呉の孫策、孫権の父親として知られる孫堅。『三国志演義』では敗戦続きであっけなく戦死してしまう孫堅ですが、実は反董卓連合の中で一番活躍していました。
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目次
出自
出身地
孫堅は字を文台と言い、揚州・呉郡・富春県の人で、『呉書』孫堅伝では、おそらく(『孫子』の著者とされている)孫武の子孫であろうとされています。
廟号は始祖。後に孫権によって武烈皇帝の諡を追尊されました。
生没年は、155年〜191年(または156年〜192年)。
『呉書』(正史『三国志』)に列伝があります。
揚州・呉郡・富春県
孫堅の生没年について
孫堅の没年には諸説有り、生年も享年から逆算しているためブレがあります。
『呉書』孫策伝の中で裴松之は、
「『三国志』の本伝には、孫堅は初平3年(192年)に死去し、孫策は建安5年(200年)に死去したとあり、また孫策は年26で死んだと言っているから、計算してみるに、孫堅は18であったはずである。しかるにこの上奏文に年17であったと言っているのはそれと矛盾する。
張璠の『漢紀』と『呉歴』とが共に、孫堅は初平2年(191年)に死んだとしている。こちらの方が正しく、本伝は間違っているのである」
と言っており、当サイト「もっと知りたい!三国志」では、155年〜191年を採用しています。
家族
父
孫堅の父は明らかになっていませんが、孫鍾という人物であるとする説があります。孫家は代々呉郡に仕官していた家柄でした。
兄弟
孫堅には、兄の孫羌と弟の孫静、妹の孫氏(徐琨の母)がいます。
子
孫堅には正室・呉夫人との間に生まれた孫策、孫権、孫翊、孫匡と、側室との間に生まれた孫朗の5人の男子がいました。
また孫堅には3人の娘がおり、孫権の妹にあたる孫夫人は後に劉備に嫁ぐことになります。
また、3人の娘のうち、1人は呉夫人が生んだ娘であることが分かっていますが、それが誰なのかは分かりません。
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青年期
海賊退治で名をあげる
孫堅が17歳の時、父と一緒に揚州・呉郡・銭唐県に行った時のこと。2人が乗る船は、海賊たちが略奪品を分け与えているところに出くわしました。
揚州・呉郡・銭唐県
孫堅は父が止めるのも聞かずに岸に上がると、遠くに合図するかのように大きく腕を振って見せます。すると、それを近くにいる官兵への合図だと勘違いした海賊たちは、略奪品もそのままに逃げ出しました。
このことが噂になって広まると、孫堅は召し出されて県尉の代理に任命されました。
呉氏(呉夫人)を嫁に迎える
孫堅は銭唐県の呉景の姉(呉氏)が才色兼備だというのを聞きつけると、妻に娶りたいと申し出ます。
この時、呉景姉弟の両親はすでに亡くなっていましたが、呉氏の親戚たちは孫堅の「軽薄で抜け目のない人となり」を嫌って、この申し出を断ろうとしました。
当然、婚姻の申し出を断れば、孫堅の恨みを買うことになります。
呉氏は、
「1人の女を惜しんで禍をまねく必要はありません。私が嫁入り先で不幸になったとしても、運命として受け入れます」
と言って、孫堅に輿入れしました。
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武功を重ねて昇進する
許昌の乱
172年11月、揚州・会稽郡・句章県で妖賊・許昌が陽明皇帝を自称し、子の許韶とともに反乱を起こします。許昌は周辺諸県の民を扇動し、賊軍は数万にのぼりました。
揚州・会稽郡・句章県
これに揚州刺史・臧旻と丹陽太守の陳夤が鎮圧に当たりますが、会稽太守が賊軍に敗北してしまいます。
174年11月、郡司馬に任命された孫堅は臧旻・陳夤と共に賊軍を打ち破り、徐州・広陵郡・塩瀆県の丞に任命されました。
孫堅はその後、徐州・下邳国・盱眙県の丞と徐州・下邳国・下邳県の丞を歴任しますが、屋敷に集まってくる若者と子弟のように接したため、役人・民衆を問わず慕われました。
黄巾の乱
184年3月、太平道の教祖・張角が、信者を扇動して大規模な反乱を起こしました。「黄巾の乱」です。これに霊帝は、盧植、皇甫嵩、朱儁の3名を中郎将に任命して討伐に向かわせます。
この時孫堅は朱儁の推薦によって左軍司馬に任命され、朱儁の麾下で討伐軍に参加しました。
孫堅はこの「黄巾の乱」の討伐戦で活躍し、別部司馬に任命されます。
