董卓(とうたく)の死後、その死を憐(あわ)れんだために獄死したことで知られる蔡邕(さいよう)とは、どんな人物だったのでしょうか。

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出自

蔡邕・伯喈

はじめに

『後漢書(ごかんじょ)』蔡邕伝(さいようでん)には、蔡邕(さいよう)の著作や上奏文がかなりの長文で記載されています。

その内容は非常に興味深いものですが、すべてを紹介すると逆に混乱してしまう恐れがありますので、本文では省略または要約して紹介しています。

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出身地 / 生没年

蔡邕(さいよう)は字(あざな)を伯喈(はくかい)と言い、兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・圉県(ぎょけん)の人です。

生没年は132年または133年〜192年。

蔡邕(さいよう)の生年は、享年(きょうねん)61歳から逆算すると132年。178年の上奏文の時点で46歳とあることから逆算すると133年となります。

『後漢書(ごかんじょ)』に列伝があります。


兗州・陳留郡・圉県

兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・圉県(ぎょけん)

家族

祖先

蔡邕(さいよう)の6代前の祖先・蔡勲(さいくん)は黄老思想(こうろうしそう)を好み、前漢(ぜんかん)の平帝(へいてい)期[元寿(げんじゅ)2年(紀元前1年)〜元始(げんし)5年(5年)]に郿令(びれい)となり、王莽(おうもう)期の初めに厭戎連率(えんじゅうれんそつ)*1に任命されました。

ですが蔡勲(さいくん)は、「私は漢(かん)の人間だ。劉(りゅう)氏と王(おう)氏の二姓に仕えることなどできない」と言って、家族と共に山奥に逃亡しました。

脚注

*1厭戎(えんじゅう)は漢代の隴西郡(ろうせいぐん)、連率(れんそつ)は漢代の太守(たいしゅ)にあたります。

父

  • 父:蔡棱(さいりょう)
    蔡邕(さいよう)の父・蔡棱(さいりょう)も清廉潔白を旨(むね)とし、貞定公(ていていこう)と諡(おくりな)されました。

子

  • 娘:蔡琰(さいえん)(蔡文姫(さいぶんき))
  • 娘:蔡氏(さいし)。司馬師(しばし)の妻・羊徽瑜(ようきゆ)の母

従弟

蔡谷(さいこく)

叔父

蔡質(さいしつ)


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遁世期

孝行で知られる

蔡邕(さいよう)はもともと孝行心に篤(あつ)い性格で、病気の母を看病する3年の間、季節の変わり目以外は襟(えり)と帯(おび)を解いたことがなく、寝台で眠らない日が70日に及んだこともありました。

母が亡くなるとお墓の側に粗末な小屋を建て、常に礼に従って行動したため、蔡邕(さいよう)の周りには兎(うさぎ)が集まり懐(なつ)き、連理木(れんりぼく)*2が生えたと言われています。


また、3世代で財産を分けずに叔父(おじ)や従弟と同居して暮らしたため、郷里の人々は彼の義を高く評価しました。


蔡邕(さいよう)は若い頃から博学で、太傅(たいふ)の胡広(ここう)に師事しました。また、文章・算術・天文を好み、特に音楽を奏(かな)でることを得意としていました。

脚注

*22本の樹木の枝、または1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着(ゆちゃく)結合したもの。吉兆(きっちょう)の1つ。

『釋誨(しゃくかい)』を著す

後漢(ごかん)の第11代皇帝・桓帝(かんてい)の時代[本初(ほんしょ)元年(146年)〜永康(えいこう)元年(167年)]のこと。

蔡邕(さいよう)の琴の腕前が優れていることを聞きつけた中常侍(ちゅうじょうじ)の徐璜(じょこう)・左悺(さかん)ら五侯(ごこう)*3は、天子(てんし)(桓帝(かんてい))に申し上げ、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)に勅命を下して蔡邕(さいよう)を洛陽(らくよう)に呼び出しました。

この時蔡邕(さいよう)は仕方なく洛陽(らくよう)に向かいますが、司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・匽師県(えんしけん)に至ったところで、病(やまい)を偽(いつわ)って郷里に帰ってしまいます。


匽師県(えんしけん)

司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・匽師県(えんしけん)


この後、蔡邕(さいよう)は人々との交際を断ち、東方朔(とうほうさく)や楊雄(ようゆう)、班固(はんこ)、崔駰(さいいん)といった人々の著作を読みふけり、様々な言葉を照らし合わせて誤(あやま)りを正して『釋誨(しゃくかい)』を著(あらわ)しました。

『釋誨(しゃくかい)』の引用全文
タップ(クリック)すると開きます。

務世公子(むせいこうし)という者がおり、華顛胡老(かてんころう)に教え諭(さと)して言った。


「聞くところでは、聖人の大いなる宝物を位と言い、故(ゆえ)に聖人は仁(じん)により位を守り、財産により人を集めると言う。そうであれば、位があって貴(とうと)く、財産があって富裕で、義(ぎ)を行い道に達することは士(し)の勤めである。

それゆえ伊摯(いし)(伊尹(いいん))は鼎(かなえ)を背負って自(みずか)らを売り込み、仲尼(ちゅうじ)(孔子(こうし))は露払いの任に関する言葉を吐き、甯子(ねいし)(甯戚(ねいせき))には清商(せいしょう)の歌を歌った逸話があり、百里(ひゃくり)(百里奚(ひゃくりけい))は牛を飼育したのである。そもそもこうしたことは、聖哲の普遍の趣(おもむ)きと古人の明らかな志(こころざし)のなすわざである。

孔子(こうし)は清らかで和らいだ世に生まれて純粋で穏やかな精神を振るい、典籍に深く思いを馳(は)せて六経(りくけい)を大事にしまい、貧困の身に安住して卑賤(ひせん)の身を楽しみ、世間と共に行動することはなかった。精神を深い境地に沈め、志(こころざし)を高く掲(かか)げて無限に包み込み、無形なものを総合的に分析してすでに久しい。

かつて人々の中から抜きんでて群を抜き、香りを漂(ただよ)わせて華(はな)やかさを振りまき、天の宮廷に参内して人倫を順序立て、天下の汚濁を掃(はら)って宇宙の塵埃(じんあい)を清め、明るく光輝く太陽に並べて燃え上がる気を景雲(めでたいことの前兆となる雲)に連ねることができない。時が過ぎて年が暮れ、黙って聞こえない。

私はこれに戸惑い、そこで述べる次第である。

今、聖上(せいじょう)(天子(てんし))は聡明で、輔弼(ほひつ)(天子(てんし)を輔佐する人)は賢明であり、英傑は地に墜(お)ちず、徳を広く修めた者は宰相(さいしょう)になって封地を分け与えられ、才能があり余っている者は栄華と高貴さを身に備えて賜与を受ける。どうしてまた道を迂回して到達することを求め、昇降して容認されようとし、当世の利益を求めて確固たる功績を挙げ、一族をこの時代に栄えさせて、不滅の足跡を残さないのか。

そもそも貴方はただ1人、未(いま)だそのことに思いを馳(は)せないのか。なぜ貧しく卑賤(ひせん)な状態に留(とど)まって、栄華を極めて高貴な状態に達しないのか」


これを聞いた華顛胡老(かてんころう)は、尊大に笑って、


「務世公子(むせいこうし)のような者は、いわゆる曖昧模糊(あいまいもこ)とした利得に目を奪われ、明確な損害を忘れて必ず成功すると思い込み、失敗する可能性を無視する者に過ぎない」


と言う。

すると務世公子(むせいこうし)は華顛胡老(かてんころう)を凝視して袂(たもと)をまとめ、「なぜそのようなことを言うのか!」と憤(いきどお)って聞き返した。

華顛胡老(かてんころう)は、「まあ座れ、君にその理由を解き明かすとしよう」と言って次のように話した。


「昔、天地の始めから君臣関係がはじめて起こり、羲皇(ぎこう)(伏羲(ふくぎ))の大いなる安寧の世と唐(とう)・虞(ぐ)(堯(ぎょう)・舜(しゅん))の志高の時代が存在し、三代(夏(か)・殷(いん)・周(しゅう))の隆盛にも清明の気風があった。さらに五伯(ごはく)(春秋(しゅんじゅう)の五覇)は衰(おとろ)えようとするものを扶(たす)け、慰撫(いぶ)することにつとめた。

それ以降、天網(てんもう)(悪人や悪事を逃さないように天が張りめぐらした網(あみ))は緩(ゆる)み、人紘(じんこう)は弛(ゆる)み、王道は壊れ、太極は崩れ、君臣関係は崩壊し、上下関係は瓦解した。

ここにおいて知恵者は詐術を弄(ろう)し、遊説家(ゆうぜいか)は自説を主張し、武人は軍略を巡らし、戦士は戦闘を習った。そうして雷のように驚かせて風のように馳(は)せ、霧のように散り散りになって雲のように広がり、駆け引きを様々に巡らし、時勢に合致した。ある者は一計を案じて一万金を手にし、ある者は朝食前の時間に弁舌を振るって瑞珪(ずいけい)を賜(たまわ)った。例えば、連衡策(れんこうさく)を説いた張儀(ちょうぎ)は六国(りっこく)(斉(せい)・楚(そ)・燕(えん)・韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう))の宰相(さいしょう)の印を帯び、合従策(がっしょうさく)を説いた蘇奏(そそう)が並べた綬(じゅ)は光り輝いたのである。

高貴なこと勢い盛んであり、富貴なこと限りなく、巧智を頼みとして機会を得、それによって危険を忘失する。そもそも華(はな)は根元から離れて萎(しぼ)み、枝(えだ)は幹(みき)から離れて枯れ、女は容姿を整えて淫乱になり、士人は道理に背(そむ)いて罪を犯す。

人はその満ち足りたことを誹謗(ひぼう)し、神はその邪悪なことを憎悪し、利益を掴む瑞緒が芽生えた途端に害へと向かう兆候が見られる。卑賤(ひせん)の身で車を並べ、夭折(ようせつ)して禍(わざわい)が降りかかり、その屋根を大きくして、その家を覆って暗くしてしまう。

それゆえに天地は閉ざし、聖哲は身を潜め、石門の門番は朝の門の開閉を守り、長沮(ちょうしょ)と桀溺(けつでき)は2人で耕作し、顔歜(がんしょく)は璞(あらたま)(磨(みが)いていない玉)を抱え、蘧伯玉(きょはくぎょく)は生を保ち、孔子(こうし)は斉人(せいひと)が楽人を贈ると去り、また、雍渠(ようきょ)が衛(えい)の霊公(れいこう)の車に陪乗(ばいじょう)(同乗)すると、衛(えい)での地位を捨てて他国に去った。

