董卓とうたくの死後、郭汜かくしと共に朝廷を壟断ろうだんした李傕りかくとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

李傕(りかく)

出身地 / 生没年

あざな

稚然ちぜん

出身地

涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん


涼州・北地郡

涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん

生没年

  • ?〜 建安けんあん3年(198年)。
  • 後漢書ごかんじょ董卓伝とうたくでん魏書ぎしょ董卓伝とうたくでんにまとまった記述があります。

家族・親族

子:李式りしき

張済ちょうせいの発案で郭汜かくしとの和睦わぼくが話し合われた時のこと。お互いの息子を人質に出す条件が示されましたが、李傕りかくの妻が愛する息子の李式りしきを人質に出すことに反対したため、和睦わぼくはまとまりませんでした。

後漢紀ごかんきこう献皇帝紀けんこうていき

従弟いとこ李応りおう

趙温ちょうおんえん(属官)。

郭汜かくしとの争いの中で李傕りかく献帝けんてい黄白城こうはくじょうに移そうとした時、司徒しと趙温ちょうおんに手紙で非難された李傕りかくは、激怒して彼を殺そうとしましたが、李応りおうが数日に渡って諫言かんげんし、やっとのことで思いとどまらせました。

魏書ぎしょ董卓伝とうたくでん献帝起居注けんていききょちゅう

従弟いとこ李桓りかん

張済ちょうせいの発案で郭汜かくしとの和睦わぼくが話し合われた時のこと。李傕りかくの妻の反対により交渉は難航していましたが、ちょうど李傕りかくに味方していた羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)が不満をいだいて李傕りかくの元を去ったため、李傕りかくは「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦わぼくに同意しました。

またこの時、郭汜かくし従弟いとこ張済ちょうせい従子おい張繡ちょうしゅうと共に、李桓りかん和睦わぼくの人質となりました。

後漢紀ごかんきこう献皇帝紀けんこうていき

おい(兄の子):李利りり

郭汜かくし樊稠はんちゅうと共に李傕りかくらに反乱を起こした馬騰ばとう韓遂かんすい長平観ちょうへいかんで破り、彼らに内応した杜稟とひん馬宇ばう劉範りゅうはんらを槐里県かいりけんに攻め入って斬りました。

また、馬騰ばとう韓遂かんすい陳倉県ちんそうけんまで追撃した際、樊稠はんちゅう韓遂かんすいと馬を並べて親しく語り合っていたことを李傕りかくに密告しました。

魏書ぎしょ董卓伝とうたくでん九州春秋きゅうしゅうしゅんじゅう

おい(兄の子):李暹りせん

李傕りかく郭汜かくしの関係が悪化した後のこと。李傕りかくは「郭汜かくし献帝けんていを自分の陣営に迎えようとしている」という密告を受けました。

そこで李傕りかく李暹りせんに命じて数千の兵で宮殿を包囲させ、献帝けんてい北塢ほくうに移しました。

魏書ぎしょ董卓伝とうたくでん献帝起居注けんていききょちゅう

外甥がいせい(姉妹の子):胡封こほう

樊稠はんちゅうが勇猛果敢にして多くの人心を得ていること」を憎んでいた李傕りかくの命を受け、樊稠はんちゅうが酒に酔ったところをなぐり殺しました。

後漢書ごかんじょ董卓伝とうたくでん献帝紀けんていき


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董卓配下として

孫権への使者となる

陽人ようじんの戦い

中平ちゅうへい6年(189年)9月、霊帝れいてい崩御の混乱に乗じて洛陽らくよう雒陽らくよう)に入った董卓とうたくは、少帝しょうていを廃位して献帝けんてい擁立ようりつしました。

翌年春正月、これに反発した袁紹えんしょうらは「反董卓とうたく連合」を結成。すると董卓とうたくは、洛陽らくよう雒陽らくよう)を破壊して長安ちょうあん遷都せんとを強行します。


そして初平しょへい2年(191年)、反董卓とうたく連合の1人、豫州刺史よしゅうしし孫権そんけん荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん魯陽県ろようけんから北上を開始。梁県りょうけんの東で董卓とうたく配下の徐栄じょえいに敗れましたが、梁県りょうけん陽人聚ようじんしゅうに移って再び兵を集め、迎撃に来た胡軫こしん呂布りょふの軍を破って都尉とい華雄かゆうを討ち取りました。


