『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では、民の安寧(あんねい)を願うだけの好好爺(こうこうや)のように描かれ、正史(せいし)『三国志(さんごくし)』を編纂(へんさん)した陳寿(ちんじゅ)の評では「論評に値しない」と酷評(こくひょう)された陶謙(とうけん)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

スポンサーリンク

出自

陶謙(とうけん)

出身地 / 生没年

字(あざな)

恭祖(きょうそ)。

出身地

揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))


揚州・丹楊郡(丹陽郡)

揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))

生没年

  • 陽嘉(ようか)元年(132年)〜 興平(こうへい)元年(194年)。
  • 『後漢書(ごかんじょ)』と『魏書(ぎしょ)』に列伝があります。

家族・親族

父

名は不明。

揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)・余姚県(よようけん)の県長(けんちょう)に就(つ)いていましたが、陶謙(とうけん)が幼い頃に亡くなりました。

妻

甘氏(かんし)。

同県出身の交趾(こうし)(交阯(こうし))・蒼梧郡(そうごぐん)の太守(たいしゅ)・甘公(かんこう)の娘。

子

  • 陶商(とうしょう)
  • 陶応(とうおう)

2人とも、陶謙(とうけん)の死後は仕官しませんでした。


スポンサーリンク


徐州刺史となるまで

甘氏の娘を妻にする

陶謙(とうけん)は幼くして父を亡くしました。

当初は人の世話にならないことで県内で評判となっていましたが、14歳になっても まだ絹布を綴(つづ)り合わせて軍旗をつくったり、竹馬に乗ったりして、村中の子供たちを引き連れて遊んでいました。


外出の途中で出会った陶謙(とうけん)の顔形を見た蒼梧太守(そうごたいしゅ)の甘公(かんこう)は、彼を見て面白いと感じました。

そこで甘公(かんこう)は馬車を止め、陶謙(とうけん)を呼び止めて語り合うと、たいそう気に入って自分の娘を彼の妻とする約束をします。

この話を聞いた甘公(かんこう)の夫人は非常に腹を立て、


「陶家(とうけ)の息子はケジメもなく、気ままに遊び惚(ほう)けていると聞いておりますのに、どうして娘をやるなどと約束なさったのですかっ!?」


と反対しましたが、甘公(かんこう)は、


「彼は人並み外れた容貌(ようぼう)をしている。成長すれば必ず大成するだろう」


と言い、そのまま陶謙(とうけん)と結婚させました。

職歴と逸話

職歴

中平(ちゅうへい)2年(185年)8月、陶謙(とうけん)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・張温(ちょうおん)の司馬(しば)となり「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」の討伐軍に抜擢されますが、それ以前の職歴には諸説あります。

『魏書』陶謙伝

陶謙(とうけん)は若い頃から学問好きで太学(たいがく)の学生となり、州と郡に出仕して茂才(もさい)に推挙され、(兗州(えんしゅう)・済北国(せいほくこく)・)盧県(ろけん)の県令(けんれい)に任命された。

幽州刺史(ゆうしゅうしし)に昇進し、中央に召し出されて議郎(ぎろう)に任命され、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・張温(ちょうおん)の軍事行動に参加して、韓遂(かんすい)討伐に西方に行った。

『魏書』陶謙伝の注・『呉書』

陶謙(とうけん)は剛直な人柄で、節義のある人物であったため、若くして孝廉(こうれん)に選ばれて、尚書郎(しょうしょろう)に取り立てられ、(揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・)舒県(じょけん)の県令(けんれい)に任命された。

『後漢書』陶謙伝

若くして書生となり、州郡に出仕し、4度(官職が)遷(うつ)って、車騎将軍(しゃきしょうぐん)である張温(ちょうおん)の司馬(しば)となり、辺章(へんしょう)を討伐した。

逸話(いつわ)(『呉書(ごしょ)』)

陶謙(とうけん)が舒県令(じょけんれい)だった時のこと。

(揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)の)郡守(ぐんしゅ)(太守(たいしゅ))・張磐(ちょうばん)は、同郡出身の先輩で陶謙(とうけん)の父の友人だったことから、特に陶謙(とうけん)に親近感を持っていましたが、陶謙(とうけん)は張磐(ちょうばん)に頭を下げることを嫌(きら)っていました。

酒の誘いを断る

陶謙(とうけん)が公務報告のために郡城に行き、会見が終わって退出すると、張磐(ちょうばん)はいつもこっそり陶謙(とうけん)を酒に誘いましたが、時にはその誘いを断って留(とど)まろうとしないこともありました。