そもそも君主に対して傲慢(ごうまん)な態度を取り、国家に盾突いたりしようか。正義は傾け覆(くつがえ)すことは出来ないのである。


また私は次のように聞いている。

冬至に太陽が最も南に至ると黄鍾(こうしょう)の音律に応じ、北東の風が吹き魚が氷の上にのぼり、蕤賓(ずいひん)の音律が響くと陰爻(いんこう)が1つ生じる兆候がきざし、蒹葭(けんか)(スダレヨシとアシ)が青々と生い茂り光る露が凝固して霜に変化する。また、寒さと暑さが互いに押し合い、陰陽が代わる代わる興(おこ)り、運が極まれば変化し、治と乱が互いに受け継ぎ合う。

今、大漢(だいかん)は陶唐(とうとう)(堯(ぎょう))の偉大な功績を引き継ぎ、天下の無残な災厄を洗い流し、地を覆い隠す天の立派さを高め、あまねく大地の基礎を切り拓(ひら)いている。皇帝の道が広く行き渡って、皇帝の道は顕(あき)らかとなり、整然と秩序を守っている民草は、甘味を口に含んで旨味を吸っている。六合(りくごう)(天・地・東・西・南・北という天下の万物)を点検して、和らぎ楽しめるようにし、百官はそれぞれ自分の職務を恭(うやうや)しく務めて、聖なる君主は宮殿の2本の柱の下で無為のままで天下は治まっている。君臣関係は恭(うやうや)しく、公正さによりその状態を守り、威儀の盛んな多くの士人は、礼服を着て赤白色の佩紐(はいじゅう)を身につけ、地上を進む鴻(おおとり)が階に満ちるように朝廷に集まり、群れ集まった鷺(さぎ)が宮中に満ち溢(あふ)れるように朝廷に仕えた。

これを例えるならばちょうど鍾山(しょうざん)(崑崙山(こんろんさん))の玉(ぎょく)、泗水(しすい)の石のような賢臣が多く、それらの珪璧(けいへき)を積み重ねても満ち足りるようなことはなく、浮磬(ふけい)の石を採集しても尽き果てることがないほど人材が豊富なようである。

先頃、洪水の原因を取り去って人々が四方の土地に集い、周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討つという武功を挙げて武器が収められ、獫狁(けんいん)が追い払われ、尹吉甫(いんきつほ)が宴会で楽しみ、城濮(じょうぼく)で楚(そ)の軍勢に勝利して晋(しん)の軍勢が凱旋(がいせん)した。

それゆえ事が起こると、蓑(みの)と笠を共に身につけて、甲冑を貫いて鉾(ほこ)を掲げ、職務に従事しないのである。その一方で、事が起こらなければ帯を延ばして佩(お)び飾りを緩(ゆる)め、玉(ぎょく)を打ち鳴らしながら歩き、綽々(しゃくしゃく)とした態度で余裕を持っている。


そもそも代々の臣下・名門の子弟・近侍の臣の一族は、天はその幸福を高め、君主はその俸禄を増し、胸中はゆったりと落ち着き、爵位が自然とついてまわり、須(あごひげ)を整え髯(ほおひげ)をおさめ、官位を余らせ高貴な身分に身を委(ゆだ)ねる。

彼らが栄達出世することは、傾きに従って玉を転がすようだといっても、その簡便さに例えるには足らない。後退し、また前進するといっても、その容易さに例えるには足らない。彼らは男ごとに群を抜いた才能があり、人ごとに智恵があると思い込んでいる。

子供は疑問を徳を具(そな)えた老人に問おうとはせず、愚か者は謀(はかりごと)を先生に仰(あお)ごうとはしない。心は高貴な身分を守ることに執着(しゅうちゃく)せず、気持ちは満ち足りていることを維持するために何もしない。燦然(さんぜん)と輝くのは華やかなものである。賢明な人物は物静かで、安寧するところを見失わない。

これに対して、物狂おしく心が揺れ動いて感情を掻(か)き乱し、貪欲な者は財貨に殉(じゅん)じ、驕(おご)り高ぶる者は権勢に死ぬのである。これらの事を仰(あお)ぎ見て、体は落ち着かず心は思い煩(わずら)う。満ち欠けの効果に暗く、増減の理に迷い、駑馬(どば)(のろい馬)を舗装された道路に馳(は)せ、駿馬を恋い慕ってますます駆け、外戚(がいせき)の邸宅の門にひれ伏し、天子(てんし)の側近に侍(はべ)る貴人の栄誉に助けを乞(こ)う。

栄誉の獲得は未(いま)だに叶(かな)わないのに、彼らと共に躓(つまづ)き倒れ、軽い場合は連座の罪に問われ、重い場合は族誅(ぞくちゅう)される。前方の車がひっくり返っているのに、後方の車は尚(なお)、その軌道をたどって馳(は)せる。かつての禍(わざわい)を鑑(かんが)みることにより、畏(おそ)れを抱(いだ)くことは無い。

私はそれを痛ましいと思い、どうしてそのようになるのかと思う。天は高く地は厚いが、用心のために身を屈(かが)めて抜き足をする。怨(うら)みはどうして明らかなところだけから起ころうか。禍(わざわい)は思ってもいないところに生じるのであれば、戦々恐々として必ずその間違いを慎(つつし)むべきである。


その上、世の中が自分を認めてくれるのであれば行動を起こすということは聖人の訓(おし)えである。世の中から見捨てられるのであれば、隠れるというのは至って従順な身の処し方である。

そもそも九河(きゅうが)の水が満ち溢(あふ)れれば、一介の土くれでは防げない。百万人の兵士には、1人の勇者では対抗できない。今、あなたは匹夫に求めるのに宇宙を清めるようにとしているが、どうして水害と旱魃(かんばつ)が起こったことにより堯(ぎょう)と殷(いん)の湯王(とうおう)の罪を問うことができようか。また、弱々しい煙や炎が消えることを心配しているが、どうしてまぶしく輝く光を掲げる必要があろうか。

しかも、そもそも地震が起ころうとすると樞星(すうせい)はまっすぐになり、井戸に影が映らなければ肉眼では分からない日食が起こり、君主がだらけていると月が月末に西方に見え、諸侯と王(おう)がかしこまっていると次は1日に東方に見える。これによって君子は微細な事柄を推(お)し広げて顕著な事柄に通達し、露を踏んで暑さを理解するのである。

時が進めば行き、時が止まれば止まり、盛衰と満ち欠けは、天の法則に則(のっと)る。それにより泰卦(たいか)(六十四卦の1つ)が出て開通することを良しとし、それを共に否卦(ひか)が出て閉塞する状態にいることもできる。天の法則を楽しみ自分の運命を知り、精神を保持して自分のしたいようにする。多くの車が険しい道を列をなして走っているが、どうしてそれらの車と軌跡を共にできようか。

私は、危難に思いを馳(は)せてゆったりと構え、そのため卑賤(ひせん)の身にあっても恥じる事は無い。そしてまさに、典籍の崇高な道を馳(は)せ、仁義の淵や藪(やぶ)で休息し、周公旦(しゅうこうたん)と孔子(こうし)の邸宅を何回も訪れ、儒家(じゅか)と墨家(ぼくか)に会釈して友人になろうとする。これを伸ばせば四方の彼方を照らすのに十分であるが、これを収めれば何を身につけているのか誰にも分からない。

もし千載一遇の幸運に恵まれ、神霊の符(ふ)(お眼鏡)に適(かな)えば、天の門である閶闔(しょうこう)を開き、天上の大道で車に乗り、花の車蓋(しゃがい)を擁(よう)して皇樞(こうすう)(天子(てんし)を象徴する星)を捧げ持ち、玄妙な計策を聖徳なる天子(てんし)の耳に入れ、太平を実現する方策を天下に申し述べよう。それによって計策が時勢に合い謀(はかりごと)が聞き入れられるのは、私の意図の通りである。もし勲功が立たなければ、私の罪である。亀と鳳凰(ほうおう)に例えられる賢人は山に隠れ、霧(きり)と露(つゆ)に例えられる暗闇は取り除かれず、荒れ地に躍り上がってただその愚かさを示すだけである。

私を知らない者は、あるいはこれを迂遠(うえん)(実際の用に向かないさま)であると言うだろう。業を修め真実に思いを馳(は)せるに、これを捨て去って一体どこに行くのであろうか。私は静かに命を待ち、厭(いと)うことなく変わらないままでいる。そして、百年の後にその墓に身を寄せよう。幸運にも称賛を得られれば、天の導きである。知られなかったのであっても、自分の罪過ではない。

昔、伯翳(はくえい)(伯益(はくえき))は鳥の声をすべて理解し、葛廬(かつろ)は牛の鳴き声を判別し、董父(とうほ)は拳龍(かんりゅう)という氏を賜(たまわ)り、奚仲(けいちゅう)は車の軛(くびき)(轅(ながえ)の先につけ、牛馬の首にあてる横木)と轅(ながえ)(馬車・牛車(ぎっしゃ)の前方に平行に出した二本の棒。その前端に軛(くびき)を渡し、牛馬を繋(つな)いで車を引かせる)の作製に徳を専(もっぱ)らにし、倕氏(すいし)は巧みな技術者として国政を盛り立て、造父(ぞうほ)は驊騮(かりゅう)(名馬)を御(ぎょ)し、非子(ひし)は優れた馬の良き飼育人であったため封地を授けられ、狼瞫(ろうじん)は囚人を捕らえた功績を持って車右(しゃゆう)に任命され、弓父(きゅうほ)は弓の製作に精神を傾け、佽非(じひ)は長江(ちょうこう)の流れに身を投じて勇気を明らかにし、吾丘寿王(ごきゅうじゅおう)は格五(かくご)(すごろく)が得意で立身の基礎を作り、東方朔(とうほうさく)は笑い話や演戯により寵愛(ちょうあい)を求め、上官桀(じょうかんけつ)は車の幌(ほろ)を支えることに力を注ぎ、桑弘羊(そうこうよう)は謀(はかりごと)を巡らし宰相(さいしょう)の地位を得た。

しかし、私はこれらの人々の足跡を踏襲できないので、璞(あらたま)(磨(みが)いていない玉)を抱いてのんびりと気ままに暮らしているのである」


ここに至って、務世公子(むせいこうし)は首を上げて階より降り、忸怩(じくじ)たる思いを抱いて退出した。華顛胡老(かてんころう)は眉毛と目の間を上げて笑みを浮かべて琴を引き寄せ、


「我が心を鍛えて太清(たいせい)(天)に浸(ひた)し、穢(けが)れを濯(すす)いで正しい精神を保つ。和らいだ気持ちが行き渡り精神は安寧となり、感情が落ち着いて心は高くそびえ立ち、欲望が消えて生じなくなった。宇宙を超越して世俗を忘れ、はるか遠方に身軽に1人で向かう」