陽人の戦い

陽人ようじんの戦い

孫権そんけんへの使者となる

董卓とうたくは以前孫堅そんけんと共に戦ったことがあり、かねてから孫堅そんけんの武勇を認めていました。

陽人聚ようじんしゅう胡軫こしんが敗れたことを知った董卓とうたくは、将軍しょうぐん李傕りかくを派遣して「孫堅そんけんの子弟を刺史しし太守たいしゅに任命すること」を条件に和睦わぼくを申し入れます。

ですが孫堅そんけんは、

董卓とうたくは天にそむいて無道をした。あやつの三族を皆殺しにして天下に示さなければ、死んでも死に切れん。董卓とうたくよしみを結ぶことなどできるかっ!」

と一喝して李傕りかくを追い返しました。

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朱儁を撃ち破る

朱儁しゅしゅんの挙兵

初平しょへい2年(191年)冬、荊州けいしゅうに逃亡していた朱儁しゅしゅん洛陽らくよう雒陽らくよう)に攻め上がり、董卓とうたくが任命した河南尹かなんいん楊懿よういを敗走させると、司隷しれい河南尹かなんいん中牟県ちゅうぼうけんに駐屯して諸将に「董卓とうたく討伐」を呼びかけます。

朱儁しゅしゅんを撃ち破る

初平しょへい3年(192年)1月、董卓とうたく娘婿むすめむこ中郎将ちゅうろうしょう牛輔ぎゅうほ司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯させると、牛輔ぎゅうほ校尉こうい李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせいらに歩騎数万を与えて朱儁しゅしゅんを攻撃し、これを撃ち破りました。

その後李傕りかくらは、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん豫州よしゅう潁川郡えいせんぐんの諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。


朱儁の挙兵関連地図

朱儁しゅしゅんの挙兵関連地図

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董卓の死

初平しょへい3年(192年)4月、董卓とうたく長安ちょうあん司徒しと王允おういん呂布りょふらに誅殺ちゅうさつされました。

これを受け、陳留郡ちんりゅうぐん潁川郡えいせんぐんで略奪を行っていた李傕りかくらは、軍中にいた王允おういん呂布りょふと同じ幷州へいしゅう并州へいしゅう)出身の者を激しくうらんで男女数百人を殺害します。

そして彼らが陝県せんけんに帰還した頃には、牛輔ぎゅうほはすでに部下の攴胡赤児ほくこせきじに殺害されており、兵士たちは落ち着く場所を失って、各自離散して故郷に帰ることを考えました。

すると牛輔ぎゅうほの軍中にいた賈詡かくが、


「聞けば長安ちょうあんでは、涼州人りょうしゅうじんを皆殺しにしようと議論しているとのこと。

それなのにあなた方は、兵隊たちをてて単独で行こうとなさるとは。それでは亭長ていちょうが1人いれば、あなた方を捕らえることができるでしょう。

このまま軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安ちょうあんを攻撃して董公とうこう董卓とうたく)の復讐をするべきです。

うまく事が運んだあかつきには、天子てんし献帝けんてい)を奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」


と言ったので、李傕りかくらはこの賈詡かくの言葉に従って長安ちょうあんに向かうことにしました。

長安の陥落

長安ちょうあんを包囲する

李傕りかくらが長安ちょうあんに向かって進軍を開始すると、王允おういん董卓とうたくの配下であった胡軫こしん徐栄じょえいを派遣して新豊県しんほうけん李傕りかくらを迎撃させますが、徐栄じょえいは戦死し、胡軫こしんは兵と共に李傕りかくらに降伏してしまいます。


司隷・京兆尹・新豊県

司隷しれい京兆尹けいちょういん新豊県しんほうけん


迎撃軍を撃破した李傕りかくらの軍勢は10万以上にふくれ上がり、さらに董卓とうたくの配下であった樊稠はんちゅう李蒙りもう王方おうほうらと合流して長安ちょうあんを包囲しました。

長安ちょうあんの陥落

長安城ちょうあんじょうを包囲して10日(後漢書ごかんじょ董卓伝とうたくでんでは8日)、呂布りょふ軍の中にいたしょく兵が離反し、城内から李傕りかく軍を手引きしました。