旋回することを断る

当時、酒宴の余興として、主人が立って舞い、続いて客に舞うことを頼むという慣習がありました。

ある時、張磐(ちょうばん)が陶謙(とうけん)に自分の後に続いて舞うように所望しましたが、陶謙(とうけん)は立ち上がろうとしませんでした。

張磐(ちょうばん)がしつこく無理強いすると、陶謙(とうけん)は仕方なく舞い始めましたが、旋回(せんかい)するべきところで旋回(せんかい)しません。

張磐(ちょうばん)が、


「旋回(せんかい)するべきじゃないのかね?」


と問うと、陶謙(とうけん)はこう答えました。


「旋回(せんかい)することはできません。旋回(せんかい)すると、他人を抑(おさ)えることになりますので」


張磐(ちょうばん)は不愉快になり、ついに2人は不和になりました。


前漢(ぜんかん)・景帝(けいてい)の後元(こうげん)2年(紀元前142年)、諸王が参朝した時、景帝(けいてい)は諸王に舞いを舞わせましたが、長沙王(ちょうさおう)・劉発(りゅうはつ)は袖(そで)をピンと張り、ちょっと手を上げるだけでその場を動きませんでした。

景帝(けいてい)が不審に思って尋(たず)ねると劉発(りゅうはつ)は、


「私の国は、領土が狭(せま)くてグルグル回れませんので」


と答えたという前例があり、陶謙(とうけん)はこれをなぞらえたのだと言われています。

官位を棄てる

陶謙(とうけん)は役人として清廉潔白でしたが、犯罪を追求することをしませんでした。

霊星(れいせい)を祭る際、係官が余剰金500金を着服しようとしたため、陶謙(とうけん)は官位を棄(す)てて去りました。


以上を総合すると陶謙(とうけん)の職歴は、

  • 孝廉(こうれん)に選ばれて尚書郎(しょうしょろう)に任命される。
  • (揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・)舒県(じょけん)の県令(けんれい)に任命される。
  • 官職を棄(す)てる。
  • 茂才(もさい)に推挙されて(兗州(えんしゅう)・済北国(せいほくこく)・)盧県(ろけん)の県令(けんれい)に任命される。
  • 幽州刺史(ゆうしゅうしし)に任命される。
  • 議郎(ぎろう)に任命される。
  • 車騎将軍(しゃきしょうぐん)・張温(ちょうおん)の司馬(しば)となり「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」の討伐軍に参加する。

と考えるのが妥当(だとう)だと思われます。

辺章・韓遂の乱

西羌(せいきょう)を撃ち破る

光和(こうわ)7年(184年)11月、西羌(せいきょう)が涼州(りょうしゅう)で反乱を起こしました。

そして中平(ちゅうへい)2年(185年)3月、反乱軍をまとめあげた辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)が三輔(さんぽ)地方(右扶風(ゆうふふう)・左馮翊(さひょうよく)・京兆尹(けいちょういん)の3郡)に侵攻します。

この時陶謙(とうけん)は、討伐を命じられた征西将軍(せいせいしょうぐん)・皇甫嵩(こうほすう)に召し寄せられて揚武都尉(ようぶとい)に任命され、皇甫嵩(こうほすう)と共に西羌(せいきょう)を撃ち破りました。

関連記事

黄巾の乱の影に隠れて目立たない涼州の反乱「辺章・韓遂の乱」とは

張温(ちょうおん)への反発

同年8月、朝廷は皇甫嵩(こうほすう)に代えて司空(しくう)の張温(ちょうおん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任命し、辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)の討伐を命じますが、この時もまた、陶謙(とうけん)は張温(ちょうおん)に参軍事(さんぐんじ)に任命され、大変厚遇されます。

ですが陶謙(とうけん)は、張温(ちょうおん)の指揮振りを軽蔑して、内心反感を抱いていました。


百官を集めて大宴会が催(もよお)された時、張温(ちょうおん)が陶謙(とうけん)に「酒を注(つ)いでまわるように」と言いつけたところ、陶謙(とうけん)は満座の中で張温(ちょうおん)を侮辱し、これに立腹した張温(ちょうおん)は、陶謙(とうけん)を辺境地帯に左遷(させん)します。

この時、ある人が張温(ちょうおん)に進言しました。


「陶恭祖(とうきょうそ)は、もともと才能と知略によって公(との)から重用されておりましたのに、一度酒に酔った上での過失があったからといって、お目こぼしにもなく不毛の荒地に追放なさり、大きな御徳(おんとく)は全(まっと)うされませんでした。天下の人々は誰に望みを託(たく)したら良いのでしょうか?

