董卓の死後、その死を憐れんだために獄死したことで知られる蔡邕とは、どんな人物だったのでしょうか。
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出自
はじめに
『後漢書』蔡邕伝には、蔡邕の著作や上奏文がかなりの長文で記載されています。
その内容は非常に興味深いものですが、すべてを紹介すると逆に混乱してしまう恐れがありますので、本文では省略または要約して紹介しています。
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出身地 / 生没年
蔡邕は字を伯喈と言い、兗州・陳留郡・圉県の人です。
生没年は132年または133年〜192年。
蔡邕の生年は、享年61歳から逆算すると132年。178年の上奏文の時点で46歳とあることから逆算すると133年となります。
『後漢書』に列伝があります。
兗州・陳留郡・圉県
家族
祖先
蔡邕の6代前の祖先・蔡勲は黄老思想を好み、前漢の平帝期[元寿2年(紀元前1年)〜元始5年(5年)]に郿令となり、王莽期の初めに厭戎連率*1に任命されました。
ですが蔡勲は、「私は漢の人間だ。劉氏と王氏の二姓に仕えることなどできない」と言って、家族と共に山奥に逃亡しました。
脚注
*1厭戎は漢代の隴西郡、連率は漢代の太守にあたります。
父
- 父:蔡棱
蔡邕の父・蔡棱も清廉潔白を旨とし、貞定公と諡されました。
子
- 娘:蔡琰(蔡文姫)
- 娘:蔡氏。司馬師の妻・羊徽瑜の母
従弟
蔡谷
叔父
蔡質
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遁世期
孝行で知られる
蔡邕はもともと孝行心に篤い性格で、病気の母を看病する3年の間、季節の変わり目以外は襟と帯を解いたことがなく、寝台で眠らない日が70日に及んだこともありました。
母が亡くなるとお墓の側に粗末な小屋を建て、常に礼に従って行動したため、蔡邕の周りには兎が集まり懐き、連理木*2が生えたと言われています。
また、3世代で財産を分けずに叔父や従弟と同居して暮らしたため、郷里の人々は彼の義を高く評価しました。
蔡邕は若い頃から博学で、太傅の胡広に師事しました。また、文章・算術・天文を好み、特に音楽を奏でることを得意としていました。
脚注
*22本の樹木の枝、または1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。吉兆の1つ。
『釋誨(しゃくかい)』を著す
後漢の第11代皇帝・桓帝の時代[本初元年(146年)〜永康元年(167年)]のこと。
蔡邕の琴の腕前が優れていることを聞きつけた中常侍の徐璜・左悺ら五侯*3は、天子(桓帝)に申し上げ、陳留太守に勅命を下して蔡邕を洛陽に呼び出しました。
この時蔡邕は仕方なく洛陽に向かいますが、司隷・河南尹・匽師県に至ったところで、病を偽って郷里に帰ってしまいます。
司隷・河南尹・匽師県
この後、蔡邕は人々との交際を断ち、東方朔や楊雄、班固、崔駰といった人々の著作を読みふけり、様々な言葉を照らし合わせて誤りを正して『釋誨』を著しました。
『釋誨(しゃくかい)』の引用全文
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務世公子という者がおり、華顛胡老に教え諭して言った。
「聞くところでは、聖人の大いなる宝物を位と言い、故に聖人は仁により位を守り、財産により人を集めると言う。そうであれば、位があって貴く、財産があって富裕で、義を行い道に達することは士の勤めである。
それゆえ伊摯(伊尹)は鼎を背負って自らを売り込み、仲尼(孔子)は露払いの任に関する言葉を吐き、甯子(甯戚)には清商の歌を歌った逸話があり、百里(百里奚)は牛を飼育したのである。そもそもこうしたことは、聖哲の普遍の趣きと古人の明らかな志のなすわざである。
孔子は清らかで和らいだ世に生まれて純粋で穏やかな精神を振るい、典籍に深く思いを馳せて六経を大事にしまい、貧困の身に安住して卑賤の身を楽しみ、世間と共に行動することはなかった。精神を深い境地に沈め、志を高く掲げて無限に包み込み、無形なものを総合的に分析してすでに久しい。
かつて人々の中から抜きんでて群を抜き、香りを漂わせて華やかさを振りまき、天の宮廷に参内して人倫を順序立て、天下の汚濁を掃って宇宙の塵埃を清め、明るく光輝く太陽に並べて燃え上がる気を景雲(めでたいことの前兆となる雲)に連ねることができない。時が過ぎて年が暮れ、黙って聞こえない。
私はこれに戸惑い、そこで述べる次第である。
今、聖上(天子)は聡明で、輔弼(天子を輔佐する人)は賢明であり、英傑は地に墜ちず、徳を広く修めた者は宰相になって封地を分け与えられ、才能があり余っている者は栄華と高貴さを身に備えて賜与を受ける。どうしてまた道を迂回して到達することを求め、昇降して容認されようとし、当世の利益を求めて確固たる功績を挙げ、一族をこの時代に栄えさせて、不滅の足跡を残さないのか。
そもそも貴方はただ1人、未だそのことに思いを馳せないのか。なぜ貧しく卑賤な状態に留まって、栄華を極めて高貴な状態に達しないのか」
これを聞いた華顛胡老は、尊大に笑って、
「務世公子のような者は、いわゆる曖昧模糊とした利得に目を奪われ、明確な損害を忘れて必ず成功すると思い込み、失敗する可能性を無視する者に過ぎない」
と言う。
すると務世公子は華顛胡老を凝視して袂をまとめ、「なぜそのようなことを言うのか!」と憤って聞き返した。
華顛胡老は、「まあ座れ、君にその理由を解き明かすとしよう」と言って次のように話した。
「昔、天地の始めから君臣関係がはじめて起こり、羲皇(伏羲)の大いなる安寧の世と唐・虞(堯・舜)の志高の時代が存在し、三代(夏・殷・周)の隆盛にも清明の気風があった。さらに五伯(春秋の五覇)は衰えようとするものを扶け、慰撫することにつとめた。
それ以降、天網(悪人や悪事を逃さないように天が張りめぐらした網)は緩み、人紘は弛み、王道は壊れ、太極は崩れ、君臣関係は崩壊し、上下関係は瓦解した。
ここにおいて知恵者は詐術を弄し、遊説家は自説を主張し、武人は軍略を巡らし、戦士は戦闘を習った。そうして雷のように驚かせて風のように馳せ、霧のように散り散りになって雲のように広がり、駆け引きを様々に巡らし、時勢に合致した。ある者は一計を案じて一万金を手にし、ある者は朝食前の時間に弁舌を振るって瑞珪を賜った。例えば、連衡策を説いた張儀は六国(斉・楚・燕・韓・魏・趙)の宰相の印を帯び、合従策を説いた蘇奏が並べた綬は光り輝いたのである。
高貴なこと勢い盛んであり、富貴なこと限りなく、巧智を頼みとして機会を得、それによって危険を忘失する。そもそも華は根元から離れて萎み、枝は幹から離れて枯れ、女は容姿を整えて淫乱になり、士人は道理に背いて罪を犯す。
人はその満ち足りたことを誹謗し、神はその邪悪なことを憎悪し、利益を掴む瑞緒が芽生えた途端に害へと向かう兆候が見られる。卑賤の身で車を並べ、夭折して禍が降りかかり、その屋根を大きくして、その家を覆って暗くしてしまう。
それゆえに天地は閉ざし、聖哲は身を潜め、石門の門番は朝の門の開閉を守り、長沮と桀溺は2人で耕作し、顔歜は璞(磨いていない玉)を抱え、蘧伯玉は生を保ち、孔子は斉人が楽人を贈ると去り、また、雍渠が衛の霊公の車に陪乗(同乗)すると、衛での地位を捨てて他国に去った。
そもそも君主に対して傲慢な態度を取り、国家に盾突いたりしようか。正義は傾け覆すことは出来ないのである。
また私は次のように聞いている。
