黄巾の乱討伐の際に抜擢された3人の中郎将の1人として有名な朱儁とは、どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地 / 生没年
字
公偉。
出身地
揚州・会稽郡・上虞県。
揚州・会稽郡・上虞県
生没年
- 不明 〜 興平2年(195年)。
- 『後漢書』に列伝があります。
家族・親族
子
朱符(しゅふ)
交趾刺史(交阯刺史)を務め、同郷の虞褒や劉彦らを重用して各地を治めさせ、人々を侵害・虐待して民衆に厳しい税金を課し、黄魚1匹につき米1石を取り立てました。
そのため人々は怨みを抱いて反抗し、山中の不服従民たちに攻められた朱符は逃亡して海に出ましたが、うろうろと放浪ううちに死亡しました。
中国における仏教と道教の間の論争をまとめた『弘明集』の中の『理惑論』には、朱符は朱儁の子・朱晧の兄であるとあります。
朱晧(しゅこう)
字は文明。
才能と品行を備え、(揚州の)豫章太守(予章太守)を務めましたが、誠実で人を疑わない性格が災いして笮融に殺されました。
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名声を得る
幼少期
朱儁は若くして父を亡くし、母はいつも絹を売って生計を立てていました。
その後朱儁は、孝行を尽くすことで名声を得て、県の門下書佐となります。また、義侠を好んで財産に執着しなかったので、郷里の人々は彼を敬いました。
周規を助ける
ある時、同郡出身の周規という者が三公府に召されたので、郡庫から百万銭を借りて、冠や幘(ずきん)などの身支度をするための費用に充てました。
ですが、その後返済を催促されても、周規の家は貧しく返済することができません。すると、このことを知った朱儁は、母の絹を盗んで返済のための金銭を揃えてあげました。
売るべき絹を失った母は、憤慨して朱儁を責めますが、朱儁は、
「小さな損害は大きな利益につながるものです。初めが貧しければ、後になって豊かになるのは必然の理でしょう」
と答えました。
出世を重ねる
主簿に任命される
上虞県の長官で兗州・山陽郡出身の度尚は、朱儁を優れた人物だと評価して、会稽太守の韋毅に推薦します。
朱儁は郡の官職を歴任し、後の会稽太守の尹端に主簿に任命されました。
尹端を助ける
熹平2年(173年)、尹端は賊の許昭討伐で戦果を挙げられなかったことを罪に問われ、州から朝廷に罪状を上奏されて、その罪は棄市*1に当たると判断されました。
そこで朱儁は、すぐさま数百金を手にみすぼらしい衣服を着て、秘かに京師[洛陽(雒陽)]に向かうと、上奏文を取り扱う役人に金を贈り、州からの上奏文の内容を修正することに成功します。
このお陰で尹端は、棄市*1を免れて左校での労役刑に処されるだけで済みました。
尹端は減刑されたことを喜びましたが、なぜ減刑されたのかは分からず、朱儁もまた生涯このことを他言することはありませんでした。
この尹端の許昭討伐において、楊州・呉郡の郡司馬であった孫堅が援軍に駆けつけています。
脚注
*1 公衆の面前で打ち首にして、その死体を市中にさらす刑罰のこと。
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蘭陵県の県令に任命される
その後、尹端の後任の会稽太守・徐珪が孝廉に推挙し、朱儁は2度栄転して徐州・東海郡・蘭陵県の県令に任命されます。
朱儁の行政手腕は見事なもので、東海相から上表されました。
徐州・東海郡・蘭陵県
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武功を立てる
交趾(交阯)の反乱
この頃、交趾刺史部(交阯刺史部)・交趾郡(交阯郡)の群賊が一斉に反乱を起こしましたが、牧守(州・郡の長官)たちは軟弱で、これを討伐することができませんでした。
さらに、交趾郡(交阯郡)の賊・梁龍以下1万余りは南海太守の孔芝と共に反乱を起こし、郡県を攻め落とします。
交趾刺史部(交阯刺史部)・交趾郡(交阯郡)
