三国志演義さんごくしえんぎでは、民の安寧あんねいを願うだけの好好爺こうこうやのように描かれ、正史せいし三国志さんごくし編纂へんさんした陳寿ちんじゅの評では「論評に値しない」と酷評こくひょうされた陶謙とうけんとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

陶謙(とうけん)

出身地 / 生没年

あざな

恭祖きょうそ

出身地

揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん


揚州・丹楊郡(丹陽郡)

揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん

生没年

  • 陽嘉ようか元年(132年)〜 興平こうへい元年(194年)。
  • 後漢書ごかんじょ魏書ぎしょに列伝があります。

家族・親族

名は不明。

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん余姚県よようけん県長けんちょういていましたが、陶謙とうけんが幼い頃に亡くなりました。

甘氏かんし

同県出身の交趾こうし交阯こうし)・蒼梧郡そうごぐん太守たいしゅ甘公かんこうの娘。

  • 陶商とうしょう
  • 陶応とうおう

2人とも、陶謙とうけんの死後は仕官しませんでした。


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徐州刺史となるまで

甘氏の娘を妻にする

陶謙とうけんは幼くして父を亡くしました。

当初は人の世話にならないことで県内で評判となっていましたが、14歳になっても まだ絹布をつづり合わせて軍旗をつくったり、竹馬に乗ったりして、村中の子供たちを引き連れて遊んでいました。


外出の途中で出会った陶謙とうけんの顔形を見た蒼梧太守そうごたいしゅ甘公かんこうは、彼を見て面白いと感じました。

そこで甘公かんこうは馬車を止め、陶謙とうけんを呼び止めて語り合うと、たいそう気に入って自分の娘を彼の妻とする約束をします。

この話を聞いた甘公かんこうの夫人は非常に腹を立て、


陶家とうけの息子はケジメもなく、気ままに遊びほうけていると聞いておりますのに、どうして娘をやるなどと約束なさったのですかっ!?」


と反対しましたが、甘公かんこうは、


「彼は人並み外れた容貌ようぼうをしている。成長すれば必ず大成するだろう」


と言い、そのまま陶謙とうけんと結婚させました。

職歴と逸話

職歴

中平ちゅうへい2年(185年)8月、陶謙とうけん車騎将軍しゃきしょうぐん張温ちょうおん司馬しばとなり「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」の討伐軍に抜擢されますが、それ以前の職歴には諸説あります。

『魏書』陶謙伝

陶謙とうけんは若い頃から学問好きで太学たいがくの学生となり、州と郡に出仕して茂才もさいに推挙され、(兗州えんしゅう済北国せいほくこく・)盧県ろけん県令けんれいに任命された。

幽州刺史ゆうしゅうししに昇進し、中央に召し出されて議郎ぎろうに任命され、車騎将軍しゃきしょうぐん張温ちょうおんの軍事行動に参加して、韓遂かんすい討伐に西方に行った。

『魏書』陶謙伝の注・『呉書』

陶謙とうけんは剛直な人柄で、節義のある人物であったため、若くして孝廉こうれんに選ばれて、尚書郎しょうしょろうに取り立てられ、(揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん・)舒県じょけん県令けんれいに任命された。

『後漢書』陶謙伝

若くして書生となり、州郡に出仕し、4度(官職が)うつって、車騎将軍しゃきしょうぐんである張温ちょうおん司馬しばとなり、辺章へんしょうを討伐した。

逸話いつわ(『呉書ごしょ』)

陶謙とうけん舒県令じょけんれいだった時のこと。

揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの)郡守ぐんしゅ太守たいしゅ)・張磐ちょうばんは、同郡出身の先輩で陶謙とうけんの父の友人だったことから、特に陶謙とうけんに親近感を持っていましたが、陶謙とうけん張磐ちょうばんに頭を下げることをきらっていました。

酒の誘いを断る

陶謙とうけんが公務報告のために郡城に行き、会見が終わって退出すると、張磐ちょうばんはいつもこっそり陶謙とうけんを酒に誘いましたが、時にはその誘いを断ってとどまろうとしないこともありました。

