桓帝(かんてい)と共に後漢王朝滅亡の原因を作ったと言われている霊帝(れいてい)ですが、霊帝(れいてい)は本当に暗愚だったのでしょうか?霊帝(れいてい)の功績を再評価してみましょう。

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『三国志演義』での霊帝

霊帝

『三国志演義』での霊帝(れいてい)は、汚職を蔓延させる宦官を重用して民衆を苦しめ、黄巾の乱を引き起こして後漢王朝滅亡のきっかけをつくった暗愚な天子として描かれています。

また、何皇后(かこうごう)の子・劉辯(りゅうべん)よりも王美人(おうびじん)の子・劉協(りゅうきょう)を寵愛したために外戚と宦官の対立を煽(あお)ることになり、このことが董卓(とうたく)を朝廷に呼び込む原因となってしまいました。

この董卓(とうたく)による朝廷の支配は地方豪族の反感を買うこととなり、いよいよ群雄割拠の時代に突入していきます。

そして、霊帝(れいてい)の跡を継いだ献帝(けんてい)(劉協(りゅうきょう))は、曹操(そうそう)の傀儡(かいらい)となって後漢王朝滅亡へと向かっていきました。


『三国志演義』では「酒色に溺れて政治に興味を持たなかった」とされているため、霊帝(れいてい)が行った政策については描かれていません。

ですが、歴史史料に残された霊帝(れいてい)の記録を見てみると、一概に「政治に興味をもたなかった無能な皇帝」とも言い切れないのです。


『三国志演義』の演出(偏見)を取り除いて、霊帝(れいてい)の事跡を公平にたどってみましょう。



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歴史史料に見る霊帝

霊帝の生い立ち

156年に生まれた霊帝(れいてい)は諱(いみな)を劉宏(りゅうこう)と言い、曽祖父は河間孝王開(かかんこうおうかい)(河間王・劉開(りゅうかい))で、第11代皇帝・桓帝(かんてい)の祖父に当たります。

父・劉萇(りゅうちょう)は早くに亡くなっていたため、劉宏(りゅうこう)は母の董氏(とうし)と2人で貧しい生活を送っていました。


霊帝の系図

霊帝(れいてい)の系図


168年、桓帝(かんてい)に跡を継ぐことができる男子がいなかったために、桓帝(かんてい)と同じ河間王家の劉宏(りゅうこう)が第12代皇帝として選ばれます。

董氏(とうし)の他に後ろ盾となる人物もおらず12歳と幼い劉宏(りゅうこう)は、桓帝(かんてい)の外戚としての地位を維持したい竇皇后(とうたいごう)や大将軍・竇武(とうぶ)にとって都合が良かったのです。

桓帝(かんてい)の死によって、貧しい皇族の1人として一生を終えるはずであった劉宏(りゅうこう)の周囲を取り巻く環境は、一夜にして政争渦巻く世界へと変わってしまいました。

第二次党錮の禁

12歳で天子に即位した霊帝(れいてい)に待っていたのは、宦官と外戚の争いでした。

大将軍・竇武(とうぶ)と陳蕃(ちんはん)の宦官一掃計画を知った宦官たちは、逆賊から守るためとして霊帝(れいてい)を幽閉すると、偽の詔を掲げて敵の兵士を懐柔し、戦いに勝利します。

この争いを発端として行われた、清流派の党人への弾圧を「第二次党錮の禁(とうこのきん)」と言います。


儒学を修めた一部の士大夫(豪族)たちは、自分たちを「清流派」と称し、汚職で私腹を肥やす宦官たちを「濁流派」と呼んで批判していました。

党人とは、本来「志(こころざし)を同じくする仲間」という意味ですが、彼ら「清流派」の人たちのことを指す言葉になっていました。


まだ幼く帝位に就いたばかりの霊帝(れいてい)には、宦官たちは逆賊から自分を守ってくれた恩人であり、唯一の味方に思えたはずです。

また、この時自分に反逆した者たちは、党人と呼ばれる儒学者たちであるという情報がインプットされました。

鴻都門学の設置

178年、学問を好んだ霊帝(れいてい)は、学者の中から文章や詩賦(しふ)に堪能な人物を召し出して洛陽(らくよう)の鴻都門下に滞在させ、文学や書芸の芸術学校である鴻都門学(こうともんがく)を設置しました。

