黄巾の乱討伐の際に抜擢された3人の中郎将ちゅうろうしょうの1人として有名な朱儁しゅしゅんとは、どんな人物だったのでしょうか。

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出自

朱儁(しゅしゅん)

出身地 / 生没年

あざな

公偉こうい

出身地

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけん


揚州・会稽郡・上虞県

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけん

生没年

  • 不明 〜 興平こうへい2年(195年)。
  • 後漢書ごかんじょに列伝があります。

家族・親族

朱符(しゅふ)

交趾刺史こうししし交阯刺史こうししし)を務め、同郷の虞褒ぐほう劉彦りゅうげんらを重用して各地を治めさせ、人々を侵害・虐待して民衆に厳しい税金を課し、黄魚1匹につき米1石を取り立てました。

そのため人々はうらみをいだいて反抗し、山中の不服従民たちに攻められた朱符しゅふは逃亡して海に出ましたが、うろうろと放浪さすらううちに死亡しました。


中国における仏教と道教の間の論争をまとめた弘明集ぐみょうしゅうの中の理惑論りわくろんには、朱符しゅふ朱儁しゅしゅんの子・朱晧しゅこうの兄であるとあります。

朱晧(しゅこう)

あざな文明ぶんめい

才能と品行を備え、(揚州ようしゅうの)豫章太守よしょうたいしゅ予章太守よしょうたいしゅ)を務めましたが、誠実で人を疑わない性格がわざわいして笮融さくゆうに殺されました。


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名声を得る

幼少期

朱儁しゅしゅんは若くして父を亡くし、母はいつも絹を売って生計を立てていました。

その後朱儁しゅしゅんは、孝行を尽くすことで名声を得て、県の門下書佐もんかしょさとなります。また、義侠を好んで財産に執着しなかったので、郷里の人々は彼をうやまいました。

周規を助ける

ある時、同郡出身の周規しゅうきという者が三公府さんこうふされたので、郡庫から百万銭を借りて、かんむりさく(ずきん)などの身支度をするための費用にてました。

ですが、その後返済を催促されても、周規しゅうきの家は貧しく返済することができません。すると、このことを知った朱儁しゅしゅんは、母の絹を盗んで返済のための金銭を揃えてあげました。

売るべき絹を失った母は、憤慨ふんがいして朱儁しゅしゅんを責めますが、朱儁しゅしゅんは、


「小さな損害は大きな利益につながるものです。初めが貧しければ、後になって豊かになるのは必然のことわりでしょう」


と答えました。

出世を重ねる

主簿しゅぼに任命される

上虞県じょうぐけんの長官で兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん出身の度尚どしょうは、朱儁しゅしゅんを優れた人物だと評価して、会稽太守かいけいたいしゅ韋毅いきに推薦します。

朱儁しゅしゅんは郡の官職を歴任し、のち会稽太守かいけいたいしゅ尹端いんたん主簿しゅぼに任命されました。

尹端いんたんを助ける

熹平きへい2年(173年)、尹端いんたんは賊の許昭きょしょう討伐で戦果をげられなかったことを罪に問われ、州から朝廷に罪状を上奏されて、その罪は棄市きし*1に当たると判断されました。

そこで朱儁しゅしゅんは、すぐさま数百金を手にみすぼらしい衣服を着て、ひそかに京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に向かうと、上奏文を取り扱う役人に金を贈り、州からの上奏文の内容を修正することに成功します。

このお陰で尹端いんたんは、棄市きし*1まぬかれて左校さこうでの労役刑に処されるだけで済みました。


尹端いんたんは減刑されたことを喜びましたが、なぜ減刑されたのかは分からず、朱儁しゅしゅんもまた生涯このことを他言することはありませんでした。


この尹端いんたん許昭きょしょう討伐において、楊州ようしゅう呉郡ごぐん郡司馬ぐんしばであった孫堅そんけんが援軍に駆けつけています。

脚注

*1 公衆の面前で打ち首にして、その死体を市中にさらす刑罰のこと。

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蘭陵県らんりょうけん県令けんれいに任命される

その後、尹端いんたんの後任の会稽太守かいけいたいしゅ徐珪じょけい孝廉こうれんに推挙し、朱儁しゅしゅんは2度栄転して徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん蘭陵県らんりょうけん県令けんれいに任命されます。