そこで、光和元年(178年)、朝廷は朱儁を交趾刺史(交阯刺史)に任命すると、本郡(揚州・会稽郡)に立ち寄って家兵を選抜させ、5千の兵を二手に分けて、別々の道から交趾郡(交阯郡)に侵入させました。
州境まで来ると、朱儁は軍を止め、まず郡に使者を派遣して敵情を探らせ、漢の威徳を宣揚(はっきりと世に示してそれを盛んにすること)します。
そして、賊たちが動揺したのを見て取ると、[交趾刺史部(交阯刺史部)の]7郡の兵と共に進軍して賊を撃ち破り、梁龍を斬りました。
降伏した者は数万人にのぼり、わずかな日数でことごとく平定されました。
この功績により朱儁は、都亭侯に封ぜられて1,500戸の食邑を与えられ、黄金50斤を賜り、中央に召されて諫議大夫となりました。
黄巾の乱
豫州(予州)黄巾の討伐
光和7年(184年)、黄巾賊が蜂起すると、公卿の多くが才略があると推薦したので、朱儁は右中郎将に任命され、持節を与えられて、左中郎将の皇甫嵩と共に、豫州(予州)の、
- 潁川郡
- 汝南郡
- 陳国
の賊を撃ち破り、そのすべてを平定しました。
潁川郡・汝南郡・陳国
すると皇甫嵩は、この戦いの様子を説明し、その功績を朱儁のものとして報告します。
これにより朱儁は、昇進して西郷侯に封ぜられ、鎮賊中郎将に栄転しました。
右中郎将に任命された朱儁は、孫堅を左軍司馬に任命するように上奏し、孫堅は朱儁の麾下で討伐軍に参加することになります。
南陽郡の平定戦
趙弘を斬る
この時、荊州・南陽郡の黄巾賊・張曼成が挙兵して「神上使」と称して数万人を集め、南陽太守の褚貢を殺害して宛県の城下に駐屯すること100日余りにおよんでいました。
後任の南陽太守・秦頡は、これを攻撃して張曼成を殺害しますが、黄巾賊は改めて趙弘を将帥に立てると、その軍勢は十余万人に膨れあがって宛城(宛県)に立て籠もります。
荊州・南陽郡・宛県(宛城)
6月、朱儁は荊州刺史の徐璆と秦頡と共に1万8千の兵を合わせて趙弘を包囲しますが、8月になっても攻め落とすことができませんでした。
朝廷の中には朱儁を呼び戻すように上奏する者もいましたが、司空の張温が、
「むかし秦は白起を用い、燕は楽毅に戦いを任せましたが、共に長い時間をかけ、年を重ねてようやく敵に勝つことができました。
朱儁は潁川郡の賊を討伐して功績を挙げたことで、引き続き軍を率いて南陽郡に向かいましたので、戦略はすでに定まっております。
戦いを目前に将を替えることは、兵家の忌む(嫌って避ける)ところ。ここはしばらく猶予を与えて、成功するのを待つべきであります」
と上奏したので、霊帝は朱儁を呼び戻すことを取りやめました。その結果、朱儁は趙弘に急襲をかけ、斬ることができました。
韓忠を降伏させる
黄巾賊の残党は韓忠を将帥に立て、またも宛城(宛県)に立て籠って朱儁の攻撃を防ぎます。
朱儁の兵は少なく、そのままでは賊軍に対抗できなかったので、柵を設けて塁を作り、土山を築いて城内を見下ろしました。
そして、太鼓を打ち鳴らして宛城(宛県)の西南側から攻めかけてみると、賊軍が全兵力で迎撃に向かう様子が手に取るように見えます。
そこで朱儁は、自ら精兵5千を率いて反対の東北側から攻撃し、城壁を登って突入しました。
韓忠は、宛城(宛県)を棄てて小城に籠もりましたが、その後、恐れおののいて降伏を願い出てきました。
司馬の張超や徐璆、秦頡らは、いずれも韓忠を許そうとしましたが、朱儁は、
「戦いには、形は同じでも勢いの異なるものがある。
むかし、秦や項羽の頃には、民衆には君主が定まっていなかった。それゆえ自分に懐く者を賞して帰順を勧めたのである。
しかし今、海内は統一され、ただ黄巾だけが乱を起こしており、降伏を受け入れては善を勧めることはできず、逆にこれを討てば悪を懲らしめるのに十分である。
今、もし韓忠の降伏を受け入れたとしても、改めて反逆の意思を抱くであろう。
賊とは、有利な時は進んで戦い、不利になれば降伏を申し出るものである。敵を許して賊を増長させることは、良計ではない」
と言い、厳しく攻め立てましたが、何度戦っても勝つことができませんでした。