儒学を重んじる蔡邕(さいよう)はこれに反対しましたが、霊帝(れいてい)は聞き入れませんでした。

霊帝(れいてい)は鴻都門学を設置することによって、自分に批判的な儒家官僚に対抗できる皇帝直属の人材を養成しようとしたのです。

ですが、文章がうまいだけの人材があまり役に立たなかったことは、鴻都門学派の人物で『後漢書』に列伝のある人がいないことからも分かります。

霊帝(れいてい)の死によって頓挫したこの鴻都門学は、現在では政治腐敗の典型例とされています。


また、鴻都門学を設置した178年、大きな地震があり『三国志演義』にも描かれている「雄鳥(おんどり)が雌鳥(めんどり)に化ける」事件が起こります。

これに対して、


「婦人が政治に口を出し、儒家以外の者が高い官位にあることが良くないのです。儒学を修めた人材を用いれば、災害はおさまります」


と諫言した蔡邕(さいよう)に、霊帝(れいてい)はため息をつきました。

ここで言う婦人とは、宦官と組んで私腹を肥やす霊帝(れいてい)の乳母・趙(ちょう)夫人を指します。このことは宦官・曹節(そうせつ)の知るところとなり、蔡邕(さいよう)は罪を着せられて官職を解かれてしまいました。


蔡邕(さいよう)をはじめとする儒家官僚は宦官による汚職を批判したのであって、霊帝(れいてい)自身を批判した訳ではありません。

ですが、唯一の味方である宦官たちの排斥を訴える儒家官僚たちの行為は、霊帝(れいてい)にとって自分の権力を削ぐ行為に映ったのかもしれません。

売官を開始

178年、霊帝(れいてい)はこの年、悪名高い売官をはじめて行います。

この霊帝(れいてい)による売官制度は霊帝(れいてい)の母・董太后(とうたいごう)によって発案されたもので、『後漢書』霊帝紀には、新たに倉を建てて売官で得た銭を貯め込んだと記されています。

貧しい暮らしをしてきた霊帝(れいてい)が、贅沢をするために売官を行ったとする根拠になっています。

ですが、逆に『晋書(しんじょ)』には、


「桓霊の売官、銭は官庫に入り、陛下の売官、銭は私門に入る」


という晋(しん)の皇帝を諫(いさ)める言葉が記されています。

各地の反乱は霊帝(れいてい)の時代も依然として続いており、反乱の鎮圧による出費は莫大なものでした。

184年、大規模な農民反乱である黄巾の乱が起こった際に霊帝(れいてい)は、左中郎将・皇甫嵩(こうほすう)の提案を受け入れて私財と良馬を軍に供出しています。

霊帝(れいてい)の売官は私欲だけではなく、桓帝(かんてい)の時代に枯渇した国庫を満たし、大きな出費に備える目的があったのかもしれません。


お金で官職を得ることができるとなると、官職に就く者はより高い官職を求めて民衆に重い税を課し、売官で官職を得た者は、投資に見合った利益を得るためにさらに民衆から銭を搾り取る悪循環に陥ってしまいました。

何氏を皇后に立てる

171年、霊帝(れいてい)は元服して宋氏(そうし)を皇后に立てましたが、178年には宦官の王甫(おうほ)の讒言(ざんげん)に従って廃位してしまいます。宋氏(そうし)は悲しみのうちに亡くなり、宋氏(そうし)の父兄も処刑されました。

これは172年、勃海王(ぼっかいおう)の劉悝(りゅうかい)が、王甫(おうほ)によって謀反の罪を着せられて自害したことに端を発しており、劉悝(りゅうかい)の妃(きさき)は宋氏(そうし)の「おば」であったため、恨まれるのを恐れた王甫(おうほ)が仕組んだものだと言われています。


180年、霊帝(れいてい)は何氏(かし)を皇后に立て、何氏(かし)の異母兄・何進(かしん)を重用します。


勃海王(ぼっかいおう)の劉悝(りゅうかい)は桓帝(かんてい)の弟に当たります。霊帝(れいてい)にとって、後継者選びのライバルであったと言える存在ですので、宋氏(そうし)一族は外戚として強大な影響力を発揮する可能性がありました。