朱儁しゅしゅんの行政手腕は見事なもので、東海相とうかいしょうから上表されました。


徐州・東海郡・蘭陵県

徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん蘭陵県らんりょうけん


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武功を立てる

交趾(交阯)の反乱

この頃、交趾刺史部こうしししぶ交阯刺史部こうしししぶ)・交趾郡こうしぐん交阯郡こうしぐん)の群賊が一斉に反乱を起こしましたが、牧守ぼくしゅ(州・郡の長官)たちは軟弱で、これを討伐することができませんでした。

さらに、交趾郡こうしぐん交阯郡こうしぐん)の賊・梁龍りょうりゅう以下1万余りは南海太守なんかいたいしゅ孔芝こうしと共に反乱を起こし、郡県を攻め落とします。


交趾刺史部・交趾郡

交趾刺史部こうしししぶ交阯刺史部こうしししぶ)・交趾郡こうしぐん交阯郡こうしぐん


そこで、光和こうわ元年(178年)、朝廷は朱儁しゅしゅん交趾刺史こうししし交阯刺史こうししし)に任命すると、本郡(揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん)に立ち寄って家兵を選抜させ、5千の兵を二手に分けて、別々の道から交趾郡こうしぐん交阯郡こうしぐん)に侵入させました。

州境まで来ると、朱儁しゅしゅんは軍を止め、まず郡に使者を派遣して敵情を探らせ、かんの威徳を宣揚せんよう(はっきりと世に示してそれを盛んにすること)します。

そして、賊たちが動揺したのを見て取ると、[交趾刺史部こうしししぶ交阯刺史部こうしししぶ)の]7郡の兵と共に進軍して賊を撃ち破り、梁龍りょうりゅうを斬りました。

降伏した者は数万人にのぼり、わずかな日数でことごとく平定されました。


この功績により朱儁しゅしゅんは、都亭侯とていこう に封ぜられて1,500戸の食邑しょくゆうを与えられ、黄金50きんたまわり、中央に召されて諫議大夫かんぎたいふとなりました。

黄巾の乱

豫州よしゅう予州よしゅう)黄巾の討伐

光和こうわ7年(184年)、黄巾賊こうきんぞくが蜂起すると、公卿こうけいの多くが才略があると推薦したので、朱儁しゅしゅん右中郎将ゆうちゅうろうしょうに任命され、持節じせつを与えられて、左中郎将さちゅうろうしょう皇甫嵩こうほすうと共に、豫州よしゅう予州よしゅう)の、

  • 潁川郡えいせんぐん
  • 汝南郡じょなんぐん
  • 陳国ちんこく

の賊を撃ち破り、そのすべてを平定しました。


潁川郡・汝南郡・陳国

潁川郡えいせんぐん汝南郡じょなんぐん陳国ちんこく


すると皇甫嵩こうほすうは、この戦いの様子を説明し、その功績を朱儁しゅしゅんのものとして報告します。

これにより朱儁しゅしゅんは、昇進して西郷侯せいきょうこうに封ぜられ、鎮賊中郎将ちんぞくちゅうろうしょうに栄転しました。


右中郎将ゆうちゅうろうしょうに任命された朱儁しゅしゅんは、孫堅そんけん左軍司馬さぐんしばに任命するように上奏し、孫堅そんけん朱儁しゅしゅん麾下きかで討伐軍に参加することになります。

南陽郡なんようぐんの平定戦

趙弘を斬る

この時、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん黄巾賊こうきんぞく張曼成ちょうまんせいが挙兵して「神上使しんじょうし」と称して数万人を集め、南陽太守なんようたいしゅ褚貢ちょこうを殺害して宛県えんけんの城下に駐屯すること100日余りにおよんでいました。

