董卓(とうたく)の死後、郭汜(かくし)と共に朝廷を壟断(ろうだん)した李傕(りかく)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

李傕(りかく)

出身地 / 生没年

字(あざな)

稚然(ちぜん)。

出身地

涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)。


涼州・北地郡

涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)

生没年

  • ?〜 建安(けんあん)3年(198年)。
  • 『後漢書(ごかんじょ)』董卓伝(とうたくでん)と『魏書(ぎしょ)』董卓伝(とうたくでん)にまとまった記述があります。

家族・親族

子:李式(りしき)

張済(ちょうせい)の発案で郭汜(かくし)との和睦(わぼく)が話し合われた時のこと。お互いの息子を人質に出す条件が示されましたが、李傕(りかく)の妻が愛する息子の李式(りしき)を人質に出すことに反対したため、和睦(わぼく)はまとまりませんでした。

『後漢紀(ごかんき)』孝(こう)献皇帝紀(けんこうていき)

従弟(いとこ):李応(りおう)

元趙温(ちょうおん)の掾(えん)(属官)。

郭汜(かくし)との争いの中で李傕(りかく)が献帝(けんてい)を黄白城(こうはくじょう)に移そうとした時、司徒(しと)の趙温(ちょうおん)に手紙で非難された李傕(りかく)は、激怒して彼を殺そうとしましたが、李応(りおう)が数日に渡って諫言(かんげん)し、やっとのことで思い止(とど)まらせました。

『魏書(ぎしょ)』董卓伝(とうたくでん) 注『献帝起居注(けんていききょちゅう)』

従弟(いとこ):李桓(りかん)

張済(ちょうせい)の発案で郭汜(かくし)との和睦(わぼく)が話し合われた時のこと。李傕(りかく)の妻の反対により交渉は難航していましたが、ちょうど李傕(りかく)に味方していた羌族(きょうぞく)や胡人(こじん)(匈奴(きょうど))が不満を抱(いだ)いて李傕(りかく)の元を去ったため、李傕(りかく)は「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦(わぼく)に同意しました。

またこの時、郭汜(かくし)の従弟(いとこ)、張済(ちょうせい)の従子(おい)・張繡(ちょうしゅう)と共に、李桓(りかん)も和睦(わぼく)の人質となりました。

『後漢紀(ごかんき)』孝(こう)献皇帝紀(けんこうていき)

甥(おい)(兄の子):李利(りり)

郭汜(かくし)・樊稠(はんちゅう)と共に李傕(りかく)らに反乱を起こした馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)を長平観(ちょうへいかん)で破り、彼らに内応した杜稟(とひん)・馬宇(ばう)・劉範(りゅうはん)らを槐里県(かいりけん)に攻め入って斬りました。

また、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)を陳倉県(ちんそうけん)まで追撃した際、樊稠(はんちゅう)が韓遂(かんすい)と馬を並べて親しく語り合っていたことを李傕(りかく)に密告しました。

『魏書(ぎしょ)』董卓伝(とうたくでん) 注『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』

甥(おい)(兄の子):李暹(りせん)

李傕(りかく)と郭汜(かくし)の関係が悪化した後のこと。李傕(りかく)は「郭汜(かくし)が献帝(けんてい)を自分の陣営に迎えようとしている」という密告を受けました。

そこで李傕(りかく)は李暹(りせん)に命じて数千の兵で宮殿を包囲させ、献帝(けんてい)を北塢(ほくう)に移しました。

『魏書(ぎしょ)』董卓伝(とうたくでん) 注『献帝起居注(けんていききょちゅう)』

外甥(がいせい)(姉妹の子):胡封(こほう)

「樊稠(はんちゅう)が勇猛果敢にして多くの人心を得ていること」を憎んでいた李傕(りかく)の命を受け、樊稠(はんちゅう)が酒に酔ったところを殴(なぐ)り殺しました。

『後漢書(ごかんじょ)』董卓伝(とうたくでん) 注『献帝紀(けんていき)』


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董卓配下として

孫権への使者となる

陽人(ようじん)の戦い

中平(ちゅうへい)6年(189年)9月、霊帝(れいてい)崩御の混乱に乗じて洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入った董卓(とうたく)は、少帝(しょうてい)を廃位して献帝(けんてい)を擁立(ようりつ)しました。

翌年春正月、これに反発した袁紹(えんしょう)らは「反董卓(とうたく)連合」を結成。すると董卓(とうたく)は、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を破壊して長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を強行します。


そして初平(しょへい)2年(191年)、反董卓(とうたく)連合の1人、豫州刺史(よしゅうしし)の孫権(そんけん)が荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・魯陽県(ろようけん)から北上を開始。梁県(りょうけん)の東で董卓(とうたく)配下の徐栄(じょえい)に敗れましたが、梁県(りょうけん)の陽人聚(ようじんしゅう)に移って再び兵を集め、迎撃に来た胡軫(こしん)・呂布(りょふ)の軍を破って都尉(とい)の華雄(かゆう)を討ち取りました。