李傕りかく郭汜かくしらは城内に侵入して呂布りょふを敗走させると、南宮なんきゅう掖門えきもんに駐屯して、

  • 衛尉えいい种拂ちゅうふつ
  • 太僕たいぼく魯馗ろき
  • 大鴻臚だいこうろ周奐しゅうかん
  • 城門校尉じょうもんこうい崔烈さいれつ
  • 越騎校尉えっきこうい王頎おうき

らを殺害。殺された官吏・民衆は1万人にのぼり、そこら中に死体が散乱しました。


その後、長安ちょうあんとどまった王允おういんが幼い献帝けんていきかかえ、戦闘を避けて宣平門せんぺいもんろう上に登ると、李傕りかく郭汜かくしらは門の下にぬかずき、地面にひれ伏して叩頭こうとうします。

すると献帝けんていは、李傕りかくらに向かって問いました。


「君たち臣下は刑罰・恩賞の権力を振るってはいけないはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ?」


これに李傕りかくらは、


董卓とうたくは陛下に忠義を尽くしておりましたのに、理由もなく呂布りょふに殺されました。私どもは董卓とうたくのために復讐しただけで、謀叛むほんを起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉ていいの元に出頭して処罰を受ける所存です」


と答えたので、進退きわまった王允おういんろうから下りて郭汜かくしらに降伏しました。

王允おういんを処刑する

この時、司隷しれい右扶風ゆうふふう王允おういんの兄・王宏おうこうが、司隷しれい左馮翊さひょうよく宋翼そうよく太守たいしゅをつとめており、両郡の人々は活気にあふれ、兵糧となる穀物の蓄えも豊かであったことから、李傕りかくは彼らを恐れ、王允おういんを殺したくても手を下せずにいました。


左馮翊(さひょうよく)と右扶風(ゆうふふう)

左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう


そこで李傕りかくは一計を案じ、詔勅しょうちょくをもって王宏おうこう宋翼そうよく長安ちょうあんし出して、先に彼らを殺すことにします。

詔勅しょうちょくを受けた王宏おうこう李傕りかくの思惑を見抜き、宋翼そうよくに共に兵をげることを勧めますが、宋翼そうよく王宏おうこうの計に従おうとしなかったので、結局王宏おうこうも「1人で決起することはできない」と、宋翼そうよくと共におしに応じます。

そこで李傕りかくらは、王宏おうこう宋翼そうよくを殺害し、王允おういんとその妻子一族10人余りを処刑して、王允おういんしかばねを市場にさらしました。

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朝廷を支配する

馬日磾と趙岐を派遣する

8月、朝廷の実権を握った李傕りかくらは、太傅たいふ馬日磾ばびつてい太僕たいぼく趙岐ちょうきせつ(軍令違反者を処刑する権限を持つあかし)を持たせて天下を慰撫いぶさせました。

大赦を受ける

9月、献帝けんてい大赦令たいしゃれいを発し、李傕りかくらをみな将軍しょうぐんに任命しました。

李傕りかく

車騎将軍しゃきしょうぐん池陽侯ちようこうに封ぜられ、司隷校尉しれいこういの官を担当し、せつ(部下を処刑する権限を示す旗)を与えられました。

郭汜かくし

後将軍こうしょうぐん美陽侯びようこうに封ぜられました。

樊稠はんちゅう

右将軍ゆうしょうぐん万年侯まんねんこうに封ぜられました。

張済ちょうせい

鎮東将軍ちんとうしょうぐん平陽侯へいようこうに封ぜられました。


以降、郭汜かくし李傕りかく樊稠はんちゅうらは朝政を専断し、張済ちょうせい司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯しました。

唐姫を求める

弘農王こうのうおう少帝しょうてい)の妻・唐姫とうき

初平しょへい元年(190年)春正月、袁紹えんしょうらが「反董卓とうたく連合」を結成すると、董卓とうたく弘農王こうのうおう(廃位された少帝しょうてい)を楼閣の上に幽閉し、郎中令ろうちゅうれい李儒りじゅ酖毒ちんどくを勧めさせて自害させました。


