袁術の命を受けた孫策に包囲・陥落させられたことで知られる廬江太守・陸康とは、どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地 / 生没年
字
季寧。
出身地
揚州・呉郡・呉県。
揚州・呉郡・呉県
生没年
- 永建元年(126年)〜 興平2年(195年)。享年70歳。
- 『後漢書』に列伝があります。
家族・親族
祖父:陸続
『後漢書』独行伝に列伝があります。
父:陸褒
志と節操があることで知られ、たびたび徴召されましたが、応じませんでした。
子:陸儁
陸康の死後、郎中に任命されました。
子:陸績
『呉書』に列伝があります。
孫:陸尚
郎中に任命されました。徐夫人(孫権の妃)の前夫。
従孫:陸遜
『呉書』に列伝があります。
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孝行と義烈の人
李粛の喪に服す
陸康は若い時から親や兄たちに心を込めて仕え、自らの行いを修め正すことに努めていたため、呉郡太守・李粛によって孝廉に推挙されました。
後に李粛が事件に連座して処刑されると、陸康はその遺体を棺に収め、柩に付き添って豫州(予州)・潁川郡まで送り届けて、彼のために喪に服し、服喪の礼を正しく守りました。
豆知識
李粛の処刑
永寿3年(157年)11月、荊州・長沙郡・益陽県で長沙蛮が反乱を起こしました。
延熹3年(160年)秋に至ると、ついに郡中で略奪を行い、その数は1万人を超え、長吏を殺傷し、零陵蛮も長沙郡に侵入します。
延熹5年(162年)冬10月、武陵蛮6千余人が荊州・南郡・江陵県に侵攻し、荊州刺史・劉度、謁者・馬睦、南郡太守・李粛はみな敗走しました。
荊州の領郡
この時、李粛の主簿・胡爽は李粛の馬の首を掴んで、
「蛮夷は郡に備えがないと見て、 その隙に乗じてやって来たのです。
明府(太守の尊称:李粛)は国の大臣であり、城は千里に連なっております。旗を掲げ太鼓を打ち鳴らせば、その声に応じる者は10万にのぼりましょう。
なぜその重責を果たさず、逃亡人となられるのですかっ!」
と諫めましたが、李粛は刀を抜いて胡爽に向け、
「去れっ!この差し迫った時に、そんな暇があるかっ!」
と言い、聞く耳を持ちません。
ですが、胡爽はそれでも馬の首を抱えて固く諫め続けたので、ついに李粛は胡爽を殺害して逃亡してしまします。
このことを聞いた桓帝は、李粛を出頭させて棄市(打首獄門)とし、劉度と馬睦は死一等を減じ、 李粛を諫めた胡爽の郷里の門を修復して、彼の家から1人を郎に選出しました。
茂才に挙げられる
陸康は義烈(正義の心がきわめて強いこと)をもって称えられ、揚州刺史・臧旻により茂才に推挙されて、高成令[冀州・勃海郡・高成県(高城国)の県令]に任命されます。
辺境に位置する高成県(高城国)ではこれまで、各戸ごとに1人ずつ弓弩を用意して不測の事態に備え、往来を禁止し、新たな長吏が赴任するたびに民衆を徴発して城郭を修繕させていました。
ですが陸康が赴任すると、それらをすべてやめさせたので百姓たちは大いに喜び、また恩信(情け深く誠実であること)をもって県を治めたので盗賊もいなくなり、州郡はその功績を表上しました。
光和元年(178年)、武陵太守に昇進し、その後は桂陽太守、楽安相(青州・楽安国の太守)を歴任して、その治績を称えられました。
霊帝を諫言する
中平2年(185年)2月、中常侍の張讓と趙忠が、宮殿の修復と銅人を鋳造する費用を捻出するため、全国の田1畝つにつき10銭を課税することを霊帝に提案します。
ですがこの時、水害や旱害に遭って民衆は困窮していたので、陸康は上書して言いました。
「昔、魯の宣公が増税した際には蝗害が発生し、孔子も哀公の増税を諫めました。民衆の財産を奪って銅人のような無用な物をつくり、聖人の戒めを無視するのは亡国の王の所業です」
陸康の諫言全文
この陸康の書が上奏されると、宦官たちは、
「亡国の王を例を出して聖明なる陛下を例えるのは大不敬である」
と訴え、陸康は廷尉に送られましたが、取り調べを行った侍御史の劉岱が弁護したため、陸康は釈放されて故郷に帰されました。
陸康はやがてまた徴召されて議郎に任命されます。
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廬江太守として
江夏蛮・黄穣の乱
光和3年(180年)4月、江夏蛮が廬江郡の賊・黄穣と共に反乱を起こし、その数は10万人を超え、4つの県を陥落させました。
その後[中平2年(185年)以降]、陸康が廬江太守に任命されます。
そこで、陸康が賞罰を明らかにすることを表明し、黄穣らを撃破すると、残党はことごとく降伏しました。
霊帝はこの功績を称え、陸康の孫の陸尚を郎中に任命します。
揚州・廬江郡
孫堅の宜春県救援
中平4年(187年)冬10月、荊州・長沙郡の賊・区星が将軍を自称して1万余人を集めて城邑を包囲攻撃しました。これに霊帝は孫堅を長沙太守に任命します。
孫堅は一月足らずの間に区星らを破って反乱を鎮圧しました。
またこの時、周朝と郭石が衆を率いて零陵郡と桂陽郡で挙兵し、区星に呼応していたので、孫堅は郡境を越えて討伐し、長沙郡・零陵郡・桂陽郡の3郡の静謐を取り戻します。
ちょうどこの頃、宜春長[揚州・豫章郡(予章郡)・宜春県の県長]を勤めていた陸康の従子が、賊徒たちの攻撃を受けて孫堅の元に救援を求める使者を送りました。