と歌った。

脚注

*3 単超(ぜんちょう)、徐璜(じょこう)、具瑗(ぐえん)、左悺(さかん)、唐衡(とうこう)の5人の宦官とこと。桓帝(かんてい)に協力して外戚・梁冀(りょうき)を誅殺(ちゅうさつ)した功績により、5人揃って列侯(れっこう)に封ぜられた。


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第1仕官期

橋玄の辟召に応じる

建寧(けんねい)3年(170年)、司徒(しと)の橋玄(きょうげん)は、蔡邕(さいよう)を司徒府(しとふ)に辟召(へきしょう)*4して大変に敬(うやま)って待遇しました。

その後蔡邕(さいよう)は、地方に転出して河平長(かへいちょう)に任命されます。

脚注

*4大将軍(だいしょうぐん)や三公(さんこう)・九卿(きゅうけい)、太守(たいしゅ)や県令(けんれい)などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。この制度によって、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができた。

『六経(りくけい)』を校定する

さらに中央政府に徴召(ちょうしょう)*5されて郎中(ろうちゅう)を拝命した蔡邕(さいよう)は、東観(とうかん)*6で秘蔵書の校訂を行いました。

この時蔡邕(さいよう)は、これらの書(経籍(けいせき))が余りにも古いため、文字の間違いも多く誤った解釈をしてしまう恐れがあるとして、

  • 五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)の堂谿典(どうけいてん)
  • 光禄大夫(こうろくたいふ)の楊賜(ようし)
  • 諫議大夫(かんぎたいふ)の馬日磾(ばびつてい)
  • 議郎(ぎろう)の張馴(ちょうじゅん)、韓説(かんえつ)
  • 太史令(たいしれい)の単颺(ぜんよう)

らと共に上奏して、『六経(りくけい)』の文字を正しく校定*7することを願い出ます。


霊帝(れいてい)の許可を得た蔡邕(さいよう)は、自(みずか)ら朱書きした文字を職人に刻み込ませて、太学(たいがく)の門の外に碑(ひ)を建立させました。これを熹平石経(きへいせきけい)と言います。


熹平石経(きへいせきけい)

熹平石経(きへいせきけい)
「特別展 三国志」東京国立博物館
2019年7月9日〜9月16日


熹平石経(きへいせきけい)が建立されると、街路は1日に千余両もの車で埋め尽くされ、後学(こうがく)の者はみな碑(ひ)の文字を書き写し、経典(けいてん)の正しい文字を知ることができるようになりました。

脚注

*5臣下が推薦した人材を、天子(てんし)が直接招聘(しょうへい)して任用する制度のこと。

*6洛陽城(らくようじょう)の東側に位置する書物を保管・管理していた場所のこと。

*7古典などの異同や誤りのある本文について、他の伝本・資料と比較・検討して、本来あるべき形を特定すること。

「三互の法」の廃止を上奏する

これより以前、州郡の長官たちがお互いに党派を組んで不正を行っていたことから、

  • 自分の出身の州・郡・県には任官できない。(本籍回避)
  • 異なる州・郡・県の家が婚姻を結んだら、お互いの州・郡・県には任官できない。(親族回避)
  • 異なる州・郡・県の出身の二者が、同時期にお互いの州・郡・県には任官できない。

という「三互(さんご)の法(ほう)」が制定されていました。


その後「三互(さんご)の法(ほう)」の禁止事項は次第に細かくなって人材の選任に支障を来すようになり、幽州(ゆうしゅう)と冀州(きしゅう)では長らく欠員が出たままとなってしまいます。

そこで蔡邕(さいよう)は、上疏して言いました。


「幽州(ゆうしゅう)と冀州(きしゅう)は近年の兵乱と飢饉(ききん)のため民草は寄る辺なく、官吏たちは新たな任官者を心待ちにしておりますが、三府(さんふ)による選挙は月を越えても定まりません。諸州の刺史(しし)の中で力量があって相互に交代させ得る者たちは、刺史(しし)の任期と三互(さんご)の法(ほう)の規定に拘(かか)わらず、選定していただきますよう願います」


ですが、この蔡邕(さいよう)の上奏は裁可されませんでした。

蔡邕の上奏文全文
タップ(クリック)すると開きます。

伏して見ますに、幽州(ゆうしゅう)と冀州(きしゅう)は元々鎧と馬の産地でしたが、近年の兵乱と飢饉のために次第に枯渇しております。今、民草は寄る辺なく、万里の広さを持つその地域は物寂しくなり、官職に欠員のあるまま時を経て、官吏たちは首を伸ばして新たな地方長官に期待を寄せておりますが、三府(さんぷ)による選挙は月を越えても定まりません。

臣(わたくし)はいつもそのことを奇怪に思っておりますが、論者は「三互(さんご)の法(ほう)で禁止されている事柄を回避するためである」と申します。全国の13州のうち、11州の出身者に「三互(さんご)の禁」があるならば、幽州(ゆうしゅう)・冀州(きしゅう)の2つの州の出身者を任用すべきです。

或(ある)いはまた、2つの州の士に任期を限定すれば、ぐずぐずと遅れ時宜(じぎ)(タイミング)を失うでしょう。

愚(わたくし)が考えますに、「三互(さんご)の禁令」は禁の中でも緩(ゆる)いものであります。今、ただ天子(てんし)の威光を重ねて強め、その取り締まりの規則を明らかにすれば、在官者はどうして戒(いまし)め懼(おそ)れないでおられましょうか。それなのに、これといった理由もなく「三互(さんご)の法(ほう)」を設(もう)け、自分から任用のための障害を生み出すことがありましょうか。

昔、韓安国(かんあんこく)は刑徒の身から登用され、朱買臣(しゅばいしん)は卑賤(ひせん)の身から立身しましたが、共に才能が優れていることによって出身地の太守(たいしゅ)となりました。また、張敞(ちょうしょう)は亡命者でしたが、抜擢されて要衝の州の長官を授(さず)けられました。どうしてまた「三互(さんご)の法(ほう)」を顧(かえり)みて遵守し、こうした劣った制度を引き継ぐことがありましょうか。

三公(さんこう)は幽州(ゆうしゅう)と冀州(きしゅう)の1つの州が要衝にあたり、長官を速やかに決定すべき場所であることを、明らかに理解しておりますので、禁令を越えて才能ある者を採用し、それによって時世の閉塞(へいそく)した状況を救うべきであります。ところが諫臣(かんしん)の節義を顧(かえり)みず、かりそめに些細(ささい)な科(とが)を避け、任用が遅滞して適材を失っております。

臣(わたくし)が願いますに、陛下におかれましては、上は先帝に則(のっと)り、近年制定された禁令(三互(さんご)の法(ほう))を除き、諸州の刺史(しし)の中で力量があって相互に交代させ得る者たちは、刺史(しし)の任期と「三互(さんご)の法(ほう)」の規定にこだわることなく、その中から選定して下さいますように。

霊帝を諫める

霊帝(れいてい)が鴻都門(こうともん)下に諸生を集める

以前から学問を愛好していた霊帝(れいてい)は、自(みずか)ら『皇羲篇(こうぎへん)』全50章を著(あらわ)します。

また、もともと経学(けいがく)(儒教(じゅきょう))を重んじて人材を招いていましたが、次第に文章や賦(ふ)、鳥書(ちょうしょ)や篆書(てんしょ)*8が得意な者たちを招くようになり、その人数は数十人に及びました。


侍中祭酒(じちゅうさいしゅ)の楽松(がくしょう)と賈護(かご)らが品行が優れず権勢を求める輩(やから)を数多く招き、洛陽城(らくようじょう)南宮(なんきゅう)の鴻都門(こうともん)下に集めて各地の風俗や民間の些細な事柄を述べさせると、霊帝(れいてい)はこれを大変喜び、彼らに破格の位を与えました。

また、商人でありながら宣陵(せんりょう)(桓帝(かんてい)の陵墓)に服喪した者が数十人おり、霊帝(れいてい)は彼らを悉(ことごと)く郎中(ろうちゅう)や太子舎人(たいししゃじん)に任命しました。

脚注

*8鳥書(ちょうしょ)、篆書(てんしょ)共に書体の名前。

蔡邕(さいよう)の諫言(かんげん)

ちょうどこの頃、雷と突風が起こって樹木を傷つけ引き抜き、地震や雹(ひょう)、蝗害(こうがい)が相次いで発生します。また、鮮卑(せんぴ)が辺境に侵攻したことにより、民衆に多大な労役が課されました。


熹平(きへい)6年(177年)7月、霊帝(れいてい)は制書*9によって天譴(てんけん)(天罰)を受けた自分の罪過を挙げ、群臣に施行すべき事柄を述べさせました。

これに蔡邕(さいよう)は、次のように上奏します。


「季節の節目には巡礼を行うべきであり、皇廟(こうびょう)の祭祀(さいし)や辟雍(へきよう)で行う儀式は、天子(てんし)の大切な仕事です。祖先を敬(うやま)わず、些細(ささい)な理由で国家の祭祀(さいし)を取りやめたりするから、天災や奇怪なできごとが起こるのです。

また、古来から推挙される資格があるのは孝廉(こうれん)・賢良・文学に優れた人物のみです。書画や賦(ふ)に優れているからと言って、国政に関与させてはいけません。

先日、宣陵(せんりょう)に服喪した小人を太子舍人(たいししゃじん)に任命しましたが、先帝の親族でもない者に陵墓を守らせるから盗掘が起こるのです。そのような者たちを太子舍人(たいししゃじん)にしてはいけません」


この上奏を受けた霊帝(れいてい)は蔡邕(さいよう)の意見を聞き入れ、怠(なま)けていた祭祀(さいし)を再開し、宣陵(せんりょう)に服喪した者たちを太子舍人(たいししゃじん)から外して県丞(けんじょう)や県尉(けんい)に任命しました。

蔡邕の上奏文全文
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臣(わたくし)が伏して陛下のご意向のしたためられた制書*9を拝読しますに、周(しゅう)の成王(せいおう)が吹き荒(すさ)ぶ風に遇(あ)って、その原因を執事(しつじ)(事務官)に尋ね、周(しゅう)の宣王(せんおう)が旱魃(かんばつ)に遇(あ)って、務(つと)め励(はげ)んで慎(つつし)み畏(おそ)れたと言いましても、陛下の制書*9に加えることはございません。

臣(わたくし)が聞くところでは、「天が災異を降すのは、地上のあらゆる現象を原因として起こる」と申します。

雷がしばしば発生するのは、ほとんどは刑罰が煩多であるために生ずるものです。風というものは天の号令であり、人を教え導くためのものです。

そもそも明らかに上帝(じょうてい)に仕えれば、自然と多くの幸福がもたらされ、宗廟(そうびょう)に尊敬の念を捧げれば、祖先の神霊の守りが現れます。国家の大事は、誠に祭祀(さいし)・典礼(てんれい)を第一とし、それは天子(てんし)の御身が恭(うやうや)しく仕えるべき対象であります。

