董卓の死後、郭汜と共に朝廷を壟断した李傕とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地 / 生没年
字
稚然。
出身地
涼州・北地郡。
涼州・北地郡
生没年
- ?〜 建安3年(198年)。
- 『後漢書』董卓伝と『魏書』董卓伝にまとまった記述があります。
家族・親族
子:李式
張済の発案で郭汜との和睦が話し合われた時のこと。お互いの息子を人質に出す条件が示されましたが、李傕の妻が愛する息子の李式を人質に出すことに反対したため、和睦はまとまりませんでした。
『後漢紀』孝献皇帝紀
従弟:李応
元趙温の掾(属官)。
郭汜との争いの中で李傕が献帝を黄白城に移そうとした時、司徒の趙温に手紙で非難された李傕は、激怒して彼を殺そうとしましたが、李応が数日に渡って諫言し、やっとのことで思い止まらせました。
『魏書』董卓伝 注『献帝起居注』
従弟:李桓
張済の発案で郭汜との和睦が話し合われた時のこと。李傕の妻の反対により交渉は難航していましたが、ちょうど李傕に味方していた羌族や胡人(匈奴)が不満を抱いて李傕の元を去ったため、李傕は「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦に同意しました。
またこの時、郭汜の従弟、張済の従子・張繡と共に、李桓も和睦の人質となりました。
『後漢紀』孝献皇帝紀
甥(兄の子):李利
郭汜・樊稠と共に李傕らに反乱を起こした馬騰・韓遂を長平観で破り、彼らに内応した杜稟・馬宇・劉範らを槐里県に攻め入って斬りました。
また、馬騰・韓遂を陳倉県まで追撃した際、樊稠が韓遂と馬を並べて親しく語り合っていたことを李傕に密告しました。
『魏書』董卓伝 注『九州春秋』
甥(兄の子):李暹
李傕と郭汜の関係が悪化した後のこと。李傕は「郭汜が献帝を自分の陣営に迎えようとしている」という密告を受けました。
そこで李傕は李暹に命じて数千の兵で宮殿を包囲させ、献帝を北塢に移しました。
『魏書』董卓伝 注『献帝起居注』
外甥(姉妹の子):胡封
「樊稠が勇猛果敢にして多くの人心を得ていること」を憎んでいた李傕の命を受け、樊稠が酒に酔ったところを殴り殺しました。
『後漢書』董卓伝 注『献帝紀』
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董卓配下として
孫権への使者となる
陽人の戦い
中平6年(189年)9月、霊帝崩御の混乱に乗じて洛陽(雒陽)に入った董卓は、少帝を廃位して献帝を擁立しました。
翌年春正月、これに反発した袁紹らは「反董卓連合」を結成。すると董卓は、洛陽(雒陽)を破壊して長安に遷都を強行します。
そして初平2年(191年)、反董卓連合の1人、豫州刺史の孫権が荊州・南陽郡・魯陽県から北上を開始。梁県の東で董卓配下の徐栄に敗れましたが、梁県の陽人聚に移って再び兵を集め、迎撃に来た胡軫・呂布の軍を破って都尉の華雄を討ち取りました。
陽人の戦い
孫権への使者となる
董卓は以前孫堅と共に戦ったことがあり、かねてから孫堅の武勇を認めていました。
陽人聚で胡軫が敗れたことを知った董卓は、将軍の李傕を派遣して「孫堅の子弟を刺史や太守に任命すること」を条件に和睦を申し入れます。
ですが孫堅は、
「董卓は天に背いて無道を成した。あやつの三族を皆殺しにして天下に示さなければ、死んでも死に切れん。董卓と誼を結ぶことなどできるかっ!」
と一喝して李傕を追い返しました。
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朱儁を撃ち破る
朱儁の挙兵
初平2年(191年)冬、荊州に逃亡していた朱儁が洛陽(雒陽)に攻め上がり、董卓が任命した河南尹の楊懿を敗走させると、司隷・河南尹・中牟県に駐屯して諸将に「董卓討伐」を呼びかけます。
朱儁を撃ち破る
翌初平3年(192年)1月、董卓は娘婿の中郎将・牛輔を司隷・弘農郡・陝県に駐屯させると、牛輔は校尉の李傕、郭汜、張済らに歩騎数万を与えて朱儁を攻撃し、これを撃ち破りました。
その後李傕らは、兗州・陳留郡、豫州・潁川郡の諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。
朱儁の挙兵関連地図
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董卓の死
初平3年(192年)4月、董卓が長安で司徒・王允、呂布らに誅殺されました。
これを受け、陳留郡、潁川郡で略奪を行っていた李傕らは、軍中にいた王允、呂布と同じ幷州(并州)出身の者を激しく怨んで男女数百人を殺害します。