冬至に太陽が最も南に至ると黄鍾の音律に応じ、北東の風が吹き魚が氷の上にのぼり、蕤賓の音律が響くと陰爻が1つ生じる兆候がきざし、蒹葭(スダレヨシとアシ)が青々と生い茂り光る露が凝固して霜に変化する。また、寒さと暑さが互いに押し合い、陰陽が代わる代わる興り、運が極まれば変化し、治と乱が互いに受け継ぎ合う。
今、大漢は陶唐(堯)の偉大な功績を引き継ぎ、天下の無残な災厄を洗い流し、地を覆い隠す天の立派さを高め、あまねく大地の基礎を切り拓いている。皇帝の道が広く行き渡って、皇帝の道は顕らかとなり、整然と秩序を守っている民草は、甘味を口に含んで旨味を吸っている。六合(天・地・東・西・南・北という天下の万物)を点検して、和らぎ楽しめるようにし、百官はそれぞれ自分の職務を恭しく務めて、聖なる君主は宮殿の2本の柱の下で無為のままで天下は治まっている。君臣関係は恭しく、公正さによりその状態を守り、威儀の盛んな多くの士人は、礼服を着て赤白色の佩紐を身につけ、地上を進む鴻が階に満ちるように朝廷に集まり、群れ集まった鷺が宮中に満ち溢れるように朝廷に仕えた。
これを例えるならばちょうど鍾山(崑崙山)の玉、泗水の石のような賢臣が多く、それらの珪璧を積み重ねても満ち足りるようなことはなく、浮磬の石を採集しても尽き果てることがないほど人材が豊富なようである。
先頃、洪水の原因を取り去って人々が四方の土地に集い、周の武王が殷の紂王を討つという武功を挙げて武器が収められ、獫狁が追い払われ、尹吉甫が宴会で楽しみ、城濮で楚の軍勢に勝利して晋の軍勢が凱旋した。
それゆえ事が起こると、蓑と笠を共に身につけて、甲冑を貫いて鉾を掲げ、職務に従事しないのである。その一方で、事が起こらなければ帯を延ばして佩び飾りを緩め、玉を打ち鳴らしながら歩き、綽々とした態度で余裕を持っている。
そもそも代々の臣下・名門の子弟・近侍の臣の一族は、天はその幸福を高め、君主はその俸禄を増し、胸中はゆったりと落ち着き、爵位が自然とついてまわり、須を整え髯をおさめ、官位を余らせ高貴な身分に身を委ねる。
彼らが栄達出世することは、傾きに従って玉を転がすようだといっても、その簡便さに例えるには足らない。後退し、また前進するといっても、その容易さに例えるには足らない。彼らは男ごとに群を抜いた才能があり、人ごとに智恵があると思い込んでいる。
子供は疑問を徳を具えた老人に問おうとはせず、愚か者は謀を先生に仰ごうとはしない。心は高貴な身分を守ることに執着せず、気持ちは満ち足りていることを維持するために何もしない。燦然と輝くのは華やかなものである。賢明な人物は物静かで、安寧するところを見失わない。
これに対して、物狂おしく心が揺れ動いて感情を掻き乱し、貪欲な者は財貨に殉じ、驕り高ぶる者は権勢に死ぬのである。これらの事を仰ぎ見て、体は落ち着かず心は思い煩う。満ち欠けの効果に暗く、増減の理に迷い、駑馬(のろい馬)を舗装された道路に馳せ、駿馬を恋い慕ってますます駆け、外戚の邸宅の門にひれ伏し、天子の側近に侍る貴人の栄誉に助けを乞う。
栄誉の獲得は未だに叶わないのに、彼らと共に躓き倒れ、軽い場合は連座の罪に問われ、重い場合は族誅される。前方の車がひっくり返っているのに、後方の車は尚、その軌道をたどって馳せる。かつての禍を鑑みることにより、畏れを抱くことは無い。
私はそれを痛ましいと思い、どうしてそのようになるのかと思う。天は高く地は厚いが、用心のために身を屈めて抜き足をする。怨みはどうして明らかなところだけから起ころうか。禍は思ってもいないところに生じるのであれば、戦々恐々として必ずその間違いを慎むべきである。
その上、世の中が自分を認めてくれるのであれば行動を起こすということは聖人の訓えである。世の中から見捨てられるのであれば、隠れるというのは至って従順な身の処し方である。
そもそも九河の水が満ち溢れれば、一介の土くれでは防げない。百万人の兵士には、1人の勇者では対抗できない。今、あなたは匹夫に求めるのに宇宙を清めるようにとしているが、どうして水害と旱魃が起こったことにより堯と殷の湯王の罪を問うことができようか。また、弱々しい煙や炎が消えることを心配しているが、どうしてまぶしく輝く光を掲げる必要があろうか。
しかも、そもそも地震が起ころうとすると樞星はまっすぐになり、井戸に影が映らなければ肉眼では分からない日食が起こり、君主がだらけていると月が月末に西方に見え、諸侯と王がかしこまっていると次は1日に東方に見える。これによって君子は微細な事柄を推し広げて顕著な事柄に通達し、露を踏んで暑さを理解するのである。
時が進めば行き、時が止まれば止まり、盛衰と満ち欠けは、天の法則に則る。それにより泰卦(六十四卦の1つ)が出て開通することを良しとし、それを共に否卦が出て閉塞する状態にいることもできる。天の法則を楽しみ自分の運命を知り、精神を保持して自分のしたいようにする。多くの車が険しい道を列をなして走っているが、どうしてそれらの車と軌跡を共にできようか。
私は、危難に思いを馳せてゆったりと構え、そのため卑賤の身にあっても恥じる事は無い。そしてまさに、典籍の崇高な道を馳せ、仁義の淵や藪で休息し、周公旦と孔子の邸宅を何回も訪れ、儒家と墨家に会釈して友人になろうとする。これを伸ばせば四方の彼方を照らすのに十分であるが、これを収めれば何を身につけているのか誰にも分からない。
もし千載一遇の幸運に恵まれ、神霊の符(お眼鏡)に適えば、天の門である閶闔を開き、天上の大道で車に乗り、花の車蓋を擁して皇樞(天子を象徴する星)を捧げ持ち、玄妙な計策を聖徳なる天子の耳に入れ、太平を実現する方策を天下に申し述べよう。それによって計策が時勢に合い謀が聞き入れられるのは、私の意図の通りである。もし勲功が立たなければ、私の罪である。亀と鳳凰に例えられる賢人は山に隠れ、霧と露に例えられる暗闇は取り除かれず、荒れ地に躍り上がってただその愚かさを示すだけである。
私を知らない者は、あるいはこれを迂遠(実際の用に向かないさま)であると言うだろう。業を修め真実に思いを馳せるに、これを捨て去って一体どこに行くのであろうか。私は静かに命を待ち、厭うことなく変わらないままでいる。そして、百年の後にその墓に身を寄せよう。幸運にも称賛を得られれば、天の導きである。知られなかったのであっても、自分の罪過ではない。
昔、伯翳(伯益)は鳥の声をすべて理解し、葛廬は牛の鳴き声を判別し、董父は拳龍という氏を賜り、奚仲は車の軛(轅の先につけ、牛馬の首にあてる横木)と轅(馬車・牛車の前方に平行に出した二本の棒。その前端に軛を渡し、牛馬を繋いで車を引かせる)の作製に徳を専らにし、倕氏は巧みな技術者として国政を盛り立て、造父は驊騮(名馬)を御し、非子は優れた馬の良き飼育人であったため封地を授けられ、狼瞫は囚人を捕らえた功績を持って車右に任命され、弓父は弓の製作に精神を傾け、佽非は長江の流れに身を投じて勇気を明らかにし、吾丘寿王は格五(すごろく)が得意で立身の基礎を作り、東方朔は笑い話や演戯により寵愛を求め、上官桀は車の幌を支えることに力を注ぎ、桑弘羊は謀を巡らし宰相の地位を得た。
しかし、私はこれらの人々の足跡を踏襲できないので、璞(磨いていない玉)を抱いてのんびりと気ままに暮らしているのである」
ここに至って、務世公子は首を上げて階より降り、忸怩たる思いを抱いて退出した。華顛胡老は眉毛と目の間を上げて笑みを浮かべて琴を引き寄せ、
「我が心を鍛えて太清(天)に浸し、穢れを濯いで正しい精神を保つ。和らいだ気持ちが行き渡り精神は安寧となり、感情が落ち着いて心は高くそびえ立ち、欲望が消えて生じなくなった。宇宙を超越して世俗を忘れ、はるか遠方に身軽に1人で向かう」
と歌った。