後任の南陽太守なんようたいしゅ秦頡しんけつは、これを攻撃して張曼成ちょうまんせいを殺害しますが、黄巾賊こうきんぞくは改めて趙弘ちょうこう将帥しょうすいに立てると、その軍勢は十余万人にふくれあがって宛城えんじょう宛県えんけん)に立てもります。


荊州・南陽郡・宛県

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん宛城えんじょう


6月、朱儁しゅしゅん荊州刺史けいしゅうしし徐璆じょきゅう秦頡しんけつと共に1万8千の兵を合わせて趙弘ちょうこうを包囲しますが、8月になっても攻め落とすことができませんでした。

朝廷の中には朱儁しゅしゅんを呼び戻すように上奏する者もいましたが、司空しくう張温ちょうおんが、


「むかししん白起はくきもちい、えん楽毅がくきに戦いを任せましたが、共に長い時間をかけ、年を重ねてようやく敵に勝つことができました。

朱儁しゅしゅん潁川郡えいせんぐんの賊を討伐して功績をげたことで、引き続き軍をひきいて南陽郡なんようぐんに向かいましたので、戦略はすでに定まっております。

戦いを目前に将をえることは、兵家のむ(嫌って避ける)ところ。ここはしばらく猶予ゆうよを与えて、成功するのを待つべきであります」


と上奏したので、霊帝れいてい朱儁しゅしゅんを呼び戻すことを取りやめました。その結果、朱儁しゅしゅん趙弘ちょうこうに急襲をかけ、斬ることができました。

韓忠を降伏させる

黄巾賊こうきんぞくの残党は韓忠かんちゅう将帥しょうすいに立て、またも宛城えんじょう宛県えんけん)に立てって朱儁しゅしゅんの攻撃を防ぎます。

朱儁しゅしゅんの兵は少なく、そのままでは賊軍に対抗できなかったので、さくもうけてとりでを作り、土山を築いて城内を見下ろしました。

そして、太鼓を打ち鳴らして宛城えんじょう宛県えんけん)の西南側から攻めかけてみると、賊軍が全兵力で迎撃に向かう様子が手に取るように見えます。

そこで朱儁しゅしゅんは、みずから精兵5千をひきいて反対の東北側から攻撃し、城壁を登って突入しました。


韓忠かんちゅうは、宛城えんじょう宛県えんけん)をてて小城にもりましたが、その後、恐れおののいて降伏を願い出てきました。

司馬しば張超ちょうちょう徐璆じょきゅう秦頡しんけつらは、いずれも韓忠かんちゅうを許そうとしましたが、朱儁しゅしゅんは、


「戦いには、形は同じでも勢いの異なるものがある。

むかし、しん項羽こううの頃には、民衆には君主が定まっていなかった。それゆえ自分になつく者を賞して帰順を勧めたのである。

しかし今、海内は統一され、ただ黄巾だけが乱を起こしており、降伏を受け入れては善を勧めることはできず、逆にこれをてば悪をらしめるのに十分である。

今、もし韓忠かんちゅうの降伏を受け入れたとしても、改めて反逆の意思をいだくであろう。

賊とは、有利な時は進んで戦い、不利になれば降伏を申し出るものである。敵を許して賊を増長させることは、良計ではない」


と言い、厳しく攻め立てましたが、何度戦っても勝つことができませんでした。


そこで朱儁しゅしゅんは、土山に登って小城の様子を見下ろし、振り返って張超ちょうちょうに言いました。


「分かったぞ。賊は今、外は厳重に包囲され、内では追い詰められ、投降したいのに受け入れてもらえず、城外に出ることもできないので死に物狂いで戦っているのだ。

1万人が心を1つにした場合ですら、まともに当たることができないのに、ましてや10万人もいれば尚更だ。その被害ははかり知れない。

まずは包囲をき、それから兵を合わせて攻め入るに越したことはない。

韓忠かんちゅうは包囲が解けたのを見れば、必ずみずから出てくるだろう。出てくれば戦意は霧散むさんし、容易たやすく撃ち破ることができるだろう」


そう言って包囲をくと、やはり思惑通り韓忠かんちゅうは城から出てきたので、朱儁しゅしゅんはこれを攻撃して大いに撃ち破ります。