旋回することを断る

当時、酒宴の余興として、主人が立って舞い、続いて客に舞うことを頼むという慣習がありました。

ある時、張磐ちょうばん陶謙とうけんに自分の後に続いて舞うように所望しましたが、陶謙とうけんは立ち上がろうとしませんでした。

張磐ちょうばんがしつこく無理強いすると、陶謙とうけんは仕方なく舞い始めましたが、旋回せんかいするべきところで旋回せんかいしません。

張磐ちょうばんが、


旋回せんかいするべきじゃないのかね?」


と問うと、陶謙とうけんはこう答えました。


旋回せんかいすることはできません。旋回せんかいすると、他人をおさえることになりますので」


張磐ちょうばんは不愉快になり、ついに2人は不和になりました。


前漢ぜんかん景帝けいてい後元こうげん2年(紀元前142年)、諸王が参朝した時、景帝けいていは諸王に舞いを舞わせましたが、長沙王ちょうさおう劉発りゅうはつそでをピンと張り、ちょっと手を上げるだけでその場を動きませんでした。

景帝けいていが不審に思ってたずねると劉発りゅうはつは、


「私の国は、領土がせまくてグルグル回れませんので」


と答えたという前例があり、陶謙とうけんはこれをなぞらえたのだと言われています。

官位を棄てる

陶謙とうけんは役人として清廉潔白でしたが、犯罪を追求することをしませんでした。

霊星れいせいを祭る際、係官が余剰金500金を着服しようとしたため、陶謙とうけんは官位をてて去りました。


以上を総合すると陶謙とうけんの職歴は、

  • 孝廉こうれんに選ばれて尚書郎しょうしょろうに任命される。
  • 揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん・)舒県じょけん県令けんれいに任命される。
  • 官職をてる。
  • 茂才もさいに推挙されて(兗州えんしゅう済北国せいほくこく・)盧県ろけん県令けんれいに任命される。
  • 幽州刺史ゆうしゅうししに任命される。
  • 議郎ぎろうに任命される。
  • 車騎将軍しゃきしょうぐん張温ちょうおん司馬しばとなり「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」の討伐軍に参加する。

と考えるのが妥当だとうだと思われます。

辺章・韓遂の乱

西羌せいきょうを撃ち破る

光和こうわ7年(184年)11月、西羌せいきょう涼州りょうしゅうで反乱を起こしました。

そして中平ちゅうへい2年(185年)3月、反乱軍をまとめあげた辺章へんしょう韓遂かんすい三輔さんぽ地方(右扶風ゆうふふう左馮翊さひょうよく京兆尹けいちょういんの3郡)に侵攻します。

この時陶謙とうけんは、討伐を命じられた征西将軍せいせいしょうぐん皇甫嵩こうほすうに召し寄せられて揚武都尉ようぶといに任命され、皇甫嵩こうほすうと共に西羌せいきょうを撃ち破りました。

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張温ちょうおんへの反発

同年8月、朝廷は皇甫嵩こうほすうに代えて司空しくう張温ちょうおん車騎将軍しゃきしょうぐんに任命し、辺章へんしょう韓遂かんすいの討伐を命じますが、この時もまた、陶謙とうけん張温ちょうおん参軍事さんぐんじに任命され、大変厚遇されます。

ですが陶謙とうけんは、張温ちょうおんの指揮振りを軽蔑して、内心反感を抱いていました。


百官を集めて大宴会がもよおされた時、張温ちょうおん陶謙とうけんに「酒をいでまわるように」と言いつけたところ、陶謙とうけんは満座の中で張温ちょうおんを侮辱し、これに立腹した張温ちょうおんは、陶謙とうけんを辺境地帯に左遷させんします。

この時、ある人が張温ちょうおんに進言しました。


陶恭祖とうきょうそは、もともと才能と知略によってとのから重用されておりましたのに、一度酒に酔った上での過失があったからといって、お目こぼしにもなく不毛の荒地に追放なさり、大きな御徳おんとくまっとうされませんでした。天下の人々は誰に望みをたくしたら良いのでしょうか?