その後、弘農王こうのうおうの妻・唐姫とうきは郷里の豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐんに帰り、彼女の父で会稽太守かいけいたいしゅ唐瑁とうぼうは彼女を再婚させようとしましたが、唐姫とうきは誓いを立ててこれに従いませんでした。

李傕りかく唐姫とうきを求める

長安ちょうあん陥落かんらくさせた李傕りかくは、兵を派遣して関東かんとうを探させると略奪して唐姫とうきを捕らえ、自分の妻にしようとしましたが、唐姫とうきは最後までみずからの素性を名乗りませんでした。

ですが、このことを知った尚書しょうしょ賈詡かく献帝けんていに事情を申し上げると、これを痛ましく思った献帝けんていみことのりを下して唐姫とうきを迎えさせ、弘農王こうのうおう園陵えんりょう中に置いて侍中じちゅうせつを持たせて弘農王こうのうおうきさきに任命させました。

長平観の戦い

興平こうへい元年(194年)3月、馬騰ばとう韓遂かんすいらが長安ちょうあんに攻め寄せると、李傕りかくは兄の子・李利りりを派遣して郭汜かくし樊稠はんちゅうと共に長平観ちょうへいかんでこれを破り、1万人余りを斬首しました。

またこの年の8月、反乱を起こした司隷しれい左馮翊さひょうよく羌族きょうぞくを撃ち破った郭汜かくし樊稠はんちゅうは、開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与するようになります。

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郭汜との対立

李傕りかく郭汜かくしが対立する

興平こうへい2年(195年)2月、「樊稠はんちゅう韓遂かんすいと秘かに和議を結び、異心をいだいているのではないか」と疑っていた李傕りかくは、樊稠はんちゅうを会議にまねき、その席で樊稠はんちゅうを殺害してしまいました。

このことがあってから、残った諸将はお互いに猜疑さいぎし、李傕りかく郭汜かくしはついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

この事態に、献帝けんてい侍中じちゅう尚書しょうしょを派遣して李傕りかく郭汜かくしを和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。

献帝けんてい争奪戦

3月、董卓とうたくの部隊長であった安西将軍あんせいしょうぐん楊定ようてい李傕りかくに殺されることを恐れ、郭汜かくしはかって献帝けんていを自分たちの陣営に迎えようとしました。

ですがこの計画は、夜間に逃亡して密告する者がいて李傕りかくの知るところとなり、李傕りかくは兄の子・李暹りせんに数千の兵をひきいさせて宮殿を包囲します。

李暹りせん献帝けんてい金帛きんぱく天子てんし献帝けんてい)の器物、衣裳を李傕りかく陣営の北塢ほくうに移すと、宮殿に押し入って宮人の日用品を略奪し、火を放って宮殿・宮府を焼きました。


すると献帝けんていは、大尉たいい楊彪ようひょう司空しくう張喜ちょうきら十余人を郭汜かくしの元に派遣して李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせようとしましたが、郭汜かくしはこれに従わず、楊彪ようひょう公卿こうけいたちを人質として拘留こうりゅうしました。

郭汜かくしに敗れる

李傕りかく羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)数千人をまねいて御物ぎょぶつ(皇室の所有品)の繒綵そうさい綾絹あやぎぬ)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜かくしを攻撃させようとしました。

また一方の郭汜かくしは、李傕りかくくみしていた中郎将ちゅうろうしょう張苞ちょうほうと秘かに通じて李傕りかく攻撃をはかります。


郭汜かくしが兵をひきいて李傕りかくの営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降りそそぎ、献帝けんていが泊まっている高楼殿前の簾帷れんいすだれと引き幕]の中にまで及び、李傕りかくの左耳をつらぬきました。

一方、郭汜かくしと内通した張苞ちょうほうらが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉ようほうの抵抗を受けた郭汜かくしが兵を退いたので、張苞ちょうほうらはひきいていた兵と共に郭汜かくしに帰順しました。

李傕の横暴

献帝けんてい下賜かし品を奪う

当時、遷都せんとしたばかりで宮中の女官たちの多くは衣服を失っていたので、献帝けんていが宮廷の倉を開いて絹類を与えようとしたところ、李傕りかくは不満そうに「宮中に衣服がありますのに、どうしてまた仕立てようとなさるのですか」と言いました。