そこで朱儁は、土山に登って小城の様子を見下ろし、振り返って張超に言いました。
「分かったぞ。賊は今、外は厳重に包囲され、内では追い詰められ、投降したいのに受け入れてもらえず、城外に出ることもできないので死に物狂いで戦っているのだ。
1万人が心を1つにした場合ですら、まともに当たることができないのに、ましてや10万人もいれば尚更だ。その被害は計り知れない。
まずは包囲を解き、それから兵を合わせて攻め入るに越したことはない。
韓忠は包囲が解けたのを見れば、必ず自ら出てくるだろう。出てくれば戦意は霧散し、容易く撃ち破ることができるだろう」
そう言って包囲を解くと、やはり思惑通り韓忠は城から出てきたので、朱儁はこれを攻撃して大いに撃ち破ります。
また、勝利に乗じて逃げる賊軍を数十里追撃し、1万余級を斬首。韓忠らはついに投降しました。
ですが、南陽太守の秦頡は韓忠に怒りを募らせていたので、韓忠を処刑してしまいました。
南陽黄巾の解散
韓忠が処刑されたことで、残りの賊たちは恐れて不安になり、また孫夏を将帥に立てて宛城(宛県)に引き返して立て籠もります。
朱儁はこれを急襲し、逃走した孫夏を追って荊州・南陽郡・西鄂県の精山でまたも撃ち破り、1万余級を斬首したので、とうとう賊軍は解散しました。
翌年[中平2年(185年)]春、天子(霊帝)は使者を派遣して、持節して朱儁を右車騎将軍に任命します。
また天子(霊帝)は、朱儁が京師[洛陽(雒陽)]に凱旋すると、光禄大夫に任命し、食邑を5,000戸増やし、改めて銭塘侯に封じ、特進の位を加えました。
その後朱儁は、母の喪に服すことを理由に辞職しましたが、服喪を終えると将作大匠に復職し、少府・太僕を歴任しました。
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黒山賊の張燕
河北の賊
黄巾賊が討伐されて以降、まだ黒山・黄龍・白波・左校・郭大賢・于氐根・青牛角・張白騎・劉石・左髭丈八・平漢・大計・司隷・掾哉・雷公・浮雲・飛燕・白雀・楊鳳・于毒・五鹿・李大目・白繞・畦固・苦哂といった賊徒がおり、いずれも山谷の間で蜂起して数え切れないほどで、規模の大きいものは2〜3万人、小さいものは6〜7千人ほどでした。
この称号には、
- 声の大きい者を雷公
- 白馬に乗った者を張白騎
- 軽捷(身軽ですばやいこと)な者を飛燕
- 髭の多い者を于氐根
- 眼の大きな者を李大目
と称するなど、それぞれの称号にちなんだ特徴がありました。
黒山賊の張燕
賊の頭目である冀州・常山郡出身の張燕は、無鉄砲で身軽だったため「飛燕」と呼ばれていました。
よく士卒(士官と兵卒)の心をつかみ、
- 冀州・中山国
- 冀州・常山国
- 冀州・趙国
- 幷州(并州)・上黨郡(上党郡)
- 司隷・河内郡
の諸郡の山谷にいる賊と手を結んで その軍勢は百万にのぼり、「黒山賊」と号し、河北の郡県はいずれもその被害を受けました。
黒山賊の勢力範囲
朝廷は討伐することができずにいましたが、張燕が京師[洛陽(雒陽)]に使者を派遣して降伏を願い出て来たので、張燕を平難中郎将に任命し、河北の諸々の山谷の事を宰領(取り締まること)させ、年ごとに孝廉・計吏を推挙できる権限を与えました。
張燕を退ける
後に張燕は次第に司隷・河内郡に侵攻し、京師[洛陽(雒陽)]に迫ってきました。
そこで朝廷は、朱儁を河内太守に任命し、自らの兵を率いて賊を討伐することを命じ、河内郡から撤退させます。
その後、朱儁は再び光禄大夫に任命され、屯騎校尉・城門校尉を経て河南尹に任命されました。
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董卓・李傕政権
長安遷都に反対する
朝廷で実権を握った董卓は、宿将(経験に富んだ優れた将軍)である朱儁に対して、上辺こそ親しげな態度を取っていましたが、内心では忌み嫌っていました。
関東*2の軍勢(反董卓連合)が挙兵したことに恐怖した董卓は、しばしば公卿を呼び寄せて「長安への遷都」を議題にしましたが、朱儁はその度に反対しました。