お怒りをしずめて彼を元の身分に戻し、それによって美徳の評判を遠く響き渡らせられるに越したことはありません」


すると張温ちょうおんはこの意見をもっともだと思い、陶謙とうけんを帰還させました。

その者はまた、到着した陶謙とうけんに、


「足下(あなた)は三公さんこうに侮辱を加え、みずから罪を作ったのですぞ。

今、お許しを受けたのですから、張温ちょうおんどのの御徳おんとくはたいへんなものです。どうか気持ちをおさえ、を低くして謝罪されるように」


口添くちぞえすると、陶謙とうけんは「承知した」と答えました。そこでその者はまた張温ちょうおんに、


陶恭祖とうきょうそはただ今深く反省して、これまでの態度を改めようと考えております。

天子てんしさまにおびを申し上げ、その儀礼が終わりましたなら、必ずとの御元おんもとへ参るでありましょう。とのにはどうか彼にお会いになり、彼の気持ちをいたわってくださいますように」


と、2人の仲を取り持ちます。


その後、張温ちょうおんは宮殿の門のところで陶謙とうけんと出会ったところ、陶謙とうけん張温ちょうおんあおぎ見て、


「私は朝廷におびにあがったまでで、とののためではありません」


と言いました。

ですが張温ちょうおんは、


恭祖きょうそ陶謙とうけん)の うつけ はまだなおらないのかね」


と言って、陶謙とうけんのために酒席をもうけて最初と同じように厚遇しました。


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徐州刺史となる

黄巾賊を撃ち破る

ちょうどこの頃、徐州じょしゅうで黄巾賊が蜂起します。

陶謙とうけん徐州刺史じょしゅうししに任命されてこれの討伐に当たり、大いに撃ち破って敗走させたので、徐州じょしゅうは平穏になりました。

豆知識

魏書ぎしょ臧覇伝ぞうはでんに、


「黄巾の乱が起こると、臧覇ぞうは陶謙とうけんに従って彼らを攻撃して撃ち破り、騎都尉きといに任命された」


とあります。

強引な人事

趙昱ちょういくおど

陶謙とうけんは最初、趙昱ちょういく別駕従事べつがじゅうじとして招聘しょうへいしましたが、趙昱ちょういくは病気を口実としてこれを断りました。

陶謙とうけんはまた、揚州従事ようしゅうじゅうじ呉範ごはんを通じて命令を伝えさせましたが、趙昱ちょういくは意志を変えようとしません。

すると陶謙とうけんは、「刑罰にかける」と彼をおどしたので、趙昱ちょういくは重い腰をあげて陶謙とうけん招聘しょうへいを受けました。

張昭ちょうしょうを投獄する

陶謙とうけんはまた、徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく出身の張昭ちょうしょう茂才もさいに推挙しましたが、張昭ちょうしょうが推挙に応じなかったため、「陶謙とうけんは自分を軽んじている」のだと考え、張昭ちょうしょうを投獄しましたが、趙昱ちょういくが全力をげて救出を計ったので、やっとのことで釈放されました。

第3勢力の構想

董卓とうたく連合の決起

中平ちゅうへい6年(189年)4月、霊帝れいてい崩御ほうぎょすると、その後継者をめぐる混乱の中、洛陽らくよう雒陽らくよう)に入った董卓とうたくが権力を握ります。

そして、董卓とうたくは新しく即位した少帝しょうていを廃して献帝けんてい擁立ようりつし、これに反対する袁紹えんしょうらが「反董卓とうたく連合」を結成して決起しました。

ですが、陶謙とうけんはこれには加わらず、事態を静観します。

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豆知識

呉書ごしょ朱治伝しゅちでんに、


「(孫堅そんけんは)上表して朱治しゅち督軍校尉とくぐんこういの任務にあたらせ、(孫堅そんけんの本隊とは分かれ、)独立して歩兵や騎兵を指揮し、東に向かって徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんの元におもむいて黄巾の討伐に力添ちからぞえをさせた」


とあります。

初平しょへい2年(191年)2月に、孫堅そんけん陽人ようじん司隷しれい河南尹かなんいん梁県りょうけん陽人聚ようじんしゅう)で董卓とうたく軍(胡軫こしん)を破り、洛陽らくよう雒陽らくよう)に入った後のことです。


孫堅そんけんとは「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」討伐の際に、共に張温ちょうおん麾下きかで戦った間柄で、反董卓とうたく連合に加わらなかった陶謙とうけんですが、孫堅そんけんとは通じていたことが分かります。