臣(わたくし)は宰相府(さいしょうふ)におりました頃から朱衣(しゅい)(祭官)に任官されますまで、気を五郊(ごこう)に迎えましたが、車駕(しゃが)(陛下)は迎気のために自(みずか)ら外出されることは稀(まれ)で、季節に応じた祭祀(さいし)に尊敬の念を捧げる行為を度々有司(ゆうし)(担当の役人)に委任され、自(みずか)らの行為に対する天の譴責(けんせき)(悪い行いや過失などをいましめて責めること)に対して罪を詫(わ)びることがあっても、なおも疎(おろそ)かにしておられます。それ故、大いなる天は悦(よろこ)ばれず、この諸々(もろもろ)の災異を顕(あらわ)したのです。

『鴻範五行伝(こうはんごぎょうでん)』に「政治が正道に反し徳が隠れれば、その風は屋根を暴(あば)き木を折る」とございます。また坤(こん)を地の道とし、『周易(しゅうえき)』では「地の徳に適(かな)った態度を安貞(あんてい)(安らかで正しい)としております。陰の気が盛んであれば、静めるべきであるのにかえって動き、道理として下位の者が叛逆(はんぎゃく)することになります。

そもそも権力が上位の者のもとになければ、雹(ひょう)が物を傷つけ、政治が苛酷(かこく)であれば、虎や狼が人々を喰(く)らい、為政者が利益を貪(むさぼ)り民を傷つければ、蝗(いなご)が農作物を痛めます。

去る6月28日、太白(たいはく)(金星)が月と相迫り、軍事活動を行うことはこれを憎むべき状況になりました。鮮卑(せんぴ)が辺境を侵犯するのは今に始まったことではなく、今軍隊を出すことは、未(いま)だにその利を見出せません。このような軍事行動は、上は天文の運行に違い、下は人事に逆らっております。

陛下におかれましては、誠に様々な意見を広くご覧になられ、その中で安全な方策に従うべきであります。臣(わたくし)は憤懣(ふんまん)やるかたなく、謹(つつし)んで実施すべき7つの事柄を箇条書きにしてしたためます。


第一、

『明堂月令(めいどうがつりょう)』に、「天子(てんし)は四立(しりゅう)(立春・立夏・立秋・立冬)および季夏(きか)(6月)の節に五帝(ごてい)を郊(こう)に迎える」とあります。

この祭祀(さいし)は、神気を導いて豊年という幸福を祈願するためのものです。また、祖霊を祀(まつ)る清廟(せいびょう)に祭祀(さいし)を行い、往事を偲(しの)んで孝行恭敬の心を示し、辟雍(へきよう)に養老の礼を行って、人々に礼による教化を示すことは、みな帝王の大業であり、代々の天子(てんし)が謹(つつし)んで受け継いできたものです。ところが有司(ゆうし)(担当の役人)はしばしば血縁関係の薄い諸侯の葬儀、宮中における出産、および吏卒(りそつ)の病気や死去を理由に、祭祀(さいし)の執行をたびたび忌(い)み避けております。

密かに見ますに、南郊(なんこう)の祭祀(さいし)における天の祭りは、未(いま)だかつて廃止されておりませんが、その他の祭祀(さいし)については、とかく異議を唱えております。どうして南郊(なんこう)の祭祀(さいし)が卑(いや)しくその他の祭祀(さいし)が尊いのでしょうか。

孝元皇帝(こうげんこうてい)(前漢(ぜんかん)の元帝(げんてい))の策書に、「礼の最も尊いものとして、祭祀(さいし)より重いものはない。心を尽くして親しく行い、それにより恭(うやうや)しさを示すためのものである」とあります。また元和(げんわ)年間(84年〜87年)の故事でも、章帝(しょうてい)はまた古(いにしえ)の典籍に言及しております。

前後して下された制書*9は、心を推(お)し量(はか)ること懇(ねんご)ろでありましたが、近年来、制度を改めて祭祀(さいし)の執行を太史(たいし)に委任し、礼の尊さの大いなることを忘れて禁忌(きんき)の書物に心を委(ゆだ)ね、些細な事柄をこだわり信じて、大いなる典礼を傷つけております。

『礼記(らいき)』によれば、妻妾(さいしょう)が出産する際には、斎戒(さいかい)(飲食や行動を慎(つつし)んで、心身を清めること)すれば側室(脇部屋)の門には入りませんが、出産にあたって祭祀(さいし)を廃止するという文言はございません。また、宮中で死者があれば、3ヶ月間祭祀(さいし)を行わないというのは、士や庶民のような狭い家屋に一緒に暮らしている者に対して言っているに過ぎないのです。

どうして広大な皇宮を持ち、多くの奴婢を抱える陛下のことを申しているでしょうか。今から斎戒(さいかい)の制度は、旧来の典籍のようになさるべきであります。それにより、願わくば大風や雷の災異が示す天譴(てんけん)(天罰)にお応(こた)えになられますよう。


第二、

臣(わたくし)が聞くところでは、国家が興隆しようとすると、しばしば至言(しげん)(事物の本質を適切に言い当てた言葉)が聞かれ、内には自分の政治の得失を知り、外には民の心情を伺(うかが)うと申します。それ故、先帝(桓帝(かんてい))は聖明な天子(てんし)としての姿を具(そな)えていながら、なおも広く政治の得失を求めたのです。また先帝(桓帝(かんてい))は災異の発生に伴い、隠者を招聘(しょうへい)し、賢良(けんりょう)・方正(ほうせい)・敦朴(とんぼく)・有道(ゆうどう)の選挙を尊重し、峻烈な言葉と厳しい諫言(かんげん)は、朝廷に絶えることがありませんでした。

陛下が親政されて以来、連年にわたって災異が発生しておりますが、未(いま)だに特別な察挙(さっきょ)と広範に人材を求める選挙のご命令を聞きません。誠に昔を顧(かえり)みて旧来の事跡を述べ修め、忠義を抱いている臣下に狂おしいほどの実直さを述べさせて、『易伝(えきでん)』に「政治が正道に反して徳が隠れた」とある言葉を紐解かれるべきであります。


第三、

そもそも賢人を求める道は、必ずしも1つだけではありません。賢人は、あるいは徳によって現れ、あるいは言葉によって評判が上がります。

近頃、朝廷に仕える士人は、かつて忠信によって賞賛されることがなく、常に誹謗(ひぼう)の罪を着せられ、ついには下々の者に口を閉ざさせ、正しい言葉を考えることをなくしました。

郎中(ろうちゅう)の張文(ちょうぶん)は以前、ただ1人狂おしいまでの直言を述べ尽くしましたが、陛下はその言葉をお聞き入れになり、三司(さんし)(三公(さんこう))を叱責されました。これによって臣下は胸のつかえがなくなり、民草は喜悦しました。

臣愚(わたくし)が考えますに、陛下にはどうか張文(ちょうぶん)を枢要官に抜擢して、忠誠を尽くすことを奨励し、天下に名声を示して、広くご政道をお聞きになるべきであります。


第四、

そもそも司隷校尉(しれいこうい)と諸州の刺史(しし)は、不正を監察して是非を分別するための官職であります。伏して見ますに、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の劉虔(りゅうけん)は、それぞれ国家のために尽くして姦悪なものを憎む心を抱き、楊喜(ようき)たちによる糾察(きゅうさつ)(罪状を取り調べて明らかにすること)は、その効果が最も上がっております。

その他の者はすべて、糾察(きゅうさつ)にあたって法をねじ曲げており、職務に堪えません。ある者は罪を犯し傷を抱き、下の者と病(やまい)を同じくしていても、法度(はっと)は弛緩(しかん)して、互いに悪事を摘発し合わず、公府(こうふ)と台閣(たいかく)(政府)もまた黙るばかりです。

熹平(きへい)5年(176年)の制書*9では、議して8人の使者を派遣し、また、三公(さんこう)に民情を反映した民間の歌謡を上奏させました。この時、国家のために尽くす者は喜悦して志(こころざし)を抱き、邪悪な者は憂(うれ)い懼(おそ)れて顔色を失いましたが、未(いま)だにそこで議された事柄が沙汰止(さたや)みとなった原因を詳(つまび)らかにされてはおりません。

昔、劉向(りゅうきょう)は、「そもそもためらいがちに計略を立てる者は、悪人たちに門を開き、優柔不断な気持ちを養う者は、讒言(ざんげん)の口を招く」と上奏しました。今、はじめて善政が布(し)かれたことを聞き及びましたが、たちまちにして再び悪政へと変更され、そのことは天下の人々に朝政の善悪を推(お)し量(はか)らせるのに十分であります。

陛下におかれましては、過去に遡(さかのぼ)って8人の使者を派遣する案を実行に移し、不正を摘発し、あらためて忠心に篤(あつ)く清廉(せいれん)な者を選任して、賞罰を公平にすべきです。三公(さんこう)は、年末にその年の殿最(でんさい)(人事考課)を評定し、吏(り)に国家のために尽くす幸福と私利を追求する禍(わざわい)を知らしめれば、数多くの災異を招いている原因を取り除くことができると願います。


第五、

臣(わたくし)が聞くところでは、古(いにしえ)の人材登用では、必ず諸侯に1年ごとに人材を献上させたと申します。孝武皇帝(こうぶこうてい)(前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい))の世には、郡より孝廉(こうれん)を察挙(さっきょ)し、また賢良(けんりょう)・文学(ぶんがく)の選挙がありました。ここに至って名臣を輩出し、文武が共に興隆しました。

漢(かん)が人材を登用する方法は、武帝(ぶてい)の世から始まった孝廉(こうれん)という常挙、賢良(けんりょう)・文学(ぶんがく)などの制挙という数種類だけです。そもそも書画と辞賦は小さな才能であり、国家を匡正(きょうせい)(間違っているものを正しく直すこと)して政治を治めるために、未(いま)だにその能力はありません。

陛下は即位された当初、まず経学を渉猟(しょうりょう)(多くの書物を読みあさること)されましたが、やがて国政の合間に詩文をお読みになり、いささか御心(みこころ)を遊ばされました。それらはまだ博弈(はくえき)(遊び)の代用にはなり得るものですが、天下を教化し人材を登用する根本の道ではありません。ところが諸生は利を競い合い、詩文の作者はたくさん生まれました。

その中でもまともな者は、少しは経書の訓戒や婉曲(えんきょく)な風刺(ふうし)の言葉を引用しておりますが、下の者は俗な言葉を連ねて対句を作り、まるで芸人の類(たぐい)のようです。ある者は既成の文章を窃盗(せっとう)し、一角(ひとかど)の作者を気取っております。