お怒りを鎮(しず)めて彼を元の身分に戻し、それによって美徳の評判を遠く響き渡らせられるに越したことはありません」


すると張温(ちょうおん)はこの意見をもっともだと思い、陶謙(とうけん)を帰還させました。

その者はまた、到着した陶謙(とうけん)に、


「足下(あなた)は三公(さんこう)に侮辱を加え、自(みずか)ら罪を作ったのですぞ。

今、お許しを受けたのですから、張温(ちょうおん)どのの御徳(おんとく)はたいへんなものです。どうか気持ちを抑(おさ)え、辞(じ)を低くして謝罪されるように」


と口添(くちぞ)えすると、陶謙(とうけん)は「承知した」と答えました。そこでその者はまた張温(ちょうおん)に、


「陶恭祖(とうきょうそ)はただ今深く反省して、これまでの態度を改めようと考えております。

天子(てんし)さまにお詫(わ)びを申し上げ、その儀礼が終わりましたなら、必ず公(との)の御元(おんもと)へ参るでありましょう。公(との)にはどうか彼にお会いになり、彼の気持ちを労(いたわ)ってくださいますように」


と、2人の仲を取り持ちます。


その後、張温(ちょうおん)は宮殿の門のところで陶謙(とうけん)と出会ったところ、陶謙(とうけん)は張温(ちょうおん)を仰(あお)ぎ見て、


「私は朝廷にお詫(わ)びにあがったまでで、公(との)のためではありません」


と言いました。

ですが張温(ちょうおん)は、


「恭祖(きょうそ)(陶謙(とうけん))の うつけ はまだ治(なお)らないのかね」


と言って、陶謙(とうけん)のために酒席を設(もう)けて最初と同じように厚遇しました。


スポンサーリンク


徐州刺史となる

黄巾賊を撃ち破る

ちょうどこの頃、徐州(じょしゅう)で黄巾賊が蜂起します。

陶謙(とうけん)は徐州刺史(じょしゅうしし)に任命されてこれの討伐に当たり、大いに撃ち破って敗走させたので、徐州(じょしゅう)は平穏になりました。

豆知識

『魏書(ぎしょ)』臧覇伝(ぞうはでん)に、


「黄巾の乱が起こると、臧覇(ぞうは)は陶謙(とうけん)に従って彼らを攻撃して撃ち破り、騎都尉(きとい)に任命された」


とあります。

強引な人事

趙昱(ちょういく)を脅(おど)す

陶謙(とうけん)は最初、趙昱(ちょういく)を別駕従事(べつがじゅうじ)として招聘(しょうへい)しましたが、趙昱(ちょういく)は病気を口実としてこれを断りました。

陶謙(とうけん)はまた、揚州従事(ようしゅうじゅうじ)の呉範(ごはん)を通じて命令を伝えさせましたが、趙昱(ちょういく)は意志を変えようとしません。

すると陶謙(とうけん)は、「刑罰にかける」と彼を脅(おど)したので、趙昱(ちょういく)は重い腰をあげて陶謙(とうけん)の招聘(しょうへい)を受けました。

張昭(ちょうしょう)を投獄する

陶謙(とうけん)はまた、徐州(じょしゅう)・彭城国(ほうじょうこく)出身の張昭(ちょうしょう)を茂才(もさい)に推挙しましたが、張昭(ちょうしょう)が推挙に応じなかったため、「陶謙(とうけん)は自分を軽んじている」のだと考え、張昭(ちょうしょう)を投獄しましたが、趙昱(ちょういく)が全力を挙(あ)げて救出を計ったので、やっとのことで釈放されました。

第3勢力の構想

反董卓(とうたく)連合の決起

中平(ちゅうへい)6年(189年)4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)すると、その後継者を巡(めぐ)る混乱の中、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入った董卓(とうたく)が権力を握ります。

そして、董卓(とうたく)は新しく即位した少帝(しょうてい)を廃して献帝(けんてい)を擁立(ようりつ)し、これに反対する袁紹(えんしょう)らが「反董卓(とうたく)連合」を結成して決起しました。

ですが、陶謙(とうけん)はこれには加わらず、事態を静観します。

関連記事

正史『三国志』における反董卓連合の結成

豆知識

『呉書(ごしょ)』朱治伝(しゅちでん)に、


「(孫堅(そんけん)は)上表して朱治(しゅち)を督軍校尉(とくぐんこうい)の任務にあたらせ、(孫堅(そんけん)の本隊とは分かれ、)独立して歩兵や騎兵を指揮し、東に向かって徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)の元に赴(おもむ)いて黄巾の討伐に力添(ちからぞ)えをさせた」


とあります。

初平(しょへい)2年(191年)2月に、孫堅(そんけん)が陽人(ようじん)(司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・梁県(りょうけん)の陽人聚(ようじんしゅう))で董卓(とうたく)軍(胡軫(こしん))を破り、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入った後のことです。


孫堅(そんけん)とは「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」討伐の際に、共に張温(ちょうおん)の麾下(きか)で戦った間柄で、反董卓(とうたく)連合に加わらなかった陶謙(とうけん)ですが、孫堅(そんけん)とは通じていたことが分かります。

第3勢力の構想

初平(しょへい)3年(192年)4月、董卓(とうたく)が王允(おういん)・呂布(りょふ)らに誅殺(ちゅうさつ)されると、董卓(とうたく)の配下であった李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが長安(ちょうあん)を陥落(かんらく)させ、朝廷の実権を握りました。

