ひぼうちゅうしょうがにわかに起こり、それによって疑い怪しまれることになりました。このようなことでは心を尽くす吏は、どうして受け入れられましょうか。

詔書しょうしょが下されるたびに、百官はそれぞれ封事を奏上し、それによって政治のあやまりを改めて天の譴責けんせき(悪い行いや過失などをいましめて責めること)を思い、凶事を排除して吉事をもたらそうと考えます。

ところが陛下に意見を述べる者は、引見にあずかる幸福に恵まれず、たちまちにして身の破滅というわざわいを受けるのです。今や百官はすべて口を閉ざして陛下に直言せず、わたくしの境遇をいましめとしております。このような状況で誰があえて陛下のために忠と孝を尽くすのでしょうか。

わたくし叔父おじである蔡質さいしつはしきりに抜擢され、高位に列しております。わたくしは恩沢を受けて、しばしば諮問しもんにあずかりました。これらのことから論者は、わたくしの家を破滅させようとしています。彼らはまた、隠れた悪事を摘発して糾弾きゅうだんし、国家に利益をもたらそうとする者ではありません。

わたくしは46歳で、孤立無援の身です。忠臣としての名声を残すことができれば、死んでも子々孫々におよぶ栄誉が残ります。

わたくしが恐れておりますのは、陛下が事ここにいたってまた立派な言葉をお聞きになれなくなることです。

わたくしの愚鈍さは、もとよりわざわいにあたります。ただ以前、わたくし諮問しもんにおこたえしたことを、蔡質さいしつは聞き及んでおりませんのに、おとろえ老いた身で捕らえられ、わたくしと連座させられ身の破滅を迎え、ともにおとしいれられております。これは誠にうらめしく痛ましいことであります。

わたくし一度ひとたび牢獄に入れば、当然責めさいなまれて飲章いんしょう匿名とくめいの上奏文)の奏上をうながされることになります。そのような状況におちいれば、正しい言葉や忠義の情を何によって申し上げればよろしいのでしょうか。

わたくしは死期が到来しようとしておりますが、向こう見ずにもみずから意見を述べております。どうか我が身が処刑され、蔡質さいしつが連座をまぬかれますように。それがかなえば、我が身の死ぬ日は蔡質さいしつが改めて生きる年となります。

わたくしは、陛下がお体を大事にして、多くの民のためにご自愛くださいますように祈念しております。


この時、中常侍ちゅうじょうじ呂強りょきょうが「蔡邕さいよう冤罪えんざい」をあわれんで助命を請願すると、霊帝れいていみことのりを下して死一等を減じ、家族と共に髡鉗こんけんの刑(頭髪をって鉄の首枷くびかせをはめる刑罰)に処して、赦令しゃれいがあっても許さないという条件で朔方郡さくほうぐん徒刑とけいにしました。

蔡邕さいよう暗殺の失敗

蔡邕さいようが護送される際、陽球ようきゅうは護送の道に刺客を放って蔡邕さいようを殺害しようとしますが、蔡邕さいようの義に感じ入っていた刺客たちは、みな彼を殺そうとはしませんでした。

陽球ようきゅうはまた、朔方郡さくほうぐんいたる途中に通る州郡の刺史しし太守たいしゅに賄賂を贈って蔡邕さいようを毒殺しようとしますが、陽球ようきゅうから賄賂を受け取った者たちは、逆にその情報を蔡邕さいように伝えていましめました。

こうして暗殺の難を逃れた蔡邕さいようは、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・五原郡ごげんぐん安陽県あんようけんに住みました。


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亡命期

霊帝に許される

蔡邕さいようが以前東観とうかんに勤務していた時、盧植ろしょく韓説かんえつたちと後漢記ごかんきあらわして漢書かんじょの十志の欠をおぎないましたが、流刑の身となったため、これを完成させることができなくなってしまいました。

そこで蔡邕さいようは上書してみずかあらわした十意じゅういたてまつり、巻首の目次を整理して上奏文の左に書き連ねました。これを読んだ霊帝れいてい蔡邕さいようの才能を高く評価し、翌光和こうわ2年(179年)、蔡邕さいようを彼の本籍地の陳留郡ちんりゅうぐんに帰らせることにします。

蔡邕さいようが刑に服してから許されるまで、9ヶ月でした。

呉郡に亡命する

王智おうちを怒らせる

蔡邕さいようが帰途につこうとすると、五原太守ごげんたいしゅ王智おうち蔡邕さいようの送別のうたげを開きました。

うたげも たけなわ となった時のこと。王智おうちが立ち上がって舞いを披露すると、蔡邕さいようにも一緒に舞うように誘いました。ですが、蔡邕さいようはこれを断ります。