陽人の戦い

陽人(ようじん)の戦い

孫権(そんけん)への使者となる

董卓(とうたく)は以前孫堅(そんけん)と共に戦ったことがあり、かねてから孫堅(そんけん)の武勇を認めていました。

陽人聚(ようじんしゅう)で胡軫(こしん)が敗れたことを知った董卓(とうたく)は、将軍(しょうぐん)の李傕(りかく)を派遣して「孫堅(そんけん)の子弟を刺史(しし)や太守(たいしゅ)に任命すること」を条件に和睦(わぼく)を申し入れます。

ですが孫堅(そんけん)は、

「董卓(とうたく)は天に背(そむ)いて無道を成(な)した。あやつの三族を皆殺しにして天下に示さなければ、死んでも死に切れん。董卓(とうたく)と誼(よしみ)を結ぶことなどできるかっ!」

と一喝して李傕(りかく)を追い返しました。

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朱儁を撃ち破る

朱儁(しゅしゅん)の挙兵

初平(しょへい)2年(191年)冬、荊州(けいしゅう)に逃亡していた朱儁(しゅしゅん)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に攻め上がり、董卓(とうたく)が任命した河南尹(かなんいん)の楊懿(ようい)を敗走させると、司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・中牟県(ちゅうぼうけん)に駐屯して諸将に「董卓(とうたく)討伐」を呼びかけます。

朱儁(しゅしゅん)を撃ち破る

翌初平(しょへい)3年(192年)1月、董卓(とうたく)は娘婿(むすめむこ)の中郎将(ちゅうろうしょう)・牛輔(ぎゅうほ)を司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯させると、牛輔(ぎゅうほ)は校尉(こうい)の李傕(りかく)、郭汜(かくし)、張済(ちょうせい)らに歩騎数万を与えて朱儁(しゅしゅん)を攻撃し、これを撃ち破りました。

その後李傕(りかく)らは、兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)、豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)の諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。


朱儁の挙兵関連地図

朱儁(しゅしゅん)の挙兵関連地図

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董卓の死

初平(しょへい)3年(192年)4月、董卓(とうたく)が長安(ちょうあん)で司徒(しと)・王允(おういん)、呂布(りょふ)らに誅殺(ちゅうさつ)されました。

これを受け、陳留郡(ちんりゅうぐん)、潁川郡(えいせんぐん)で略奪を行っていた李傕(りかく)らは、軍中にいた王允(おういん)、呂布(りょふ)と同じ幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))出身の者を激しく怨(うら)んで男女数百人を殺害します。

そして彼らが陝県(せんけん)に帰還した頃には、牛輔(ぎゅうほ)はすでに部下の攴胡赤児(ほくこせきじ)に殺害されており、兵士たちは落ち着く場所を失って、各自離散して故郷に帰ることを考えました。

すると牛輔(ぎゅうほ)の軍中にいた賈詡(かく)が、


「聞けば長安(ちょうあん)では、涼州人(りょうしゅうじん)を皆殺しにしようと議論しているとのこと。

それなのにあなた方は、兵隊たちを棄(す)てて単独で行こうとなさるとは。それでは亭長(ていちょう)が1人いれば、あなた方を捕らえることができるでしょう。

このまま軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安(ちょうあん)を攻撃して董公(とうこう)(董卓(とうたく))の復讐をするべきです。

うまく事が運んだ暁(あかつき)には、天子(てんし)(献帝(けんてい))を奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」


と言ったので、李傕(りかく)らはこの賈詡(かく)の言葉に従って長安(ちょうあん)に向かうことにしました。

長安の陥落

長安(ちょうあん)を包囲する

李傕(りかく)らが長安(ちょうあん)に向かって進軍を開始すると、王允(おういん)は董卓(とうたく)の配下であった胡軫(こしん)と徐栄(じょえい)を派遣して新豊県(しんほうけん)で李傕(りかく)らを迎撃させますが、徐栄(じょえい)は戦死し、胡軫(こしん)は兵と共に李傕(りかく)らに降伏してしまいます。


司隷・京兆尹・新豊県

司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・新豊県(しんほうけん)


迎撃軍を撃破した李傕(りかく)らの軍勢は10万以上にふくれ上がり、さらに董卓(とうたく)の配下であった樊稠(はんちゅう)、李蒙(りもう)、王方(おうほう)らと合流して長安(ちょうあん)を包囲しました。

長安(ちょうあん)の陥落

長安城(ちょうあんじょう)を包囲して10日(『後漢書(ごかんじょ)』董卓伝(とうたくでん)では8日)、呂布(りょふ)軍の中にいた蜀(しょく)兵が離反し、城内から李傕(りかく)軍を手引きしました。