この時陶謙(とうけん)は、李傕(りかく)・郭汜(かくし)らによる朝廷支配を認めず、

  • 前揚州刺史(ようしゅうしし)・周乾(しゅうけん)
  • 琅邪相(ろうやしょう)・陰徳(いんとく)
  • 東海相(とうかいしょう)・劉馗(りゅうき)
  • 彭城相(ほうじょうしょう)・汲廉(きゅうれん)
  • 北海相(ほっかいしょう)・孔融(こうゆう)
  • 沛相(はいしょう)・袁忠(えんちゅう)
  • 泰山太守(たいざんたいしゅ)・応劭(おうしょう)
  • 汝南太守(じょなんたいしゅ)・徐璆(じょきゅう)
  • 前九江太守(きゅうこうたいしゅ)・服虔(ふくけん)
  • 博士(はくし)・鄭玄(ていげん)

らと、これまで董卓(とうたく)に反抗を続けていた朱儁(しゅしゅん)を太師(たいし)に推戴(すいたい)して、「州郡と共に李傕(りかく)らを討伐(とうばつ)して天子(てんし)を迎える」ための檄文を飛ばしました。


陶謙(とうけん)に呼応した勢力

陶謙(とうけん)に呼応した勢力


反董卓(とうたく)連合の崩壊後、徐州(じょしゅう)の周辺では袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)の2派に分かれて戦いが繰り返されており、陶謙(とうけん)のこの計画は「李傕(りかく)・郭汜(かくし)らの討伐」を口実として朱儁(しゅしゅん)をトップとする第3勢力をつくることにあったものと思われます。


袁紹陣営と袁術陣営

袁紹(えんしょう)陣営と袁術(えんじゅつ)陣営
[初平(しょへい)3年(192年)6月]


ですが、当の朱儁(しゅしゅん)が太僕(たいぼく)を拝命して朝廷に帰順したため、陶謙(とうけん)の計画は頓挫(とんざ)してしまいます。

関連記事

李傕・郭汜政権の誕生と周辺の群雄の反応

袁術(えんじゅつ)に味方する

初平(しょへい)3年(192年)冬、袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)に対抗する第3勢力をつくり出すことに失敗した陶謙(とうけん)は、ついに袁術(えんじゅつ)に味方して、公孫瓚(こうそんさん)配下の単経(ぜんけい)・劉備(りゅうび)と共に出陣して袁紹(えんしょう)を圧迫しますが、袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)の軍に撃ち破られてしまいました。


公孫瓚(こうそんさん)陣営の布陣

公孫瓚(こうそんさん)陣営の布陣


そしてこの時、公孫瓚(こうそんさん)に出兵を要請した袁術(えんじゅつ)は、袁紹(えんしょう)が派遣した揚州刺史(ようしゅうしし)・袁遺(えんい)を敗走させ、陳瑀ちんうを揚州刺史(ようしゅうしし)に任命しました。


第3勢力をつくり出すことに失敗したことで、陶謙(とうけん)も袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)どちらかの陣営に属さざるを得ない状況となり、陶謙(とうけん)は袁術(えんじゅつ)陣営に属します。

おそらく陶謙(とうけん)を助けた孫堅(そんけん)が従っていたこと、袁術(えんじゅつ)が一時期朱儁(しゅしゅん)を援助していたことなどから袁術(えんじゅつ)陣営を選んだと思われ、これ以前、陶謙(とうけん)と袁術(えんじゅつ)の間に特別な関係があった訳ではありませんでした。

関連記事

袁紹と袁術の揚州刺史を巡る争いと龍湊の戦い

朝廷に帰順する

徐州牧(じょしゅうぼく)に任命される

初平(しょへい)4年(193年)、治中従事(ちちゅうじゅうじ)・王朗(おうろう)と別駕従事(べつがじゅうじ)・趙昱(ちょういく)は、陶謙(とうけん)に次のように進言します。


「『春秋(しゅんじゅう)』によると、諸侯に対してこちらの意志を通すためには、勤王(きんのう)ほど良いものはないとか。

今、天子(てんし)ははるか西の都(みやこ)におわします。よろしく使者を派遣して王命を謹(つつし)んで承(うけたまわ)るべきです」


そこで陶謙(とうけん)は、四方の街道が断絶している中、間道(かんどう)伝(づた)いに使者を送って長安(ちょうあん)に貢ぎ物を送ります。

これにより陶謙(とうけん)は徐州牧(じょしゅうぼく)に昇進し、安東将軍(あんとうしょうぐん)を加えられて、溧陽侯(りつようこう)に封ぜられ、朝廷への使者となった趙昱(ちょういく)は広陵太守(こうりょうたいしゅ)に、王朗(おうろう)は会稽太守(かいけいたいしゅ)に任命されました。