脚注
*2 広く函谷関(かんこくかん)より東の地域のこと。
董卓の副官になることを拒む
董卓は朱儁が異を唱えたことを憎みましたが、彼の名声の重さを利用しようとして、朱儁を太僕に任命して自分の副官にしようとします。
ですが朱儁は、使者が官職を授けようとしても辞退して受けずに言いました。
「国家[天子(献帝)]が西に遷都なされば、必ずや天下の希望に背くことになり、山東(反董卓連合)を利することになる。臣にはそれが良いこととは思えない」
すると使者は、
「君を召して任官しようとしているのに、君はこれを拒み、遷都のことを尋ねてもいないのに、君はそれについて述べられました。これはどうした訳ですか?」
と問い詰めます。
これに朱儁が、
「相国の副官になるなど臣には堪えられない。また、遷都の計画は急を要する事柄ではない。堪えられぬものを辞退し、急がぬものを指摘するのは理に適ったことだ」
と答えると、使者は、
「遷都の計画については聞いておらず、たとえあったとしても まだ発表されていません。君はどこでその情報を得られたのですか?」
と問いました。
ですが朱儁が、
「相国の董卓どのが詳細に臣に説明されたのだ」
と答えると、もはや使者は朱儁を説き伏せることができず、董卓は朱儁を副官とすることを取り止めました。
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反董卓の動き
董卓討伐の兵を挙げる
結局董卓は関中*3に入りましたが、遷都にあたり朱儁を洛陽(雒陽)に残してを守備に当たらせました。
この時朱儁は、山東の諸将(反董卓連合)と共謀して内応しようとしますが、そうこうしているうちに董卓の襲撃を恐れ、官職を棄てて荊州に出奔します。
朱儁が洛陽(雒陽)を去ると、董卓は弘農郡出身の楊懿を河南尹に任命して洛陽(雒陽)を守らせました。
これを聞いた朱儁がまた兵を進めて洛陽(雒陽)に向かうと、楊懿は逃走しましたが、河南郡が荒廃して補給ができなかったことから東の中牟県に駐屯し、州郡に出兵を求める書状を回して董卓を討とうとします。
朱儁の挙兵関連地図
すると、徐州刺史の陶謙が精兵3,000を派遣してくれたほか、その他の州郡からもかろうじて支援がありました。
脚注
*3 函谷関(かんこくかん)の西側の長安(ちょうあん)を中心とした地域のこと。
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李傕・郭汜らに敗れる
その後、陶謙が朱儁を行車騎将軍に上表します。
するとこれを聞いた董卓は、配下の李傕・郭汜らに数万の兵を与えて河南郡に駐屯させ、朱儁を防がせました。
朱儁はこれを迎え撃ちますが、李傕・郭汜らに敗れ、敵わないことを知った朱儁は、敢えて関所(函谷関)から先に進軍しませんでした。
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陶謙が朱儁を推戴する
董卓が誅殺され、李傕・郭汜らが混乱を巻き起こしていましたが、朱儁はこの時まだ中牟県に駐屯していました。
陶謙は、朱儁が名臣でしばしば戦功を挙げていたことから、大事を任せられる人物であると評価していました。
そこで陶謙は、諸々の豪傑たちと共に朱儁を太師に推戴し、州牧や太守に檄文を回して、共に李傕らを討ち、天子(献帝)をお迎えしようとします。
朱儁を推薦する上奏文(全文)
ちょうどこの時、李傕は太尉の周忠と尚書の賈詡の献策に従って、朱儁を召し寄せて入朝させようとしました。
朱儁の軍吏たちは皆 関中*3に入ることをためらい、陶謙たちの提案に応じたいと考えていましたが、朱儁は、
「君主が臣下を召し寄せたならば、義として馬車の用意が整わなくても赴くものだ。ましてや天子の詔ならば尚更である。
しかも李傕と郭汜は小豎、樊稠は庸児であり、遠慮深謀があるわけでもない。
また、彼らの勢力は拮抗しているから、必ずや変事が起こるはずだ。私がその間隙に乗ずれば、大事を成すことができるだろう」