脚注
*3 単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡の5人の宦官とこと。桓帝に協力して外戚・梁冀を誅殺した功績により、5人揃って列侯に封ぜられた。
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第1仕官期
橋玄の辟召に応じる
建寧3年(170年)、司徒の橋玄は、蔡邕を司徒府に辟召*4して大変に敬って待遇しました。
その後蔡邕は、地方に転出して河平長に任命されます。
脚注
*4大将軍や三公・九卿、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。この制度によって、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができた。
『六経(りくけい)』を校定する
さらに中央政府に徴召*5されて郎中を拝命した蔡邕は、東観*6で秘蔵書の校訂を行いました。
この時蔡邕は、これらの書(経籍)が余りにも古いため、文字の間違いも多く誤った解釈をしてしまう恐れがあるとして、
- 五官中郎将の堂谿典
- 光禄大夫の楊賜
- 諫議大夫の馬日磾
- 議郎の張馴、韓説
- 太史令の単颺
らと共に上奏して、『六経』の文字を正しく校定*7することを願い出ます。
霊帝の許可を得た蔡邕は、自ら朱書きした文字を職人に刻み込ませて、太学の門の外に碑を建立させました。これを熹平石経と言います。
熹平石経
「特別展 三国志」東京国立博物館
2019年7月9日〜9月16日
熹平石経が建立されると、街路は1日に千余両もの車で埋め尽くされ、後学の者はみな碑の文字を書き写し、経典の正しい文字を知ることができるようになりました。
脚注
*5臣下が推薦した人材を、天子(てんし)が直接招聘して任用する制度のこと。
*6洛陽城の東側に位置する書物を保管・管理していた場所のこと。
*7古典などの異同や誤りのある本文について、他の伝本・資料と比較・検討して、本来あるべき形を特定すること。
「三互の法」の廃止を上奏する
これより以前、州郡の長官たちがお互いに党派を組んで不正を行っていたことから、
- 自分の出身の州・郡・県には任官できない。(本籍回避)
- 異なる州・郡・県の家が婚姻を結んだら、お互いの州・郡・県には任官できない。(親族回避)
- 異なる州・郡・県の出身の二者が、同時期にお互いの州・郡・県には任官できない。
という「三互の法」が制定されていました。
その後「三互の法」の禁止事項は次第に細かくなって人材の選任に支障を来すようになり、幽州と冀州では長らく欠員が出たままとなってしまいます。
そこで蔡邕は、上疏して言いました。
「幽州と冀州は近年の兵乱と飢饉のため民草は寄る辺なく、官吏たちは新たな任官者を心待ちにしておりますが、三府による選挙は月を越えても定まりません。諸州の刺史の中で力量があって相互に交代させ得る者たちは、刺史の任期と三互の法の規定に拘わらず、選定していただきますよう願います」
ですが、この蔡邕の上奏は裁可されませんでした。
蔡邕の上奏文全文
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伏して見ますに、幽州と冀州は元々鎧と馬の産地でしたが、近年の兵乱と飢饉のために次第に枯渇しております。今、民草は寄る辺なく、万里の広さを持つその地域は物寂しくなり、官職に欠員のあるまま時を経て、官吏たちは首を伸ばして新たな地方長官に期待を寄せておりますが、三府による選挙は月を越えても定まりません。
臣はいつもそのことを奇怪に思っておりますが、論者は「三互の法で禁止されている事柄を回避するためである」と申します。全国の13州のうち、11州の出身者に「三互の禁」があるならば、幽州・冀州の2つの州の出身者を任用すべきです。
或いはまた、2つの州の士に任期を限定すれば、ぐずぐずと遅れ時宜(タイミング)を失うでしょう。
愚が考えますに、「三互の禁令」は禁の中でも緩いものであります。今、ただ天子の威光を重ねて強め、その取り締まりの規則を明らかにすれば、在官者はどうして戒め懼れないでおられましょうか。それなのに、これといった理由もなく「三互の法」を設け、自分から任用のための障害を生み出すことがありましょうか。
昔、韓安国は刑徒の身から登用され、朱買臣は卑賤の身から立身しましたが、共に才能が優れていることによって出身地の太守となりました。また、張敞は亡命者でしたが、抜擢されて要衝の州の長官を授けられました。どうしてまた「三互の法」を顧みて遵守し、こうした劣った制度を引き継ぐことがありましょうか。
三公は幽州と冀州の1つの州が要衝にあたり、長官を速やかに決定すべき場所であることを、明らかに理解しておりますので、禁令を越えて才能ある者を採用し、それによって時世の閉塞した状況を救うべきであります。ところが諫臣の節義を顧みず、かりそめに些細な科を避け、任用が遅滞して適材を失っております。
臣が願いますに、陛下におかれましては、上は先帝に則り、近年制定された禁令(三互の法)を除き、諸州の刺史の中で力量があって相互に交代させ得る者たちは、刺史の任期と「三互の法」の規定にこだわることなく、その中から選定して下さいますように。
霊帝を諫める
霊帝が鴻都門下に諸生を集める
以前から学問を愛好していた霊帝は、自ら『皇羲篇』全50章を著します。
また、もともと経学(儒教)を重んじて人材を招いていましたが、次第に文章や賦、鳥書や篆書*8が得意な者たちを招くようになり、その人数は数十人に及びました。
侍中祭酒の楽松と賈護らが品行が優れず権勢を求める輩を数多く招き、洛陽城南宮の鴻都門下に集めて各地の風俗や民間の些細な事柄を述べさせると、霊帝はこれを大変喜び、彼らに破格の位を与えました。
また、商人でありながら宣陵(桓帝の陵墓)に服喪した者が数十人おり、霊帝は彼らを悉く郎中や太子舎人に任命しました。
脚注
*8鳥書、篆書共に書体の名前。
蔡邕の諫言
ちょうどこの頃、雷と突風が起こって樹木を傷つけ引き抜き、地震や雹、蝗害が相次いで発生します。また、鮮卑が辺境に侵攻したことにより、民衆に多大な労役が課されました。
熹平6年(177年)7月、霊帝は制書*9によって天譴(天罰)を受けた自分の罪過を挙げ、群臣に施行すべき事柄を述べさせました。
これに蔡邕は、次のように上奏します。
「季節の節目には巡礼を行うべきであり、皇廟の祭祀や辟雍で行う儀式は、天子の大切な仕事です。祖先を敬わず、些細な理由で国家の祭祀を取りやめたりするから、天災や奇怪なできごとが起こるのです。
また、古来から推挙される資格があるのは孝廉・賢良・文学に優れた人物のみです。書画や賦に優れているからと言って、国政に関与させてはいけません。
先日、宣陵に服喪した小人を太子舍人に任命しましたが、先帝の親族でもない者に陵墓を守らせるから盗掘が起こるのです。そのような者たちを太子舍人にしてはいけません」
この上奏を受けた霊帝は蔡邕の意見を聞き入れ、怠けていた祭祀を再開し、宣陵に服喪した者たちを太子舍人から外して県丞や県尉に任命しました。
蔡邕の上奏文全文
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臣が伏して陛下のご意向のしたためられた制書*9を拝読しますに、周の成王が吹き荒ぶ風に遇って、その原因を執事(事務官)に尋ね、周の宣王が旱魃に遇って、務め励んで慎み畏れたと言いましても、陛下の制書*9に加えることはございません。