『魏書(ぎしょ)』華歆伝(かきんでん)には、前述の太傅(たいふ)の馬日磾(ばびつてい)が徐州(じょしゅう)を訪(おとず)れたことが記(しる)されています。

この王朗(おうろう)と趙昱(ちょういく)の進言は、馬日磾(ばびつてい)が徐州(じょしゅう)を訪(おとず)れた際に行われた可能性が高いと思われます。

関連記事

李傕・郭汜政権の誕生と周辺の群雄の反応

陶謙(とうけん)の徐州(じょしゅう)統治

この当時、徐州(じょしゅう)の民は裕福で穀物も豊かに育ち、流浪する民衆の多くが徐州(じょしゅう)に身を寄せていました。

ですが陶謙(とうけん)は、道義に背(そむ)き、感情に任せて行動するところがあり、広陵太守(こうりょうたいしゅ)の趙昱(ちょういく)は徐州(じょしゅう)の名士でしたが、忠義で正直な人柄のために疎(うと)んぜられ、曹宏(そうこう)や笮融(さくゆう)のような邪悪な小人物を信頼して任用するようなところがありました。

袁術(えんじゅつ)との決別

初平(しょへい)4年(193年)春、袁術(えんじゅつ)は(兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・平丘県(へいきゅうけん)の)匡亭(きょうてい)で曹操(そうそう)に敗れ、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・陰陵県(いんりょうけん)に逃亡しますが、この時、袁術(えんじゅつ)が任命した揚州刺史(ようしゅうしし)・陳瑀ちんうは、袁術(えんじゅつ)が揚州(ようしゅう)に入ることを拒否します。

ですが、結局陳瑀ちんうは袁術(えんじゅつ)を攻める決断ができず、袁術(えんじゅつ)が寿春県(じゅしゅんけん)に軍を進めると、徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)に逃亡してしまいました。


袁術(えんじゅつ)と同盟関係にある陶謙(とうけん)ならば、袁術(えんじゅつ)に敵対した陳瑀ちんうを拒絶すべきですが、陶謙(とうけん)は彼を受け入れています。

つまりこの時点で陶謙(とうけん)は、袁術(えんじゅつ)と決別していたと考えることができるでしょう。


陶謙(とうけん)の部下である王朗(おうろう)が会稽太守(かいけいたいしゅ)に任命されたことで、揚州(ようしゅう)への影響力を強めた陶謙(とうけん)にとって、袁術(えんじゅつ)が揚州(ようしゅう)に入ることは喜ばしいことではありません。

そのため陶謙(とうけん)は、徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)・淮浦県(わいほけん)出身の揚州刺史(ようしゅうしし)・陳瑀ちんうに働きかけ、袁術(えんじゅつ)の揚州(ようしゅう)入りを拒(こば)ませたのではないでしょうか。

関連記事

【匡亭の戦い】袁術が曹操に大敗し、寿春に拠点を移す

曹操の徐州侵攻

第一次徐州侵攻

曹操(そうそう)が兗州牧(えんしゅうぼく)となると、戦乱を避けて徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)に避難していた曹操(そうそう)の父・曹嵩(そうすう)は、曹操(そうそう)が治める兗州(えんしゅう)に向かいました。

ですがこの時、陶謙(とうけん)と手を組んでいた徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)の賊・闕宣(けっせん)が天子(てんし)を自称して反乱を起こし、曹嵩(そうすう)を殺害してしまいます。

陶謙(とうけん)はすぐに闕宣(けっせん)を討(う)ち(その軍勢を吸収し)ましたが、曹操(そうそう)は「父・曹嵩(そうすう)が殺害されたこと」を陶謙(とうけん)の責任として徐州(じょしゅう)に攻め込みました。


陶謙(とうけん)は徐州(じょしゅう)・彭城国(ほうじょうこく)・彭城県(ほうじょうけんで曹操(そうそう)を迎え撃ちますが、万単位の死者を出して敗北。徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)・郯県(たんけん)に立て籠(こ)もります。

曹操(そうそう)は陶謙(とうけん)を追って郯県(たんけん)に攻撃を加えますが、攻め落とすことができないまま兵糧不足のため退却を開始しました。

この時、怒りの収まらない曹操(そうそう)は、大きく迂回して徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)に入り、民衆数万人をはじめ、鶏や犬ですらも残らずすべて殺したため、曹操(そうそう)軍が通った5つの城からは人影がなくなりました。


曹操(そうそう)の退却経路

曹操(そうそう)の退却経路

  • 緑色のラインは泗水(しすい)です。
  • 赤字の県名は『後漢書(ごかんしょ)』陶謙伝(とうけんでん)に名前が挙(あ)がっている県です。
  • 青矢印上の黒字の県名は推測です。

豆知識

この曹操(そうそう)の第一次徐州(じょしゅう)侵攻の際、青州刺史(せいしゅうしし)・田楷(でんかいと平原相(へいげんしょう)・劉備(りゅうび)は、陶謙(とうけん)の援軍に駆けつけています。