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辺章・韓遂の乱
185年3月、涼州の辺章と韓遂が、「宦官誅殺」を大義に掲げて三輔地方(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)に侵攻を開始。朝廷は左車騎将軍・皇甫嵩と董卓を討伐に向かわせますが、戦果をあげることができませんでした。
そして、新たに辺章・韓遂の討伐を命じられた車騎将軍・張温は、孫堅、陶謙らを召集します。
董卓との対立
長安に駐屯した張温は、戦況を確認するために董卓を呼び寄せますが、董卓は遅れて来たばかりか一向に悪びれず、不遜な態度を取っていました。
これを見た孫堅は董卓の罪を挙げ、張温に董卓を斬るように進言します。
ですが張温は、涼州での董卓の影響力を考慮して董卓を責めることはしませんでした。
その後辺章と韓遂は涼州・金城郡・楡中県に撤退し、孫堅はこの戦いの後、議郎に任命されました。
「辺章・韓遂の乱」関連地図
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区星の乱
187年、荊州・長沙郡の賊・区星が1万余りの兵を集め、将軍を名乗って反乱を起こします。そこで朝廷は、孫堅を長沙太守に任命して区星の討伐を命じました。
孫堅は自ら兵を率いて区星を打ち破ると、区星に呼応して零陵郡・桂陽郡で蜂起していた周朝・郭石らも討伐し、わずか1ヶ月で長沙郡・零陵郡・桂陽郡の反乱を鎮圧します。
この功によって、孫堅は烏程侯に封じられました。
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孫堅が長沙太守に任命されるまでは、こちらに詳しくまとめています。
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反董卓連合に加わる
反董卓連合の結成
189年4月、霊帝崩御の混乱に乗じて洛陽に入った董卓が朝廷の実権を握ると、袁紹を盟主として山東の諸将が兵を挙げました。190年1月のことです。
孫堅はこれに合流するため、任地の長沙郡から洛陽に向けて北上を開始します。また、荊州からは荊州刺史・王叡も董卓討伐を表明していました。
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袁術と合流する
董卓討伐を表明していたはずの荊州刺史・王叡ですが、なぜかその矛先を仲が悪かった武陵太守・曹寅に向けます。これに曹寅は、檄文を偽造して孫堅に王叡の討伐を命じました。
王叡は以前から孫堅に対して侮辱的な態度を取っていたことから、檄文を受け取った孫堅は、董卓討伐と言う同じ目的を持つ王叡を攻め、自害に追い込みました。
そして南陽郡にたどり着いた孫堅は、兵糧の供出を拒んだ南陽太守・張咨も殺害し、魯陽県に駐屯している袁術と合流します。
袁術に南陽郡の支配権を譲った孫堅は、袁術によってに破虜将軍と豫州刺史に任命されました。
孫堅の進軍経路
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陽人の戦い
董卓軍を撃退する
190年冬、董卓は洛陽と目と鼻の先にまで迫った孫堅を迎え撃つため、歩兵・騎兵合わせて数万の兵を派遣します。
荊州・南陽郡・魯陽県
董卓軍の偵察隊が魯陽県に現れた時、孫堅は出陣のための兵糧を督促する使者を送り出すために、城の外で宴会を開いていました。
この時、偵察隊に気づいた孫堅は少しも慌てることなく宴会を続けると、しばらくして整然と魯陽県の城内に引き揚げました。
孫堅の軍勢に少しの乱れもないのを見た董卓軍は、「魯陽県を攻め落とすのは簡単ではない」と判断して兵を引きました。
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徐栄に敗れる
191年2月、ついに孫堅は司隷・河南尹に進軍して梁県の東部に軍営を築いたところ、迎撃に出た董卓配下の徐栄の大軍に包囲されてしまいます。
包囲を突破した孫堅は、自分のトレードマークである赤い幘(頭巾)を配下の祖茂に被らせ、敵兵の目を欺いて追っ手を逃れました。
陽人の戦い
徐栄軍の追撃を逃れた孫堅は本拠地にしていた魯陽県には戻らず、梁県の陽人聚に移って再び兵を集め、迎撃に来た董卓配下の胡軫を破って都尉の華雄を討ち取りました。