そして彼らが陝県に帰還した頃には、牛輔はすでに部下の攴胡赤児に殺害されており、兵士たちは落ち着く場所を失って、各自離散して故郷に帰ることを考えました。
すると牛輔の軍中にいた賈詡が、
「聞けば長安では、涼州人を皆殺しにしようと議論しているとのこと。
それなのにあなた方は、兵隊たちを棄てて単独で行こうとなさるとは。それでは亭長が1人いれば、あなた方を捕らえることができるでしょう。
このまま軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安を攻撃して董公(董卓)の復讐をするべきです。
うまく事が運んだ暁には、天子(献帝)を奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」
と言ったので、李傕らはこの賈詡の言葉に従って長安に向かうことにしました。
長安の陥落
長安を包囲する
李傕らが長安に向かって進軍を開始すると、王允は董卓の配下であった胡軫と徐栄を派遣して新豊県で李傕らを迎撃させますが、徐栄は戦死し、胡軫は兵と共に李傕らに降伏してしまいます。
司隷・京兆尹・新豊県
迎撃軍を撃破した李傕らの軍勢は10万以上にふくれ上がり、さらに董卓の配下であった樊稠、李蒙、王方らと合流して長安を包囲しました。
長安の陥落
長安城を包囲して10日(『後漢書』董卓伝では8日)、呂布軍の中にいた蜀兵が離反し、城内から李傕軍を手引きしました。
李傕・郭汜らは城内に侵入して呂布を敗走させると、南宮の掖門に駐屯して、
- 衛尉の种拂
- 太僕の魯馗
- 大鴻臚の周奐
- 城門校尉の崔烈
- 越騎校尉の王頎
らを殺害。殺された官吏・民衆は1万人にのぼり、そこら中に死体が散乱しました。
その後、長安に留まった王允が幼い献帝を抱きかかえ、戦闘を避けて宣平門の楼上に登ると、李傕・郭汜らは門の下に額ずき、地面にひれ伏して叩頭します。
すると献帝は、李傕らに向かって問いました。
「君たち臣下は刑罰・恩賞の権力を振るってはいけないはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ?」
これに李傕らは、
「董卓は陛下に忠義を尽くしておりましたのに、理由もなく呂布に殺されました。私どもは董卓のために復讐しただけで、謀叛を起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉の元に出頭して処罰を受ける所存です」
と答えたので、進退窮まった王允は楼から下りて郭汜らに降伏しました。
王允を処刑する
この時、司隷・右扶風は王允の兄・王宏が、司隷・左馮翊は宋翼が太守をつとめており、両郡の人々は活気に溢れ、兵糧となる穀物の蓄えも豊かであったことから、李傕は彼らを恐れ、王允を殺したくても手を下せずにいました。
左馮翊と右扶風
そこで李傕は一計を案じ、詔勅をもって王宏と宋翼を長安に召し出して、先に彼らを殺すことにします。
詔勅を受けた王宏は李傕の思惑を見抜き、宋翼に共に兵を挙げることを勧めますが、宋翼は王宏の計に従おうとしなかったので、結局王宏も「1人で決起することはできない」と、宋翼と共にお召しに応じます。
そこで李傕らは、王宏・宋翼を殺害し、王允とその妻子一族10人余りを処刑して、王允の屍を市場に晒しました。
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朝廷を支配する
馬日磾と趙岐を派遣する
8月、朝廷の実権を握った李傕らは、太傅の馬日磾と太僕・趙岐に節(軍令違反者を処刑する権限を持つ証)を持たせて天下を慰撫させました。
大赦を受ける
9月、献帝は大赦令を発し、李傕らをみな将軍に任命しました。
李傕
車騎将軍・池陽侯に封ぜられ、司隷校尉の官を担当し、節(部下を処刑する権限を示す旗)を与えられました。
郭汜
後将軍・美陽侯に封ぜられました。
樊稠
右将軍・万年侯に封ぜられました。
張済
鎮東将軍・平陽侯に封ぜられました。
以降、郭汜・李傕・樊稠らは朝政を専断し、張済は司隷・弘農郡・陝県に駐屯しました。
唐姫を求める
弘農王(少帝)の妻・唐姫
初平元年(190年)春正月、袁紹らが「反董卓連合」を結成すると、董卓は弘農王(廃位された少帝)を楼閣の上に幽閉し、郎中令の李儒に酖毒を勧めさせて自害させました。
その後、弘農王の妻・唐姫は郷里の豫州(予州)・潁川郡に帰り、彼女の父で会稽太守の唐瑁は彼女を再婚させようとしましたが、唐姫は誓いを立ててこれに従いませんでした。
李傕が唐姫を求める