李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは城内に侵入して呂布(りょふ)を敗走させると、南宮(なんきゅう)の掖門(えきもん)に駐屯して、

  • 衛尉(えいい)の种拂(ちゅうふつ)
  • 太僕(たいぼく)の魯馗(ろき)
  • 大鴻臚(だいこうろ)の周奐(しゅうかん)
  • 城門校尉(じょうもんこうい)の崔烈(さいれつ)
  • 越騎校尉(えっきこうい)の王頎(おうき)

らを殺害。殺された官吏・民衆は1万人にのぼり、そこら中に死体が散乱しました。


その後、長安(ちょうあん)に留(とど)まった王允(おういん)が幼い献帝(けんてい)を抱(だ)きかかえ、戦闘を避けて宣平門(せんぺいもん)の楼(ろう)上に登ると、李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは門の下に額(ぬか)ずき、地面にひれ伏して叩頭(こうとう)します。

すると献帝(けんてい)は、李傕(りかく)らに向かって問いました。


「君たち臣下は刑罰・恩賞の権力を振るってはいけないはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ?」


これに李傕(りかく)らは、


「董卓(とうたく)は陛下に忠義を尽くしておりましたのに、理由もなく呂布(りょふ)に殺されました。私どもは董卓(とうたく)のために復讐しただけで、謀叛(むほん)を起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉(ていい)の元に出頭して処罰を受ける所存です」


と答えたので、進退窮(きわ)まった王允(おういん)は楼(ろう)から下りて郭汜(かくし)らに降伏しました。

王允(おういん)を処刑する

この時、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)は王允(おういん)の兄・王宏(おうこう)が、司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)は宋翼(そうよく)が太守(たいしゅ)をつとめており、両郡の人々は活気に溢(あふ)れ、兵糧となる穀物の蓄えも豊かであったことから、李傕(りかく)は彼らを恐れ、王允(おういん)を殺したくても手を下せずにいました。


左馮翊(さひょうよく)と右扶風(ゆうふふう)

左馮翊(さひょうよく)と右扶風(ゆうふふう)


そこで李傕(りかく)は一計を案じ、詔勅(しょうちょく)をもって王宏(おうこう)と宋翼(そうよく)を長安(ちょうあん)に召(め)し出して、先に彼らを殺すことにします。

詔勅(しょうちょく)を受けた王宏(おうこう)は李傕(りかく)の思惑を見抜き、宋翼(そうよく)に共に兵を挙(あ)げることを勧めますが、宋翼(そうよく)は王宏(おうこう)の計に従おうとしなかったので、結局王宏(おうこう)も「1人で決起することはできない」と、宋翼(そうよく)と共にお召(め)しに応じます。

そこで李傕(りかく)らは、王宏(おうこう)・宋翼(そうよく)を殺害し、王允(おういん)とその妻子一族10人余りを処刑して、王允(おういん)の屍(しかばね)を市場に晒(さら)しました。

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朝廷を支配する

馬日磾と趙岐を派遣する

8月、朝廷の実権を握った李傕(りかく)らは、太傅(たいふ)の馬日磾(ばびつてい)と太僕(たいぼく)・趙岐(ちょうき)に節(せつ)(軍令違反者を処刑する権限を持つ証(あかし))を持たせて天下を慰撫(いぶ)させました。

大赦を受ける

9月、献帝(けんてい)は大赦令(たいしゃれい)を発し、李傕(りかく)らをみな将軍(しょうぐん)に任命しました。

李傕(りかく)

車騎将軍(しゃきしょうぐん)・池陽侯(ちようこう)に封ぜられ、司隷校尉(しれいこうい)の官を担当し、節(せつ)(部下を処刑する権限を示す旗)を与えられました。

郭汜(かくし)

後将軍(こうしょうぐん)・美陽侯(びようこう)に封ぜられました。

樊稠(はんちゅう)

右将軍(ゆうしょうぐん)・万年侯(まんねんこう)に封ぜられました。

張済(ちょうせい)

鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・平陽侯(へいようこう)に封ぜられました。


以降、郭汜(かくし)・李傕(りかく)・樊稠(はんちゅう)らは朝政を専断し、張済(ちょうせい)は司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯しました。

唐姫を求める

弘農王(こうのうおう)(少帝(しょうてい))の妻・唐姫(とうき)

初平(しょへい)元年(190年)春正月、袁紹(えんしょう)らが「反董卓(とうたく)連合」を結成すると、董卓(とうたく)は弘農王(こうのうおう)(廃位された少帝(しょうてい))を楼閣の上に幽閉し、郎中令(ろうちゅうれい)の李儒(りじゅ)に酖毒(ちんどく)を勧めさせて自害させました。