第3勢力の構想

初平しょへい3年(192年)4月、董卓とうたく王允おういん呂布りょふらに誅殺ちゅうさつされると、董卓とうたくの配下であった李傕りかく郭汜かくしらが長安ちょうあん陥落かんらくさせ、朝廷の実権を握りました。

この時陶謙とうけんは、李傕りかく郭汜かくしらによる朝廷支配を認めず、

  • 揚州刺史ようしゅうしし周乾しゅうけん
  • 琅邪相ろうやしょう陰徳いんとく
  • 東海相とうかいしょう劉馗りゅうき
  • 彭城相ほうじょうしょう汲廉きゅうれん
  • 北海相ほっかいしょう孔融こうゆう
  • 沛相はいしょう袁忠えんちゅう
  • 泰山太守たいざんたいしゅ応劭おうしょう
  • 汝南太守じょなんたいしゅ徐璆じょきゅう
  • 九江太守きゅうこうたいしゅ服虔ふくけん
  • 博士はくし鄭玄ていげん

らと、これまで董卓とうたくに反抗を続けていた朱儁しゅしゅん太師たいし推戴すいたいして、「州郡と共に李傕りかくらを討伐とうばつして天子てんしを迎える」ための檄文を飛ばしました。


陶謙(とうけん)に呼応した勢力

陶謙とうけんに呼応した勢力


董卓とうたく連合の崩壊後、徐州じょしゅうの周辺では袁紹えんしょう袁術えんじゅつの2派に分かれて戦いが繰り返されており、陶謙とうけんのこの計画は「李傕りかく郭汜かくしらの討伐」を口実として朱儁しゅしゅんをトップとする第3勢力をつくることにあったものと思われます。


袁紹陣営と袁術陣営

袁紹えんしょう陣営と袁術えんじゅつ陣営
初平しょへい3年(192年)6月]


ですが、当の朱儁しゅしゅん太僕たいぼくを拝命して朝廷に帰順したため、陶謙とうけんの計画は頓挫とんざしてしまいます。

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袁術えんじゅつに味方する

初平しょへい3年(192年)冬、袁紹えんしょう袁術えんじゅつに対抗する第3勢力をつくり出すことに失敗した陶謙とうけんは、ついに袁術えんじゅつに味方して、公孫瓚こうそんさん配下の単経ぜんけい劉備りゅうびと共に出陣して袁紹えんしょうを圧迫しますが、袁紹えんしょう曹操そうそうの軍に撃ち破られてしまいました。


公孫瓚(こうそんさん)陣営の布陣

公孫瓚こうそんさん陣営の布陣


そしてこの時、公孫瓚こうそんさんに出兵を要請した袁術えんじゅつは、袁紹えんしょうが派遣した揚州刺史ようしゅうしし袁遺えんいを敗走させ、陳瑀ちんう揚州刺史ようしゅうししに任命しました。


第3勢力をつくり出すことに失敗したことで、陶謙とうけん袁紹えんしょう袁術えんじゅつどちらかの陣営に属さざるを得ない状況となり、陶謙とうけん袁術えんじゅつ陣営に属します。

おそらく陶謙とうけんを助けた孫堅そんけんが従っていたこと、袁術えんじゅつが一時期朱儁しゅしゅんを援助していたことなどから袁術えんじゅつ陣営を選んだと思われ、これ以前、陶謙とうけん袁術えんじゅつの間に特別な関係があった訳ではありませんでした。

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朝廷に帰順する

徐州牧じょしゅうぼくに任命される

初平しょへい4年(193年)、治中従事ちちゅうじゅうじ王朗おうろう別駕従事べつがじゅうじ趙昱ちょういくは、陶謙とうけんに次のように進言します。


春秋しゅんじゅうによると、諸侯に対してこちらの意志を通すためには、勤王きんのうほど良いものはないとか。

今、天子てんしははるか西のみやこにおわします。よろしく使者を派遣して王命をつつしんでうけたまわるべきです」


そこで陶謙とうけんは、四方の街道が断絶している中、間道かんどうづたいに使者を送って長安ちょうあんに貢ぎ物を送ります。

これにより陶謙とうけん徐州牧じょしゅうぼくに昇進し、安東将軍あんとうしょうぐんを加えられて、溧陽侯りつようこうに封ぜられ、朝廷への使者となった趙昱ちょういく広陵太守こうりょうたいしゅに、王朗おうろう会稽太守かいけいたいしゅに任命されました。