長安を陥落させた李傕は、兵を派遣して関東を探させると略奪して唐姫を捕らえ、自分の妻にしようとしましたが、唐姫は最後まで自らの素性を名乗りませんでした。
ですが、このことを知った尚書の賈詡が献帝に事情を申し上げると、これを痛ましく思った献帝は詔を下して唐姫を迎えさせ、弘農王の園陵中に置いて侍中に節を持たせて弘農王の妃に任命させました。
長平観の戦い
興平元年(194年)3月、馬騰・韓遂らが長安に攻め寄せると、李傕は兄の子・李利を派遣して郭汜、樊稠と共に長平観でこれを破り、1万人余りを斬首しました。
またこの年の8月、反乱を起こした司隷・左馮翊の羌族を撃ち破った郭汜と樊稠は、開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与するようになります。
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郭汜との対立
李傕と郭汜が対立する
興平2年(195年)2月、「樊稠が韓遂と秘かに和議を結び、異心を抱いているのではないか」と疑っていた李傕は、樊稠を会議に招き、その席で樊稠を殺害してしまいました。
このことがあってから、残った諸将はお互いに猜疑し、李傕と郭汜はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。
この事態に、献帝が侍中や尚書を派遣して李傕と郭汜を和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。
献帝争奪戦
3月、董卓の部隊長であった安西将軍の楊定は李傕に殺されることを恐れ、郭汜と謀って献帝を自分たちの陣営に迎えようとしました。
ですがこの計画は、夜間に逃亡して密告する者がいて李傕の知るところとなり、李傕は兄の子・李暹に数千の兵を率いさせて宮殿を包囲します。
李暹は献帝と金帛や天子(献帝)の器物、衣裳を李傕陣営の北塢に移すと、宮殿に押し入って宮人の日用品を略奪し、火を放って宮殿・宮府を焼きました。
すると献帝は、大尉・楊彪、司空・張喜ら十余人を郭汜の元に派遣して李傕と郭汜を和睦させようとしましたが、郭汜はこれに従わず、楊彪ら公卿たちを人質として拘留しました。
郭汜に敗れる
李傕が羌族や胡人(匈奴)数千人を招いて御物(皇室の所有品)の繒綵(綾絹)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜を攻撃させようとしました。
また一方の郭汜は、李傕に与していた中郎将・張苞と秘かに通じて李傕攻撃を謀ります。
郭汜が兵を率いて李傕の営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降り注ぎ、献帝が泊まっている高楼殿前の簾帷[簾と引き幕]の中にまで及び、李傕の左耳を貫きました。
一方、郭汜と内通した張苞らが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉の抵抗を受けた郭汜が兵を退いたので、張苞らは率いていた兵と共に郭汜に帰順しました。
李傕の横暴
献帝の下賜品を奪う
当時、遷都したばかりで宮中の女官たちの多くは衣服を失っていたので、献帝が宮廷の倉を開いて絹類を与えようとしたところ、李傕は不満そうに「宮中に衣服がありますのに、どうしてまた仕立てようとなさるのですか」と言いました。
また、詔勅を下して厩の馬百匹余りを売り払い、御府令と大司農に種々の絹を取り出させて、馬を売った金と一緒に、公卿をはじめとして自分では生計を立てられない貧民に下賜しました。
すると李傕は「私の屋敷には蓄えが少ししかありません」と言って、これらをすべて自分の陣営に運び込みます。
これに賈詡は「これは上意ゆえ逆らってはなりません」と諫めましたが、李傕は聞き入れませんでした。
献帝に腐った牛の骨を与える
献帝を北塢に移してから、李傕は校尉に命じて塢の門を見張らせ、外部との連絡を絶ちきっていたので、献帝の臣下たちは飢えに苦しみ、夏の盛りで暑い時期であったにも拘わらず人々はみな恐怖の余り心を凍らせていました。
そこで献帝が、米5石と牛の骨5頭分を臣下の食糧として要求しましたが、李傕は、
「朝晩食事を差し上げているのに、どうして米がいるのだ?」
と言い、腐った牛の骨を与えたため、みなその臭いを嗅ぐだけで食べることができませんでした。
これに立腹した献帝は、李傕を非難して問い詰めようとしますが、侍中の楊琦が密封した文書を奉ってなだめたので、献帝は楊琦の意見を聞き入れました。
趙温を殺害しようとする