陽人の戦い
劉備の義弟・関羽が董卓配下の豪傑・華雄を斬る「温酒斬華雄」の件は、『三国志演義』の名場面の1つとなっています。
ですが、正史『三国志』では華雄を討ったのは孫堅であり、華雄が豪傑であったという記録もありません。孫堅に討たれた華雄は、ただ関羽の勇猛さを引き立てるためだけに豪傑に仕立て上げられたのです。
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袁術が兵糧の供給を止める
陽人聚での勝利を知った袁術は、このまま孫堅の勢いが増大し、自分の命令を聞かなくなることを警戒して孫堅への兵糧の供給を中止します。
孫堅が自ら魯陽県に馬を飛ばして袁術を叱責すると、孫堅の剣幕に驚いた袁術は返す言葉もなく、すぐに兵糧を手配させました。
董卓が孫堅に使者を送る
董卓は「辺章・韓遂の乱」での孫堅の戦い振りを見た時から、その武勇を認めていました。
そこで董卓は、将軍の李傕を派遣して孫堅に和睦を申し入れます。
ですが、孫堅は李傕を一喝して追い返してしまいました。
洛陽への侵攻
董卓の誘いを断った孫堅が洛陽の南の玄関口である大谷関に軍を進めると、ついに董卓は自ら軍を率いて迎え撃ちます。
ですが、この戦いに敗北した董卓は、献帝がいる長安に撤退しました。
そして、さらに軍を進めた孫堅は洛陽を守る呂布を敗走させ、ついに洛陽に入城を果たします。
ですが、洛陽は董卓によって破壊し尽くされ、廃墟と化していました。そのため孫堅は、破壊された皇室の宗廟を掃除し、太牢(生贄)を捧げて祭祀を行うと、魯陽県に戻りました。
またこの時、孫堅は洛陽城の南の井戸から伝国璽を手に入れたと言われています。
董卓と孫堅の行軍経路
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豫州をめぐる争い
191年冬、袁紹は周昂を豫州刺史に任命し、孫堅の留守中を狙って豫州・潁川郡・陽城県を占領させました。
孫堅はすぐさま軍勢を率いて陽城県に向かうと、袁術と共に周昂を撃ち破り陽城県を奪還しました。
これ以降反董卓連合は崩壊し、公孫瓚と結んだ袁術と、劉表と結んだ袁紹による汝南袁氏同士の争いが始まります。
袁紹陣営と袁術陣営
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襄陽の戦い
劉表が袁紹と手を結んだことによって、袁術は孫堅に背後を脅かす劉表が治める荊州・南郡・襄陽県の攻略を命じました。
孫堅は全軍で荊州に侵攻すると、樊城、鄧城の辺りまで迎撃に出た劉表の部将・黄祖を敗走させて襄陽県を包囲します。
ですが、徴兵をするために城を出た黄祖を追う途中、茂みに隠れていた黄祖の兵が放った矢を受け、孫堅は討ち死にしてしまいました。
襄陽の戦い
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何の後ろ盾もない境遇から武功を重ねることによって世に出た孫堅は、当時最強の軍勢を率いていたと言っても過言ではないでしょう。
また一方で軽率な行動が目立ち、1人突出して危機に陥ることも多く、最期はそのために命を落としてしまいました。
孫堅が育てた勇猛な配下と軍勢は息子の孫策に受け継がれ、孫権による呉建国の礎となりました。
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孫堅データベース
孫堅関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
155年 |
■ 永寿元年
|
171年 |
■ 建寧4年【17歳】
|
172年 |
■ 熹平元年【18歳】 11月
|
174年 |
■ 熹平3年【20歳】
|
不明 |
|
184年 |
■ 光和7年【30歳】 3月
11月
|
185年 |
■ 中平2年【31歳】 3月
8月
|
186年 |
■ 中平3年【32歳】 12月
|
187年 |
■ 中平4年【33歳】 10月
|
189年 |
■ 中平6年【35歳】 4月
■ 昭寧元年 9月
|
190年 |
■ 初平元年【36歳】 1月
2月
3月
冬
|
191年 |
■ 初平2年【37歳】 2月
冬
|
配下
親族
孫賁(兄の子)、孫静(弟)孫香(甥)、孫河(甥)、呉景(妻の弟)、徐琨(妹の子)
その他
程普、韓当、黄蓋、朱治、祖茂、桓階