魏書ぎしょ華歆伝かきんでんには、前述の太傅たいふ馬日磾ばびつてい徐州じょしゅうおとずれたことがしるされています。

この王朗おうろう趙昱ちょういくの進言は、馬日磾ばびつてい徐州じょしゅうおとずれた際に行われた可能性が高いと思われます。

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陶謙とうけん徐州じょしゅう統治

この当時、徐州じょしゅうの民は裕福で穀物も豊かに育ち、流浪する民衆の多くが徐州じょしゅうに身を寄せていました。

ですが陶謙とうけんは、道義にそむき、感情に任せて行動するところがあり、広陵太守こうりょうたいしゅ趙昱ちょういく徐州じょしゅうの名士でしたが、忠義で正直な人柄のためにうとんぜられ、曹宏そうこう笮融さくゆうのような邪悪な小人物を信頼して任用するようなところがありました。

袁術えんじゅつとの決別

初平しょへい4年(193年)春、袁術えんじゅつは(兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん平丘県へいきゅうけんの)匡亭きょうてい曹操そうそうに敗れ、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん陰陵県いんりょうけんに逃亡しますが、この時、袁術えんじゅつが任命した揚州刺史ようしゅうしし陳瑀ちんうは、袁術えんじゅつ揚州ようしゅうに入ることを拒否します。

ですが、結局陳瑀ちんう袁術えんじゅつを攻める決断ができず、袁術えんじゅつ寿春県じゅしゅんけんに軍を進めると、徐州じょしゅう下邳国かひこくに逃亡してしまいました。


袁術えんじゅつと同盟関係にある陶謙とうけんならば、袁術えんじゅつに敵対した陳瑀ちんうを拒絶すべきですが、陶謙とうけんは彼を受け入れています。

つまりこの時点で陶謙とうけんは、袁術えんじゅつと決別していたと考えることができるでしょう。


陶謙とうけんの部下である王朗おうろう会稽太守かいけいたいしゅに任命されたことで、揚州ようしゅうへの影響力を強めた陶謙とうけんにとって、袁術えんじゅつ揚州ようしゅうに入ることは喜ばしいことではありません。

そのため陶謙とうけんは、徐州じょしゅう下邳国かひこく淮浦県わいほけん出身の揚州刺史ようしゅうしし陳瑀ちんうに働きかけ、袁術えんじゅつ揚州ようしゅう入りをこばませたのではないでしょうか。

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曹操の徐州侵攻

第一次徐州侵攻

曹操そうそう兗州牧えんしゅうぼくとなると、戦乱を避けて徐州じょしゅう琅邪国ろうやこくに避難していた曹操そうそうの父・曹嵩そうすうは、曹操そうそうが治める兗州えんしゅうに向かいました。

ですがこの時、陶謙とうけんと手を組んでいた徐州じょしゅう下邳国かひこくの賊・闕宣けっせん天子てんしを自称して反乱を起こし、曹嵩そうすうを殺害してしまいます。

陶謙とうけんはすぐに闕宣けっせんち(その軍勢を吸収し)ましたが、曹操そうそうは「父・曹嵩そうすうが殺害されたこと」を陶謙とうけんの責任として徐州じょしゅうに攻め込みました。


陶謙とうけん徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく彭城県ほうじょうけん曹操そうそうを迎え撃ちますが、万単位の死者を出して敗北。徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけんに立てもります。

曹操そうそう陶謙とうけんを追って郯県たんけんに攻撃を加えますが、攻め落とすことができないまま兵糧不足のため退却を開始しました。

この時、怒りの収まらない曹操そうそうは、大きく迂回して徐州じょしゅう下邳国かひこくに入り、民衆数万人をはじめ、鶏や犬ですらも残らずすべて殺したため、曹操そうそう軍が通った5つの城からは人影がなくなりました。