はじめ李傕は黄白城に駐屯していたため、そこに献帝を移そうと計画します。
するとそのことを知った司徒の趙温は、李傕に手紙を送って彼を非難しました。
趙温の手紙前文
趙温の手紙を読んだ李傕は激怒して、彼を殺そうとしましたが、李応が数日に渡って諫言し、やっとのことで思い止まらせました。
趙温が李傕に手紙を出したと聞いた献帝は、侍中の常洽に、
「李傕には事の善悪を判断する力がない。趙温の言葉は厳し過ぎるから、心が凍りつくほど心配でならぬ」
と言ったところ、常洽は「すでに李応がなだめました」と答えたので、胸をなで下ろして喜びました。
巫女を重用する
李傕は生来、鬼神や妖術の類を好み、常に道士や巫女が歌い、鼓を鳴らして神降ろしをし、六丁(神の名前)を祭り、お札や まじない の道具で使わないものは1つとしてありませんでした。
ある時李傕は、朝廷の役所の門外に董卓の神坐(祭祀場)を設え、たびたび牛や羊を供えて祭り、それが終わると宮中の小門を通って献帝のご機嫌を伺い、拝謁を求めました。
この時李傕は3振りの刀を帯び、手にはさらに鞭と一緒に抜き身の刀を1振り持っています。
侍中や侍郎は李傕が武器を身につけているのを見ると、みな恐れおののき、自分たちも剣を帯び、抜き身の刀を持って、先に入室して献帝のまわりを固めました。
この時李傕は、献帝に対して「明陛下」と言ったり「明帝」と言ったりして、郭汜の無道振りを説明してきたので、献帝は李傕の意に沿うように受け答えをします。
すると李傕は退出した後で、
「明陛下(献帝)は本当に賢明な聖天子である」
と言い、内心自信満々で、本当に献帝の歓心を得ることができたと信じていました。
ですが、なおも側近の臣下が剣を帯びて献帝のまわりを固めていることには不服なようで、
「みな刀を持っているとは、こいつらは儂に手を下すつもりなのか」
と人に漏らしますが、李傕と同郷で侍中の李禎が、
「彼らが刀を持っているのは、軍中でそうするのが建前だからであって、これは国家の慣例です」
と言ったので、李傕の気持ちはやっと解れました。
大司馬に任命される
閏5月、献帝は涼州の名門で使者として有能な謁者僕射の皇甫酈を派遣して、李傕と郭汜を和睦させようとします。
ですがこの時、先に訪れた郭汜は勅命を受け入れましたが、次に訪れた李傕は承知せず、説得しようとする皇甫酈の言葉に腹を立て、怒鳴りつけて退出させました。
その後、李傕は虎賁(近衛兵)の王昌に皇甫酈を呼びに行かせましたが、すでに彼の身を案じた献帝が逃亡を命じた後であり、王昌もまた皇甫酈が忠義で正しい人間であることを知っていたので、戻って李傕に「すでに逃亡した後で追いつけませんでした」と報告しました。
そして献帝は、左中郎将の李固に節(使者の証)を持たせて、李傕をなだめるため大司馬に任命し、三公の上に位させました。
すると李傕は、鬼神の助力を得たと思い込み、そこで巫女たちに懇ろに褒美を与えました。
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郭汜との和睦
郭汜と李傕が攻撃し合うようになって数ヶ月、死者は1万人を数えるようになっていました。
興平2年(195年)6月、李傕の将軍・楊奉と軍官・宋果らが李傕の暗殺を企てますが、事前に計画が洩れたため軍勢を率いて謀反を起こします。これにより、李傕の勢力は次第に衰えました。
そしてこの頃、司隷・弘農郡・陝県に駐屯していた張済が長安に到着。李傕と郭汜を和睦させ、天子(献帝)をしばらく弘農郡・弘農県に行幸(外出)させることを提案します。
関連地図
そこで、つねづね洛陽(雒陽)に帰りたいと願っていた天子(献帝)は両者に使者を送って説得を試みますが、李傕の妻が反対したため交渉は難航。ですが、ちょうど李傕に味方していた羌族や胡人(匈奴)が不満を抱いて李傕の元を去ったため、「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦に同意しました。
献帝の東遷
献帝の出発
秋7月、張済の提案により献帝が洛陽(雒陽)に向けて出発すると、李傕は長安を出て封地の司隷・左馮翊・池陽県に駐屯し、郭汜は献帝に従って東に向かいました。
8月、献帝が司隷・京兆尹・新豊県に到着すると郭汜はまたもや陰謀をめぐらせ、「天子(献帝)を脅して連れ戻し、司隷・右扶風・郿県に都を置かせよう」としました。
これを知った侍中の种輯は、秘かに楊定・董承・楊奉らに伝えて新豊県に集結させたので、郭汜は自分の陰謀が漏れたと知って、軍を棄てて南山(長安にある終南山)に逃亡しました。
献帝の東遷経路2
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再び郭汜と手を結ぶ