この王智おうち中常侍ちゅうじょうじ王甫おうほの弟で、平素からおごり高ぶっていたので、大勢の客人の前で断られたことを恥じ、「刑徒め、私を軽んじるのかっ!」と言い放ちます。すると蔡邕さいようは、黙ってころもを振り払い、その場を立ち去りました。

これをうらみに思った王甫おうほは、「蔡邕さいようは囚人として追放されたことをうらみ、朝廷を誹謗ひぼうしております」と密告します。


ここにいたって蔡邕さいようは、ついに罪に問われることをまぬかれないと思い、紅海こうかい長江ちょうこう沿岸地域)の呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐんに亡命しました。

その後は兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん羊氏ようしを頼って行き来し、12年*10の間、揚州ようしゅう呉郡ごぐんに滞在します。

脚注

*10霊帝れいていに許された179年から董卓とうたくに仕えた189年まで最大でも11年間となる。

琴の音色を怪しむ

蔡邕さいよう兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐんにいた時のこと。

隣人に酒宴に招かれた蔡邕さいようが門の前に着いた時、客人の中に衝立ついたてのそばで琴を弾く者がおり、琴の音色が聞こえて来ました。

蔡邕さいようは門の外でその演奏を聴き、「ああ、何故であろう。この家の主人は私を酒宴に招いたが、この琴の音色には殺気がある」と言って、そのまま立ち去ってしまいます。

取り次ぎの者は驚いて、「蔡君さいくんが門の所までやって来て、立ち去りました」と主人に報告しました。蔡邕さいようを大変尊敬していた隣人は、みずか蔡邕さいようを追いかけて立ち去った理由を尋ねます。

蔡邕さいようがその理由を詳しく話して聞かせると、琴を弾いていた者が言いました。


「私はさきほど弦を打ち鳴らしながら、カマキリが鳴き声をあげるせみを襲おうとしているのを見つけました。せみも気づいているようでしたがまだ飛ばず、カマキリも様子をうかがって一進一退を繰り返しておりました。私の心は、カマキリがせみを殺そうとすることを恐れたのです。どうしてあなたに殺意など抱きましょうか」


これを聞いた蔡邕さいようは、「これですっかり謎が解けた」と言って笑いました。

焦尾琴しょうびきんをつくる

ある時、きりの木をまきとして焼き、飯を炊く者がいました。

火がはじける音で良木であることに気づいた蔡邕さいようは、そのきりの木をゆずり受け、その木から琴をつくります。

そしてその琴は、蔡邕さいようの予想通り美しい音色をかなでました。また、琴の龍尾りゅうびの部分にげた跡が残っていたことから、人々はこの琴を「焦尾琴しょうびきん」と呼びました。


箏(琴)の各部名称

そう(琴)の各部名称

画像引用元:鹿児島の箏(琴)・三味線和楽器教室:桐の音楽院


傅玄ふげん琴賦きんふじょに、

せい桓公かんこうの元に鳴琴めいきんあり、その名を号鍾ごうしょうと言い、荘王そうおうの元に鳴琴めいきんあり、その名を繞梁じょうりょうと言った。司馬相如しばしょうじょの元には緑綺りょくきが、蔡邕さいようの元には焦尾しょうびがあった。これらの琴はすべて名器である」

とあります。


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第2仕官期

董卓に辟召(へきしょう)される

中平ちゅうへい6年(189年)、ついに霊帝れいていが崩御します。

洛陽らくように入って司空しくうとなった董卓とうたくは、蔡邕さいようの名声を聞きつけて彼を辟召へきしょうしますが、蔡邕さいようやまいいつわって出仕しませんでした。

すると董卓とうたくは大いに怒り、「わしの力は奴の一族を皆殺しにできる。蔡邕さいよう仮病けびょうを使うのであれば、長く生きてはおられまい」と言って州郡に厳命し、蔡邕さいよう察挙さっきょして自分の幕府に呼び出します。

蔡邕さいようはやむを得ず董卓とうたくの下におもむくと、董卓とうたくは彼を祭酒さいしゅ(ある官職の筆頭)に任命して大変尊重しました。

また蔡邕さいようは、高第こうだい察挙さっきょされて侍御史じぎょしに任命され、持書御史じしょぎょしに転じて尚書しょうしょに転任し、洛陽らくように向かう途中、3日間のうちに三台さんだい尚書しょうしょ中台ちゅうだい)・御史ぎょし憲台けんだい)・謁者えっしゃ外台がいだい)]を歴任することになります。


その後、巴郡太守はぐんたいしゅに転任されましたが、中央にとどまって侍中じちゅうとなりました。

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董卓を諫める

尚父しょうほと号することをいさめる

初平しょへい元年(190年)、蔡邕さいよう左中郎将さちゅうろうしょうを拝命し、献帝けんてい長安ちょうあん遷都せんとに随従して高陽郷侯こうようきょうこうに封建されます。