宋氏(そうし)に代わって皇后となった何氏(かし)は、屠殺業とさつぎょうを営んでいた身分の低い出身ですので、何進(かしん)には大きな後ろ盾がありません。


霊帝(れいてい)は宋氏(そうし)を寵愛しなかったと言いますから、宋氏(そうし)を廃して何氏(かし)を皇后に立てることで、外戚の影響力の増大を阻止したと考えることができるかもしれません。

商人のマネをする

181年には宮廷内に模擬店をつくり、采女(さいじょ)*1に売り子の服を着せて販売させ、霊帝(れいてい)自身も商人の真似をして宴会を催しました。

また、犬に文官が用いる冠をかぶせたり、自(みずか)ら庶民が使う4頭立てのロバの車の轡(くつわ)を取って宮廷の園内を駆け回るなど、庶民のマネごとをする行為が散見されます。

また、


「後宮には采女が数千人もいて、その衣食にかかる費用は膨大である。民が災厄を受けているのに救済せず、無用の宮女が後庭に満ちているのは良くない」


と諫言されていることから、宴会や女好きは事実のようです。

脚注

*1 後漢当時の妃嬪(ひひん・天子の側室)には、貴人、美人、宮人、采女の4つの序列があり、采女は妃嬪の中でも最も位が低かった。


「自ら商人の恰好をして庶民の仕事や貨幣経済、流通の仕組みを体験した」と擁護するには苦しいものがあります。

中国の歴代皇帝にとってこの程度の遊びは、他で結果を出していれば問題ないのですが…。

州牧の設置と西園八校尉の創設

州牧の設置

後漢の制度では大規模な常備軍は存在しておらず、必要に応じて地方から農民を徴集して軍を編成していました。そのため官軍は弱く、反乱に際して即座に対応することが難しかったと言えます。

188年、各地に残る黄巾の残党への対応を強化するために、劉焉(りゅうえん)の提案を採用し、軍権も含めた州全般の統治権が与えられた州牧(しゅうぼく)を設置しました。


州牧の設置による地方軍権の強化は、結果として地方豪族の軍事力を増大させ、群雄が割拠する呼び水となってしまいました。

西園八校尉の創設

霊帝(れいてい)は、州牧の設置によって地方の軍権を強化したのに合わせて、中央には皇帝直属の常備軍である西園八校尉(さいえんはつこうい)を創設しました。

この「戦闘を専門とした質の高い近衛軍の創設」は、歴代皇帝の悲願でもありましたが、莫大な維持費を必要とするため実現することができないでいました。

西園八校尉の維持費には霊帝(れいてい)の私費があてられていたことから、売官は西園八校尉の創設を目的としたものであるという説もあります。

西園八校尉の編成

西園八校尉の閲兵式において、霊帝(れいてい)は自(みずか)ら甲冑を身につけて騎乗し「無上将軍」を称しました。

皇帝が将軍を名乗るということは前代未聞なことですが、西園八校尉が黄巾の乱をきっかけに創設された意味もあることから、黄巾の乱の首謀者である張角(ちょうかく)、張宝(ちょうほう)、張梁(ちょうりょう)がそれぞれ「天公将軍」「地公将軍」「人公将軍」を称したことに対する対抗措置であると考えることもできます。

西園八校尉の編成には諸説ありますが、8名の名前が揃っている『山陽公載記』の編成をご紹介します。

  • 無上将軍:霊帝(れいてい)
  • 上軍校尉:蹇碩(けんせき)(小黄門(しょうこうもん))
  • 中軍校尉:袁紹(えんしょう)(虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう))
  • 下軍校尉:鮑鴻(ほうこう)(屯騎都尉(とんきとい))
  • 典軍校尉:曹操(そうそう)(議郎(ぎろう))
  • 助軍左校尉:趙融(ちょうゆう)
  • 助軍右校尉:馮芳(ふうほう)
  • 左校尉:夏牟(かぼう)(諫議大夫(かんぎたいふ))
  • 右校尉:淳于瓊(じゅんうけい)
西園八校尉の人選