天子(献帝)が司隷・弘農郡・華陰県に到着すると、華陰県に駐屯していた寧輯将軍・段煨と、天子(献帝)に従って来た楊定、种輯、左霊らの間で争いが起こりました。
献帝の東遷経路4
天子(献帝)を東に向かわせたことを後悔していた李傕と郭汜は、楊定が段煨を攻撃したと聞き、お互いに誘い合って「段煨を救援する」という名目で華陰県に行き、献帝を脅迫して西(長安)に連れ帰ろうと計画します。
李傕と郭汜がやって来たことを知った楊定は、南の司隷・京兆尹・藍田県に還ろうとしましたが、郭汜に遮られて単騎荊州に逃亡。楊奉・董承らと折り合いが悪かった張済は、再び李傕・郭汜と合流します。
献帝を追う
東澗の戦い
11月、献帝が司隷・弘農郡・弘農県に到着しました。
司隷・弘農郡・弘農県
李傕・郭汜・張済は献帝を追撃し、弘農県の東澗(渓谷)で董承・楊奉らと激しい戦闘になります。
結果、献帝の軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物(服飾や器物)や符策(符節や命令書)、典籍は棄てられました。
曹陽澗の戦い
李傕らに敗れた献帝は、司隷・弘農郡・弘農県の曹陽澗(渓谷)で野宿しました。
この時董承と楊奉は、偽って李傕らと手を組んだ振りをして秘かに司隷・河東郡に密使を送り、
- 元白波賊の帥・李楽
- 韓暹
- 胡才
- 南匈奴の右賢王・去卑(『後漢書』孝献帝紀では左賢王)
らを招きます。
そして12月、李楽らを迎えた献帝が曹陽澗から出発すると、李傕らは再度献帝一行を襲撃し、献帝一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷・弘農郡・陝県に着いて陣営を構えた時には、虎賁兵・羽林兵合わせて100人にも満ちませんでした。
もはや支えきれないと悟った献帝一行は、李楽に命じて夜の間に秘かに船を調達させ、黄河を渡って北の司隷・河東郡・大陽県に向かうことにします。
司隷・河東郡・大陽県
黄河の北岸に火が灯っているのを見た李傕が急いでこれを追い、対岸から矢を射かけましたが、董承が船に幔幕を張って進んだので、献帝は無事 対岸の司隷・河東郡・大陽県に着くことができました。
献帝との和睦
大陽県からさらに北上して司隷・河東郡・安邑県に入った天子(献帝)は、太僕の韓融を派遣して李傕らに和睦を求めます。
李傕・郭汜らはこの申し出を受け入れ、捕らえていた公卿百官を釈放して、これまで奪った宮女や御物(服飾や器物)の多くを献帝に返還しました。
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李傕の死
その後李傕・郭汜らは権勢を失い、献帝は曹操の保護を受け、豫州(予州)・潁川郡・許県に遷都します。
そして建安3年(198年)夏4月*1、朝廷は謁者僕射の裴茂に中郎将の段煨を率いさせ、李傕を討伐。その三族は皆殺しにされました。
また、李傕の首が届けられると、詔勅によって高い所につり下げられて さらし首 にされました。
脚注
*1『魏書』董卓伝には、李傕が討伐・処刑されたのは「建安2年(197年)」とありますが、ここでは『後漢書』献帝紀と『資治通鑑』に従って「建安3年(198年)夏4月」としています。
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董卓の娘婿・牛輔配下の校尉であった李傕は、董卓の死後、郭汜・張済・樊稠らと共に長安を包囲・陥落させ、朝廷の実権を握りました。
ですがしばらくすると主導権争いから李傕は樊稠を殺害。残った諸将はお互いに猜疑し合い、李傕と郭汜はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。
その後、張済の仲裁により郭汜と和睦した李傕は、郭汜と共に東に向かう献帝一行を追いますが、大きな被害を与えたものの献帝を捕らえることはできず、黄河北岸の安邑県に入った献帝と和睦。急速に求心力を失い、曹操によって立て直された朝廷の討伐軍に敗れて三族皆殺しとなりました。
郭汜データベース
郭汜関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
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192年 |
■ 初平3年
|
194年 | ■興平元年
|
195年 | ■興平2年
|
198年 |
|
配下
李応、李利、李暹、胡封、賈詡、張苞、王昌、楊奉、宋果
浜ちゃんやん