臣が聞くところでは、「天が災異を降すのは、地上のあらゆる現象を原因として起こる」と申します。
雷がしばしば発生するのは、ほとんどは刑罰が煩多であるために生ずるものです。風というものは天の号令であり、人を教え導くためのものです。
そもそも明らかに上帝に仕えれば、自然と多くの幸福がもたらされ、宗廟に尊敬の念を捧げれば、祖先の神霊の守りが現れます。国家の大事は、誠に祭祀・典礼を第一とし、それは天子の御身が恭しく仕えるべき対象であります。
臣は宰相府におりました頃から朱衣(祭官)に任官されますまで、気を五郊に迎えましたが、車駕(陛下)は迎気のために自ら外出されることは稀で、季節に応じた祭祀に尊敬の念を捧げる行為を度々有司(担当の役人)に委任され、自らの行為に対する天の譴責(悪い行いや過失などをいましめて責めること)に対して罪を詫びることがあっても、なおも疎かにしておられます。それ故、大いなる天は悦ばれず、この諸々の災異を顕したのです。
『鴻範五行伝』に「政治が正道に反し徳が隠れれば、その風は屋根を暴き木を折る」とございます。また坤を地の道とし、『周易』では「地の徳に適った態度を安貞(安らかで正しい)としております。陰の気が盛んであれば、静めるべきであるのにかえって動き、道理として下位の者が叛逆することになります。
そもそも権力が上位の者のもとになければ、雹が物を傷つけ、政治が苛酷であれば、虎や狼が人々を喰らい、為政者が利益を貪り民を傷つければ、蝗が農作物を痛めます。
去る6月28日、太白(金星)が月と相迫り、軍事活動を行うことはこれを憎むべき状況になりました。鮮卑が辺境を侵犯するのは今に始まったことではなく、今軍隊を出すことは、未だにその利を見出せません。このような軍事行動は、上は天文の運行に違い、下は人事に逆らっております。
陛下におかれましては、誠に様々な意見を広くご覧になられ、その中で安全な方策に従うべきであります。臣は憤懣やるかたなく、謹んで実施すべき7つの事柄を箇条書きにしてしたためます。
第一、
『明堂月令』に、「天子は四立(立春・立夏・立秋・立冬)および季夏(6月)の節に五帝を郊に迎える」とあります。
この祭祀は、神気を導いて豊年という幸福を祈願するためのものです。また、祖霊を祀る清廟に祭祀を行い、往事を偲んで孝行恭敬の心を示し、辟雍に養老の礼を行って、人々に礼による教化を示すことは、みな帝王の大業であり、代々の天子が謹んで受け継いできたものです。ところが有司(担当の役人)はしばしば血縁関係の薄い諸侯の葬儀、宮中における出産、および吏卒の病気や死去を理由に、祭祀の執行をたびたび忌み避けております。
密かに見ますに、南郊の祭祀における天の祭りは、未だかつて廃止されておりませんが、その他の祭祀については、とかく異議を唱えております。どうして南郊の祭祀が卑しくその他の祭祀が尊いのでしょうか。
孝元皇帝(前漢の元帝)の策書に、「礼の最も尊いものとして、祭祀より重いものはない。心を尽くして親しく行い、それにより恭しさを示すためのものである」とあります。また元和年間(84年〜87年)の故事でも、章帝はまた古の典籍に言及しております。
前後して下された制書*9は、心を推し量ること懇ろでありましたが、近年来、制度を改めて祭祀の執行を太史に委任し、礼の尊さの大いなることを忘れて禁忌の書物に心を委ね、些細な事柄をこだわり信じて、大いなる典礼を傷つけております。
『礼記』によれば、妻妾が出産する際には、斎戒(飲食や行動を慎んで、心身を清めること)すれば側室(脇部屋)の門には入りませんが、出産にあたって祭祀を廃止するという文言はございません。また、宮中で死者があれば、3ヶ月間祭祀を行わないというのは、士や庶民のような狭い家屋に一緒に暮らしている者に対して言っているに過ぎないのです。
どうして広大な皇宮を持ち、多くの奴婢を抱える陛下のことを申しているでしょうか。今から斎戒の制度は、旧来の典籍のようになさるべきであります。それにより、願わくば大風や雷の災異が示す天譴(天罰)にお応えになられますよう。
第二、
臣が聞くところでは、国家が興隆しようとすると、しばしば至言(事物の本質を適切に言い当てた言葉)が聞かれ、内には自分の政治の得失を知り、外には民の心情を伺うと申します。それ故、先帝(桓帝)は聖明な天子としての姿を具えていながら、なおも広く政治の得失を求めたのです。また先帝(桓帝)は災異の発生に伴い、隠者を招聘し、賢良・方正・敦朴・有道の選挙を尊重し、峻烈な言葉と厳しい諫言は、朝廷に絶えることがありませんでした。
陛下が親政されて以来、連年にわたって災異が発生しておりますが、未だに特別な察挙と広範に人材を求める選挙のご命令を聞きません。誠に昔を顧みて旧来の事跡を述べ修め、忠義を抱いている臣下に狂おしいほどの実直さを述べさせて、『易伝』に「政治が正道に反して徳が隠れた」とある言葉を紐解かれるべきであります。
第三、
そもそも賢人を求める道は、必ずしも1つだけではありません。賢人は、あるいは徳によって現れ、あるいは言葉によって評判が上がります。
近頃、朝廷に仕える士人は、かつて忠信によって賞賛されることがなく、常に誹謗の罪を着せられ、ついには下々の者に口を閉ざさせ、正しい言葉を考えることをなくしました。
郎中の張文は以前、ただ1人狂おしいまでの直言を述べ尽くしましたが、陛下はその言葉をお聞き入れになり、三司(三公)を叱責されました。これによって臣下は胸のつかえがなくなり、民草は喜悦しました。
臣愚が考えますに、陛下にはどうか張文を枢要官に抜擢して、忠誠を尽くすことを奨励し、天下に名声を示して、広くご政道をお聞きになるべきであります。
第四、
そもそも司隷校尉と諸州の刺史は、不正を監察して是非を分別するための官職であります。伏して見ますに、幽州刺史の劉虔は、それぞれ国家のために尽くして姦悪なものを憎む心を抱き、楊喜たちによる糾察(罪状を取り調べて明らかにすること)は、その効果が最も上がっております。
その他の者はすべて、糾察にあたって法をねじ曲げており、職務に堪えません。ある者は罪を犯し傷を抱き、下の者と病を同じくしていても、法度は弛緩して、互いに悪事を摘発し合わず、公府と台閣(政府)もまた黙るばかりです。
熹平5年(176年)の制書*9では、議して8人の使者を派遣し、また、三公に民情を反映した民間の歌謡を上奏させました。この時、国家のために尽くす者は喜悦して志を抱き、邪悪な者は憂い懼れて顔色を失いましたが、未だにそこで議された事柄が沙汰止みとなった原因を詳らかにされてはおりません。
昔、劉向は、「そもそもためらいがちに計略を立てる者は、悪人たちに門を開き、優柔不断な気持ちを養う者は、讒言の口を招く」と上奏しました。今、はじめて善政が布かれたことを聞き及びましたが、たちまちにして再び悪政へと変更され、そのことは天下の人々に朝政の善悪を推し量らせるのに十分であります。
陛下におかれましては、過去に遡って8人の使者を派遣する案を実行に移し、不正を摘発し、あらためて忠心に篤く清廉な者を選任して、賞罰を公平にすべきです。三公は、年末にその年の殿最(人事考課)を評定し、吏に国家のために尽くす幸福と私利を追求する禍を知らしめれば、数多くの災異を招いている原因を取り除くことができると願います。
第五、
臣が聞くところでは、古の人材登用では、必ず諸侯に1年ごとに人材を献上させたと申します。孝武皇帝(前漢の武帝)の世には、郡より孝廉を察挙し、また賢良・文学の選挙がありました。ここに至って名臣を輩出し、文武が共に興隆しました。
漢が人材を登用する方法は、武帝の世から始まった孝廉という常挙、賢良・文学などの制挙という数種類だけです。そもそも書画と辞賦は小さな才能であり、国家を匡正(間違っているものを正しく直すこと)して政治を治めるために、未だにその能力はありません。