曹操(そうそう)の退却経路

曹操そうそうの退却経路

  • 緑色のラインは泗水しすいです。
  • 赤字の県名は後漢書ごかんしょ陶謙伝とうけんでんに名前ががっている県です。
  • 青矢印上の黒字の県名は推測です。

豆知識

この曹操そうそうの第一次徐州じょしゅう侵攻の際、青州刺史せいしゅうしし田楷でんかい平原相へいげんしょう劉備りゅうびは、陶謙とうけんの援軍に駆けつけています。

曹操そうそうが撤退すると、田楷でんかい青州せいしゅうに帰還しましたが、劉備りゅうび田楷でんかい公孫瓚こうそんさん)のもとを離れて陶謙とうけんに身を寄せました。

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孫策が揚州に移る

この頃、孫堅そんけんの子・孫策そんさく徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん江都県こうとけんに住んでいましたが、陶謙とうけんは彼をみ嫌っていました。

そこで孫策そんさくは、陶謙とうけんを避けて母親を揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに住まわせ、自分は呂範りょはん孫河そんかと共に叔父おじ(母の弟)の丹楊太守たんようたいしゅ呉景ごけいの元に身を寄せました。


孫策の渡江

孫策そんさくの渡江


陶謙とうけんがなぜ、盟友であった孫堅そんけんの長子・孫策そんさくみ嫌っていましたのかは分かりません。

呉書しょ孫策伝そんさくでんの注に引かれている呉歴ごれきには「孫策そんさく張紘ちょうこうの助言を受けて呉景ごけいを頼った」とあります。

第二次徐州侵攻

興平こうへい元年(194年)、曹操そうそうは再び陶謙とうけん征討の軍を起こし、琅邪国ろうやこくから徐州じょしゅうに入り、そのまま諸県を攻略して東海郡とうかいぐんに入ります。

陶謙とうけんの将・曹豹そうほう劉備りゅうびは、郯県たんけんの東に駐屯してこれを迎え撃ちますが、曹操そうそう軍は彼らを撃ち破り、さらに軍を進めて襄賁県じょうひけんを攻略しました。


曹操軍の侵攻経路

曹操そうそう軍の侵攻経路


この第二次徐州じょしゅう侵攻の際も、曹操そうそう軍が通過した地域では多数の民衆が虐殺されました。

これに恐怖した陶謙とうけんは、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん陶謙とうけんの郷里)に逃亡することを考えましたが、ちょうどこの時、陳留太守ちんりゅうたいしゅ張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうが、兗州えんしゅう呂布りょふを迎え入れて叛旗はんきひるがえしたたため、曹操そうそうは兵をまとめて兗州えんしゅうに撤退しました。

豆知識

その後、陶謙とうけん劉備りゅうび豫州刺史よしゅうししに任命して、豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく沛県はいけん小沛しょうはい)に駐屯させました。


豫州・沛国・沛県(小沛)

豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく沛県はいけん小沛しょうはい

陶謙の死

陶謙とうけん遺言ゆいごん

曹操そうそう軍が撤退した後、陶謙とうけんやまいわずらい、別駕従事べつがじゅうじ麋竺びじくに、


劉備りゅうびでなければ、この州(徐州じょしゅう)を安定させることはできない」


と言いのこして亡くなりました。63歳でした。


その後、麋竺びじく陳登ちんとう孔融こうゆうらの説得により、徐州じょしゅう劉備りゅうびに引き継がれることになります。

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張昭ちょうしょう哀悼あいとう

かつて陶謙とうけんに投獄された張昭ちょうしょうは、哀悼あいとうを作って言いました。


「ああ、使君との陶謙とうけん)よ、列侯れっこう将軍しょうぐんであるあなたは、うるわしい徳を身にそなえられ、まことに武力に優れ、まことに学問に秀でておられた。

ご本性は剛直そのもの、温厚・慈愛の態度をつらぬかれた。

じょ舒県じょけん)および盧県ろけん)の県令けんれいになられては、その遺愛は県民にいつまでもしたわれ、幽州ゆうしゅうおよび徐州じょしゅうぼくになられては、(しゅう召公しょうこういこったために大切にされた)甘棠かんとう詩経しきょう召南しょうなん)の場合と同じく大切にされたのである。

道理をわきまえた東北の異民族は、こう陶謙とうけん)のお陰でおとなしくなり、騒ぎ回る妖賊ようぞく(黄巾など)は、こう陶謙とうけん)がおられなければしずまらなかった。