孫堅はすぐに軍を整えて救援に向かおうとしますが、郡の境界を超えて軍を動かすことは禁止されていたので、主簿が進み出て救援をやめるように進言します。
ですが孫堅は、
「私には何の文徳もなく、ただ征伐によって功績を立ててきたのだ。郡の境界を超えて討伐を行い、よその土地の危機を救ってやり、そのことで罪を得たとしても、天下の人々に何の恥じることがあろうか」
と言って救援に赴いたので、賊徒たちはこれを聞いて逃げ去ってしまいました。
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忠義将軍を加えられる
中平6年(189年)9月、献帝が即位すると天下は大いに乱れました。
ですが陸康は、それでも危険を冒して孝廉と計吏を朝廷に送って奉貢させました。これに朝廷は詔を下して陸康を労い、忠義将軍を加えて官秩(俸禄)を中二千石に加増しました。
孫策の侵攻を受ける
袁術に逆らう
興平元年(194年)、揚州・九江郡・寿春県を本拠地としていた袁術が徐州を攻めようとした時、兵糧が不足して兵が飢えていたので、廬江太守であった陸康に使者を派遣して、米3万斛と兵器や甲冑を輸送するよう求めてきました。
ですが陸康は袁術の要求に従わず、城門を閉じて交通を遮断し、城壁を補修して戦いに備え始めます。
孫策と陸康
以前、孫堅が長沙の賊・区星を討伐した頃[中平4年(187年)]のこと。
孫堅が揚州・豫章郡(予章郡)・宜春県の県長であった陸康の甥を救ったことがありました。
この縁から孫策は、舒県に住んでいた時に陸康の元を訪れたことがありましたが、陸康は孫策と会おうとせず、主簿に応対をさせたので、孫策はこれを恨みに思っていました。
そこで袁術は、孫策に陸康の攻撃を命じると共に、
「以前、陳紀を九江太守に任命したが、君(孫策)との約束を守らなかったこと悔いている。もし陸康を取り鎮めることができたなら、今度こそ廬江は君のものだ」
と、孫策を廬江太守に任命することを約束します。
豆知識
陸遜は幼くして父親を失い、従祖(父の従兄弟)に当たる陸康の元に身を寄せて、陸康と共にその任地の廬江郡にいました。
陸康と袁術の関係が悪化して袁術が陸康に攻撃をかけてこようとした時、陸康は陸遜を親戚の者たちと一緒に呉に帰らせます。
この時、陸遜が陸康の息子の陸績よりも数歳年上であったことから、陸績に代わって彼が一族の取りまとめにあたりました。
落城と陸康の死
こうして孫策は陸康を攻め、城(舒県)を幾重にも包囲しましたが、陸康は城を固く守りました。
この時、廬江郡の軍吏や兵士たちの中には休暇で城外にいた者たちもいましたが、彼らはこっそりと包囲を抜けて城に戻り、日が暮れてから城壁をよじ登って城内に入って陸康と共に戦いました。
孫策からの包囲を受けること2年、ついに城は陥落。陸康はその1ヶ月余り後に病にかかって70歳で亡くなり、陸康の一族・百人余りは離散して飢えに晒され、その半数近くが亡くなりました。
また、朝廷は陸康が節義を守ったことを憐れみ、息子の陸儁を郎中に任命しました。
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孝行と義烈(正義の心がきわめて強いこと)の人で知られた陸康は、太守を歴任するようになりますが、霊帝を諫言して罪に問われ、官職を解かれて郷里に帰されてしまいます。
その後、江夏蛮と廬江郡の賊・黄穣の反乱を受けて廬江太守に任命されると、見事反乱を鎮圧。長年廬江太守を勤めますが、その後揚州にやって来た袁術の勝手な要求を拒んだことから孫策の攻撃を受け、一族は離散し、その半数近くを亡くすことになりました。
ですが、陸康の行いは高く評価され、彼の子や孫は朝廷に取り立てられました。
陸康データベース
陸康関連年表
西暦 | 出来事 |
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126年 |
■ 永建元年
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不明 |
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178年 |
■ 光和元年【53歳】
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不明 |
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185年 |
■ 中平2年【60歳】
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不明 |
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189年 |
■ 中平6年【64歳】
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190年 |
■ 初平元年【65歳】
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194年 |
■ 興平元年【69歳】
|
195年 |
■ 興平2年【70歳】
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