その後、弘農王(こうのうおう)の妻・唐姫(とうき)は郷里の豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)に帰り、彼女の父で会稽太守(かいけいたいしゅ)の唐瑁(とうぼう)は彼女を再婚させようとしましたが、唐姫(とうき)は誓いを立ててこれに従いませんでした。

李傕(りかく)が唐姫(とうき)を求める

長安(ちょうあん)を陥落(かんらく)させた李傕(りかく)は、兵を派遣して関東(かんとう)を探させると略奪して唐姫(とうき)を捕らえ、自分の妻にしようとしましたが、唐姫(とうき)は最後まで自(みずか)らの素性を名乗りませんでした。

ですが、このことを知った尚書(しょうしょ)の賈詡(かく)が献帝(けんてい)に事情を申し上げると、これを痛ましく思った献帝(けんてい)は詔(みことのり)を下して唐姫(とうき)を迎えさせ、弘農王(こうのうおう)の園陵(えんりょう)中に置いて侍中(じちゅう)に節(せつ)を持たせて弘農王(こうのうおう)の妃(きさき)に任命させました。

長平観の戦い

興平(こうへい)元年(194年)3月、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)らが長安(ちょうあん)に攻め寄せると、李傕(りかく)は兄の子・李利(りり)を派遣して郭汜(かくし)、樊稠(はんちゅう)と共に長平観(ちょうへいかん)でこれを破り、1万人余りを斬首しました。

またこの年の8月、反乱を起こした司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の羌族(きょうぞく)を撃ち破った郭汜(かくし)と樊稠(はんちゅう)は、開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与するようになります。

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郭汜との対立

李傕(りかく)と郭汜(かくし)が対立する

興平(こうへい)2年(195年)2月、「樊稠(はんちゅう)が韓遂(かんすい)と秘かに和議を結び、異心を抱(いだ)いているのではないか」と疑っていた李傕(りかく)は、樊稠(はんちゅう)を会議に招(まね)き、その席で樊稠(はんちゅう)を殺害してしまいました。

このことがあってから、残った諸将はお互いに猜疑(さいぎ)し、李傕(りかく)と郭汜(かくし)はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

この事態に、献帝(けんてい)が侍中(じちゅう)や尚書(しょうしょ)を派遣して李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。

献帝(けんてい)争奪戦

3月、董卓(とうたく)の部隊長であった安西将軍(あんせいしょうぐん)の楊定(ようてい)は李傕(りかく)に殺されることを恐れ、郭汜(かくし)と謀(はか)って献帝(けんてい)を自分たちの陣営に迎えようとしました。

ですがこの計画は、夜間に逃亡して密告する者がいて李傕(りかく)の知るところとなり、李傕(りかく)は兄の子・李暹(りせん)に数千の兵を率(ひき)いさせて宮殿を包囲します。

李暹(りせん)は献帝(けんてい)と金帛(きんぱく)や天子(てんし)(献帝(けんてい))の器物、衣裳を李傕(りかく)陣営の北塢(ほくう)に移すと、宮殿に押し入って宮人の日用品を略奪し、火を放って宮殿・宮府を焼きました。


すると献帝(けんてい)は、大尉(たいい)・楊彪(ようひょう)、司空(しくう)・張喜(ちょうき)ら十余人を郭汜(かくし)の元に派遣して李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させようとしましたが、郭汜(かくし)はこれに従わず、楊彪(ようひょう)ら公卿(こうけい)たちを人質として拘留(こうりゅう)しました。

郭汜(かくし)に敗れる

李傕(りかく)が羌族(きょうぞく)や胡人(こじん)(匈奴(きょうど))数千人を招(まね)いて御物(ぎょぶつ)(皇室の所有品)の繒綵(そうさい)(綾絹(あやぎぬ))を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜(かくし)を攻撃させようとしました。

また一方の郭汜(かくし)は、李傕(りかく)に与(くみ)していた中郎将(ちゅうろうしょう)・張苞(ちょうほう)と秘かに通じて李傕(りかく)攻撃を謀(はか)ります。


郭汜(かくし)が兵を率(ひき)いて李傕(りかく)の営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降り注(そそ)ぎ、献帝(けんてい)が泊まっている高楼殿前の簾帷(れんい)[簾(すだれ)と引き幕]の中にまで及び、李傕(りかく)の左耳を貫(つらぬ)きました。

一方、郭汜(かくし)と内通した張苞(ちょうほう)らが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉(ようほう)の抵抗を受けた郭汜(かくし)が兵を退いたので、張苞(ちょうほう)らは率(ひき)いていた兵と共に郭汜(かくし)に帰順しました。