西園八校尉は宦官の蹇碩(けんせき)を筆頭とし、蹇碩(けんせき)は大将軍・何進(かしん)よりも位が上位であるとされています。

八校尉の人選は、信頼する宦官の蹇碩(けんせき)は別としても、名門出身の袁紹(えんしょう)から無官の者までバラエティに富んでいます。

おそらくこれは先の黄巾の乱の鎮圧に活躍した面々であり、当時の慣習を破って、家柄や官職ではなく実力重視で選抜されたものであると思われます。

西園八校尉の規模

西園八校尉の具体的な規模は解明されていませんが、おそらく1万人規模相当であったのではないかと考えられています。


創設の翌年に霊帝(れいてい)が亡くなってしまったため西園八校尉は解散されてしまいましたが、後に曹操(そうそう)によって引き継がれ、魏の国軍編成の根幹として完成します。

その後、歴代中国王朝の国軍編成制度として受け継がれていったことを考えると、霊帝(れいてい)の功績は大きかったと言えるでしょう。

見方を変えれば、庶民のマネごとをするのが好きな霊帝(れいてい)が、将軍ごっこをした結果の「怪我の功名」かもしれません。

霊帝の跡目争い

霊帝の死

霊帝(れいてい)には、何皇后(かこうごう)が産んだ劉辯(りゅうべん)と王美人(おうびじん)が産んだ劉協(りゅうきょう)の2人の皇子がいましたが、霊帝(れいてい)は劉協(りゅうきょう)を皇太子に立てたいと考えていました。

西園八校尉を創設した翌年の189年、霊帝(れいてい)は病が重くなり、蹇碩(けんせき)に劉協(りゅうきょう)を託して34歳で亡くなってしまいます。

少帝の即位

霊帝(れいてい)が皇太子を正式に決めなかったことにより、劉辯(りゅうべん)を立てたい何皇后(かこうごう)派と劉協(りゅうきょう)を立てたい董太后(とうたいごう)派の争いとなります。

霊帝(れいてい)の死に際して、まず何皇后(かこうごう)が何太后(かたいごう)となり、劉辯(りゅうべん)が14歳で皇帝に即位(少帝(しょうてい))し、9歳の劉協(りゅうきょう)は勃海王(ぼっかいおう)に封じられました。(後に陳留王(ちんりゅうおう)に転封)

何皇后派と董太后派の争い

董太后(とうたいごう)派の蹇碩(けんせき)は霊帝(れいてい)の遺命に従って、何進(かしん)を殺して劉協(りゅうきょう)を皇帝に立てる計画を立てますが、何太后(かたいごう)派の何進(かしん)に情報が漏れてしまいます。

蹇碩(けんせき)の誤算は、同じ中常侍の郭勝(かくしょう)は何氏(かし)を後宮に入れた張本人であり、何太后(かたいごう)や何進(かしん)のお陰で権力を得ることができていたことです。

蹇碩(けんせき)の計画は郭勝(かくしょう)によって何進(かしん)の知るところとなり、蹇碩(けんせき)は殺されてしまいます。


さらに何進(かしん)は、霊帝(れいてい)の母方の従兄弟にあたる驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の董重(とうちょう)を攻め、董重(とうちょう)を自害に追い込みます。董重(とうちょう)の敗北を知った董太后(とうたいごう)も自害し、霊帝(れいてい)の後継者争いは決着がついたかに思われました。

宦官粛清作戦

外戚は宦官によって度々滅ぼされていることから、宦官をそのままにしておけばいずれ災いが起こると、袁紹(えんしょう)が何進(かしん)に宦官の粛清を提案します。

ですがこの計画に何太后(かたいごう)は、


「漢室には昔から宦官がいるものです。宦官たちを粛清する必要はありません」


と反対します。

この経緯は外戚の竇武(とうぶ)が宦官に敗れた時と同じですが、何太后(かたいごう)には宦官によって皇后に推薦された恩がありますので、さらに説得は難しくなります。

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【003】霊帝の即位と第二次党錮の禁


これに対して袁紹は「地方から軍勢を招いて何太后(かたいごう)に圧力をかける」作戦を提案し、何進(かしん)もこれを承諾。これによって董卓(とうたく)を洛陽(らくよう)に招くことになり、後漢王朝の命運は決定的になってしまいました。


