残虐で無節操な面と、仏教寺院を建立したという二面性を持つ笮融さくゆうとは、どんな人物だったのでしょうか。

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出自

笮融

出身地

あざな

不明。

出身地

揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)。


揚州・丹楊郡(丹陽郡)

揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん

生没年

  • 不明 〜 興平こうへい2年(195年)。
  • 後漢書ごかんじょ陶謙伝とうけんでん呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでんにまとまった記述があります。

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陶謙配下時代

陶謙の下に身を寄せる

笮融さくゆうは、数百人を集めて徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんの元に行き身を寄せました。

すると陶謙とうけん笮融さくゆうに、

  • 広陵郡こうりょうぐん
  • 下邳国かひこく
  • 彭城国ほうじょうこく

の食糧運搬を監督させますが、そこで笮融さくゆうは勝手な振る舞いをして欲しいままに人を殺し、3郡の貢納物を徐州じょしゅうに送らずに横領してしまいます。


徐州(じょしゅう)の領郡

徐州じょしゅうの領郡

仏教を布教する

仏教寺院を建立する

笮融さくゆうは、横領によってたくわえた資金を使って大々的に浮屠寺ふとじ(仏教寺院)を造営し、にしきいろどあざやかなきれで作った着物を着せた、黄金のめっきほどこされた銅製の仏像を安置します。

その寺院は、九重銅槃どうばん相輪そうりん(仏塔の最上部に取付けられる金具)をいただいた楼閣ろうかく建築と閣道かくどう廻廊かいろう)からなり、3千人以上の人を収容することができました。


また笮融さくゆうは、人々に仏経ぶっきょうを読むことを義務づけ、その郡内や近隣の郡に「仏道に心を向ける者には出家を許す」との命令を出し、一般の賦役ふえきなどを免除して人を集めたので、遠近からやって来た者は合わせて5千余戸にものぼりました。

盛大な浴仏会よくぶつえを開く

笮融さくゆうは、毎年4月8日が来るたびにおびただしい量の酒や食事を準備し、道路にかれたむしろは何十里にもつらなるような盛大な浴仏会よくぶつえ*1を開きました。

様々な人々が見物や食事におとずれて、その数は1万人近くにも及び、その費用は巨億にのぼりました。

脚注

*1釈迦しゃかの誕生日(陰暦の4月8日)に、誕生仏(誕生時の釈迦しゃかかたどった彫像)に甘茶をそそぎかけて供養する法会。灌仏会かんぶつえ浴仏節よくぶつせちとも。


中華地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定されています。

これより以前にも、楚王英そおうえい劉英りゅうえい)や桓帝かんていが「浮屠祠ふとし釈迦しゃかほこら)を建てた」という記録はありますが、実際、それがどのようなものかは分かりませんでした。

この後漢書ごかんじょ陶謙伝とうけんでん呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでんにある笮融さくゆうの記述は、伝来初期の仏教寺院の様子を伝える貴重な史料となっています。

広陵太守・趙昱を殺害する

初平しょへい4年(193年)秋、曹操そうそう徐州じょしゅうに攻め込むと、下邳相かひしょう徐州じょしゅう下邳国かひこく太守たいしゅ)であった笮融さくゆうは男女1万人と馬3千頭を引き連れて広陵郡こうりょうぐんに逃げ込みました。すると、広陵太守こうりょうたいしゅ趙昱ちょういくは彼を賓客ひんかくとして礼遇します。


ですが、広陵郡こうりょうぐんがいつも人が多く出てにぎわっていることに目をつけた笮融さくゆうは、酒宴がたけなわとなったのに乗じて趙昱ちょういくを殺害すると、兵を放って徹底的に略奪を行い、奪ったものを車に積んでそのまま広陵郡こうりょうぐんを去りました。


ちなみに笮融さくゆう王国相おうこくしょうをつとめた徐州じょしゅう下邳国かひこくは、曹操そうそうが大量虐殺を行った地域です。

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豆知識

趙昱の死についての異説

魏書ぎしょ陶謙伝とうけんでんが注に引く謝承しゃしょう後漢書ごかんじょには、


「(趙昱ちょういくは)茂才もさいに推挙され、広陵太守こうりょうたいしゅに昇進した。

賊徒ぞくと笮融さくゆう臨淮りんわいに身を寄せていたが、征討されて郡(広陵郡こうりょうぐん)の境に逃げ込んだ。

趙昱ちょういくは軍勢をひきいて防戦し、敗北をきっして殺害された」


とあります。

趙昱と張紘

徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん出身の張紘ちょうこうは、広陵太守こうりょうたいしゅ趙昱ちょういくによって孝廉こうれんに推挙されました。

趙昱ちょういく笮融さくゆうに殺害されると、張紘ちょうこうは深く悲嘆ひたんいきどおりましたが、この時の張紘ちょうこう笮融さくゆうを討伐するだけの力はありませんでした。