李傕の横暴

献帝(けんてい)の下賜(かし)品を奪う

当時、遷都(せんと)したばかりで宮中の女官たちの多くは衣服を失っていたので、献帝(けんてい)が宮廷の倉を開いて絹類を与えようとしたところ、李傕(りかく)は不満そうに「宮中に衣服がありますのに、どうしてまた仕立てようとなさるのですか」と言いました。

また、詔勅(しょうちょく)を下して厩(うまや)の馬百匹余りを売り払い、御府令(ぎょふれい)と大司農(だいしのう)に種々の絹を取り出させて、馬を売った金と一緒に、公卿(こうけい)をはじめとして自分では生計を立てられない貧民に下賜(かし)しました。

すると李傕(りかく)は「私の屋敷には蓄(たくわ)えが少ししかありません」と言って、これらをすべて自分の陣営に運び込みます。

これに賈詡(かく)は「これは上意ゆえ逆らってはなりません」と諫(いさ)めましたが、李傕(りかく)は聞き入れませんでした。

献帝(けんてい)に腐った牛の骨を与える

献帝(けんてい)を北塢(ほくう)に移してから、李傕(りかく)は校尉(こうい)に命じて塢(とりで)の門を見張らせ、外部との連絡を絶(た)ちきっていたので、献帝(けんてい)の臣下たちは飢(う)えに苦しみ、夏の盛りで暑い時期であったにも拘(かか)わらず人々はみな恐怖の余り心を凍(こお)らせていました。

そこで献帝(けんてい)が、米5石と牛の骨5頭分を臣下の食糧として要求しましたが、李傕(りかく)は、


「朝晩食事を差し上げているのに、どうして米がいるのだ?」


と言い、腐った牛の骨を与えたため、みなその臭いを嗅(か)ぐだけで食べることができませんでした。

これに立腹した献帝(けんてい)は、李傕(りかく)を非難して問い詰(つ)めようとしますが、侍中(じちゅう)の楊琦(ようき)が密封した文書を奉(たてまつ)ってなだめたので、献帝(けんてい)は楊琦(ようき)の意見を聞き入れました。

趙温(ちょうおん)を殺害しようとする

はじめ李傕(りかく)は黄白城(こうはくじょう)に駐屯していたため、そこに献帝(けんてい)を移そうと計画します。

するとそのことを知った司徒(しと)の趙温(ちょうおん)は、李傕(りかく)に手紙を送って彼を非難しました。

趙温の手紙前文
タップ(クリック)すると開きます。

「公(李傕(りかく))は、先には董公(とうこう)のために復讐するという名目にかこつけながら、実際は首都を攻め滅ぼし、大臣を殺戮(さつりく)しました。天下の人々に1軒1軒言い訳してまわるわけにはまいりませんぞ。

今度は郭汜(かくし)とわずかな怨(うら)みから仲(なか)違(たが)いして抗争し、不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵(きゅうてき)となってしまい、民衆は塗炭(とたん)の苦しみを舐(な)め、それぞれ生きるあてもない状態ですのに、少しも改悟(かいご)することなく、結局動乱が引き起こされたのです。

朝廷からはしきりに詔勅(しょうちょく)が下され、和解するよう求められておりますが、その勅命(ちょくめい)は実行されず、ご恩沢は日々に損なわれております。

それをさらに、黄白城(こうはくじょう)に御車(みくるま)(献帝(けんてい))を移しまいらせるつもりとか。これは真(まこと)に、この老いぼれにとって理解し得ないことです。

『易(えき)』では、1度目の過失を『過(か)』とし、2度目を『渉(しょう)』とし、3度目でなお改めないのを、川を渡って頭の先まで没することと同じで、凶であるとします。早く和解し、軍隊を引き連れて屯営に戻るのが一番です。

上は万乗の天子(てんし)を安(やす)んじまいらせ、下は生民を保全することになり、極めて幸福なことではないでしょうか」


趙温(ちょうおん)の手紙を読んだ李傕(りかく)は激怒して、彼を殺そうとしましたが、李応(りおう)が数日に渡って諫言(かんげん)し、やっとのことで思い止(とど)まらせました。


趙温(ちょうおん)が李傕(りかく)に手紙を出したと聞いた献帝(けんてい)は、侍中(じちゅう)の常洽(じょうこう)に、


「李傕(りかく)には事の善悪を判断する力がない。趙温(ちょうおん)の言葉は厳し過ぎるから、心が凍(こお)りつくほど心配でならぬ」


と言ったところ、常洽(じょうこう)は「すでに李応(りおう)がなだめました」と答えたので、胸をなで下ろして喜びました。

巫女(みこ)を重用する

李傕(りかく)は生来、鬼神や妖術の類(たぐい)を好み、常に道士や巫女(みこ)が歌い、鼓(つづみ)を鳴らして神降(かみお)ろしをし、六丁(ろくてい)(神の名前)を祭り、お札や まじない の道具で使わないものは1つとしてありませんでした。