また、勝利に乗じて逃げる賊軍を数十里追撃し、1万余級を斬首。韓忠かんちゅうらはついに投降しました。

ですが、南陽太守なんようたいしゅ秦頡しんけつ韓忠かんちゅうに怒りをつのらせていたので、韓忠かんちゅうを処刑してしまいました。

南陽黄巾の解散

韓忠かんちゅうが処刑されたことで、残りの賊たちは恐れて不安になり、また孫夏そんか将帥しょうすいに立てて宛城えんじょう宛県えんけん)に引き返して立てもります。

朱儁しゅしゅんはこれを急襲し、逃走した孫夏そんかを追って荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん西鄂県せいがくけん精山せいざんでまたも撃ち破り、1万余級を斬首したので、とうとう賊軍は解散しました。


翌年[中平ちゅうへい2年(185年)]春、天子てんし霊帝れいてい)は使者を派遣して、持節じせつして朱儁しゅしゅん右車騎将軍ゆうしゃきしょうぐんに任命します。

また天子てんし霊帝れいてい)は、朱儁しゅしゅん京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に凱旋がいせんすると、光禄大夫こうろくたいふに任命し、食邑しょくゆうを5,000戸増やし、改めて銭塘侯せんとうこうに封じ、特進とくしんの位を加えました。


その後朱儁しゅしゅんは、母のに服すことを理由に辞職しましたが、服喪ふくもを終えると将作大匠しょうさくたいしょうに復職し、少府しょうふ太僕たいぼくを歴任しました。

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黒山賊の張燕

河北かほくの賊

黄巾賊こうきんぞくが討伐されて以降、まだ黒山こくざん黄龍こうりゅう白波はくは左校さこう郭大賢かくたいけん于氐根うていこん青牛角せいぎゅうかく張白騎ちょうはくき劉石りゅうせき左髭丈八さしじょうはち平漢へいかん大計たいけい司隷しれい掾哉えんさい雷公らいこう浮雲ふうん飛燕ひえん白雀はくじゃく楊鳳ようほう于毒うどく五鹿ごろく李大目りたいもく白繞はくじょう畦固けいこ苦哂くしゅうといった賊徒がおり、いずれも山谷の間で蜂起して数え切れないほどで、規模の大きいものは2〜3万人、小さいものは6〜7千人ほどでした。

この称号には、

  • 声の大きい者を雷公らいこう
  • 白馬に乗った者を張白騎ちょうはくき
  • 軽捷(身軽ですばやいこと)な者を飛燕ひえん
  • ひげの多い者を于氐根うていこん
  • 眼の大きな者を李大目りたいもく

と称するなど、それぞれの称号にちなんだ特徴がありました。

黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえん

賊の頭目とうもくである冀州きしゅう常山郡じょうざんぐん出身の張燕ちょうえんは、無鉄砲で身軽だったため「飛燕ひえん」と呼ばれていました。

よく士卒しそつ(士官と兵卒)の心をつかみ、

  • 冀州きしゅう中山国ちゅうざんこく
  • 冀州きしゅう常山国じょうざんこく
  • 冀州きしゅう趙国ちょうこく
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上黨郡じょうとうぐん上党郡じょうとうぐん
  • 司隷しれい河内郡かだいぐん

の諸郡の山谷にいる賊と手を結んで その軍勢は百万にのぼり、「黒山賊こくざんぞく」と号し、河北かほくの郡県はいずれもその被害を受けました。


黒山賊の勢力範囲

黒山賊こくざんぞくの勢力範囲


朝廷は討伐することができずにいましたが、張燕ちょうえん京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に使者を派遣して降伏を願い出て来たので、張燕ちょうえん平難中郎将へいなんちゅうろうしょうに任命し、河北かほく諸々もろもろの山谷の事を宰領さいりょう(取り締まること)させ、年ごとに孝廉こうれん計吏けいりを推挙できる権限を与えました。