また、詔勅しょうちょくを下してうまやの馬百匹余りを売り払い、御府令ぎょふれい大司農だいしのうに種々の絹を取り出させて、馬を売った金と一緒に、公卿こうけいをはじめとして自分では生計を立てられない貧民に下賜かししました。

すると李傕りかくは「私の屋敷にはたくわえが少ししかありません」と言って、これらをすべて自分の陣営に運び込みます。

これに賈詡かくは「これは上意ゆえ逆らってはなりません」といさめましたが、李傕りかくは聞き入れませんでした。

献帝けんていに腐った牛の骨を与える

献帝けんてい北塢ほくうに移してから、李傕りかく校尉こういに命じてとりでの門を見張らせ、外部との連絡をちきっていたので、献帝けんていの臣下たちはえに苦しみ、夏の盛りで暑い時期であったにもかかわらず人々はみな恐怖の余り心をこおらせていました。

そこで献帝けんていが、米5石と牛の骨5頭分を臣下の食糧として要求しましたが、李傕りかくは、


「朝晩食事を差し上げているのに、どうして米がいるのだ?」


と言い、腐った牛の骨を与えたため、みなその臭いをぐだけで食べることができませんでした。

これに立腹した献帝けんていは、李傕りかくを非難して問いめようとしますが、侍中じちゅう楊琦ようきが密封した文書をたてまつってなだめたので、献帝けんてい楊琦ようきの意見を聞き入れました。

趙温ちょうおんを殺害しようとする

はじめ李傕りかく黄白城こうはくじょうに駐屯していたため、そこに献帝けんていを移そうと計画します。

するとそのことを知った司徒しと趙温ちょうおんは、李傕りかくに手紙を送って彼を非難しました。

趙温の手紙前文
タップ(クリック)すると開きます。

「公(李傕りかく)は、先には董公とうこうのために復讐するという名目にかこつけながら、実際は首都を攻め滅ぼし、大臣を殺戮さつりくしました。天下の人々に1軒1軒言い訳してまわるわけにはまいりませんぞ。

今度は郭汜かくしとわずかなうらみからなかたがいして抗争し、不倶戴天ふぐたいてん仇敵きゅうてきとなってしまい、民衆は塗炭とたんの苦しみをめ、それぞれ生きるあてもない状態ですのに、少しも改悟かいごすることなく、結局動乱が引き起こされたのです。

朝廷からはしきりに詔勅しょうちょくが下され、和解するよう求められておりますが、その勅命ちょくめいは実行されず、ご恩沢は日々に損なわれております。

それをさらに、黄白城こうはくじょう御車みくるま献帝けんてい)を移しまいらせるつもりとか。これはまことに、この老いぼれにとって理解し得ないことです。

えきでは、1度目の過失を『』とし、2度目を『しょう』とし、3度目でなお改めないのを、川を渡って頭の先まで没することと同じで、凶であるとします。早く和解し、軍隊を引き連れて屯営に戻るのが一番です。

上は万乗の天子てんしやすんじまいらせ、下は生民を保全することになり、極めて幸福なことではないでしょうか」


趙温ちょうおんの手紙を読んだ李傕りかくは激怒して、彼を殺そうとしましたが、李応りおうが数日に渡って諫言かんげんし、やっとのことで思いとどまらせました。


趙温ちょうおん李傕りかくに手紙を出したと聞いた献帝けんていは、侍中じちゅう常洽じょうこうに、


李傕りかくには事の善悪を判断する力がない。趙温ちょうおんの言葉は厳し過ぎるから、心がこおりつくほど心配でならぬ」


と言ったところ、常洽じょうこうは「すでに李応りおうがなだめました」と答えたので、胸をなで下ろして喜びました。

巫女みこを重用する

李傕りかくは生来、鬼神や妖術のたぐいを好み、常に道士や巫女みこが歌い、つづみを鳴らして神降かみおろしをし、六丁ろくてい(神の名前)を祭り、お札や まじない の道具で使わないものは1つとしてありませんでした。

ある時李傕りかくは、朝廷の役所の門外に董卓とうたく神坐しんざ(祭祀場)をしつらえ、たびたび牛や羊をそなえて祭り、それが終わると宮中の小門を通って献帝けんていのご機嫌きげんうかがい、拝謁はいえつを求めました。