臣(わたくし)は詔(みことのり)を洛陽(らくよう)城内の盛化門(せいかもん)で拝受する度(たび)に、それに応じて文章を上奏し、等級づけられて及第しておりますが、未(いま)だ及第に達しない者も、また仲間に従ってみな抜擢されています。

すでに彼ら文学で登用された者に恩恵を与えられておりますので、また撤回することは困難でしょう。しかし、彼らの俸禄を保障するだけで恩義は十分であります。それゆえ、彼らをまた人々を統治したり、州郡に出仕させたりするにはおよびません。

昔、孝宣皇帝(こうせんこうてい)(前漢(ぜんかん)の宣帝(せんてい))は儒者を長安(ちょうあん)城内の石渠閣(せききょかく)に集め、章帝(しょうてい)は儒者を白虎観(びゃっこかん)に集め、経書の異同を通じさせ、経文の義を解釈させました。その事業は優れた偉大なものです。

周(しゅう)の文王(ぶんおう)と武王(ぶおう)の道は、2つの会議の結果に従うべき拠(よ)り所があります。もし小さな能力と些細(ささい)な善行に見るべき点があるとしても、孔子(こうし)は「天下国家の遠大な政治を遂行するには、小道では行けなくなることを恐れる」と述べております。君子は、それゆえに大道である儒教を志すべきなのです。


第六、

墨綬(ぼくじゅ)を帯びる長吏(県令(けんれい))は、職務として人々を統治することを掌(つかさど)っております。そのため、彼らはみな恩恵や利益を民に施すことを成績とし、在任期間を功労とすべきであります。

ところが現在は、在任中に功績を顧(かえり)みる事はなく、中央政府に帰った者は多く徴召(ちょうしょう)*5されて議郎(ぎろう)と郎中(ろうちゅう)を拝命しております。もし力量が優れて立派であれば、その者を冗散官(じょうさんかん)(特定の仕事のない官職)に就けるべきではありません。

また、仮に罪を犯しているのであれば、当然その者に対して刑罰を厳格に適用すべきであります。どうして罪に伏し取り調べを懼(おそ)れているにも拘(かか)わらず、かえって転任を求め、互いに真似をして善悪のけじめが十分にならないことがあって良いものでしょうか。

先帝の旧典(きゅうてん)には、未(いま)だかつてこのような事柄は見えませんので、すべて断ち切り、真偽を明らかにすべきであります。


第七、

伏(ふ)して見ますに、陛下はすべて桓帝(かんてい)の陵墓たる宣陵(せんりょう)に服喪した「孝子(こうし)」を太子舎人(たいししゃじん)に任命しました。しかし、臣(わたくし)が聞くところでは、孝文皇帝(こうぶんこうてい)(前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい))は喪服を36日間と制定し、位を継承した天子(てんし)で極めて親しい父子の関係にある者でも、公卿(こうけい)や大官で深い恩義を受けた者であっても、みな情愛を曲げて文帝(ぶんてい)の制度に従い、あえて服喪の期間を越える事はなかったと申します。

今、宣陵(せんりょう)孝子(こうし)と呼ばれる嘘偽りの小人は、もとより桓帝(かんてい)の肉親ではありません。また、桓帝(かんてい)に寵愛(ちょうあい)された恩義はなく、朝廷に出仕した事実もありません。かような者どもは、悼(いた)み悲しみ思慕(しぼ)しようとしても、その感情はどこから生じるというのでしょう。

ところが小人は、桓帝(かんてい)の陵墓に群れ集まり、名声を得て孝(こう)と称されても、行いは心に痛まず、義(ぎ)に拠(よ)り所はありません。さらに、姦悪な者がその中に紛(まぎ)れ込むに至りました。

桓思皇后(かんしこうごう)(竇皇后(とうこうごう))の祖祭に棺(ひつぎ)を車に乗せたとき、東郡(とうぐん)で他人の妻を盗んだ者があり、逃れて「孝子(こうし)」の中におりました。本籍地の県の役人は追跡して逮捕し、賊は罪に伏しました。「孝子(こうし)」たちの嘘にまみれ穢(けが)れていること、口にし難いものがあります。

また「孝子(こうし)」たちは、先に至った者は官を拝命でき、後から来た者たちは排除されました。ある者は何年も陵墓の傍(かたわ)らの陣屋で墓守をしておりましたが、しばらくの間郷里に帰ったことで任官より漏れ、ある者は他人を自分の代わりに立てましたが、任官の寵栄(ちょうえい)を蒙(こうむ)りました。

そのため「孝子(こうし)」たちは訴えを起こし朝廷に怨恨を抱き、街道に騒ぎ立てました。故に「孝子(こうし)」たちから太子舎人(たいししゃじん)を剥奪(はくだつ)し、太子(たいし)の属官には立派な徳を修めた者を探し出して選任すべきであります。どうして陵墓に集まった悪人どもだけから選任する必要がありましょうか。その不吉なこと、これより甚(はなは)だしいものはございません。

どうか「孝子(こうし)」たちを郷里に帰らせ、彼らの虚偽を明らかにすべきであります。


光和(こうわ)元年(178年)2月、蔡邕(さいよう)の諫言(かんげん)にも拘(かか)わらず、霊帝(れいてい)はついに鴻都門学(こうともんがく)を設置します。

鴻都門学(こうともんがく)の諸生は、まず州郡や三公(さんこう)に辟召(へきしょう)され、地方に転出して刺史(しし)や太守(たいしゅ)、中央に戻って尚書(しょうしょ)や侍中(じちゅう)となり、列侯(れっこう)に封ぜられる者もいましたが、心ある者はみな彼らと同列となることを恥としました。

脚注

*9恩赦(おんしゃ)や贖罪(しょくざい)の命令を下す場合などに用いられた天子(てんし)が下す文書の書式のこと。

光和(こうわ)元年(178年)の災異

光和(こうわ)元年(178年)、たびたび怪しげな災異が発生しました。

光和元年(178年)の災異
月 災異
正月
  • 合浦郡(がっぽぐん)と交趾郡(こうしぐん)の烏滸蛮(おこばん)が反乱を起こす。
4月
  • 地震があった。
  • 侍中(じちゅう)の役所の雌鳥(めんどり)が化けて雄(おす)となった。
    全身の羽毛はみな雄鶏(おんどり)のようになったが、鶏冠(とさか)は変化しなかった。
6月
  • 黒気が起こり、温徳殿(おんとくでん)の庭の中に落ちた。
7月
  • 青虹が玉堂の後殿の庭の中に現れた。

これを受け、同年7月、霊帝(れいてい)は詔(みことのり)を下して蔡邕(さいよう)を徴召(ちょうしょう)*5し、

  • 光禄大夫(こうろくたいふ)の楊賜(ようし)
  • 諫議大夫(かんぎたいふ)の馬日磾(ばびつてい)
  • 議郎(ぎろう)の張華(ちょうか)
  • 太史令(たいしれい)の単颺(ぜんよう)

と共に洛陽城(らくようじょう)内の金商門(きんしょうもん)から崇徳殿(すうとくでん)に招き入れ、中常侍(ちゅうじょうじ)の曹節(そうせつ)と王甫(おうほ)に災異や変異を消し去る方法について意見を求めさせました。これに蔡邕(さいよう)は、心を込めて応対します。

蔡邕の進言全文
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『洪範五行伝(こうはんごぎょうでん)』によれば、五事(ごじ)(『書経(しょきょう)』にある、礼節を守る上での大切な五つの事柄。貌(ぼう)・言・視・聴・思のこと)の貌(ぼう)が恭敬さを欠けば、鶏禍(けいか)が生じると申します。

宣帝(せんてい)の黄龍(こうりゅう)元年(紀元前49年)に、未央宮(びおうきゅう)の雌鳥(めんどり)が雄鶏(おんどり)になりましたが、鳴き声は上げず蹴爪(けづめ)もございませんでした。この年、元帝(げんてい)が即位して王(おう)・皇后(こうごう)を立てております。

初元(しょげん)元年(紀元前48年)に至ると、丞相史(じょうしょうし)の家の雌鳥(めんどり)が雄鶏(おんどり)となり、鶏冠(とさか)・蹴爪(けづめ)・鳴き声を備えておりました。この年、皇后(こうごう)の父の王禁(おうきん)が陽平侯(ようへいこう)となり、その娘が正式に皇后(こうごう)になっております。

哀帝(あいてい)が崩御しますと、王皇后(おうこうごう)(当時は太皇太后(たいこうたいごう))が幼い平帝(へいてい)に代わって政治を行い、王莽(おうもう)が王皇后(おうこうごう)の甥であることから大司馬(だいしば)となり、これに乗じて乱を起こしました。

臣(わたくし)が秘(ひそ)かに推察しますに、頭は元首(げんしゅ)であり人君の象(かたち)でございます。

今、鶏(にわとり)の全身はすでに変化しましたが、陛下は変化が頭にまでは至っていない段階で、これをお知りになりました。これは変事が起きようとしているが、不完全なままで終わることの象(かたち)であります。

もしこの異変にしっかりと対応せず、政治を改善しなければ、鶏冠(とさか)までもが雄鶏(おんどり)のものに変わってしまうかもしれず、禍(わざわい)もますます大きくなるでしょう。

蔡邕(さいよう)、恨(うら)みを買う

霊帝(れいてい)はこれらの災異について三公(さんこう)・九卿(きゅうけい)や士人たちに尋ねましたが、誰からも要領を得た答えを聞くことはできませんでした。

そこで霊帝(れいてい)は、再度蔡邕(さいよう)に詔(みことのり)を下して内密に忌憚(きたん)のない意見を求めました。

霊帝の詔・全文
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近頃災異と変異が交互に発生しているが、未(いま)だにその原因となる罪が判明せず、朝廷ではこれを大変危惧(きぐ)している。また、三公(さんこう)・九卿(きゅうけい)や士人たちに諮問(しもん)して忠臣の諫言(かんげん)を求めたが、みな口を閉ざしてはっきりと意見を述べる者はいなかった。

蔡邕(さいよう)は経学を深淵まで修(おさ)めていることから、秘(ひそ)かに特に諮問(しもん)する次第である。得失を披露(ひろう)し、政治の重要な事柄を指摘するように。また、ためらって疑念と遠慮を抱くことのないようにせよ。

経学に基づいて詳細に答え、書状を黒い袋の中に収め、封緘(ふうかん)して奏上せよ。


これに蔡邕(さいよう)は、霊帝(れいてい)の願い通り「災異の原因となっている悪人の実名」を挙(あ)げ、正直に忌憚(きたん)のない意見を上奏します。

蔡邕の上奏文・全文
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臣(わたくし)が伏して思いますに、陛下は聖なる徳が誠に明らかで深く災異の発生を痛み、臣(わたくし)の末学を褒めて特にご下問なさいましたが、臣(わたくし)は虫けらや蟻(あり)のような才能ですので、その任に堪(た)え叶(かな)うものではございません。ですがこれは、誠に心の内をさらけ出し、命を投げ出すほど貴重な機会であります。どうして直言による我が身の災難を省みて、害悪を回避し、陛下に厳しい戒(いまし)めの言葉をお聞かせしないでおられましょうか。