陛下は即位された当初、まず経学を渉猟(多くの書物を読みあさること)されましたが、やがて国政の合間に詩文をお読みになり、いささか御心を遊ばされました。それらはまだ博弈(遊び)の代用にはなり得るものですが、天下を教化し人材を登用する根本の道ではありません。ところが諸生は利を競い合い、詩文の作者はたくさん生まれました。
その中でもまともな者は、少しは経書の訓戒や婉曲な風刺の言葉を引用しておりますが、下の者は俗な言葉を連ねて対句を作り、まるで芸人の類のようです。ある者は既成の文章を窃盗し、一角の作者を気取っております。
臣は詔を洛陽城内の盛化門で拝受する度に、それに応じて文章を上奏し、等級づけられて及第しておりますが、未だ及第に達しない者も、また仲間に従ってみな抜擢されています。
すでに彼ら文学で登用された者に恩恵を与えられておりますので、また撤回することは困難でしょう。しかし、彼らの俸禄を保障するだけで恩義は十分であります。それゆえ、彼らをまた人々を統治したり、州郡に出仕させたりするにはおよびません。
昔、孝宣皇帝(前漢の宣帝)は儒者を長安城内の石渠閣に集め、章帝は儒者を白虎観に集め、経書の異同を通じさせ、経文の義を解釈させました。その事業は優れた偉大なものです。
周の文王と武王の道は、2つの会議の結果に従うべき拠り所があります。もし小さな能力と些細な善行に見るべき点があるとしても、孔子は「天下国家の遠大な政治を遂行するには、小道では行けなくなることを恐れる」と述べております。君子は、それゆえに大道である儒教を志すべきなのです。
第六、
墨綬を帯びる長吏(県令)は、職務として人々を統治することを掌っております。そのため、彼らはみな恩恵や利益を民に施すことを成績とし、在任期間を功労とすべきであります。
ところが現在は、在任中に功績を顧みる事はなく、中央政府に帰った者は多く徴召*5されて議郎と郎中を拝命しております。もし力量が優れて立派であれば、その者を冗散官(特定の仕事のない官職)に就けるべきではありません。
また、仮に罪を犯しているのであれば、当然その者に対して刑罰を厳格に適用すべきであります。どうして罪に伏し取り調べを懼れているにも拘わらず、かえって転任を求め、互いに真似をして善悪のけじめが十分にならないことがあって良いものでしょうか。
先帝の旧典には、未だかつてこのような事柄は見えませんので、すべて断ち切り、真偽を明らかにすべきであります。
第七、
伏して見ますに、陛下はすべて桓帝の陵墓たる宣陵に服喪した「孝子」を太子舎人に任命しました。しかし、臣が聞くところでは、孝文皇帝(前漢の文帝)は喪服を36日間と制定し、位を継承した天子で極めて親しい父子の関係にある者でも、公卿や大官で深い恩義を受けた者であっても、みな情愛を曲げて文帝の制度に従い、あえて服喪の期間を越える事はなかったと申します。
今、宣陵孝子と呼ばれる嘘偽りの小人は、もとより桓帝の肉親ではありません。また、桓帝に寵愛された恩義はなく、朝廷に出仕した事実もありません。かような者どもは、悼み悲しみ思慕しようとしても、その感情はどこから生じるというのでしょう。
ところが小人は、桓帝の陵墓に群れ集まり、名声を得て孝と称されても、行いは心に痛まず、義に拠り所はありません。さらに、姦悪な者がその中に紛れ込むに至りました。
桓思皇后(竇皇后)の祖祭に棺を車に乗せたとき、東郡で他人の妻を盗んだ者があり、逃れて「孝子」の中におりました。本籍地の県の役人は追跡して逮捕し、賊は罪に伏しました。「孝子」たちの嘘にまみれ穢れていること、口にし難いものがあります。
また「孝子」たちは、先に至った者は官を拝命でき、後から来た者たちは排除されました。ある者は何年も陵墓の傍らの陣屋で墓守をしておりましたが、しばらくの間郷里に帰ったことで任官より漏れ、ある者は他人を自分の代わりに立てましたが、任官の寵栄を蒙りました。
そのため「孝子」たちは訴えを起こし朝廷に怨恨を抱き、街道に騒ぎ立てました。故に「孝子」たちから太子舎人を剥奪し、太子の属官には立派な徳を修めた者を探し出して選任すべきであります。どうして陵墓に集まった悪人どもだけから選任する必要がありましょうか。その不吉なこと、これより甚だしいものはございません。
どうか「孝子」たちを郷里に帰らせ、彼らの虚偽を明らかにすべきであります。
光和元年(178年)2月、蔡邕の諫言にも拘わらず、霊帝はついに鴻都門学を設置します。
鴻都門学の諸生は、まず州郡や三公に辟召され、地方に転出して刺史や太守、中央に戻って尚書や侍中となり、列侯に封ぜられる者もいましたが、心ある者はみな彼らと同列となることを恥としました。
脚注
*9恩赦や贖罪の命令を下す場合などに用いられた天子が下す文書の書式のこと。
光和元年(178年)の災異
光和元年(178年)、たびたび怪しげな災異が発生しました。
光和元年(178年)の災異
月 |
災異 |
正月 |
- 合浦郡と交趾郡の烏滸蛮が反乱を起こす。
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4月 |
- 地震があった。
- 侍中の役所の雌鳥が化けて雄となった。
全身の羽毛はみな雄鶏のようになったが、鶏冠は変化しなかった。
|
6月 |
- 黒気が起こり、温徳殿の庭の中に落ちた。
|
7月 |
|
これを受け、同年7月、霊帝は詔を下して蔡邕を徴召*5し、
- 光禄大夫の楊賜
- 諫議大夫の馬日磾
- 議郎の張華
- 太史令の単颺
と共に洛陽城内の金商門から崇徳殿に招き入れ、中常侍の曹節と王甫に災異や変異を消し去る方法について意見を求めさせました。これに蔡邕は、心を込めて応対します。
蔡邕の進言全文
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『洪範五行伝』によれば、五事(『書経』にある、礼節を守る上での大切な五つの事柄。貌・言・視・聴・思のこと)の貌が恭敬さを欠けば、鶏禍が生じると申します。
宣帝の黄龍元年(紀元前49年)に、未央宮の雌鳥が雄鶏になりましたが、鳴き声は上げず蹴爪もございませんでした。この年、元帝が即位して王・皇后を立てております。
初元元年(紀元前48年)に至ると、丞相史の家の雌鳥が雄鶏となり、鶏冠・蹴爪・鳴き声を備えておりました。この年、皇后の父の王禁が陽平侯となり、その娘が正式に皇后になっております。
哀帝が崩御しますと、王皇后(当時は太皇太后)が幼い平帝に代わって政治を行い、王莽が王皇后の甥であることから大司馬となり、これに乗じて乱を起こしました。
臣が秘かに推察しますに、頭は元首であり人君の象でございます。
今、鶏の全身はすでに変化しましたが、陛下は変化が頭にまでは至っていない段階で、これをお知りになりました。これは変事が起きようとしているが、不完全なままで終わることの象であります。
もしこの異変にしっかりと対応せず、政治を改善しなければ、鶏冠までもが雄鶏のものに変わってしまうかもしれず、禍もますます大きくなるでしょう。
蔡邕、恨みを買う
霊帝はこれらの災異について三公・九卿や士人たちに尋ねましたが、誰からも要領を得た答えを聞くことはできませんでした。
そこで霊帝は、再度蔡邕に詔を下して内密に忌憚のない意見を求めました。
霊帝の詔・全文
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近頃災異と変異が交互に発生しているが、未だにその原因となる罪が判明せず、朝廷ではこれを大変危惧している。また、三公・九卿や士人たちに諮問して忠臣の諫言を求めたが、みな口を閉ざしてはっきりと意見を述べる者はいなかった。