みかどはひたすら功績に心をかけられ、爵位を授与されて顕彰けんしょうされ、ぼくとされた上にまたこうとされ、溧陽りつよう揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・溧陽県りつようけん]の地を領地としてさずけられた。

かくして上将じょうしょうに昇進され、安東将軍あんとうしょうぐんの称号を受けられて、社会の苦難を静めようとなされ、国家もかの人をこの上なくたっとんだ。

ところが、その寿命は永遠ではなく、にわかにこの世を去られた。

亡くなられた後を失い、民衆は困窮に突き落とされ、10日も経たずして徐州じょしゅうの5郡は壊滅状態におちいってしまった。

あわれな人民たちよ、一体誰に頼ったら良いのだろうか。亡き人をしのんでもどうしようもなく、大空をあおぎ見て泣き叫ぶのである。ああ、かなしいかな」

魏書ぎしょ陶謙伝とうけんでん陳寿ちんじゅの評

陶謙とうけん惑乱わくらん(冷静な判断ができないほど心が乱れること)して憂死した。

公孫瓚こうそんさん公孫度こうそんど公孫度こうそんたく公孫淵こうそんえんと共に評して)みな州郡を支配しながら、かえって一平民にも劣る者どもであり、実際論評に値しない。

後漢書ごかんじょ陶謙伝とうけんでん范曄はんようの賛

徐州じょしゅう一帯が壊滅したのは、まことに陶謙とうけんが元凶である。


張昭ちょうしょうの評価に比べ、陳寿ちんじゅ范曄はんよう後漢書ごかんじょ陶謙伝とうけんでんの本文は魏書ぎしょ陶謙伝とうけんでんとほぼ同じ内容)の陶謙とうけんに対する評価がいちじるしく低いのは、(正史せいし三国志さんごくしを正統としているため)曹操そうそうが行った虐殺を正当化する必要があり、陶謙とうけんが悪人に仕立てられたのだと考えられます。

とは言え、呉書ごしょにも良いことばかりが書かれている訳ではなく、陶謙とうけんにはが強く頑固な所があり、問題行動が多かったことは事実でしょう。


実際の陶謙とうけんは、三国志演義さんごくしえんぎで描かれているようなただの好好爺こうこうやではなく、徐州じょしゅうの黄巾賊を討伐するなど高い軍事能力を持った武闘派の人物で、が強く頑固な所があり、趙昱ちょういくのような名士よりも無頼ぶらいやからを好んでいたようです。

結果、統治の難しい徐州じょしゅうをよく治め、勢力の拡大をはかる一方で、後継者には血縁よりも才能ある者(劉備りゅうび)を指名し、自身の野望よりも徐州じょしゅうの安定を優先させるなど、時代の変化を敏感に感じ取る能力に優れていた人物だったと言えるでしょう。



陶謙データベース

陶謙関連年表

西暦 出来事
132年

陽嘉ようか元年

  • 揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に生まれる。
不明
  • 幼くして父を亡くす。
  • 甘公かんこうの娘(甘氏かんし)を妻とする。
  • 孝廉こうれんに選ばれて尚書郎しょうしょろうに任命される。
  • 揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん・)舒県じょけん県令けんれいに任命される。
  • 官職をてる。
  • 茂才もさいに推挙されて(兗州えんしゅう済北国せいほくこく・)盧県ろけん県令けんれいに任命される。
  • 幽州刺史ゆうしゅうししに任命される。
  • 議郎ぎろうに任命される。
184年

光和こうわ7年【53歳】

  • 黄巾こうきんの乱」が起こる。
185年

中平ちゅうへい2年【54歳】

 3月

  • 辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」が起こる。
  • 揚武都尉ようぶといに任命され、征西将軍せいせいしょうぐん皇甫嵩こうほすうと共に西羌せいきょうを撃ち破る。
  • 皇甫嵩こうほすう罷免ひめんされる。

 8月

  • 司空しくう張温ちょうおん車騎将軍しゃきしょうぐんに任命され、「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」の討伐を命じられる。
  • 張温ちょうおん参軍事さんぐんじに任命される。