曹操(そうそう)が撤退すると、田楷(でんかいは青州(せいしゅう)に帰還しましたが、劉備(りゅうび)は田楷(でんかい(公孫瓚(こうそんさん)の下(もと)を離れて陶謙(とうけん)に身を寄せました。

関連記事

第一次徐州侵攻は賭けだった!?曹嵩殺害と曹操の大量虐殺について

孫策が揚州に移る

この頃、孫堅(そんけん)の子・孫策(そんさく)は徐州(じょしゅう)・広陵郡(こうりょうぐん)・江都県(こうとけん)に住んでいましたが、陶謙(とうけん)は彼を忌(い)み嫌っていました。

そこで孫策(そんさく)は、陶謙(とうけん)を避けて母親を揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)に住まわせ、自分は呂範(りょはん)や孫河(そんか)と共に叔父(おじ)(母の弟)の丹楊太守(たんようたいしゅ)・呉景(ごけいの元に身を寄せました。


孫策の渡江

孫策(そんさく)の渡江


陶謙(とうけん)がなぜ、盟友であった孫堅(そんけん)の長子・孫策(そんさく)を忌(い)み嫌っていたのかは分かりません。

『呉書(ごしょ)』孫策伝(そんさくでん)の注に引かれている『呉歴(ごれき)』には「孫策(そんさく)は張紘(ちょうこう)の助言を受けて呉景(ごけいを頼った」とあります。

第二次徐州侵攻

興平(こうへい)元年(194年)、曹操(そうそう)は再び陶謙(とうけん)征討の軍を起こし、琅邪国(ろうやこく)から徐州(じょしゅう)に入り、そのまま諸県を攻略して東海郡(とうかいぐん)に入ります。

陶謙(とうけん)の将・曹豹(そうほうと劉備(りゅうび)は、郯県(たんけん)の東に駐屯してこれを迎え撃ちますが、曹操(そうそう)軍は彼らを撃ち破り、さらに軍を進めて襄賁県(じょうひけん)を攻略しました。


曹操軍の侵攻経路

曹操(そうそう)軍の侵攻経路


この第二次徐州(じょしゅう)侵攻の際も、曹操(そうそう)軍が通過した地域では多数の民衆が虐殺されました。

これに恐怖した陶謙(とうけん)は、揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(陶謙(とうけん)の郷里)に逃亡することを考えましたが、ちょうどこの時、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)・張邈(ちょうばく)と陳宮(ちんきゅう)が、兗州(えんしゅう)に呂布(りょふ)を迎え入れて叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)したたため、曹操(そうそう)は兵をまとめて兗州(えんしゅう)に撤退しました。

豆知識

その後、陶謙(とうけん)は劉備(りゅうび)を豫州刺史(よしゅうしし)に任命して、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))に駐屯させました。


豫州・沛国・沛県(小沛)

豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・沛県(はいけん)(小沛(しょうはい))

陶謙の死

陶謙(とうけん)の遺言(ゆいごん)

曹操(そうそう)軍が撤退した後、陶謙(とうけん)は病(やまい)を患(わずら)い、別駕従事(べつがじゅうじ)の麋竺(びじく)に、


「劉備(りゅうび)でなければ、この州(徐州(じょしゅう))を安定させることはできない」


と言い遺(のこ)して亡くなりました。63歳でした。


その後、麋竺(びじく)や陳登(ちんとう)、孔融(こうゆう)らの説得により、徐州(じょしゅう)は劉備(りゅうび)に引き継がれることになります。

関連記事

陶謙の死。劉備への徐州継承と袁術派から袁紹派への転身

張昭(ちょうしょう)の哀悼(あいとう)の辞(じ)

かつて陶謙(とうけん)に投獄された張昭(ちょうしょう)は、哀悼(あいとう)の辞(じ)を作って言いました。


「ああ、使君(との)(陶謙(とうけん))よ、列侯(れっこう)・将軍(しょうぐん)であるあなたは、美(うる)わしい徳を身に具(そな)えられ、まことに武力に優れ、まことに学問に秀でておられた。

ご本性は剛直そのもの、温厚・慈愛の態度を貫(つらぬ)かれた。

舒(じょ)(舒県(じょけん))および盧(ろ)(盧県(ろけん))の県令(けんれい)になられては、その遺愛は県民にいつまでも慕(した)われ、幽州(ゆうしゅう)および徐州(じょしゅう)の牧(ぼく)になられては、(周(しゅう)の召公(しょうこう)が憩(いこ)ったために大切にされた)『甘棠(かんとう)』(『詩経(しきょう)』召南(しょうなん))の場合と同じく大切にされたのである。

道理をわきまえた東北の異民族は、侯(こう)(陶謙(とうけん))のお陰でおとなしくなり、騒ぎ回る妖賊(ようぞく)(黄巾など)は、侯(こう)(陶謙(とうけん))がおられなければ鎮(しず)まらなかった。