ある時李傕(りかく)は、朝廷の役所の門外に董卓(とうたく)の神坐(しんざ)(祭祀場)を設(しつら)え、たびたび牛や羊を供(そな)えて祭り、それが終わると宮中の小門を通って献帝(けんてい)のご機嫌(きげん)を伺(うかが)い、拝謁(はいえつ)を求めました。

この時李傕(りかく)は3振りの刀を帯(お)び、手にはさらに鞭(むち)と一緒に抜き身の刀を1振り持っています。

侍中(じちゅう)や侍郎(じろう)は李傕(りかく)が武器を身につけているのを見ると、みな恐れおののき、自分たちも剣を帯(お)び、抜き身の刀を持って、先に入室して献帝(けんてい)のまわりを固めました。


この時李傕(りかく)は、献帝(けんてい)に対して「明陛下」と言ったり「明帝」と言ったりして、郭汜(かくし)の無道振りを説明してきたので、献帝(けんてい)は李傕(りかく)の意に沿(そ)うように受け答えをします。

すると李傕(りかく)は退出した後で、


「明陛下(献帝(けんてい))は本当に賢明な聖天子(せいてんし)である」


と言い、内心自信満々で、本当に献帝(けんてい)の歓心を得ることができたと信じていました。

ですが、なおも側近の臣下が剣を帯(お)びて献帝(けんてい)のまわりを固めていることには不服なようで、


「みな刀を持っているとは、こいつらは儂(わし)に手を下すつもりなのか」


と人に漏(も)らしますが、李傕(りかく)と同郷で侍中(じちゅう)の李禎(りてい)が、


「彼らが刀を持っているのは、軍中でそうするのが建前だからであって、これは国家の慣例です」


と言ったので、李傕(りかく)の気持ちはやっと解(ほぐ)れました。

大司馬(だいしば)に任命される

閏(うるう)5月、献帝(けんてい)は涼州(りょうしゅう)の名門で使者として有能な謁者僕射(えっしゃぼくや)の皇甫酈(こうほれき)を派遣して、李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させようとします。

ですがこの時、先に訪(おとず)れた郭汜(かくし)は勅命(ちょくめい)を受け入れましたが、次に訪(おとず)れた李傕(りかく)は承知せず、説得しようとする皇甫酈(こうほれき)の言葉に腹を立て、怒鳴りつけて退出させました。


その後、李傕(りかく)は虎賁(こほん)(近衛兵)の王昌(おうしょう)に皇甫酈(こうほれき)を呼びに行かせましたが、すでに彼の身を案じた献帝(けんてい)が逃亡を命じた後であり、王昌(おうしょう)もまた皇甫酈(こうほれき)が忠義で正しい人間であることを知っていたので、戻って李傕(りかく)に「すでに逃亡した後で追いつけませんでした」と報告しました。


そして献帝(けんてい)は、左中郎将(さちゅうろうしょう)の李固(りこ)に節(せつ)(使者の証(しるし))を持たせて、李傕(りかく)をなだめるため大司馬(だいしば)に任命し、三公(さんこう)の上に位させました。

すると李傕(りかく)は、鬼神の助力を得たと思い込み、そこで巫女(みこ)たちに懇(ねんご)ろに褒美を与えました。

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郭汜との和睦

郭汜(かくし)と李傕(りかく)が攻撃し合うようになって数ヶ月、死者は1万人を数えるようになっていました。

興平(こうへい)2年(195年)6月、李傕(りかく)の将軍(しょうぐん)・楊奉(ようほう)と軍官(ぐんかん)・宋果(そうからが李傕(りかく)の暗殺を企(くわだ)てますが、事前に計画が洩(も)れたため軍勢を率(ひき)いて謀反(むほん)を起こします。これにより、李傕(りかく)の勢力は次第に衰(おとろ)えました。


そしてこの頃、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯していた張済(ちょうせい)が長安(ちょうあん)に到着。李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させ、天子(てんし)(献帝(けんてい))をしばらく弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に行幸(ぎょうこう)(外出)させることを提案します。


関連地図

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そこで、つねづね洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に帰りたいと願っていた天子(てんし)(献帝(けんてい))は両者に使者を送って説得を試みますが、李傕(りかく)の妻が反対したため交渉は難航。ですが、ちょうど李傕(りかく)に味方していた羌族(きょうぞく)や胡人(こじん)(匈奴(きょうど))が不満を抱(いだ)いて李傕(りかく)の元を去ったため、「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦(わぼく)に同意しました。


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献帝の東遷

献帝の出発

秋7月、張済(ちょうせい)の提案により献帝(けんてい)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に向けて出発すると、李傕(りかく)は長安(ちょうあん)を出て封地の司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)・池陽県(ちようけん)に駐屯し、郭汜(かくし)は献帝(けんてい)に従って東に向かいました。