またこの時、董卓とうたくの部下(賓客ひんきゃく部曲ぶきょく)が、董卓とうたくいにしえ太公望たいこうぼう呂尚りょしょう)になぞらえて尚父しょうほを号するように勧めました。

これを受けて董卓とうたくが相談すると、蔡邕さいようは次のように答えます。


太公たいこうしゅうを補佐し、めいを受けてしょういん)を滅ぼした功績により、特別にその尊号を称するのです。今、明公めいこう董卓とうたく)の威厳と温徳はまことに高大ですが、尚父しょうほ呂尚りょしょう)になぞらえるのは時期尚早であると愚考いたします。関東かんとう(反董卓とうたく連合)が平定され、車駕しゃが皇帝こうてい)が旧京きゅうけい洛陽らくよう)にご帰還されるのを待ち、その後に議論すべきです」


董卓とうたく蔡邕さいようの言葉に従いました。

身分不相応な行いをいさめる

初平しょへい2年(191年)6月、地震が発生しました。董卓とうたくはその原因について蔡邕さいように尋ねます。

これに蔡邕さいようは、


「地震が発生するのは、陰の気が盛んになって陽の気を侵犯し、臣下が制度を超えて振る舞っているからです。春の郊天こうてん祭祀さいしの時、こう董卓とうたく)は車駕しゃが皇帝こうてい)の先導にあたり、黄金の花・青色の車蓋しゃがい・花びらの描かれた一対の泥よけを備えた安車あんしゃ皇太子こうたいし皇子おうじに許された車)に乗りましたが、天下の人々はこれを相応ふさわしくないと思っております」


と答えました。

すると董卓とうたくは、乗っていた安車あんしゃをやめて皁蓋車そうがいしゃ(黒色の車蓋しゃがいの車)に乗るようになりました。


董卓とうたくは、蔡邕さいようの学識を重んじて手厚くもてなし、酒宴を開くたびに蔡邕さいように琴を演奏させて座を盛り上げました。

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亡命を考える

蔡邕さいようは、常に世の中の害を除いて益のあるように願い、董卓とうたくを補佐することでその実現をしようと考えていました。

ですが董卓とうたくは人の意見に従わないことが多かったので、蔡邕さいようはそのことを不満に思い、従弟の蔡谷さいこくに言いました。


董公とうこう董卓とうたく)は気性が激しく非道を行い、ついには救うことができないであろう。私は東方の兗州えんしゅう出奔しゅっぽんしようと考えている。もし兗州えんしゅうに行くことが難しければ、しばらくの間山東さんとうに逃れて機会を待とうと思うが、どうだろうか」


すると蔡谷さいこくは、


「君の容貌ようぼうは常人と異なっているので、道行くたびに君を見る者が群れ集まってくるであろう。そのような状況で身を隠そうとしても難しいのではなかろうか」


と言ったので、蔡邕さいよう出奔しゅっぽんすることをあきらめました。

蔡邕の死

蔡邕さいようの失態

初平しょへい3年(192年)4月、司徒しと王允おういん尚書僕射しょうしょぼくや士孫瑞しそんずい董卓とうたくの将・呂布りょふらの共謀によって、董卓とうたく誅殺ちゅうさつされました。

そのことを知った蔡邕さいようは、王允おういんの席に列していながら董卓とうたく誅殺ちゅうさつを話題にし、ため息をついて表情をくもらせます。これを見とがめた王允おういんは声を荒げて蔡邕さいようを叱責し、廷尉ていいに身柄を引き渡して罪状を取り調べさせました。

蔡邕さいようの死

蔡邕さいようは言葉を尽くして謝罪し、「どうか首に黥刑げいけい*11ほどこし、足に刖刑げつけい*12ほどこしてでも、かんの歴史を編纂へんさんすることをお許しいただきたい」と懇願します。

また、馬日磾ばびつていをはじめとする多くの人々も蔡邕さいようを救おうとしましたが王允おういんは聞き入れず、蔡邕さいようは獄死しました。享年きょうねん61歳でした。


この時王允おういんは、後悔して蔡邕さいようの取り調べを取りやめようとしましたが、間に合わなかったと言われています。

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蔡邕さいようの死については、こちらの記事に詳しくまとめています。

脚注

*11額に刺青いれずみをする刑罰のこと。黥首げいしゅとも。

*12足を切断する刑罰のこと。

蔡邕の著作

蔡邕さいようが生涯をかけて選び集めた「かんの事跡」は、まとめられて漢書かんじょに続く歴史書となることはありませんでした。

また蔡邕さいようは、霊帝本紀れいていほんぎ十意じゅういをつくり、また各種の列伝42篇をおぎないましたが、「李傕りかくの乱」によってその多くは失われて現存していません。