朝廷に後ろ盾のない平民上がりの無能な何進(かしん)を外戚にすることで、霊帝(れいてい)は外戚勢力の拡大を阻止することに成功しました。

ですが、その何進(かしん)の誤った判断によって、董卓(とうたく)という最悪の人物を朝廷に招いてしまうことになったのは、霊帝(れいてい)が行った政策の中で一番の失敗であったと言えるでしょう。



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霊帝の評価

『三国志演義』では、政治に関心を見せずに酒色にふける影の薄い霊帝(れいてい)ですが、歴史史料を見てみると、意外にも色々な政策を打ち出していることが分かります。

第二次党錮の禁のトラウマ

霊帝(れいてい)が行った政策の根底には、


  • 外戚の弱体化
  • 儒家の冷遇
  • 自己の保身

の3つがあります。これには即位後すぐに起こった第二次党錮の禁が与えた影響が大きいと考えられます。

即位後すぐに起こった第二次党錮の禁は、単なる宦官と外戚(清流派・党人)の政争にすぎません。

ですが、宦官の手中にあった霊帝(れいてい)は、外戚の竇武と陳蕃(ちんはん)が自分を廃位しようとしていると聞かされたのです。

幼い霊帝(れいてい)の心には、


  • 外戚と清流派・党人(儒家)は謀反を起こす危険な存在だ
  • 皇帝といえども常に廃位される危険がある
  • 宦官だけが唯一の自分の味方である

という思いが強烈に刻み込まれたはずです。

霊帝が行った政策の評価

皇帝権力の回復

霊帝(れいてい)は、儒家官僚の発言力を弱めるために行った鴻都門学の設置や、外戚の勢力を弱めるために平民出身の何氏(かし)を皇后にすることで、皇帝権力の回復を狙ったのではないでしょうか。

結果として、鴻都門学出身の人材に政治的に優秀な人物は排出されず、軍事的に素人の何進(かしん)に大きな権限を与えたことで、洛陽(らくよう)に董卓(とうたく)を招き入れ、逆に皇帝権力を失墜させてしまいました。

軍事力の強化

桓帝の時代に消耗した国庫を回復するために行った売官は、黄巾の乱の軍費や西園八校尉の創設・維持に使われました。

また、州牧の設置による地方の軍権強化や、皇帝直属の常備軍である西園八校尉の創設は、後に続く王朝の手本となりました。

ですがその結果は、売官は民衆の不満を増大させ、州牧の設置は地方豪族の独立を招くことになってしまいます。

民衆を顧みない政策

一番の問題は、霊帝(れいてい)が行った政策に「民衆を救済する、民衆を豊かにする」政策がなかったことです。

12歳になって天子の座がいきなり転がり込んできた訳ですから、将来天子として万民の上に立つための教育を受けていないのは分かります。

ですが、霊帝(れいてい)の民衆を顧みない政治は「黄巾の乱」という大規模な農民反乱を招き、後漢王朝滅亡のきっかけをつくったことに間違いはありません。

霊帝は無能なのか?有能だったのか?

歴史史料を見てみると、霊帝(れいてい)は政治をすべて宦官に任せて酒色にふけっていた訳ではないことが分かりました。

霊帝(れいてい)が行った政策の中で、皇帝直属の常備軍である西園八校尉の創設は一定の評価をすることができるかもしれません。

ですが、その他の政策についてはすべて裏目に出てしまいました。皇帝を評価する際には、やはり結果を重視しなければなりません。


そうなるとやはり、諡(おくりな)の「霊」の字が示す通り、「天下は乱れるものの、王朝を滅ぼすにいは至らない」という評価が妥当なのかもしれません。


『三国志演義』に登場する霊帝(れいてい)のダメ皇帝振りは、後に登場する英雄たちを輝かせるための演出ではないか?という疑問のもと、霊帝(れいてい)の政策を歴史史料で再確認してみました。

その結果、まったく政治に関心を示さなかった訳ではないものの、その政策は的外れで混乱を招き、傾きかけた後漢王朝の存続をさらに危うくしてしまったダメ皇帝であることは間違いありませんでした。

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