8月、献帝(けんてい)が司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・新豊県(しんほうけん)に到着すると郭汜(かくし)はまたもや陰謀をめぐらせ、「天子(てんし)(献帝(けんてい))を脅(おど)して連れ戻し、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・郿県(びけん)に都を置かせよう」としました。


これを知った侍中(じちゅう)の种輯(ちゅうしゅう)は、秘かに楊定(ようてい)・董承(とうしょう)・楊奉(ようほう)らに伝えて新豊県(しんほうけん)に集結させたので、郭汜(かくし)は自分の陰謀が漏(も)れたと知って、軍を棄(す)てて南山(なんざん)(長安(ちょうあん)にある終南山(しゅうなんざん))に逃亡しました。


献帝の東遷経路3

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)経路2

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再び郭汜と手を結ぶ

天子(てんし)(献帝(けんてい))が司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に到着すると、華陰県(かいんけん)に駐屯していた寧輯将軍(ねいしゅうしょうぐん)・段煨(だんわい)と、天子(てんし)(献帝(けんてい))に従って来た楊定(ようてい)、种輯(ちゅうしゅう)、左霊(されい)らの間で争いが起こりました。


献帝の東遷経路4

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)経路4


天子(てんし)(献帝(けんてい))を東に向かわせたことを後悔していた李傕(りかく)と郭汜(かくし)は、楊定(ようてい)が段煨(だんわい)を攻撃したと聞き、お互いに誘い合って「段煨(だんわい)を救援する」という名目で華陰県(かいんけん)に行き、献帝(けんてい)を脅迫して西(長安(ちょうあん))に連れ帰ろうと計画します。


李傕(りかく)と郭汜(かくし)がやって来たことを知った楊定(ようてい)は、南の司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・藍田県(らんでんけん)に還(かえ)ろうとしましたが、郭汜(かくし)に遮(さえぎ)られて単騎荊州(けいしゅう)に逃亡。楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)らと折り合いが悪かった張済(ちょうせい)は、再び李傕(りかく)・郭汜(かくし)と合流します。

献帝を追う

東澗(とうかん)の戦い

11月、献帝(けんてい)が司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に到着しました。


司隷・弘農郡・弘農県

司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)


李傕(りかく)・郭汜(かくし)・張済(ちょうせい)は献帝(けんてい)を追撃し、弘農県(こうのうけん)の東澗(とうかん)(渓谷(けいこく))で董承(とうしょう)・楊奉(ようほう)らと激しい戦闘になります。

結果、献帝(けんてい)の軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物(ぎょぶつ)(服飾や器物)や符策(ふさく)(符節(ふせつ)や命令書)、典籍(てんせき)は棄(す)てられました。

曹陽澗(そうようかん)の戦い

李傕(りかく)らに敗れた献帝(けんてい)は、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)の曹陽澗(そうようかん)(渓谷(けいこく))で野宿しました。

この時董承(とうしょう)と楊奉(ようほう)は、偽(いつわ)って李傕(りかく)らと手を組んだ振りをして秘(ひそ)かに司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)に密使を送り、

  • 元白波賊(はくはぞく)の帥(すい)・李楽(りがく)
  • 韓暹(かんせん)
  • 胡才(こさい)
  • 南匈奴(なんきょうど)の右賢王(ゆうけんおう)・去卑(きょひ)(『後漢書(ごかんじょ)』孝献帝紀(こうけんていぎ)では左賢王(さけんおう))

らを招(まね)きます。

そして12月、李楽(りがく)らを迎えた献帝(けんてい)が曹陽澗(そうようかん)から出発すると、李傕(りかく)らは再度献帝(けんてい)一行を襲撃し、献帝(けんてい)一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に着いて陣営を構えた時には、虎賁兵(こほんへい)・羽林兵(うりんへい)合わせて100人にも満ちませんでした。

もはや支えきれないと悟(さと)った献帝(けんてい)一行は、李楽(りがく)に命じて夜の間に秘(ひそ)かに船を調達させ、黄河(こうが)を渡って北の司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)に向かうことにします。


司隷・河東郡・大陽県

司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)


黄河(こうが)の北岸に火が灯(とも)っているのを見た李傕(りかく)が急いでこれを追い、対岸から矢を射かけましたが、董承(とうしょう)が船に幔幕を張って進んだので、献帝(けんてい)は無事 対岸の司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)に着くことができました。

献帝(けんてい)との和睦(わぼく)

大陽県(たいようけん)からさらに北上して司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に入った天子(てんし)(献帝(けんてい))は、太僕(たいぼく)の韓融(かんゆう)を派遣して李傕(りかく)らに和睦(わぼく)を求めます。