この時李傕りかくは3振りの刀をび、手にはさらにむちと一緒に抜き身の刀を1振り持っています。

侍中じちゅう侍郎じろう李傕りかくが武器を身につけているのを見ると、みな恐れおののき、自分たちも剣をび、抜き身の刀を持って、先に入室して献帝けんていのまわりを固めました。


この時李傕りかくは、献帝けんていに対して「明陛下」と言ったり「明帝」と言ったりして、郭汜かくしの無道振りを説明してきたので、献帝けんてい李傕りかくの意に沿うように受け答えをします。

すると李傕りかくは退出した後で、


「明陛下(献帝けんてい)は本当に賢明な聖天子せいてんしである」


と言い、内心自信満々で、本当に献帝けんていの歓心を得ることができたと信じていました。

ですが、なおも側近の臣下が剣をびて献帝けんていのまわりを固めていることには不服なようで、


「みな刀を持っているとは、こいつらはわしに手を下すつもりなのか」


と人にらしますが、李傕りかくと同郷で侍中じちゅう李禎りていが、


「彼らが刀を持っているのは、軍中でそうするのが建前だからであって、これは国家の慣例です」


と言ったので、李傕りかくの気持ちはやっとほぐれました。

大司馬だいしばに任命される

うるう5月、献帝けんてい涼州りょうしゅうの名門で使者として有能な謁者僕射えっしゃぼくや皇甫酈こうほれきを派遣して、李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせようとします。

ですがこの時、先におとずれた郭汜かくし勅命ちょくめいを受け入れましたが、次におとずれた李傕りかくは承知せず、説得しようとする皇甫酈こうほれきの言葉に腹を立て、怒鳴りつけて退出させました。


その後、李傕りかく虎賁こほん(近衛兵)の王昌おうしょう皇甫酈こうほれきを呼びに行かせましたが、すでに彼の身を案じた献帝けんていが逃亡を命じた後であり、王昌おうしょうもまた皇甫酈こうほれきが忠義で正しい人間であることを知っていたので、戻って李傕りかくに「すでに逃亡した後で追いつけませんでした」と報告しました。


そして献帝けんていは、左中郎将さちゅうろうしょう李固りこせつ(使者のしるし)を持たせて、李傕りかくをなだめるため大司馬だいしばに任命し、三公さんこうの上に位させました。

すると李傕りかくは、鬼神の助力を得たと思い込み、そこで巫女みこたちにねんごろに褒美を与えました。

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郭汜との和睦

郭汜かくし李傕りかくが攻撃し合うようになって数ヶ月、死者は1万人を数えるようになっていました。

興平こうへい2年(195年)6月、李傕りかく将軍しょうぐん楊奉ようほう軍官ぐんかん宋果そうからが李傕りかくの暗殺をくわだてますが、事前に計画がれたため軍勢をひきいて謀反むほんを起こします。これにより、李傕りかくの勢力は次第におとろえました。


そしてこの頃、司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯していた張済ちょうせい長安ちょうあんに到着。李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせ、天子てんし献帝けんてい)をしばらく弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん行幸ぎょうこう(外出)させることを提案します。


関連地図

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そこで、つねづね洛陽らくよう雒陽らくよう)に帰りたいと願っていた天子てんし献帝けんてい)は両者に使者を送って説得を試みますが、李傕りかくの妻が反対したため交渉は難航。ですが、ちょうど李傕りかくに味方していた羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)が不満をいだいて李傕りかくの元を去ったため、「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦わぼくに同意しました。


献帝の東遷

献帝の出発

秋7月、張済ちょうせいの提案により献帝けんてい洛陽らくよう雒陽らくよう)に向けて出発すると、李傕りかく長安ちょうあんを出て封地の司隷しれい左馮翊さひょうよく池陽県ちようけんに駐屯し、郭汜かくし献帝けんていに従って東に向かいました。


8月、献帝けんてい司隷しれい京兆尹けいちょういん新豊県しんほうけんに到着すると郭汜かくしはまたもや陰謀をめぐらせ、「天子てんし献帝けんてい)をおどして連れ戻し、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんに都を置かせよう」としました。