張紘ちょうこう会稽東部都尉かいけいとうぶといに着任すると、主簿しゅぼの役人を徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく趙昱ちょういくの本籍)に派遣して趙昱ちょういくのために祭を行わせると共に、その一族の者をさがしてあとを継がせるように取り計らわせ、張紘ちょうこう自身も琅邪相ろうやしょう琅邪国ろうやこく太守たいしゅ)の臧宣ぞうせんに手紙を送ってその事を頼みました。

臧宣ぞうせん趙昱ちょういくの一族の5歳の男の子に、趙昱ちょういくの祭を継がせることにしました。

趙昱殺害後の行動について

劉繇りゅうように仕えない説

趙昱ちょういく殺害後の笮融さくゆうの行動について、

  • 後漢書ごかんじょ陶謙伝とうけんでん
  • 呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでん

では、次のようにしるされています。

『後漢書』陶謙伝・笮融の項

笮融さくゆう広陵郡こうりょうぐんの豊かさに目がくらみ、かくて酒席のたけなわに乗じて趙昱ちょういくを殺し、兵を放って大いに掠奪りゃくだつを行った。

そして長江ちょうこうを渡り、南に向かって豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に走り、郡守ぐんしゅ太守たいしゅ)の朱皓しゅこうを殺害し、入城して立てもった。

のち揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうように破られ、山中にのがれたが人に殺された。

『呉書』劉繇伝・笮融の項

これより先、彭城相ほうじょうしょう徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく太守たいしゅ)の薛礼せつれいは、陶謙とうけんの圧迫を受けて揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・秣陵県ばつりょうけんに軍を置いていた。

笮融さくゆうは、広陵郡こうりょうぐんが繁華であることに目をつけ、酒席がたけなわとなったのに乗じて趙昱ちょういくを殺害すると、兵を放って大略奪を行い、そのまま奪ったものを車に積んで広陵郡こうりょうぐんを去った。

途中で薛礼せつれいを殺し、その後さらに朱皓しゅこうを殺した。

劉繇りゅうように仕える説

一方、

  • 呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでんの本文
  • 呉書ごしょ孫策伝そんさくでんが注に引く江表伝こうひょうでん
  • 呉書ごしょ孫堅呉夫人伝そんけんごふじんでん
  • 呉書ごしょ孫権徐夫人伝そんけんじょふじんでん
  • 呉書ごしょ周瑜伝しゅうゆでん
  • 呉書ごしょ呂範伝りょはんでん

には、その後笮融さくゆうが「劉繇りゅうようもと孫策そんさくと戦った」記述がありますので、以下はこれらに従ってまとめています。

また、笮融さくゆう薛礼せつれいを殺害したことは「呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでん笮融さくゆうの項」にしか見られず、いつどこで、どのような経緯で殺害したのかは分かりません。


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劉繇配下時代

劉繇の下に身を寄せる

趙昱ちょういくを殺害して広陵郡こうりょうぐんを去った笮融さくゆうは、長江ちょうこうを南に渡ると、揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようを頼ります。


この時、彭城相ほうじょうしょう徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく太守たいしゅ)の薛礼せつれいも、劉繇りゅうようを頼って揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・秣陵県ばつりょうけんを本拠としていました。

徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこくは、曹操そうそう陶謙とうけんが激戦を繰り広げた郡であり、陶謙とうけんが撤退した後、薛礼せつれい陶謙とうけんではなく劉繇りゅうようを頼っていたようです。

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劉繇りゅうよう揚州刺史ようしゅうししとして揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに入ったのは、初平しょへい4年(193年)秋〜興平こうへい元年(194年)と、時期がはっきりしていません。

一方、笮融さくゆう広陵郡こうりょうぐんを去った時期も正確には分かりませんので、先に揚州ようしゅうに入っていた笮融さくゆうが、後に揚州刺史ようしゅうししに着任した劉繇りゅうように従った可能性もあります。

孫策軍を迎え撃つ

劉繇りゅうよう袁術えんじゅつの対立

揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんを本拠地とする袁術えんじゅつが、勝手に周辺の郡県を攻撃するようになると、劉繇りゅうようはこれをかん王朝に対する反逆とみなし、揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん歴陽県れきようけんの東方の横江津おうこうしん樊能はんのう于麋うびを、当利口とうりこう張英ちょうえいを駐屯させて、袁術えんじゅつの勢力拡大を阻止しようとします。


横江津と当利口

横江津おうこうしん当利口とうりこう


これに袁術えんじゅつは、故吏こり 恵衢けいくを勝手に揚州刺史ようしゅうししに、呉景ごけい督軍中郎将とくぐんちゅうろうしょうに任命して、孫賁そんふんと共に兵をひきいて張英ちょうえいらを攻撃させますが、これを撃ち破ることができず、両軍は長江ちょうこうはさんで対峙したまま膠着こうちゃく状態となり、1年以上が経過しました。