蔡邕は経学を深淵まで修めていることから、秘かに特に諮問する次第である。得失を披露し、政治の重要な事柄を指摘するように。また、ためらって疑念と遠慮を抱くことのないようにせよ。
経学に基づいて詳細に答え、書状を黒い袋の中に収め、封緘して奏上せよ。
これに蔡邕は、霊帝の願い通り「災異の原因となっている悪人の実名」を挙げ、正直に忌憚のない意見を上奏します。
蔡邕の上奏文・全文
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臣が伏して思いますに、陛下は聖なる徳が誠に明らかで深く災異の発生を痛み、臣の末学を褒めて特にご下問なさいましたが、臣は虫けらや蟻のような才能ですので、その任に堪え叶うものではございません。ですがこれは、誠に心の内をさらけ出し、命を投げ出すほど貴重な機会であります。どうして直言による我が身の災難を省みて、害悪を回避し、陛下に厳しい戒めの言葉をお聞かせしないでおられましょうか。
臣が伏して思いますに、様々な災異はすべて国家の滅亡を示すものです。天の大漢に対する接し方は、懇ろなことこの上ありません。それ故天は、度々怪しげな変異を発生させ、それによって咎め責め、人君に自分の罪過を感じ悟らせて、危険を改めて安寧につかせようとしているのです。
今、災禍の発生は、他の場所においてではなく、遠方でも宮殿の門と垣根、近隣では官庁に起こっており、それらの戒めとしての役割は、非常に厳しいと言うべきです。
虹が地上に墜ちて鶏の雌雄が変化する災異は、すべて女性が政治に関与することが引き起こしたものです。以前、(霊帝の)乳母の趙嬈は天下に貴び重んじられました。生前に私蔵する財貨の量は、宮中の倉庫に収蔵されているものに並び、その墳墓の規模は皇帝の陵墓を超え、2人の子は封侯され、兄弟は太守に任官して郡を掌りました。
続いて永楽門史の霍玉が城壁の中に住み着く鼠のようにおもねって、邪な行動を取りました。
今、巷では紛々と程大人(程璜)という権勢を振るう者が現れたと言っております。その風説を勘案いたしますに、程大人は国家の憂いになろうとしております。
陛下には、どうか堤防を高く築き、禁令を明確に制定し、趙嬈と霍玉の悪行を深くお考えになられて、それらを厳しい戒めとしてください。
今、神聖なる陛下の御心は勤め励んで、正邪の分別を明らかにしようとお考えになっております。ところが聞くところでは太尉の張顥は霍玉に推挙され、光禄勲の姓璋は貪欲であると申します。また、長水校尉の趙玹と屯騎校尉の蓋升は、共に時世におもねって手にした幸福を貪り、栄華で裕福なことを十分すぎるほどであります。
彼らは小人が高い位に就くことの罪過に思いを馳せ、身を退いて賢明な者に地位を譲ると言う幸福を考えるべきでしょう。
伏して見ますに、廷尉の郭禧は純粋篤実、老齢で徳を有し、光禄大夫の橋玄は聡明で物事に通じ、方正実直であり、元の太尉の劉寵は忠実で正義を守るものです。彼らをみな謀主に据え、度々諮問すべきであります。
そもそも宰相と大臣は、君主の股肱の臣(信頼できる家臣)であります。任務を委ねて成果を求め、その結果すでに優劣が分かれております。陛下には、どうか小吏の意見を聞き入れて、大臣を官位から退けて罪を問うことのないようにしてください。
また、尚方の工芸品と、鴻都門学の文学作品は、しばらくの間作成を中止し、それによって憂慮の念を示すべきです。
『詩経』に、「天の怒りを畏れ、あえて戯れない」とあります。天の戒めは誠に戯れるべきではありません。宰相府の孝廉は、士人にとって最高の察挙です。
近頃、辟召による任用が横行しているため、その担い手である三公を厳しく責め咎めております。ところが今つまらぬ文章により選挙を超えて抜擢し、清託の門戸を開き、明王の規範に反し、人々の心は納得しておりませんが、あえて文学を尊重することへの異議を述べる者はおりません。
臣は、陛下が堪え忍んでこのような風潮を断ち切り、政務全般に思いを馳せ、天の望みに応じられますよう願っております。聖朝(陛下)が御身を厳しく引き締めれば、左右の近臣もまた教化に従うべきとなります。
人々が自ら抑制して、咎めと戒めとして天が下す災異を塞げば、天道は満ちているものを削り、鬼神は謙譲なものに幸福を授けるものですから、災異も止みましょう。
臣は愚かであるために感激して我が身を忘れ、あえて禁忌に抵触し、上奏文を手づからしたためて詳細にお応えいたしました。そもそも君主と臣下が機密を守らなければ、上には言葉を漏洩する戒めがあり、下には命を失う災禍が降りかかります。
陛下には臣の上奏文を隠し、忠義を尽くす吏が姦悪な者から怨みを買うことのないようにお願いいたします。
蔡邕の上奏文を読んだ霊帝は、ため息をついて厠(トイレ)に立ちました。
この時、宦官の曹節がその上奏文を盗み見て、その内容を側近に言いふらしたため、蔡邕に批判された者たちはみな報復を決意しました。
髡鉗(こんけん)の刑に処される
蔡邕、弾劾される
蔡邕は司徒の劉郃と折り合いが悪く、蔡邕の叔父で衛尉の蔡質は、中常侍の程璜の娘婿である将作大匠の陽球と不仲でした。
ある時、(蔡邕が批判した)程璜は、ある人にこう言わせました。
「蔡邕と蔡質は、しばしば劉郃に私事で特別の計らいを頼んでいましたが、劉郃が聞き入れないため怨みを抱き、誹謗中傷しようとしております」
これに蔡邕は、弁解の上奏をしますが、
「蔡邕と蔡質は天子に仕える臣に恨みを晴らし、大臣を論って傷つける議論をし、その罪は大不敬にあたり、棄市(打首獄門)に処すべきである」
と弾劾されました。
蔡邕の上奏文・全文
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臣は召し出されてご下問を受け、大鴻臚の劉郃が以前に済陰太守だった時、臣が吏の張宛の長期休暇を100日間にするようにと請託し、劉郃が司隷校尉であった時、河内郡の吏の李奇を州書佐に任用するようにと請託し、元の河南尹の羊陟・侍御史の胡母班を擁護したものの、劉郃が便宜をはからなかったので怨恨を抱いたという罪状を科されております。
そのため、臣は不安にかられて恐れおののき、肝は土に塗れて生死の在処も分からない有り様です。
自ら思い返して考えますに、臣は確かに張宛と李奇について請託いたしましたが、羊陟と胡母班に関しては身に覚えがございません。小吏を休暇させるのは、恨みを抱く根本にはなりません。我が一族は羊陟と姻戚関係にありますので、どうしてあえて私的なつながりのある者を助けるよう申しましょうか。
もし臣たちが互いに劉郃を中傷して陥れようとすれば、台閣(政府)に事の子細を明確に申し上げ、怨恨を抱くに至った要因を詳細に開陳すべきでしょう。臣の心の内にはわずかばかりもやましいところはありませんが、臣を誹謗する書状が外で発せられております。
どうか臣と劉郃を対面させてお取り調べ下さい。
臣は学問によって特別に高く評価され、秘館(東観)において職務にあたり、御前において筆を走らせ、姓名と容貌がわずかに陛下の御心に適いました。
今年(178年)の7月、臣は召し出されて金商門に赴き、災異の発生に対する方策について諮問され、さらに詔を下されてご意向を示され、臣を促して意見を述べさせました。
臣はまことに愚かで、ただ忠を尽くすことを知るだけです。そのため臣は、命を投げ出し我が身を忘れ、後に降りかかる危険を顧みず、ついに公卿の悪事を誹謗して、その対象は陛下の寵臣にまで及びました。