臣(わたくし)が伏して思いますに、様々な災異はすべて国家の滅亡を示すものです。天の大漢(だいかん)に対する接し方は、懇(ねんご)ろなことこの上ありません。それ故天は、度々怪しげな変異を発生させ、それによって咎(とが)め責め、人君に自分の罪過を感じ悟らせて、危険を改めて安寧につかせようとしているのです。

今、災禍の発生は、他の場所においてではなく、遠方でも宮殿の門と垣根、近隣では官庁に起こっており、それらの戒(いまし)めとしての役割は、非常に厳しいと言うべきです。

虹が地上に墜(お)ちて鶏の雌雄が変化する災異は、すべて女性が政治に関与することが引き起こしたものです。以前、(霊帝(れいてい)の)乳母の趙嬈(ちょうぎょう)は天下に貴(とうと)び重んじられました。生前に私蔵する財貨の量は、宮中の倉庫に収蔵されているものに並び、その墳墓の規模は皇帝の陵墓を超え、2人の子は封侯(ほうこう)され、兄弟は太守(たいしゅ)に任官して郡を掌(つかさど)りました。

続いて永楽門史(えいらくもんし)の霍玉(かくぎょく)が城壁の中に住み着く鼠(ねずみ)のようにおもねって、邪(よこしま)な行動を取りました。

今、巷(ちまた)では紛々(ふんぷん)と程大人(ていたいじん)(程璜(ていこう))という権勢を振るう者が現れたと言っております。その風説を勘案いたしますに、程大人(ていたいじん)は国家の憂(うれ)いになろうとしております。

陛下には、どうか堤防を高く築き、禁令を明確に制定し、趙嬈(ちょうぎょう)と霍玉(かくぎょく)の悪行を深くお考えになられて、それらを厳しい戒(いまし)めとしてください。

今、神聖なる陛下の御心(みこころ)は勤め励んで、正邪の分別を明らかにしようとお考えになっております。ところが聞くところでは太尉(たいい)の張顥(ちょうこう)は霍玉(かくぎょく)に推挙され、光禄勲(こうろくくん)の姓璋(せいしょう)は貪欲であると申します。また、長水校尉(ちょうすいこうい)の趙玹(ちょうげん)と屯騎校尉(とんきこうい)の蓋升(がいしょう)は、共に時世におもねって手にした幸福を貪(むさぼ)り、栄華で裕福なことを十分すぎるほどであります。

彼らは小人が高い位に就くことの罪過に思いを馳(は)せ、身を退(しりぞ)いて賢明な者に地位を譲ると言う幸福を考えるべきでしょう。

伏して見ますに、廷尉(ていい)の郭禧(かくき)は純粋篤実(じゅんすいとくじつ)、老齢で徳を有し、光禄大夫(こうろくたいふ)の橋玄(きょうげん)は聡明で物事に通じ、方正実直(ほうせいじっちょく)であり、元の太尉(たいい)の劉寵(りゅうちょう)は忠実で正義を守るものです。彼らをみな謀主に据(す)え、度々諮問(しもん)すべきであります。

そもそも宰相(さいしょう)と大臣は、君主の股肱(ここう)の臣(信頼できる家臣)であります。任務を委(ゆだ)ねて成果を求め、その結果すでに優劣が分かれております。陛下には、どうか小吏の意見を聞き入れて、大臣を官位から退(しりぞ)けて罪を問うことのないようにしてください。

また、尚方(しょうほう)の工芸品と、鴻都門学(こうともんがく)の文学作品は、しばらくの間作成を中止し、それによって憂慮(ゆうりょ)の念を示すべきです。

『詩経(しきょう)』に、「天の怒りを畏(おそ)れ、あえて戯(たわむ)れない」とあります。天の戒(いまし)めは誠に戯(たわむ)れるべきではありません。宰相府(さいしょうふ)の孝廉(こうれん)は、士人にとって最高の察挙(さっきょ)です。

近頃、辟召(へきしょう)による任用が横行しているため、その担(にな)い手である三公(さんこう)を厳しく責め咎(とが)めております。ところが今つまらぬ文章により選挙を超えて抜擢し、清託(せいたく)の門戸を開き、明王(めいおう)の規範に反し、人々の心は納得しておりませんが、あえて文学を尊重することへの異議を述べる者はおりません。

臣(わたくし)は、陛下が堪(た)え忍んでこのような風潮を断ち切り、政務全般に思いを馳(は)せ、天の望みに応じられますよう願っております。聖朝(せいちょう)(陛下)が御身を厳しく引き締めれば、左右の近臣もまた教化に従うべきとなります。

人々が自(みずか)ら抑制して、咎(とが)めと戒(いまし)めとして天が下す災異を塞(ふさ)げば、天道は満ちているものを削り、鬼神は謙譲なものに幸福を授けるものですから、災異も止みましょう。

臣(わたくし)は愚かであるために感激して我が身を忘れ、あえて禁忌(きんき)に抵触し、上奏文を手づからしたためて詳細にお応(こた)えいたしました。そもそも君主と臣下が機密を守らなければ、上には言葉を漏洩(ろうえい)する戒(いまし)めがあり、下には命を失う災禍が降りかかります。

陛下には臣(わたくし)の上奏文を隠し、忠義を尽くす吏が姦悪な者から怨みを買うことのないようにお願いいたします。


蔡邕(さいよう)の上奏文を読んだ霊帝(れいてい)は、ため息をついて厠(かわや)(トイレ)に立ちました。

この時、宦官(かんがん)の曹節(そうせつ)がその上奏文を盗み見て、その内容を側近に言いふらしたため、蔡邕(さいよう)に批判された者たちはみな報復を決意しました。

髡鉗(こんけん)の刑に処される

蔡邕(さいよう)、弾劾(だんがい)される

蔡邕(さいよう)は司徒(しと)の劉郃(りゅうこう)と折り合いが悪く、蔡邕(さいよう)の叔父(おじ)で衛尉(えいい)の蔡質(さいしつ)は、中常侍(ちゅうじょうじ)の程璜(ていこう)の娘婿(むすめむこ)である将作大匠(しょうさくたいしょう)の陽球(ようきゅう)と不仲でした。

ある時、(蔡邕(さいよう)が批判した)程璜(ていこう)は、ある人にこう言わせました。


「蔡邕(さいよう)と蔡質(さいしつ)は、しばしば劉郃(りゅうこう)に私事(わたくしごと)で特別の計らいを頼んでいましたが、劉郃(りゅうこう)が聞き入れないため怨(うら)みを抱き、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)しようとしております」


これに蔡邕(さいよう)は、弁解の上奏をしますが、


「蔡邕(さいよう)と蔡質(さいしつ)は天子(てんし)に仕える臣に恨(うら)みを晴らし、大臣を論(あげつら)って傷つける議論をし、その罪は大不敬にあたり、棄市(きし)(打首獄門)に処すべきである」


と弾劾(だんがい)されました。

蔡邕の上奏文・全文
タップ(クリック)すると開きます。

臣(わたくし)は召し出されてご下問を受け、大鴻臚(だいこうろ)の劉郃(りゅうこう)が以前に済陰太守(せいいんたいしゅ)だった時、臣(わたくし)が吏の張宛(ちょうえん)の長期休暇を100日間にするようにと請託(せいたく)し、劉郃(りゅうこう)が司隷校尉(しれいこうい)であった時、河内郡(かだいぐん)の吏の李奇(りき)を州書佐(しゅうしょさ)に任用するようにと請託(せいたく)し、元の河南尹(かなんいん)の羊陟(ようちょく)・侍御史(じぎょし)の胡母班(こぼはん)を擁護したものの、劉郃(りゅうこう)が便宜をはからなかったので怨恨(えんこん)を抱いたという罪状を科されております。

そのため、臣(わたくし)は不安にかられて恐れおののき、肝は土に塗(まみ)れて生死の在処(ありか)も分からない有り様です。

自(みずか)ら思い返して考えますに、臣(わたくし)は確かに張宛(ちょうえん)と李奇(りき)について請託(せいたく)いたしましたが、羊陟(ようちょく)と胡母班(こぼはん)に関しては身に覚えがございません。小吏を休暇させるのは、恨(うら)みを抱く根本にはなりません。我が一族は羊陟(ようちょく)と姻戚関係にありますので、どうしてあえて私的なつながりのある者を助けるよう申しましょうか。

もし臣(わたくし)たちが互いに劉郃(りゅうこう)を中傷して陥(おとしい)れようとすれば、台閣(たいかく)(政府)に事の子細を明確に申し上げ、怨恨(えんこん)を抱くに至った要因を詳細に開陳すべきでしょう。臣(わたくし)の心の内にはわずかばかりもやましいところはありませんが、臣(わたくし)を誹謗(ひぼう)する書状が外で発せられております。

どうか臣(わたくし)と劉郃(りゅうこう)を対面させてお取り調べ下さい。

臣(わたくし)は学問によって特別に高く評価され、秘館(ひかん)(東観)において職務にあたり、御前において筆を走らせ、姓名と容貌(ようぼう)がわずかに陛下の御心(みこころ)に適(かな)いました。

今年(178年)の7月、臣(わたくし)は召し出されて金商門(きんしょうもん)に赴(おもむ)き、災異の発生に対する方策について諮問(しもん)され、さらに詔(みことのり)を下されてご意向を示され、臣(わたくし)を促(うなが)して意見を述べさせました。

臣(わたくし)はまことに愚かで、ただ忠を尽くすことを知るだけです。そのため臣(わたくし)は、命を投げ出し我が身を忘れ、後(のち)に降りかかる危険を顧みず、ついに公卿(こうけい)の悪事を誹謗(ひぼう)して、その対象は陛下の寵臣(ちょうしん)にまで及びました。

それによって陛下の諮問(しもん)にお応(こた)えし、災異を消し去り、陛下のために安寧をもたらす計を立てようと考えたためです。

しかし、忠臣の直言は覆(おお)い隠すことができず、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)がにわかに起こり、それによって疑い怪しまれることになりました。このようなことでは心を尽くす吏は、どうして受け入れられましょうか。

詔書(しょうしょ)が下されるたびに、百官はそれぞれ封事を奏上し、それによって政治の誤(あやま)りを改めて天の譴責(けんせき)(悪い行いや過失などをいましめて責めること)を思い、凶事を排除して吉事をもたらそうと考えます。