張燕ちょうえん退しりぞける

のち張燕ちょうえんは次第に司隷しれい河内郡かだいぐんに侵攻し、京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に迫ってきました。

そこで朝廷は、朱儁しゅしゅん河内太守かだいたいしゅに任命し、みずからの兵をひきいて賊を討伐することを命じ、河内郡かだいぐんから撤退させます。

その後、朱儁しゅしゅんは再び光禄大夫こうろくたいふに任命され、屯騎校尉とんきこうい城門校尉じょうもんこうい河南尹かなんいんに任命されました。


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董卓・李傕政権

長安遷都に反対する

朝廷で実権を握った董卓とうたくは、宿将しゅくしょう(経験に富んだ優れた将軍)である朱儁しゅしゅんに対して、上辺うわべこそ親しげな態度を取っていましたが、内心ではきらっていました。

関東かんとう*2の軍勢(反董卓とうたく連合)が挙兵したことに恐怖した董卓とうたくは、しばしば公卿こうけいを呼び寄せて「長安ちょうあんへの遷都せんと」を議題にしましたが、朱儁しゅしゅんはその度に反対しました。

脚注

*2 広く函谷関かんこくかん)より東の地域のこと。

董卓の副官になることを拒む

董卓とうたく朱儁しゅしゅんが異を唱えたことを憎みましたが、彼の名声の重さを利用しようとして、朱儁しゅしゅん太僕たいぼくに任命して自分の副官にしようとします。

ですが朱儁しゅしゅんは、使者が官職をさずけようとしても辞退して受けずに言いました。


国家わがきみ天子てんし献帝けんてい)]が西に遷都せんとなされば、必ずや天下の希望にそむくことになり、山東さんとう(反董卓とうたく連合)を利することになる。わたくしにはそれが良いこととは思えない」


すると使者は、


あなたして任官しようとしているのに、あなたはこれをこばみ、遷都せんとのことをたずねてもいないのに、あなたはそれについてべられました。これはどうした訳ですか?」


と問いめます。

これに朱儁しゅしゅんが、


相国しょうこくの副官になるなどわたくしにはえられない。また、遷都せんとの計画は急を要する事柄ではない。えられぬものを辞退し、急がぬものを指摘するのは理にかなったことだ」


と答えると、使者は、


遷都せんとの計画については聞いておらず、たとえあったとしても まだ発表されていません。あなたはどこでその情報を得られたのですか?」


と問いました。

ですが朱儁しゅしゅんが、


相国しょうこく董卓とうたくどのが詳細にわたくしに説明されたのだ」


と答えると、もはや使者は朱儁しゅしゅんを説き伏せることができず、董卓とうたく朱儁しゅしゅんを副官とすることを取り止めました。

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反董卓の動き

董卓とうたく討伐の兵をげる

結局董卓とうたく関中かんちゅう*3に入りましたが、遷都せんとにあたり朱儁しゅしゅん洛陽らくよう雒陽らくよう)に残してを守備に当たらせました。

この時朱儁しゅしゅんは、山東さんとうの諸将(反董卓とうたく連合)と共謀して内応しようとしますが、そうこうしているうちに董卓とうたくの襲撃を恐れ、官職をてて荊州けいしゅう出奔しゅっぽんします。


朱儁しゅしゅん洛陽らくよう雒陽らくよう)を去ると、董卓とうたく弘農郡こうのうぐん出身の楊懿ようい河南尹かなんいんに任命して洛陽らくよう雒陽らくよう)を守らせました。

これを聞いた朱儁しゅしゅんがまた兵を進めて洛陽らくよう雒陽らくよう)に向かうと、楊懿よういは逃走しましたが、河南郡かなんぐん荒廃こうはいして補給ができなかったことから東の中牟県ちゅうぼうけんに駐屯し、州郡に出兵を求める書状を回して董卓とうたくとうとします。