孫策そんさくとの戦い

軍営を守りきる

興平こうへい2年(195年)、袁術えんじゅつもとにいた孫策そんさくは、「親族の呉景ごけい孫賁そんふんを助ける」という名目で出陣の許可を得ると、樊能はんのう于麋うび張英ちょうえいらを敗走させ、そのまま丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に兵を進めます。

長江ちょうこうを渡った孫策そんさくは、劉繇りゅうよう軍の牛渚ぎゅうしょの軍営を攻め、邸閣ていかく(食糧貯蔵庫)にあった食料と武器をすべて奪い取りました。


この時笮融さくゆうは、薛礼せつれいが本拠を置く秣陵城ばつりょうじょうの南に軍営を置いて孫策そんさくに備えます。


孫策そんさくがまず笮融さくゆうを攻めると、笮融さくゆうは兵を出して戦いをまじえますが、孫策そんさく軍に5百余の首級をげられるとすぐさま軍営の門を閉じ、その後はまったく動きを見せませんでした。

そこで孫策そんさくは、笮融さくゆうはそのままに秣陵城ばつりょうじょう薛礼せつれいを攻めると、薛礼せつれいは包囲を破って逃走してしまいます。


孫策の侵攻経路1

孫策そんさくの侵攻経路

一方、樊能はんのう于糜うびたちは、軍勢を集め直して手薄になった牛渚ぎゅうしょとりでを奪い返しますが、兵をかえしてやって来た孫策そんさくに撃ち破られ、男女1万余人を生け捕りにされてしまいました。

孫策の計略

その後孫策そんさくは、残った笮融さくゆうの攻撃に取りかかります。

ですがこの戦いの最中、孫策そんさくは流れ矢に当たってももに傷を負ったため、輿こしでかつがれて牛渚ぎゅうしょの軍営に戻っていきました。


この時、孫策そんさく軍から逃亡して来た者が、笮融さくゆうに言いました。


孫郎そんろう孫家そんけの若君)は矢に当たって死んでしまいました」


これを聞いた笮融さくゆうは大いに喜んで、すぐさま部将の于茲うじって孫策そんさくの軍に打ち入らせます。

すると孫策そんさく軍は、歩兵・騎兵数百を出して戦いをいどんで来ましたが、ろくに刃も合わせぬうちに敗走し、勢いに乗った于茲うじはこれを追って行きます。

ですが、于茲うじが気づいた時には敵の伏兵に囲まれ、徹底的に撃ち破られて、1千余人が討ち取られてしまいました。


その後孫策そんさくは、笮融さくゆうの軍営のすぐ側まで行き、左右の者に、


孫郎そんろう孫家そんけの若君)のお手並みはどうだ」


と叫ばせます。

これを見た笮融さくゆうの兵は恐れおののき、夜中に逃走する者が出る有り様で、孫策そんさくが生きていると知った笮融さくゆうは、さらにほりを深くしとりでを高くして防御を固めました。

豫章郡(予章郡)に逃亡する

孫策そんさくは、笮融さくゆうが軍営を置いている場所の地勢が険固であることから、これをそのままにして呉郡ごぐん劉繇りゅうようの討伐に向かいました。


そして、孫策そんさく軍が城を落としつつせまって来ると、劉繇りゅうよう許子将きょししょう許劭きょしょう)の勧めに従い、長江ちょうこうさかのぼって豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に拠点を移すことにします。

この時笮融さくゆうは、劉繇りゅうようと合流して共に豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に向かいました。

豆知識

この時、劉繇りゅうように従っていた太史慈たいしじは、劉繇りゅうようと共に豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に逃亡しようとしていましたが、その途中、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・蕪湖県ぶこけんで姿をくらませて山中に入ると、勝手に丹陽太守たんようたいしゅを名乗りました。

劉繇に叛旗を翻す

当時豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)は、豫章太守よしょうたいしゅ周術しゅうじゅつが病死したため、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょう*2が任命した諸葛玄しょかつげん諸葛亮しょかつりょう従父おじ)と、朝廷が任命した朱皓しゅこう朱儁しゅしゅんの子)が争っていました。


そこで劉繇りゅうようは、豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に入って彭澤県ほうたくけんに駐屯すると、笮融さくゆうを派遣して朱皓しゅこうに加勢するように命じます。