帝(みかど)はひたすら功績に心をかけられ、爵位を授与されて顕彰(けんしょう)され、牧(ぼく)とされた上にまた侯(こう)とされ、溧陽(りつよう)[揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))・溧陽県(りつようけん)]の地を領地として授(さず)けられた。

かくして上将(じょうしょう)に昇進され、安東将軍(あんとうしょうぐん)の称号を受けられて、社会の苦難を静めようとなされ、国家もかの人をこの上なく尊(たっと)んだ。

ところが、その寿命は永遠ではなく、にわかにこの世を去られた。

亡くなられた後寄(よ)る辺(べ)を失い、民衆は困窮に突き落とされ、10日も経たずして徐州(じょしゅう)の5郡は壊滅状態に陥(おちい)ってしまった。

憐(あわ)れな人民たちよ、一体誰に頼ったら良いのだろうか。亡き人を偲(しの)んでもどうしようもなく、大空を仰(あお)ぎ見て泣き叫ぶのである。ああ、哀(かな)しいかな」

『魏書(ぎしょ)』陶謙伝(とうけんでん)・陳寿(ちんじゅ)の評

陶謙(とうけん)は惑乱(わくらん)(冷静な判断ができないほど心が乱れること)して憂死した。

(公孫瓚(こうそんさん)・公孫度(こうそんたく)・公孫度(こうそんたく)・公孫淵(こうそんえん)と共に評して)みな州郡を支配しながら、かえって一平民にも劣る者どもであり、実際論評に値しない。

『後漢書(ごかんじょ)』陶謙伝(とうけんでん)・范曄(はんよう)の賛

徐州(じょしゅう)一帯が壊滅したのは、まことに陶謙(とうけん)が元凶である。


張昭(ちょうしょう)の評価に比べ、陳寿(ちんじゅ)や范曄(はんよう)(『後漢書(ごかんじょ)』陶謙伝(とうけんでん)の本文は『魏書(ぎしょ)』陶謙伝(とうけんでん)とほぼ同じ内容)の陶謙(とうけん)に対する評価が著(いちじる)しく低いのは、(正史(せいし)『三国志(さんごくし)』が魏(ぎ)を正統としているため)曹操(そうそう)が行った虐殺を正当化する必要があり、陶謙(とうけん)が悪人に仕立てられたのだと考えられます。

とは言え、『呉書(ごしょ)』にも良いことばかりが書かれている訳ではなく、陶謙(とうけん)には我(が)が強く頑固な所があり、問題行動が多かったことは事実でしょう。


実際の陶謙(とうけん)は、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』で描かれているようなただの好好爺(こうこうや)ではなく、徐州(じょしゅう)の黄巾賊を討伐するなど高い軍事能力を持った武闘派の人物で、我(が)が強く頑固な所があり、趙昱(ちょういく)のような名士よりも無頼(ぶらい)の輩(やから)を好んでいたようです。

結果、統治の難しい徐州(じょしゅう)をよく治め、勢力の拡大を図(はか)る一方で、後継者には血縁よりも才能ある者(劉備(りゅうび))を指名し、自身の野望よりも徐州(じょしゅう)の安定を優先させるなど、時代の変化を敏感に感じ取る能力に優れていた人物だったと言えるでしょう。


スポンサーリンク


スポンサーリンク

陶謙データベース

陶謙関連年表

西暦 出来事
132年

■ 陽嘉(ようか)元年

  • 揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))に生まれる。
不明
  • 幼くして父を亡くす。
  • 甘公(かんこう)の娘(甘氏(かんし))を妻とする。
  • 孝廉(こうれん)に選ばれて尚書郎(しょうしょろう)に任命される。
  • (揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・)舒県(じょけん)の県令(けんれい)に任命される。
  • 官職を棄(す)てる。
  • 茂才(もさい)に推挙されて(兗州(えんしゅう)・済北国(せいほくこく)・)盧県(ろけん)の県令(けんれい)に任命される。
  • 幽州刺史(ゆうしゅうしし)に任命される。
  • 議郎(ぎろう)に任命される。
184年

■ 光和(こうわ)7年【53歳】

  • 「黄巾(こうきん)の乱」が起こる。
185年

■ 中平(ちゅうへい)2年【54歳】

 3月

  • 「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」が起こる。
  • 揚武都尉(ようぶとい)に任命され、征西将軍(せいせいしょうぐん)・皇甫嵩(こうほすう)と共に西羌(せいきょう)を撃ち破る。
  • 皇甫嵩(こうほすう)が罷免(ひめん)される。

 8月

  • 司空(しくう)の張温(ちょうおん)が車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任命され、「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」の討伐を命じられる。
  • 張温(ちょうおん)に参軍事(さんぐんじ)に任命される。