朱儁の挙兵関連地図

朱儁しゅしゅんの挙兵関連地図


すると、徐州刺史じょしゅうしし陶謙とうけんが精兵3,000を派遣してくれたほか、その他の州郡からもかろうじて支援がありました。

脚注

*3 函谷関かんこくかん)の西側の長安ちょうあん)を中心とした地域のこと。

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李傕りかく郭汜かくしらに敗れる

その後、陶謙とうけん朱儁しゅしゅん行車騎将軍こうしゃきしょうぐんに上表します。

するとこれを聞いた董卓とうたくは、配下の李傕りかく郭汜かくしらに数万の兵を与えて河南郡かなんぐんに駐屯させ、朱儁しゅしゅんを防がせました。

朱儁しゅしゅんはこれを迎え撃ちますが、李傕りかく郭汜かくしらに敗れ、かなわないことを知った朱儁しゅしゅんは、えて関所(函谷関かんこくかん)から先に進軍しませんでした。

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陶謙とうけん朱儁しゅしゅん推戴すいたいする

董卓とうたく誅殺ちゅうさつされ、李傕りかく郭汜かくしらが混乱を巻き起こしていましたが、朱儁しゅしゅんはこの時まだ中牟県ちゅうぼうけんに駐屯していました。


陶謙とうけんは、朱儁しゅしゅんが名臣でしばしば戦功をげていたことから、大事を任せられる人物であると評価していました。

そこで陶謙とうけんは、諸々もろもろ豪傑ごうけつたちと共に朱儁しゅしゅん太師たいし推戴すいたいし、州牧しゅうぼく太守たいしゅ檄文げきぶんを回して、共に李傕りかくらをち、天子てんし献帝けんてい)をお迎えしようとします。

朱儁を推薦する上奏文(全文)
タップ(クリック)すると開きます。

徐州刺史じょしゅうしし陶謙とうけん、前揚州刺史ようしゅうしし周乾しゅうかん琅邪相ろうやしょう陰徳いんとく東海相とうかいしょう劉馗りゅうき彭城相ほうじょうしょう汲廉きゅうれん北海相ほっかいしょう孔融こうゆう沛相はいしょう袁忠えんちゅう泰山太守たいざんたいしゅ応劭おうしょう汝南太守じょなんたいしゅ徐璆じょきゅう、前九江太守きゅうこうたいしゅ服虔ふくけん博士はくし鄭玄じょうげんら、えてこれを行車騎将軍こうしゃきしょうぐん河南尹かなんいんの幕府に申し上げます。

国家はすでに董卓とうたく李傕りかく郭汜かくしらによる災禍さいかを受け、幼主(献帝けんてい)は脅迫されて捕らわれ、忠義で善良な臣下は疲弊ひへいし、長安ちょうあん隔絶かくぜつされ、天子てんし献帝けんてい)の安否は分かりません。

このため官職にいている者や地方の長官、高官の有識者は、みな憂慮ゆうりょしております。

思うに、賢哲けんてつ(賢明で道理をわきまえた人)にして勇ましい人物でなければ、どうしてこの禍乱からん(世の乱れや騒動)を平定して、世の中を救うことができましょうか。

兵を起こして以来、今日に至るまで3年になりますが、州郡ではそこここを眺めて状勢をうかがい、いまだ力をふるって敵を撃つ功績もないのに、互いに私的な権力闘争を行い、疑惑の心をいだき合っております。

わたくし陶謙とうけん)たちはみなで相談し、国難を取り除こうと議論しました。

そしてみな


将軍しょうぐん君侯くんこう*4朱儁しゅしゅん)は文武にひいで、時運(時のめぐり合わせ)に応じて世に現れ、多くの君子たちは、誰もが敬意を払っております』


べました。

そこで、互いにはげまし合い、精悍せいかんにして奥深くまで攻め入ることのできる者を選抜し、ただちに咸陽かんよう長安ちょうあん)を目指し、半年は十分に支えきれるだけの物資食糧を持って参りたいと存じます。