するとこの時、許子将きょししょう許劭きょしょう)が劉繇りゅうように言いました。


笮融さくゆうが軍をひきいて行きましたが、彼は大義名分などに目もくれぬ男です。

朱文明しゅぶんめい朱皓しゅこう)どのは、誠実で人を疑ったりせぬお方ですので、ひそかに笮融さくゆうには気をつけるように知らせたほうがよろしゅうございます」


結果、諸葛玄しょかつげんは撤退して西城せいじょうに駐屯し、笮融さくゆうの加勢を受けた朱皓しゅこうが郡治所である南昌県なんしょうけんに入りましたが、その後、許子将きょししょう許劭きょしょう)の言った通り、笮融さくゆう朱皓しゅこうを謀殺して自分が豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)の支配権を握りました。


劉繇の逃亡経路

劉繇りゅうようの逃亡経路

諸葛玄しょかつげんが駐屯した西城せいじょうの位置は不明です。

脚注

*2諸葛玄しょかつげん豫章太守よしょうたいしゅに任命した人物について、蜀書しょくしょ諸葛亮伝しょかつりょうでん呉書ごしょ劉繇伝りゅうようでんの注に引かれている献帝春秋けんていしゅんじゅうでは劉表りゅうひょう蜀書しょくしょ諸葛亮伝しょかつりょうでんの本文では袁術えんじゅつとされています。

笮融の死

笮融さくゆう謀叛むほんを起こして南昌県なんしょうけんで独立したことを知った劉繇りゅうようは、笮融さくゆうを討つために軍を進めてきました。

1度はこれを撃退した笮融さくゆうですが、劉繇りゅうようが支配下の県から兵を集めて再度攻撃を仕掛けてくると、笮融さくゆうは撃ち破られてしまいます。

そして、敗れた笮融さくゆうは山中に逃げ込みますが、付近の住民に殺害されてしまいました。

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笮融さくゆうは大々的に浮屠寺ふとじ(仏教寺院)を造営したことで知られていますが、その極悪非道な行いは、仏教の教義からかけ離れています。

笮融さくゆうが食糧運搬を監督していた徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこくは、これより以前、仏教をたっと浮屠祠ふとしを建てた楚王英そおうえい劉英りゅうえい)の封地であり、元々仏教徒が多い土地だったのでしょう。

おそらく笮融さくゆうは、純粋な信仰心からではなく、仏教を布教をすることで、自分の野心のために民衆を心服させることを狙っていたものと思われます。

また、討伐されてもおかしくない前科を持つ笮融さくゆう劉繇りゅうように受け入れられ、重用された理由には、彼が多数の民衆を引き連れてきたことにあるのではないでしょうか。



笮融データベース

笮融関連年表

西暦 出来事
不明
  • 揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に生まれる。
  • 徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんもとに身を寄せる。
  • 広陵郡こうりょうぐん下邳国かひこく彭城国ほうじょうこくの食糧運搬を任される。
  • 仏教寺院を建立する。
  • 下邳相かひしょうに任命される。
193年

初平しょへい4年

  • 曹操そうそう徐州じょしゅうに侵攻する。
  • 広陵太守こうりょうたいしゅ趙昱ちょういくを頼る。
不明
  • 趙昱ちょういくを殺害して広陵郡こうりょうぐんを去る。
  • 長江ちょうこうを南に渡る。
  • 劉繇りゅうよう呉景ごけい孫賁そんふんの手引きを受けて揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに入る。
  • 劉繇りゅうようを頼る。
194年

興平こうへい元年

  • 袁術えんじゅつが周辺の郡県を攻撃する。
  • 劉繇りゅうよう揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)から呉景ごけい孫賁そんふんを追い出す。
  • 劉繇りゅうよう長江ちょうこうの岸辺に樊能はんのう張英ちょうえいを派遣して袁術えんじゅつの侵攻をはばむ。
195年

興平こうへい2年

  • 孫策そんさく丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に侵攻する。
  • 丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・秣陵城ばつりょうじょうの南に軍営を置く。
  • 孫策そんさくの攻撃に耐える。
  • 孫策そんさく秣陵城ばつりょうじょう薛礼せつれいを逃走させる。
  • 孫策そんさくの攻撃を受け、孫策そんさくに矢傷を負わせる。
  • 部将の于茲うじ牛渚ぎゅうしょとりでを攻めさせるが、伏兵にい大敗する。
  • 軍営の守りを固める。
  • 孫策そんさく笮融さくゆうを無視して劉繇りゅうようを攻める。
  • 孫策そんさくに敗れた劉繇りゅうよう揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)に向かう。
  • 劉繇りゅうようと合流する。
  • 太史慈たいしじ丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)で独立する。
  • 劉繇りゅうようの命令により朱皓しゅこうに加勢して諸葛玄しょかつげんを敗走させる。
  • 朱皓しゅこうを謀殺する。
  • 劉繇りゅうよう謀叛むほんして豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)の支配権を握る。
  • 劉繇りゅうようの2度の攻撃により山中に敗走する。
  • 付近の住民に殺害される。

配下

于茲うじ

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