それによって陛下の諮問にお応えし、災異を消し去り、陛下のために安寧をもたらす計を立てようと考えたためです。
しかし、忠臣の直言は覆い隠すことができず、誹謗中傷がにわかに起こり、それによって疑い怪しまれることになりました。このようなことでは心を尽くす吏は、どうして受け入れられましょうか。
詔書が下されるたびに、百官はそれぞれ封事を奏上し、それによって政治の誤りを改めて天の譴責(悪い行いや過失などをいましめて責めること)を思い、凶事を排除して吉事をもたらそうと考えます。
ところが陛下に意見を述べる者は、引見にあずかる幸福に恵まれず、たちまちにして身の破滅という禍を受けるのです。今や百官はすべて口を閉ざして陛下に直言せず、臣の境遇を戒めとしております。このような状況で誰があえて陛下のために忠と孝を尽くすのでしょうか。
臣の叔父である蔡質はしきりに抜擢され、高位に列しております。臣は恩沢を受けて、しばしば諮問にあずかりました。これらのことから論者は、臣の家を破滅させようとしています。彼らはまた、隠れた悪事を摘発して糾弾し、国家に利益をもたらそうとする者ではありません。
臣は46歳で、孤立無援の身です。忠臣としての名声を残すことができれば、死んでも子々孫々におよぶ栄誉が残ります。
臣が恐れておりますのは、陛下が事ここに至ってまた立派な言葉をお聞きになれなくなることです。
臣の愚鈍さは、もとより禍にあたります。ただ以前、臣が諮問にお応えしたことを、蔡質は聞き及んでおりませんのに、衰え老いた身で捕らえられ、臣と連座させられ身の破滅を迎え、ともに陥れられております。これは誠に恨めしく痛ましいことであります。
臣は一度牢獄に入れば、当然責め苛まれて飲章(匿名の上奏文)の奏上を促されることになります。そのような状況に陥れば、正しい言葉や忠義の情を何によって申し上げればよろしいのでしょうか。
臣は死期が到来しようとしておりますが、向こう見ずにも自ら意見を述べております。どうか我が身が処刑され、蔡質が連座を免れますように。それが叶えば、我が身の死ぬ日は蔡質が改めて生きる年となります。
臣は、陛下がお体を大事にして、多くの民のためにご自愛くださいますように祈念しております。
この時、中常侍の呂強が「蔡邕の冤罪」を憐れんで助命を請願すると、霊帝は詔を下して死一等を減じ、家族と共に髡鉗の刑(頭髪を剃って鉄の首枷をはめる刑罰)に処して、赦令があっても許さないという条件で朔方郡に徒刑にしました。
蔡邕暗殺の失敗
蔡邕が護送される際、陽球は護送の道に刺客を放って蔡邕を殺害しようとしますが、蔡邕の義に感じ入っていた刺客たちは、みな彼を殺そうとはしませんでした。
陽球はまた、朔方郡に至る途中に通る州郡の刺史や太守に賄賂を贈って蔡邕を毒殺しようとしますが、陽球から賄賂を受け取った者たちは、逆にその情報を蔡邕に伝えて戒めました。
こうして暗殺の難を逃れた蔡邕は、幷州(并州)・五原郡・安陽県に住みました。
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亡命期
霊帝に許される
蔡邕が以前東観に勤務していた時、盧植・韓説たちと『後漢記』を著して『漢書』の十志の欠を補いましたが、流刑の身となったため、これを完成させることができなくなってしまいました。
そこで蔡邕は上書して自ら著した『十意』を奉り、巻首の目次を整理して上奏文の左に書き連ねました。これを読んだ霊帝は蔡邕の才能を高く評価し、翌光和2年(179年)、蔡邕を彼の本籍地の陳留郡に帰らせることにします。
蔡邕が刑に服してから許されるまで、9ヶ月でした。
呉郡に亡命する
王智を怒らせる
蔡邕が帰途につこうとすると、五原太守の王智は蔡邕の送別の宴を開きました。
宴も たけなわ となった時のこと。王智が立ち上がって舞いを披露すると、蔡邕にも一緒に舞うように誘いました。ですが、蔡邕はこれを断ります。
この王智は中常侍の王甫の弟で、平素から驕り高ぶっていたので、大勢の客人の前で断られたことを恥じ、「刑徒め、私を軽んじるのかっ!」と言い放ちます。すると蔡邕は、黙って衣を振り払い、その場を立ち去りました。
これを恨みに思った王甫は、「蔡邕は囚人として追放されたことを怨み、朝廷を誹謗しております」と密告します。
ここに至って蔡邕は、ついに罪に問われることを免れないと思い、紅海(長江沿岸地域)の呉郡や会稽郡に亡命しました。
その後は兗州・泰山郡の羊氏を頼って行き来し、12年*10の間、揚州・呉郡に滞在します。
脚注
*10霊帝に許された179年から董卓に仕えた189年まで最大でも11年間となる。
琴の音色を怪しむ
蔡邕が兗州・陳留郡にいた時のこと。
隣人に酒宴に招かれた蔡邕が門の前に着いた時、客人の中に衝立のそばで琴を弾く者がおり、琴の音色が聞こえて来ました。
蔡邕は門の外でその演奏を聴き、「ああ、何故であろう。この家の主人は私を酒宴に招いたが、この琴の音色には殺気がある」と言って、そのまま立ち去ってしまいます。
取り次ぎの者は驚いて、「蔡君が門の所までやって来て、立ち去りました」と主人に報告しました。蔡邕を大変尊敬していた隣人は、自ら蔡邕を追いかけて立ち去った理由を尋ねます。
蔡邕がその理由を詳しく話して聞かせると、琴を弾いていた者が言いました。
「私はさきほど弦を打ち鳴らしながら、カマキリが鳴き声をあげる蝉を襲おうとしているのを見つけました。蝉も気づいているようでしたがまだ飛ばず、カマキリも様子を窺って一進一退を繰り返しておりました。私の心は、カマキリが蝉を殺そうとすることを恐れたのです。どうしてあなたに殺意など抱きましょうか」
これを聞いた蔡邕は、「これですっかり謎が解けた」と言って笑いました。
焦尾琴をつくる
ある時、呉に桐の木を薪として焼き、飯を炊く者がいました。
火がはじける音で良木であることに気づいた蔡邕は、その桐の木を譲り受け、その木から琴をつくります。
そしてその琴は、蔡邕の予想通り美しい音色を奏でました。また、琴の龍尾の部分に焦げた跡が残っていたことから、人々はこの琴を「焦尾琴」と呼びました。
箏(琴)の各部名称
画像引用元:鹿児島の箏(琴)・三味線和楽器教室:桐の音楽院
傅玄の琴賦の序に、
「斉の桓公の元に鳴琴あり、その名を号鍾と言い、楚の荘王の元に鳴琴あり、その名を繞梁と言った。司馬相如の元には緑綺が、蔡邕の元には焦尾があった。これらの琴はすべて名器である」
とあります。
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第2仕官期
董卓に辟召(へきしょう)される
中平6年(189年)、ついに霊帝が崩御します。
洛陽に入って司空となった董卓は、蔡邕の名声を聞きつけて彼を辟召しますが、蔡邕は病と偽って出仕しませんでした。
すると董卓は大いに怒り、「儂の力は奴の一族を皆殺しにできる。蔡邕が仮病を使うのであれば、長く生きてはおられまい」と言って州郡に厳命し、蔡邕を察挙して自分の幕府に呼び出します。
蔡邕はやむを得ず董卓の下に赴くと、董卓は彼を祭酒(ある官職の筆頭)に任命して大変尊重しました。
また蔡邕は、高第に察挙されて侍御史に任命され、持書御史に転じて尚書に転任し、洛陽に向かう途中、3日間のうちに三台[尚書(中台)・御史(憲台)・謁者(外台)]を歴任することになります。
その後、巴郡太守に転任されましたが、中央に留まって侍中となりました。
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董卓を諫める
尚父と号することを諫める
初平元年(190年)、蔡邕は左中郎将を拝命し、献帝の長安遷都に随従して高陽郷侯に封建されます。