 不明

  • 張温ちょうおんに反発し、辺境地帯に左遷させんされる。
  • 張温ちょうおんに許されて元の身分に戻される。
  • 張温ちょうおんにはびなかった。
不明
  • 徐州じょしゅうで黄巾賊が蜂起する。
  • 徐州刺史じょしゅうししに任命され、黄巾賊を撃ち破る。
  • 臧覇ぞうは騎都尉きといに任命する。
  • 張昭ちょうしょう茂才もさいに推挙する。
  • 推挙に応じなかった張昭ちょうしょうを投獄する。
189年

中平ちゅうへい6年【58歳】

 4月

  • 霊帝れいてい崩御ほうぎょする。

 9月

  • 董卓とうたく少帝しょうていを廃して献帝けんてい擁立ようりつする。
190年

初平しょへい元年【59歳】

 1月

  • 「反董卓とうたく連合」が決起する。

 2月

  • 董卓とうたく長安ちょうあん遷都せんとする。
191年

初平しょへい2年【60歳】

  • 孫堅そんけん配下の朱治しゅちが、陶謙とうけんの黄巾討伐に加勢する。
192年

初平しょへい3年【61歳】

 4月

  • 董卓とうたく王允おういん呂布りょふらに誅殺ちゅうさつされる。

 6月

  • 李傕りかく郭汜かくしらが長安ちょうあん陥落かんらくさせ、朝廷の実権を握る。

 不明

  • 朱儁しゅしゅん太師たいし推戴すいたいし「李傕りかく討伐とうばつ」の檄文を飛ばす。
  • 朱儁しゅしゅんが朝廷に帰順する。
  • 袁術えんじゅつに味方して、公孫瓚こうそんさん配下の単経ぜんけい劉備りゅうびと共に袁紹えんしょうを圧迫する。
  • 袁紹えんしょう曹操そうそうの軍に撃ち破られる。
  • 袁術えんじゅつ陳瑀ちんう揚州刺史ようしゅうししに任命する。
193年

初平しょへい4年【62歳】

  • 匡亭きょうてい袁術えんじゅつ曹操そうそうに敗れる。
  • 陶謙とうけんが朝廷に帰順する。
  • 徐州牧じょしゅうぼく安東将軍あんとうしょうぐん溧陽侯りつようこうに任命される。
  • 趙昱ちょういく広陵太守こうりょうたいしゅに任命される。
  • 王朗おうろう会稽太守かいけいたいしゅに任命される。
  • 揚州刺史ようしゅうしし陳瑀ちんう袁術えんじゅつ揚州ようしゅう入りをこばむ。
  • 陳瑀ちんう徐州じょしゅう下邳国かひこくに逃亡する。

 6月

  • 下邳国かひこくの賊・闕宣けっせん天子てんしを自称する。
  • 曹操そうそうの父・曹嵩そうすうが殺害される。
  • 曹操そうそう徐州じょしゅうに侵攻する。
  • 青州刺史せいしゅうしし田楷でんかい平原相へいげんしょう劉備りゅうびが援軍に駆けつける。
  • 陶謙とうけん郯県たんけんに立てもり、曹操そうそうは落とせず撤退する。
  • 曹操そうそう下邳国かひこくの5城で虐殺を行う。
  • 劉備りゅうび徐州じょしゅうとどまる。
  • 陶謙とうけんを避け、孫策そんさく丹楊太守たんようたいしゅ呉景ごけいの元に身を寄せる。
194年

興平こうへい元年【63歳】

  • 曹操そうそうが再び徐州じょしゅうに侵攻し、民衆を虐殺する。
  • 陶謙とうけん揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐんに逃亡することを考える。
  • 兗州えんしゅうで反乱が起こったため、曹操そうそうが撤退する。
  • 陶謙とうけん劉備りゅうび豫州刺史よしゅうししに任命する。
  • 陶謙とうけんやまいわずらい亡くなる。

配下

配下

趙昱ちょういく王朗おうろう糜竺びじく糜芳びほう陳登ちんとう曹宏そうこう呂由りょゆう

張闓ちょうがい曹豹そうほう笮融さくゆう

従属

臧覇ぞうは闕宣けっせん昌豨しょうき(別名:昌狶しょうき昌務しょうぶ昌霸しょうは)、

劉備りゅうび

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