我らはつつしんで胸中を同じくし、この件を元帥げんすい朱儁しゅしゅん)にお任せ致します」

脚注

*4 諸侯を敬(うやま)って言う言葉

ちょうどこの時、李傕りかく太尉たいい周忠しゅうちゅう尚書しょうしょ賈詡かくの献策に従って、朱儁しゅしゅんを召し寄せて入朝させようとしました。

朱儁しゅしゅん軍吏ぐんりたちはみな 関中かんちゅう*3に入ることをためらい、陶謙とうけんたちの提案に応じたいと考えていましたが、朱儁しゅしゅんは、


「君主が臣下を召し寄せたならば、義として馬車の用意が整わなくてもおもむくものだ。ましてや天子てんしみことのりならば尚更である。

しかも李傕りかく郭汜かくし小豎こわっぱ樊稠はんちゅう庸児ぼんくらであり、遠慮深謀えんりょしんぼうがあるわけでもない。

また、彼らの勢力は拮抗きっこうしているから、必ずや変事が起こるはずだ。私がその間隙に乗ずれば、大事を成すことができるだろう」


と言って陶謙とうけんの提案を断り、李傕りかくのお召しに応じて再び太僕たいぼくとなったので、陶謙とうけんらも朱儁しゅしゅん推戴すいたいすることを取り止めました。

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朱儁の死

初平しょへい4年(193年)、朱儁しゅしゅん周忠しゅうちゅうに代わって太尉たいい録尚書事ろくしょうしょじとなり、翌年[興平こうへい元年(194年)]秋には日食を理由に罷免ひめんされましたが、また行驃騎将軍事こうひょうきしょうぐんじとなり、持節じせつを与えられて関東かんとう*2鎮撫ちんぶすることになりました。

ですが、朱儁しゅしゅんがまだ出発しないうちに、李傕りかく樊稠はんちゅうを殺害したので、郭汜かくしは「自分も殺されるのではないか」という疑念をいだいて李傕りかくと攻め合い、長安ちょうあん中が混乱におちいります。

そこで朱儁しゅしゅんは出発を見送り、長安ちょうあんとどまって大司農だいしのうを拝命しました。


献帝けんてい朱儁しゅしゅんみことのりを下して太尉たいい楊彪ようひょうら十余人と共に郭汜かくしを説得し、李傕りかくと和睦させようとしますが、郭汜かくしは聞き入れず、朱儁しゅしゅんらを拘留こうりゅうして人質に取ります。

朱儁しゅしゅんは元来剛直な性格だったので、この屈辱的な扱いに憤懣ふんまんいきどおってもだえること)し、その日のうちにやまいを発して亡くなってしまいました。

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朱儁しゅしゅんまずしい家の出ながら親孝行と義侠心で評判となり、交趾こうし交阯こうし)の反乱や黄巾の乱の討伐で武功を立て、かん宿将しゅくしょうの地位を確立しました。

その後、天子てんし献帝けんてい)をないがしろにする董卓とうたくに反発し、討伐を呼びかけますが失敗。

董卓とうたく誅殺ちゅうさつされると、権力をにぎった李傕りかく郭汜かくしに従って彼らのすきうかがっていましたが、2人の争いに巻き込まれ、人質にされたことにいきどおり、やまいを発して亡くなってしまいました。


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朱儁データベース

朱儁関連年表

西暦 出来事
不明
  • 揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけんに生まれる。
  • 若くして父を亡くす。
  • 門下書佐もんかしょさに任命される。
  • 勝手に母の絹を売り周規しゅうきを助ける。
  • 会稽太守かいけいたいしゅ尹端いんたん主簿しゅぼに任命される。
173年

熹平きへい2年

  • 役人に賄賂わいろを贈り、尹端いんたんを助ける。
  • 徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん蘭陵県らんりょうけん県令けんれいに任命される。
178年

光和こうわ元年

  • 交趾刺史こうししし交阯刺史こうししし)に任命され、賊の梁龍りょうりゅうつ。
  • 都亭侯とていこう に封ぜられ、1,500戸の食邑しょくゆうを与えられる。
  • 諫議大夫かんぎたいふに任命される。
184年