これを知った侍中じちゅう种輯ちゅうしゅうは、秘かに楊定ようてい董承とうしょう楊奉ようほうらに伝えて新豊県しんほうけんに集結させたので、郭汜かくしは自分の陰謀がれたと知って、軍をてて南山なんざん長安ちょうあんにある終南山しゅうなんざん)に逃亡しました。


献帝の東遷経路3

献帝けんてい東遷とうせん経路2

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献帝の東遷。献帝が長安を出て司隷・弘農郡・華陰県に至る

再び郭汜と手を結ぶ

天子てんし献帝けんてい)が司隷しれい弘農郡こうのうぐん華陰県かいんけんに到着すると、華陰県かいんけんに駐屯していた寧輯将軍ねいしゅうしょうぐん段煨だんわいと、天子てんし献帝けんてい)に従って来た楊定ようてい种輯ちゅうしゅう左霊されいらの間で争いが起こりました。


献帝の東遷経路4

献帝けんてい東遷とうせん経路4


天子てんし献帝けんてい)を東に向かわせたことを後悔していた李傕りかく郭汜かくしは、楊定ようてい段煨だんわいを攻撃したと聞き、お互いに誘い合って「段煨だんわいを救援する」という名目で華陰県かいんけんに行き、献帝けんていを脅迫して西(長安ちょうあん)に連れ帰ろうと計画します。


李傕りかく郭汜かくしがやって来たことを知った楊定ようていは、南の司隷しれい京兆尹けいちょういん藍田県らんでんけんかえろうとしましたが、郭汜かくしさえぎられて単騎荊州けいしゅうに逃亡。楊奉ようほう董承とうしょうらと折り合いが悪かった張済ちょうせいは、再び李傕りかく郭汜かくしと合流します。

献帝を追う

東澗とうかんの戦い

11月、献帝けんてい司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけんに到着しました。


司隷・弘農郡・弘農県

司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん


李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせい献帝けんていを追撃し、弘農県こうのうけん東澗とうかん渓谷けいこく)で董承とうしょう楊奉ようほうらと激しい戦闘になります。

結果、献帝けんていの軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物ぎょぶつ(服飾や器物)や符策ふさく符節ふせつや命令書)、典籍てんせきてられました。

曹陽澗そうようかんの戦い

李傕りかくらに敗れた献帝けんていは、司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん曹陽澗そうようかん渓谷けいこく)で野宿しました。

この時董承とうしょう楊奉ようほうは、いつわって李傕りかくらと手を組んだ振りをしてひそかに司隷しれい河東郡かとうぐんに密使を送り、

  • 白波賊はくはぞくすい李楽りがく
  • 韓暹かんせん
  • 胡才こさい
  • 南匈奴なんきょうど右賢王ゆうけんおう去卑きょひ後漢書ごかんじょ孝献帝紀こうけんていぎでは左賢王さけんおう

らをまねきます。

そして12月、李楽りがくらを迎えた献帝けんてい曹陽澗そうようかんから出発すると、李傕りかくらは再度献帝けんてい一行を襲撃し、献帝けんてい一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに着いて陣営を構えた時には、虎賁兵こほんへい羽林兵うりんへい合わせて100人にも満ちませんでした。

もはや支えきれないとさとった献帝けんてい一行は、李楽りがくに命じて夜の間にひそかに船を調達させ、黄河こうがを渡って北の司隷しれい河東郡かとうぐん大陽県たいようけんに向かうことにします。


司隷・河東郡・大陽県

司隷しれい河東郡かとうぐん大陽県たいようけん


黄河こうがの北岸に火がともっているのを見た李傕りかくが急いでこれを追い、対岸から矢を射かけましたが、董承とうしょうが船に幔幕を張って進んだので、献帝けんていは無事 対岸の司隷しれい河東郡かとうぐん大陽県たいようけんに着くことができました。

献帝けんていとの和睦わぼく

大陽県たいようけんからさらに北上して司隷しれい河東郡かとうぐん安邑県あんゆうけんに入った天子てんし献帝けんてい)は、太僕たいぼく韓融かんゆうを派遣して李傕りかくらに和睦わぼくを求めます。