蔡邕さいようの著作には、碑文ひぶんるい)誄誄銘文めいぶん讚文さんぶん連珠れんじゅ箴言しんげん弔文ちょうぶん論議ろんぎ独断どくだん観学かんがく釋誨しゃくかい敍楽じょがく女訓じょくん篆埶てんせい祝詞しゅくししょうひょうしょがあり、合計104篇が世に伝わりました。


蔡邕さいようは、霊帝れいていに才能を認められたためにうらみを買い、董卓とうたくに気に入られたために あらぬ疑いをかけられて獄死することになりました。

陽球ようきゅう王允おういんなど、本来こころざしを同じくする者たちから危害を加えられていることから、文章・算術・天文・音楽と多彩な才能を持ちながら、人付き合いだけは不得手だったと言えるかもしれません。

蔡邕さいようにとっては、亡命先の呉郡ごぐんで過ごした12年間*10が、最も幸せな時間だったのではないでしょうか。


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蔡邕関連年表

生年・年齢は享年きょうねんを基準にして記載しています。

西暦 出来事
132年

永建えいけん6年

  • 蔡邕さいよう兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん圉県ぎょけんで生まれる。
不明
167年
まで
  • 太傅たいふ胡広ここうに師事する。
  • 3年間、母の看病に専念する。
  • 母のに服す。
  • 勅命ちょくめいにより洛陽らくように呼び出されるが、やまいを偽って郷里に帰る。
不明
  • 人々との交際を断ち釋誨しゃくかいあらわす。
170年

建寧けんねい3年【39歳】

  • 司徒しと橋玄きょうげん辟召へきしょうされる。
不明
  • 河平長かへいちょうに任命される。
  • 郎中ろうちゅうに任命される。
  • 東観とうかん*6で秘蔵書の校訂を行う。
175年

熹平きへい4年【44歳】

 3月

  • 六経りくけいの文字を校定*7し、熹平石経きへいせきけいを建立する。
  • 三互さんごほう」の廃止を上奏する。
177年

熹平きへい6年【46歳】

  • 雷や突風、地震やひょう蝗害こうがいが相次いで発生する。

 7月

  • 霊帝れいていの求めに応じて諫言かんげんする。
178年

光和こうわ元年【47歳】(上奏文には46歳とある)

 2月

  • 霊帝れいてい鴻都門学こうともんがくを設置する。
  • 災異が相次ぐ。

 7月

  • みことのりにより中常侍ちゅうじょうじ曹節そうせつ王甫おうほに災異について意見する。
  • 霊帝れいていの求めに応じて、内密に悪人たちを批判する上奏をする。
  • 曹節そうせつが上奏文を盗み見て、側近に言いふらす。

 不明

  • 蔡邕さいようが批判した程璜ていこうの差し金により弾劾だんがいされる。
  • 中常侍ちゅうじょうじ呂強りょきょうの助命嘆願により髡鉗こんけんに刑を減ぜられ、朔方郡さくほうぐんに流される。
  • 陽球ようきゅうの刺客に見逃される。
  • 朔方郡さくほうぐんいた刺史しし太守たいしゅに助けられる。
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・五原郡ごげんぐん安陽県あんようけんに住む。
179年

光和こうわ2年【48歳】

  • 霊帝れいていに許される。刑期は9ヶ月。
  • 五原太守ごげんたいしゅ王智おうちうらみを買う。
  • 王智おうち蔡邕さいよう弾劾だんがいする。
  • 呉郡ごぐんに亡命する。
180年

188年
  • 兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん羊氏ようしを頼り行き来する。
  • 琴の音色を怪しむ。
  • 揚州ようしゅう呉郡ごぐんに住む。
  • 焦尾琴しょうびきんを作る。
189年

中平ちゅうへい6年【58歳】

  • 董卓とうたく辟召へきしょうされる。
  • 洛陽らくように向かう途中、3日間のうちに侍御史じぎょし持書御史じしょぎょし尚書しょうしょを歴任する。
  • 巴郡太守はぐんたいしゅに任命されるが、中央にとどまって侍中じちゅうとなる。
190年

初平しょへい元年【59歳】

 1月

  • 董卓とうたく連合が決起する。

 2月

  • 左中郎将さちゅうろうしょうに任命される。
  • 董卓とうたく洛陽らくようを破壊して長安ちょうあん遷都せんとする。
191年

初平しょへい2年【60歳】

 4月

  • 尚父しょうほを号しようとする董卓とうたくいさめる。

 6月

  • 董卓とうたくの分不相応な行いをいさめる。

 不明

  • 亡命を考える。
192年

初平しょへい3年【61歳】

 4月

  • 董卓とうたく誅殺ちゅうさつされる。

 不明

  • 王允おういんに断罪され、獄死する。
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