ところが陛下に意見を述べる者は、引見にあずかる幸福に恵まれず、たちまちにして身の破滅という禍(わざわい)を受けるのです。今や百官はすべて口を閉ざして陛下に直言せず、臣(わたくし)の境遇を戒(いまし)めとしております。このような状況で誰があえて陛下のために忠と孝を尽くすのでしょうか。

臣(わたくし)の叔父(おじ)である蔡質(さいしつ)はしきりに抜擢され、高位に列しております。臣(わたくし)は恩沢を受けて、しばしば諮問(しもん)にあずかりました。これらのことから論者は、臣(わたくし)の家を破滅させようとしています。彼らはまた、隠れた悪事を摘発して糾弾(きゅうだん)し、国家に利益をもたらそうとする者ではありません。

臣(わたくし)は46歳で、孤立無援の身です。忠臣としての名声を残すことができれば、死んでも子々孫々におよぶ栄誉が残ります。

臣(わたくし)が恐れておりますのは、陛下が事ここに至(いた)ってまた立派な言葉をお聞きになれなくなることです。

臣(わたくし)の愚鈍さは、もとより禍(わざわい)にあたります。ただ以前、臣(わたくし)が諮問(しもん)にお応(こた)えしたことを、蔡質(さいしつ)は聞き及んでおりませんのに、衰(おとろ)え老いた身で捕らえられ、臣(わたくし)と連座させられ身の破滅を迎え、ともに陥(おとしい)れられております。これは誠に恨(うら)めしく痛ましいことであります。

臣(わたくし)は一度(ひとたび)牢獄に入れば、当然責め苛(さいな)まれて飲章(いんしょう)(匿名(とくめい)の上奏文)の奏上を促(うなが)されることになります。そのような状況に陥(おちい)れば、正しい言葉や忠義の情を何によって申し上げればよろしいのでしょうか。

臣(わたくし)は死期が到来しようとしておりますが、向こう見ずにも自(みずか)ら意見を述べております。どうか我が身が処刑され、蔡質(さいしつ)が連座を免(まぬか)れますように。それが叶(かな)えば、我が身の死ぬ日は蔡質(さいしつ)が改めて生きる年となります。

臣(わたくし)は、陛下がお体を大事にして、多くの民のためにご自愛くださいますように祈念しております。


この時、中常侍(ちゅうじょうじ)の呂強(りょきょう)が「蔡邕(さいよう)の冤罪(えんざい)」を憐(あわ)れんで助命を請願すると、霊帝(れいてい)は詔(みことのり)を下して死一等を減じ、家族と共に髡鉗(こんけん)の刑(頭髪を剃(そ)って鉄の首枷(くびかせ)をはめる刑罰)に処して、赦令(しゃれい)があっても許さないという条件で朔方郡(さくほうぐん)に徒刑(とけい)にしました。

蔡邕(さいよう)暗殺の失敗

蔡邕(さいよう)が護送される際、陽球(ようきゅう)は護送の道に刺客を放って蔡邕(さいよう)を殺害しようとしますが、蔡邕(さいよう)の義に感じ入っていた刺客たちは、みな彼を殺そうとはしませんでした。

陽球(ようきゅう)はまた、朔方郡(さくほうぐん)に至(いた)る途中に通る州郡の刺史(しし)や太守(たいしゅ)に賄賂を贈って蔡邕(さいよう)を毒殺しようとしますが、陽球(ようきゅう)から賄賂を受け取った者たちは、逆にその情報を蔡邕(さいよう)に伝えて戒(いまし)めました。

こうして暗殺の難を逃れた蔡邕(さいよう)は、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・五原郡(ごげんぐん)・安陽県(あんようけん)に住みました。


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亡命期

霊帝に許される

蔡邕(さいよう)が以前東観(とうかん)に勤務していた時、盧植(ろしょく)・韓説(かんえつ)たちと『後漢記(ごかんき)』を著(あらわ)して『漢書(かんじょ)』の十志の欠を補(おぎな)いましたが、流刑の身となったため、これを完成させることができなくなってしまいました。

そこで蔡邕(さいよう)は上書して自(みずか)ら著(あらわ)した『十意(じゅうい)』を奉(たてまつ)り、巻首の目次を整理して上奏文の左に書き連ねました。これを読んだ霊帝(れいてい)は蔡邕(さいよう)の才能を高く評価し、翌光和(こうわ)2年(179年)、蔡邕(さいよう)を彼の本籍地の陳留郡(ちんりゅうぐん)に帰らせることにします。

蔡邕(さいよう)が刑に服してから許されるまで、9ヶ月でした。

呉郡に亡命する

王智(おうち)を怒らせる

蔡邕(さいよう)が帰途につこうとすると、五原太守(ごげんたいしゅ)の王智(おうち)は蔡邕(さいよう)の送別の宴(うたげ)を開きました。

宴(うたげ)も たけなわ となった時のこと。王智(おうち)が立ち上がって舞いを披露すると、蔡邕(さいよう)にも一緒に舞うように誘いました。ですが、蔡邕(さいよう)はこれを断ります。

この王智(おうち)は中常侍(ちゅうじょうじ)の王甫(おうほ)の弟で、平素から驕(おご)り高ぶっていたので、大勢の客人の前で断られたことを恥じ、「刑徒め、私を軽んじるのかっ!」と言い放ちます。すると蔡邕(さいよう)は、黙って衣(ころも)を振り払い、その場を立ち去りました。

これを恨(うら)みに思った王甫(おうほ)は、「蔡邕(さいよう)は囚人として追放されたことを怨(うら)み、朝廷を誹謗(ひぼう)しております」と密告します。


ここに至(いた)って蔡邕(さいよう)は、ついに罪に問われることを免(まぬか)れないと思い、紅海(こうかい)(長江(ちょうこう)沿岸地域)の呉郡(ごぐん)や会稽郡(かいけいぐん)に亡命しました。

その後は兗州(えんしゅう)・泰山郡(たいざんぐん)の羊氏(ようし)を頼って行き来し、12年*10の間、揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)に滞在します。

脚注

*10霊帝(れいてい)に許された179年から董卓(とうたく)に仕えた189年まで最大でも11年間となる。

琴の音色を怪しむ

蔡邕(さいよう)が兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)にいた時のこと。

隣人に酒宴に招かれた蔡邕(さいよう)が門の前に着いた時、客人の中に衝立(ついたて)のそばで琴を弾く者がおり、琴の音色が聞こえて来ました。

蔡邕(さいよう)は門の外でその演奏を聴き、「ああ、何故であろう。この家の主人は私を酒宴に招いたが、この琴の音色には殺気がある」と言って、そのまま立ち去ってしまいます。

取り次ぎの者は驚いて、「蔡君(さいくん)が門の所までやって来て、立ち去りました」と主人に報告しました。蔡邕(さいよう)を大変尊敬していた隣人は、自(みずか)ら蔡邕(さいよう)を追いかけて立ち去った理由を尋ねます。

蔡邕(さいよう)がその理由を詳しく話して聞かせると、琴を弾いていた者が言いました。


「私はさきほど弦を打ち鳴らしながら、カマキリが鳴き声をあげる蝉(せみ)を襲おうとしているのを見つけました。蝉(せみ)も気づいているようでしたがまだ飛ばず、カマキリも様子を窺(うかが)って一進一退を繰り返しておりました。私の心は、カマキリが蝉(せみ)を殺そうとすることを恐れたのです。どうしてあなたに殺意など抱きましょうか」


これを聞いた蔡邕(さいよう)は、「これですっかり謎が解けた」と言って笑いました。

焦尾琴(しょうびきん)をつくる

ある時、呉(ご)に桐(きり)の木を薪(まき)として焼き、飯を炊く者がいました。

火がはじける音で良木であることに気づいた蔡邕(さいよう)は、その桐(きり)の木を譲(ゆず)り受け、その木から琴をつくります。

そしてその琴は、蔡邕(さいよう)の予想通り美しい音色を奏(かな)でました。また、琴の龍尾(りゅうび)の部分に焦(こ)げた跡が残っていたことから、人々はこの琴を「焦尾琴(しょうびきん)」と呼びました。


箏(琴)の各部名称

箏(そう)(琴)の各部名称

画像引用元:鹿児島の箏(琴)・三味線和楽器教室:桐の音楽院


傅玄(ふげん)の琴賦(きんふ)の序(じょ)に、

「斉(せい)の桓公(かんこう)の元に鳴琴(めいきん)あり、その名を号鍾(ごうしょう)と言い、楚(そ)の荘王(そうおう)の元に鳴琴(めいきん)あり、その名を繞梁(じょうりょう)と言った。司馬相如(しばしょうじょ)の元には緑綺(りょくき)が、蔡邕(さいよう)の元には焦尾(しょうび)があった。これらの琴はすべて名器である」

とあります。


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第2仕官期

董卓に辟召(へきしょう)される

中平(ちゅうへい)6年(189年)、ついに霊帝(れいてい)が崩御します。

洛陽(らくよう)に入って司空(しくう)となった董卓(とうたく)は、蔡邕(さいよう)の名声を聞きつけて彼を辟召(へきしょう)しますが、蔡邕(さいよう)は病(やまい)と偽(いつわ)って出仕しませんでした。

すると董卓(とうたく)は大いに怒り、「儂(わし)の力は奴の一族を皆殺しにできる。蔡邕(さいよう)が仮病(けびょう)を使うのであれば、長く生きてはおられまい」と言って州郡に厳命し、蔡邕(さいよう)を察挙(さっきょ)して自分の幕府に呼び出します。

蔡邕(さいよう)はやむを得ず董卓(とうたく)の下に赴(おもむ)くと、董卓(とうたく)は彼を祭酒(さいしゅ)(ある官職の筆頭)に任命して大変尊重しました。

また蔡邕(さいよう)は、高第(こうだい)に察挙(さっきょ)されて侍御史(じぎょし)に任命され、持書御史(じしょぎょし)に転じて尚書(しょうしょ)に転任し、洛陽(らくよう)に向かう途中、3日間のうちに三台(さんだい)[尚書(しょうしょ)(中台(ちゅうだい))・御史(ぎょし)(憲台(けんだい))・謁者(えっしゃ)(外台(がいだい))]を歴任することになります。


その後、巴郡太守(はぐんたいしゅ)に転任されましたが、中央に留(とど)まって侍中(じちゅう)となりました。

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董卓を諫める

尚父(しょうほ)と号することを諫(いさ)める

初平(しょへい)元年(190年)、蔡邕(さいよう)は左中郎将(さちゅうろうしょう)を拝命し、献帝(けんてい)の長安(ちょうあん)遷都(せんと)に随従して高陽郷侯(こうようきょうこう)に封建されます。

またこの時、董卓(とうたく)の部下(賓客(ひんきゃく)と部曲(ぶきょく))が、董卓(とうたく)を古(いにしえ)の太公望(たいこうぼう)(呂尚(りょしょう))になぞらえて尚父(しょうほ)を号するように勧めました。