李傕(りかく)・郭汜(かくし)らはこの申し出を受け入れ、捕らえていた公卿(こうけい)百官を釈放して、これまで奪った宮女や御物(ぎょぶつ)(服飾や器物)の多くを献帝(けんてい)に返還しました。

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李傕の死

その後李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは権勢を失い、献帝(けんてい)は曹操(そうそう)の保護を受け、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)・許県(きょけん)に遷都(せんと)します。

そして建安(けんあん)3年(198年)夏4月*1、朝廷は謁者僕射(えっしゃぼくや)の裴茂(はいぼう)に中郎将(ちゅうろうしょう)の段煨(だんわい)を率(ひき)いさせ、李傕(りかく)を討伐。その三族は皆殺しにされました。

また、李傕(りかく)の首が届けられると、詔勅(しょうちょく)によって高い所につり下げられて さらし首 にされました。

脚注

*1『魏書(ぎしょ)』董卓伝(とうたくでん)には、李傕(りかく)が討伐・処刑されたのは「建安(けんあん)2年(197年)」とありますが、ここでは『後漢書(ごかんじょ)』献帝紀(けんていぎ)と『資治通鑑(しじつがん)』に従って「建安(けんあん)3年(198年)夏4月」としています。

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董卓(とうたく)の娘婿(むすめむこ)・牛輔(ぎゅうほ)配下の校尉(こうい)であった李傕(りかく)は、董卓(とうたく)の死後、郭汜(かくし)・張済(ちょうせい)・樊稠(はんちゅう)らと共に長安(ちょうあん)を包囲・陥落(かんらく)させ、朝廷の実権を握りました。

ですがしばらくすると主導権争いから李傕(りかく)は樊稠(はんちゅう)を殺害。残った諸将はお互いに猜疑(さいぎ)し合い、李傕(りかく)と郭汜(かくし)はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

その後、張済(ちょうせい)の仲裁により郭汜(かくし)と和睦(わぼく)した李傕(りかく)は、郭汜(かくし)と共に東に向かう献帝(けんてい)一行を追いますが、大きな被害を与えたものの献帝(けんてい)を捕らえることはできず、黄河(こうが)北岸の安邑県(あんゆうけん)に入った献帝(けんてい)と和睦(わぼく)。急速に求心力を失い、曹操(そうそう)によって立て直された朝廷の討伐軍に敗れて三族皆殺しとなりました。


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郭汜データベース

郭汜関連年表

西暦 出来事
不明
  • 涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)に生まれる。
192年

■ 初平(しょへい)3年

  • 司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・中牟県(ちゅうぼうけん)に朱儁(しゅしゅん)を撃ち破る。
  • 董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)される。
  • 軍中の幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))出身の者・男女数百人を殺害する。
  • 赦免(しゃめん)を求めるが王允(おういん)は許さなかった。
  • 長安(ちょうあん)を包囲・陥落させ、王允(おういん)と妻子一族10人余りを処刑する。
  • 太傅(たいふ)・馬日磾(ばびつてい)と太僕(たいぼく)・趙岐(ちょうき)に天下を慰撫(いぶ)させる。
  • 車騎将軍(しゃきしょうぐん)・池陽侯(ちようこう)に封ぜられ、司隷校尉(しれいこうい)となり郭汜(かくし)・樊稠(はんちゅう)と共に朝政を専断する。
  • 唐姫(とうき)を求める。
194年 ■興平(こうへい)元年

  • 兄の子・李利(りり)、郭汜(かくし)、樊稠(はんちゅう)を派遣して長平観(ちょうへいかん)で馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)らを破る。
195年 ■興平(こうへい)2年

  • 樊稠(はんちゅう)を殺害する。
  • 郭汜(かくし)と仲(なか)違(たが)いし、お互いに攻め合うようになる。
  • 献帝(けんてい)を陣営に迎える。
  • 郭汜(かくし)が公卿(こうけい)たちを人質として拘留(こうりゅう)する。
  • 郭汜(かくし)に敗れる。
  • 張済(ちょうせい)が長安(ちょうあん)に到着し、献帝(けんてい)を弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に行幸(ぎょうこう)(外出)させることを提案する。
  • 郭汜(かくし)と和睦(わぼく)する。
  • 献帝(けんてい)が東に向かう。
  • 郭汜(かくし)と献帝(けんてい)を追い、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)の曹陽澗(そうようかん)で大いに撃ち破る。
  • 天子(てんし)(献帝(けんてい))と和睦(わぼく)する。
198年
  • 朝廷(裴茂(はいぼう)、段煨(だんわい))の討伐を受け、三族皆殺しとなる。

配下

李応(りおう)、李利(りり)、李暹(りせん)、胡封(こほう)、賈詡(かく)、張苞(ちょうほう)、王昌(おうしょう)、楊奉(ようほう)、宋果(そうか