 不明

  • 張温(ちょうおん)に反発し、辺境地帯に左遷(させん)される。
  • 張温(ちょうおん)に許されて元の身分に戻される。
  • 張温(ちょうおん)には詫(わ)びなかった。
不明
  • 徐州(じょしゅう)で黄巾賊が蜂起する。
  • 徐州刺史(じょしゅうしし)に任命され、黄巾賊を撃ち破る。
  • 臧覇(ぞうは)を騎都尉(きとい)に任命する。
  • 張昭(ちょうしょう)を茂才(もさい)に推挙する。
  • 推挙に応じなかった張昭(ちょうしょう)を投獄する。
189年

■ 中平(ちゅうへい)6年【58歳】

 4月

  • 霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)する。

 9月

  • 董卓(とうたく)が少帝(しょうてい)を廃して献帝(けんてい)を擁立(ようりつ)する。
190年

■ 初平(しょへい)元年【59歳】

 1月

  • 「反董卓(とうたく)連合」が決起する。

 2月

  • 董卓(とうたく)が長安(ちょうあん)に遷都(せんと)する。
191年

■ 初平(しょへい)2年【60歳】

  • 孫堅(そんけん)配下の朱治(しゅち)が、陶謙(とうけん)の黄巾討伐に加勢する。
192年

■ 初平(しょへい)3年【61歳】

 4月

  • 董卓(とうたく)が王允(おういん)・呂布(りょふ)らに誅殺(ちゅうさつ)される。

 6月

  • 李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが長安(ちょうあん)を陥落(かんらく)させ、朝廷の実権を握る。

 不明

  • 朱儁(しゅしゅん)を太師(たいし)に推戴(すいたい)し「李傕(りかく)討伐(とうばつ)」の檄文を飛ばす。
  • 朱儁(しゅしゅん)が朝廷に帰順する。
  • 袁術(えんじゅつ)に味方して、公孫瓚(こうそんさん)配下の単経(ぜんけい)・劉備(りゅうび)と共に袁紹(えんしょう)を圧迫する。
  • 袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)の軍に撃ち破られる。
  • 袁術(えんじゅつ)が陳瑀ちんうを揚州刺史(ようしゅうしし)に任命する。
193年

■ 初平(しょへい)4年【62歳】

  • 匡亭(きょうてい)で袁術(えんじゅつ)が曹操(そうそう)に敗れる。
  • 陶謙(とうけん)が朝廷に帰順する。
  • 徐州牧(じょしゅうぼく)・安東将軍(あんとうしょうぐん)・溧陽侯(りつようこう)に任命される。
  • 趙昱(ちょういく)が広陵太守(こうりょうたいしゅ)に任命される。
  • 王朗(おうろう)が会稽太守(かいけいたいしゅ)に任命される。
  • 揚州刺史(ようしゅうしし)・陳瑀ちんうが袁術(えんじゅつ)の揚州(ようしゅう)入りを拒(こば)む。
  • 陳瑀ちんうが徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)に逃亡する。

 6月

  • 下邳国(かひこく)の賊・闕宣(けっせん)が天子(てんし)を自称する。
  • 曹操(そうそう)の父・曹嵩(そうすう)が殺害される。
  • 曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)に侵攻する。
  • 青州刺史(せいしゅうしし)・田楷(でんかいと平原相(へいげんしょう)・劉備(りゅうび)が援軍に駆けつける。
  • 陶謙(とうけん)は郯県(たんけん)に立て籠(こ)もり、曹操(そうそう)は落とせず撤退する。
  • 曹操(そうそう)が下邳国(かひこく)の5城で虐殺を行う。
  • 劉備(りゅうび)が徐州(じょしゅう)に留(とど)まる。
  • 陶謙(とうけん)を避け、孫策(そんさく)が丹楊太守(たんようたいしゅ)・呉景(ごけいの元に身を寄せる。
194年

■ 興平(こうへい)元年【63歳】

  • 曹操(そうそう)が再び徐州(じょしゅう)に侵攻し、民衆を虐殺する。
  • 陶謙(とうけん)は揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)に逃亡することを考える。
  • 兗州(えんしゅう)で反乱が起こったため、曹操(そうそう)が撤退する。
  • 陶謙(とうけん)が劉備(りゅうび)を豫州刺史(よしゅうしし)に任命する。
  • 陶謙(とうけん)が病(やまい)を患(わずら)い亡くなる。

配下

配下

趙昱(ちょういく)、王朗(おうろう)、糜竺(びじく)、糜芳(びほう)、陳登(ちんとう)、曹宏(そうこう)、呂由(りょゆう)、

張闓(ちょうがい)、曹豹(そうほう)、笮融(さくゆう)

従属

臧覇(ぞうは)、闕宣(けっせん)、昌豨(しょうき)(別名:昌狶(しょうき)・昌務(しょうぶ)・昌覇(しょうは))、

劉備(りゅうび)

関連記事

三国志人物伝【一覧】