これを受けて董卓(とうたく)が相談すると、蔡邕(さいよう)は次のように答えます。


「太公(たいこう)は周(しゅう)を補佐し、命(めい)を受けて商(しょう)(殷(いん))を滅ぼした功績により、特別にその尊号を称するのです。今、明公(めいこう)(董卓(とうたく))の威厳と温徳はまことに高大ですが、尚父(しょうほ)(呂尚(りょしょう))になぞらえるのは時期尚早であると愚考いたします。関東(かんとう)(反董卓(とうたく)連合)が平定され、車駕(しゃが)(皇帝(こうてい))が旧京(きゅうけい)(洛陽(らくよう))にご帰還されるのを待ち、その後に議論すべきです」


董卓(とうたく)は蔡邕(さいよう)の言葉に従いました。

身分不相応な行いを諫(いさ)める

初平(しょへい)2年(191年)6月、地震が発生しました。董卓(とうたく)はその原因について蔡邕(さいよう)に尋ねます。

これに蔡邕(さいよう)は、


「地震が発生するのは、陰の気が盛んになって陽の気を侵犯し、臣下が制度を超えて振る舞っているからです。春の郊天(こうてん)の祭祀(さいし)の時、公(こう)(董卓(とうたく))は車駕(しゃが)(皇帝(こうてい))の先導にあたり、黄金の花・青色の車蓋(しゃがい)・花びらの描かれた一対の泥よけを備えた安車(あんしゃ)(皇太子(こうたいし)と皇子(おうじ)に許された車)に乗りましたが、天下の人々はこれを相応(ふさわ)しくないと思っております」


と答えました。

すると董卓(とうたく)は、乗っていた安車(あんしゃ)をやめて皁蓋車(そうがいしゃ)(黒色の車蓋(しゃがい)の車)に乗るようになりました。


董卓(とうたく)は、蔡邕(さいよう)の学識を重んじて手厚くもてなし、酒宴を開くたびに蔡邕(さいよう)に琴を演奏させて座を盛り上げました。

関連記事

亡命を考える

蔡邕(さいよう)は、常に世の中の害を除いて益のあるように願い、董卓(とうたく)を補佐することでその実現をしようと考えていました。

ですが董卓(とうたく)は人の意見に従わないことが多かったので、蔡邕(さいよう)はそのことを不満に思い、従弟の蔡谷(さいこく)に言いました。


「董公(とうこう)(董卓(とうたく))は気性が激しく非道を行い、ついには救うことができないであろう。私は東方の兗州(えんしゅう)に出奔(しゅっぽん)しようと考えている。もし兗州(えんしゅう)に行くことが難しければ、しばらくの間山東(さんとう)に逃れて機会を待とうと思うが、どうだろうか」


すると蔡谷(さいこく)は、


「君の容貌(ようぼう)は常人と異なっているので、道行くたびに君を見る者が群れ集まってくるであろう。そのような状況で身を隠そうとしても難しいのではなかろうか」


と言ったので、蔡邕(さいよう)は出奔(しゅっぽん)することを諦(あきら)めました。

蔡邕の死

蔡邕(さいよう)の失態

初平(しょへい)3年(192年)4月、司徒(しと)・王允(おういん)、尚書僕射(しょうしょぼくや)・士孫瑞(しそんずい)、董卓(とうたく)の将・呂布(りょふ)らの共謀によって、董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)されました。

そのことを知った蔡邕(さいよう)は、王允(おういん)の席に列していながら董卓(とうたく)の誅殺(ちゅうさつ)を話題にし、ため息をついて表情を曇(くも)らせます。これを見咎(とが)めた王允(おういん)は声を荒げて蔡邕(さいよう)を叱責し、廷尉(ていい)に身柄を引き渡して罪状を取り調べさせました。

蔡邕(さいよう)の死

蔡邕(さいよう)は言葉を尽くして謝罪し、「どうか首に黥刑(げいけい)*11を施(ほどこ)し、足に刖刑(げつけい)*12を施(ほどこ)してでも、漢(かん)の歴史を編纂(へんさん)することをお許しいただきたい」と懇願します。

また、馬日磾(ばびつてい)をはじめとする多くの人々も蔡邕(さいよう)を救おうとしましたが王允(おういん)は聞き入れず、蔡邕(さいよう)は獄死しました。享年(きょうねん)61歳でした。


この時王允(おういん)は、後悔して蔡邕(さいよう)の取り調べを取りやめようとしましたが、間に合わなかったと言われています。

関連記事

蔡邕(さいよう)の死については、こちらの記事に詳しくまとめています。

脚注

*11額に刺青(いれずみ)をする刑罰のこと。黥首(げいしゅ)とも。

*12足を切断する刑罰のこと。

蔡邕の著作

蔡邕(さいよう)が生涯をかけて選び集めた「漢(かん)の事跡」は、まとめられて『漢書(かんじょ)』に続く歴史書となることはありませんでした。

また蔡邕(さいよう)は、「霊帝本紀(れいていほんぎ)」と「十意(じゅうい)」をつくり、また各種の列伝42篇を補(おぎな)いましたが、「李傕(りかく)の乱」によってその多くは失われて現存していません。


蔡邕(さいよう)の著作には、詩(し)・賦(ふ)・碑文(ひぶん)・誄(るい)誄誄・銘文(めいぶん)・讚文(さんぶん)・連珠(れんじゅ)・箴言(しんげん)・弔文(ちょうぶん)・論議(ろんぎ)・『独断(どくだん)』・「観学(かんがく)」・「釋誨(しゃくかい)」・「敍楽(じょがく)」・「女訓(じょくん)」・「篆埶(てんせい)」・祝詞(しゅくし)・章(しょう)・表(ひょう)・書(しょ)・記(き)があり、合計104篇が世に伝わりました。


蔡邕(さいよう)は、霊帝(れいてい)に才能を認められたために恨(うら)みを買い、董卓(とうたく)に気に入られたために あらぬ疑いをかけられて獄死することになりました。

陽球(ようきゅう)や王允(おういん)など、本来志(こころざし)を同じくする者たちから危害を加えられていることから、文章・算術・天文・音楽と多彩な才能を持ちながら、人付き合いだけは不得手だったと言えるかもしれません。

蔡邕(さいよう)にとっては、亡命先の呉郡(ごぐん)で過ごした12年間*10が、最も幸せな時間だったのではないでしょうか。


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蔡邕関連年表

生年・年齢は享年(きょうねん)を基準にして記載しています。

西暦 出来事
132年

■ 永建(えいけん)6年

  • 蔡邕(さいよう)、兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・圉県(ぎょけん)で生まれる。
不明
167年
まで
  • 太傅(たいふ)の胡広(ここう)に師事する。
  • 3年間、母の看病に専念する。
  • 母の喪(も)に服す。
  • 勅命(ちょくめい)により洛陽(らくよう)に呼び出されるが、病(やまい)を偽って郷里に帰る。
不明
  • 人々との交際を断ち『釋誨(しゃくかい)』を著(あらわ)す。
170年

■ 建寧(けんねい)3年【39歳】

  • 司徒(しと)の橋玄(きょうげん)に辟召(へきしょう)される。
不明
  • 河平長(かへいちょう)に任命される。
  • 郎中(ろうちゅう)に任命される。
  • 東観(とうかん)*6で秘蔵書の校訂を行う。
175年

■ 熹平(きへい)4年【44歳】

 3月

  • 『六経(りくけい)』の文字を校定*7し、熹平石経(きへいせきけい)を建立する。
  • 「三互(さんご)の法(ほう)」の廃止を上奏する。
177年

■ 熹平(きへい)6年【46歳】

  • 雷や突風、地震や雹(ひょう)、蝗害(こうがい)が相次いで発生する。

 7月

  • 霊帝(れいてい)の求めに応じて諫言(かんげん)する。
178年

■ 光和(こうわ)元年【47歳】(上奏文には46歳とある)

 2月

  • 霊帝(れいてい)が鴻都門学(こうともんがく)を設置する。
  • 災異が相次ぐ。

 7月

  • 詔(みことのり)により中常侍(ちゅうじょうじ)の曹節(そうせつ)と王甫(おうほ)に災異について意見する。
  • 霊帝(れいてい)の求めに応じて、内密に悪人たちを批判する上奏をする。
  • 曹節(そうせつ)が上奏文を盗み見て、側近に言いふらす。

 不明

  • 蔡邕(さいよう)が批判した程璜(ていこう)の差し金により弾劾(だんがい)される。
  • 中常侍(ちゅうじょうじ)の呂強(りょきょう)の助命嘆願により髡鉗(こんけん)に刑を減ぜられ、朔方郡(さくほうぐん)に流される。
  • 陽球(ようきゅう)の刺客に見逃される。
  • 朔方郡(さくほうぐん)に至(いた)る刺史(しし)や太守(たいしゅ)に助けられる。
  • 幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・五原郡(ごげんぐん)・安陽県(あんようけん)に住む。
179年

■ 光和(こうわ)2年【48歳】

  • 霊帝(れいてい)に許される。刑期は9ヶ月。
  • 五原太守(ごげんたいしゅ)・王智(おうち)の恨(うら)みを買う。
  • 王智(おうち)が蔡邕(さいよう)を弾劾(だんがい)する。
  • 呉郡(ごぐん)に亡命する。
180年
|
188年
  • 兗州(えんしゅう)・泰山郡(たいざんぐん)の羊氏(ようし)を頼り行き来する。
  • 琴の音色を怪しむ。
  • 揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)に住む。
  • 焦尾琴(しょうびきん)を作る。
189年

■ 中平(ちゅうへい)6年【58歳】

  • 董卓(とうたく)に辟召(へきしょう)される。
  • 洛陽(らくよう)に向かう途中、3日間のうちに侍御史(じぎょし)、持書御史(じしょぎょし)、尚書(しょうしょ)を歴任する。
  • 巴郡太守(はぐんたいしゅ)に任命されるが、中央に留(とど)まって侍中(じちゅう)となる。
190年

■ 初平(しょへい)元年【59歳】

 1月

  • 反董卓(とうたく)連合が決起する。

 2月

  • 左中郎将(さちゅうろうしょう)に任命される。
  • 董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)を破壊して長安(ちょうあん)に遷都(せんと)する。
191年

■ 初平(しょへい)2年【60歳】

 4月

  • 尚父(しょうほ)を号しようとする董卓(とうたく)を諫(いさ)める。

 6月

  • 董卓(とうたく)の分不相応な行いを諫(いさ)める。

 不明

  • 亡命を考える。
192年

■ 初平(しょへい)3年【61歳】

 4月

  • 董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)される。

 不明

  • 王允(おういん)に断罪され、獄死する。
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