と言って陶謙の提案を断り、李傕のお召しに応じて再び太僕となったので、陶謙らも朱儁を推戴することを取り止めました。
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朱儁の死
初平4年(193年)、朱儁は周忠に代わって太尉・録尚書事となり、翌年[興平元年(194年)]秋には日食を理由に罷免されましたが、また行驃騎将軍事となり、持節を与えられて関東*2を鎮撫することになりました。
ですが、朱儁がまだ出発しないうちに、李傕が樊稠を殺害したので、郭汜は「自分も殺されるのではないか」という疑念を抱いて李傕と攻め合い、長安中が混乱に陥ります。
そこで朱儁は出発を見送り、長安に留まって大司農を拝命しました。
献帝は朱儁に詔を下して太尉の楊彪ら十余人と共に郭汜を説得し、李傕と和睦させようとしますが、郭汜は聞き入れず、朱儁らを拘留して人質に取ります。
朱儁は元来剛直な性格だったので、この屈辱的な扱いに憤懣(憤って悶えること)し、その日のうちに病を発して亡くなってしまいました。
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朱儁は貧しい家の出ながら親孝行と義侠心で評判となり、交趾(交阯)の反乱や黄巾の乱の討伐で武功を立て、漢の宿将の地位を確立しました。
その後、天子(献帝)を蔑ろにする董卓に反発し、討伐を呼びかけますが失敗。
董卓が誅殺されると、権力を握った李傕・郭汜に従って彼らの隙を窺っていましたが、2人の争いに巻き込まれ、人質にされたことに憤り、病を発して亡くなってしまいました。
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朱儁データベース
朱儁関連年表
西暦 | 出来事 |
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不明 |
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173年 |
■ 熹平2年
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178年 |
■ 光和元年
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184年 |
■ 光和7年 3月
6月
8月
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185年 |
■ 中平2年
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不明 |
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189年 |
■ 中平6年
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190年 |
■ 初平元年
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191年 |
■ 初平2年
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192年 |
■ 初平3年
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193年 |
■ 初平4年
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194年 |
■ 興平元年 秋
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195年 |
■ 興平2年 3月
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