またこの時、董卓の部下(賓客と部曲)が、董卓を古の太公望(呂尚)になぞらえて尚父を号するように勧めました。
これを受けて董卓が相談すると、蔡邕は次のように答えます。
「太公は周を補佐し、命を受けて商(殷)を滅ぼした功績により、特別にその尊号を称するのです。今、明公(董卓)の威厳と温徳はまことに高大ですが、尚父(呂尚)になぞらえるのは時期尚早であると愚考いたします。関東(反董卓連合)が平定され、車駕(皇帝)が旧京(洛陽)にご帰還されるのを待ち、その後に議論すべきです」
董卓は蔡邕の言葉に従いました。
身分不相応な行いを諫める
初平2年(191年)6月、地震が発生しました。董卓はその原因について蔡邕に尋ねます。
これに蔡邕は、
「地震が発生するのは、陰の気が盛んになって陽の気を侵犯し、臣下が制度を超えて振る舞っているからです。春の郊天の祭祀の時、公(董卓)は車駕(皇帝)の先導にあたり、黄金の花・青色の車蓋・花びらの描かれた一対の泥よけを備えた安車(皇太子と皇子に許された車)に乗りましたが、天下の人々はこれを相応しくないと思っております」
と答えました。
すると董卓は、乗っていた安車をやめて皁蓋車(黒色の車蓋の車)に乗るようになりました。
董卓は、蔡邕の学識を重んじて手厚くもてなし、酒宴を開くたびに蔡邕に琴を演奏させて座を盛り上げました。
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亡命を考える
蔡邕は、常に世の中の害を除いて益のあるように願い、董卓を補佐することでその実現をしようと考えていました。
ですが董卓は人の意見に従わないことが多かったので、蔡邕はそのことを不満に思い、従弟の蔡谷に言いました。
「董公(董卓)は気性が激しく非道を行い、ついには救うことができないであろう。私は東方の兗州に出奔しようと考えている。もし兗州に行くことが難しければ、しばらくの間山東に逃れて機会を待とうと思うが、どうだろうか」
すると蔡谷は、
「君の容貌は常人と異なっているので、道行くたびに君を見る者が群れ集まってくるであろう。そのような状況で身を隠そうとしても難しいのではなかろうか」
と言ったので、蔡邕は出奔することを諦めました。
蔡邕の死
蔡邕の失態
初平3年(192年)4月、司徒・王允、尚書僕射・士孫瑞、董卓の将・呂布らの共謀によって、董卓が誅殺されました。
そのことを知った蔡邕は、王允の席に列していながら董卓の誅殺を話題にし、ため息をついて表情を曇らせます。これを見咎めた王允は声を荒げて蔡邕を叱責し、廷尉に身柄を引き渡して罪状を取り調べさせました。
蔡邕の死
蔡邕は言葉を尽くして謝罪し、「どうか首に黥刑*11を施し、足に刖刑*12を施してでも、漢の歴史を編纂することをお許しいただきたい」と懇願します。
また、馬日磾をはじめとする多くの人々も蔡邕を救おうとしましたが王允は聞き入れず、蔡邕は獄死しました。享年61歳でした。
この時王允は、後悔して蔡邕の取り調べを取りやめようとしましたが、間に合わなかったと言われています。
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蔡邕の死については、こちらの記事に詳しくまとめています。
脚注
*11額に刺青をする刑罰のこと。黥首とも。
*12足を切断する刑罰のこと。
蔡邕の著作
蔡邕が生涯をかけて選び集めた「漢の事跡」は、まとめられて『漢書』に続く歴史書となることはありませんでした。
また蔡邕は、「霊帝本紀」と「十意」をつくり、また各種の列伝42篇を補いましたが、「李傕の乱」によってその多くは失われて現存していません。
蔡邕の著作には、詩・賦・碑文・誄・銘文・讚文・連珠・箴言・弔文・論議・『独断』・「観学」・「釋誨」・「敍楽」・「女訓」・「篆埶」・祝詞・章・表・書・記があり、合計104篇が世に伝わりました。
蔡邕は、霊帝に才能を認められたために恨みを買い、董卓に気に入られたために あらぬ疑いをかけられて獄死することになりました。
陽球や王允など、本来志を同じくする者たちから危害を加えられていることから、文章・算術・天文・音楽と多彩な才能を持ちながら、人付き合いだけは不得手だったと言えるかもしれません。
蔡邕にとっては、亡命先の呉郡で過ごした12年間*10が、最も幸せな時間だったのではないでしょうか。
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蔡邕関連年表
生年・年齢は享年を基準にして記載しています。
西暦 |
出来事 |
132年 |
■ 永建6年
- 蔡邕、兗州・陳留郡・圉県で生まれる。
|
不明
167年
まで |
- 太傅の胡広に師事する。
- 3年間、母の看病に専念する。
- 母の喪に服す。
- 勅命により洛陽に呼び出されるが、病を偽って郷里に帰る。
|
不明 |
- 人々との交際を断ち『釋誨』を著す。
|
170年 |
■ 建寧3年【39歳】
- 司徒の橋玄に辟召される。
|
不明 |
- 河平長に任命される。
- 郎中に任命される。
- 東観*6で秘蔵書の校訂を行う。
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175年 |
■ 熹平4年【44歳】
3月
- 『六経』の文字を校定*7し、熹平石経を建立する。
- 「三互の法」の廃止を上奏する。
|
177年 |
■ 熹平6年【46歳】
- 雷や突風、地震や雹、蝗害が相次いで発生する。
7月
- 霊帝の求めに応じて諫言する。
|
178年 |
■ 光和元年【47歳】(上奏文には46歳とある)
2月
- 霊帝が鴻都門学を設置する。
- 災異が相次ぐ。
7月
- 詔により中常侍の曹節と王甫に災異について意見する。
- 霊帝の求めに応じて、内密に悪人たちを批判する上奏をする。
- 曹節が上奏文を盗み見て、側近に言いふらす。
不明
- 蔡邕が批判した程璜の差し金により弾劾される。
- 中常侍の呂強の助命嘆願により髡鉗に刑を減ぜられ、朔方郡に流される。
- 陽球の刺客に見逃される。
- 朔方郡に至る刺史や太守に助けられる。
- 幷州(并州)・五原郡・安陽県に住む。
|
179年 |
■ 光和2年【48歳】
- 霊帝に許される。刑期は9ヶ月。
- 五原太守・王智の恨みを買う。
- 王智が蔡邕を弾劾する。
- 呉郡に亡命する。
|
180年
|
188年 |
- 兗州・泰山郡の羊氏を頼り行き来する。
- 琴の音色を怪しむ。
- 揚州・呉郡に住む。
- 焦尾琴を作る。
|
189年 |
■ 中平6年【58歳】
- 董卓に辟召される。
- 洛陽に向かう途中、3日間のうちに侍御史、持書御史、尚書を歴任する。
- 巴郡太守に任命されるが、中央に留まって侍中となる。
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190年 |
■ 初平元年【59歳】
1月
2月
- 左中郎将に任命される。
- 董卓が洛陽を破壊して長安に遷都する。
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191年 |
■ 初平2年【60歳】
4月
- 尚父を号しようとする董卓を諫める。
6月
- 董卓の分不相応な行いを諫める。
不明
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192年 |
■ 初平3年【61歳】
4月
不明
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