李傕りかく郭汜かくしらはこの申し出を受け入れ、捕らえていた公卿こうけい百官を釈放して、これまで奪った宮女や御物ぎょぶつ(服飾や器物)の多くを献帝けんていに返還しました。

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李傕の死

その後李傕りかく郭汜かくしらは権勢を失い、献帝けんてい曹操そうそうの保護を受け、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん遷都せんとします。

そして建安けんあん3年(198年)夏4月*1、朝廷は謁者僕射えっしゃぼくや裴茂はいぼう中郎将ちゅうろうしょう段煨だんわいひきいさせ、李傕りかくを討伐。その三族は皆殺しにされました。

また、李傕りかくの首が届けられると、詔勅しょうちょくによって高い所につり下げられて さらし首 にされました。

脚注

*1魏書ぎしょ董卓伝とうたくでんには、李傕りかくが討伐・処刑されたのは「建安けんあん2年(197年)」とありますが、ここでは後漢書ごかんじょ献帝紀けんていぎ資治通鑑しじつがんに従って「建安けんあん3年(198年)夏4月」としています。

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董卓とうたく娘婿むすめむこ牛輔ぎゅうほ配下の校尉こういであった李傕りかくは、董卓とうたくの死後、郭汜かくし張済ちょうせい樊稠はんちゅうらと共に長安ちょうあんを包囲・陥落かんらくさせ、朝廷の実権を握りました。

ですがしばらくすると主導権争いから李傕りかく樊稠はんちゅうを殺害。残った諸将はお互いに猜疑さいぎし合い、李傕りかく郭汜かくしはついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

その後、張済ちょうせいの仲裁により郭汜かくし和睦わぼくした李傕りかくは、郭汜かくしと共に東に向かう献帝けんてい一行を追いますが、大きな被害を与えたものの献帝けんていを捕らえることはできず、黄河こうが北岸の安邑県あんゆうけんに入った献帝けんてい和睦わぼく急速に求心力を失い、曹操そうそうによって立て直された朝廷の討伐軍に敗れて三族皆殺しとなりました。


郭汜データベース

郭汜関連年表

西暦 出来事
不明
  • 涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんに生まれる。
192年

初平しょへい3年

  • 司隷しれい河南尹かなんいん中牟県ちゅうぼうけん朱儁しゅしゅんを撃ち破る。
  • 董卓とうたく誅殺ちゅうさつされる。
  • 軍中の幷州へいしゅう并州へいしゅう)出身の者・男女数百人を殺害する。
  • 赦免しゃめんを求めるが王允おういんは許さなかった。
  • 長安ちょうあんを包囲・陥落させ、王允おういんと妻子一族10人余りを処刑する。
  • 太傅たいふ馬日磾ばびつてい太僕たいぼく趙岐ちょうきに天下を慰撫いぶさせる。
  • 車騎将軍しゃきしょうぐん池陽侯ちようこうに封ぜられ、司隷校尉しれいこういとなり郭汜かくし樊稠はんちゅうと共に朝政を専断する。
  • 唐姫とうきを求める。
194年 興平こうへい元年

  • 兄の子・李利りり郭汜かくし樊稠はんちゅうを派遣して長平観ちょうへいかん馬騰ばとう韓遂かんすいらを破る。
195年 興平こうへい2年

  • 樊稠はんちゅうを殺害する。
  • 郭汜かくしなかたがいし、お互いに攻め合うようになる。
  • 献帝けんていを陣営に迎える。
  • 郭汜かくし公卿こうけいたちを人質として拘留こうりゅうする。
  • 郭汜かくしに敗れる。
  • 張済ちょうせい長安ちょうあんに到着し、献帝けんてい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん行幸ぎょうこう(外出)させることを提案する。
  • 郭汜かくし和睦わぼくする。
  • 献帝けんていが東に向かう。
  • 郭汜かくし献帝けんていを追い、司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん曹陽澗そうようかんで大いに撃ち破る。
  • 天子てんし献帝けんてい)と和睦わぼくする。
198年
  • 朝廷(裴茂はいぼう段煨だんわい)の討伐を受け、三族皆殺しとなる。

配下

李応りおう李利りり李暹りせん胡封こほう賈詡かく張苞ちょうほう王昌おうしょう楊奉ようほう宋果そうか