光和こうわ7年

 3月

  • 黄巾の乱が起こる。
  • 右中郎将ゆうちゅうろうしょうに任命される。
  • 孫堅そんけん左軍司馬さぐんしばに推薦する。
  • 皇甫嵩こうほすうと共に豫州よしゅう予州よしゅう)の黄巾賊こうきんぞくつ。
  • 西郷侯せいきょうこうに封ぜられ、鎮賊中郎将ちんぞくちゅうろうしょうに任命される。

 6月

  • 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん黄巾賊こうきんぞく趙弘ちょうこうを包囲する。

 8月

  • 趙弘ちょうこうを斬る。
  • 黄巾賊こうきんぞく韓忠かんちゅう将帥しょうすいに立てる。
  • 宛県えんけんを落とされた韓忠かんちゅうが小城にもり、降伏を願い出る。
  • 韓忠かんちゅうの降伏を拒否する。
  • 小城を攻め、韓忠かんちゅうが降伏する。
  • 秦頡しんけつ韓忠かんちゅうを処刑したため、黄巾賊こうきんぞく孫夏そんか将帥しょうすいに立て、宛県えんけんに立てもる。
  • 宛県えんけんを攻め、逃走した孫夏そんかを追って荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん西鄂県せいがくけん精山せいざんで撃ち破る。
185年

中平ちゅうへい2年

  • 右車騎将軍ゆうしゃきしょうぐんに任命される。
  • 光禄大夫こうろくたいふに任命される。
  • 銭塘侯せんとうこうに封ぜられ、食邑しょくゆうを5,000戸増加される。
  • 特進とくしんの位を加えられる。
不明
  • 母のに服すため辞職する。
  • 将作大匠しょうさくたいしょうに復職する。
  • 少府しょうふに任命される。
  • 太僕たいぼくに任命される。
  • 河内太守かだいたいしゅに任命される。
  • 黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえん)を司隷しれい河内郡かだいぐんから退しりぞける。
  • 光禄大夫こうろくたいふに任命される。
  • 屯騎校尉とんきこういに任命される。
  • 城門校尉じょうもんこういに任命される。
  • 河南尹かなんいんに任命される。
189年

中平ちゅうへい6年

  • 董卓とうたくが朝廷で実権を握る。
190年

初平しょへい元年

  • 董卓とうたく連合が挙兵する。
  • 董卓とうたくの「長安ちょうあんへの遷都せんと」の提案に反対する。
  • 董卓とうたくによって太僕たいぼくに任命されるが辞退する。
  • 董卓とうたく長安ちょうあん遷都せんとを強行する。
  • 洛陽らくよう雒陽らくよう)の守備に当たる。
  • 董卓とうたく連合と共謀して内応しようとする。
  • 官職をてて荊州けいしゅう出奔しゅっぽんする。
191年

初平しょへい2年

  • 董卓とうたく楊懿ようい河南尹かなんいんに任命して洛陽らくよう雒陽らくよう)を守らせる。
  • 朱儁しゅしゅんがまた洛陽らくよう雒陽らくよう)に兵を進め、楊懿よういは逃走する。
  • 中牟県ちゅうぼうけんに駐屯し、州郡に董卓とうたく討伐の出兵を求める。
  • 徐州刺史じょしゅうしし陶謙とうけんが精兵3,000を派遣する。
192年

初平しょへい3年

  • 陶謙とうけん朱儁しゅしゅん行車騎将軍こうしゃきしょうぐんに上表する。
  • 董卓とうたくは配下の李傕りかく郭汜かくしらに敗れる。
  • 董卓とうたく誅殺ちゅうさつされる。
  • 李傕りかく郭汜かくしらが朝廷の実権を握る。
  • 陶謙とうけんらが朱儁しゅしゅん太師たいし推戴すいたいし、李傕りかく郭汜かくしらの討伐を呼びかける。
  • 朱儁しゅしゅん太僕たいぼくに任命され、朝廷に帰順する。
193年

初平しょへい4年

  • 太尉たいい録尚書事ろくしょうしょじに任命される。
194年

興平こうへい元年

 

  • 日食を理由に罷免ひめんされる。
  • 行驃騎将軍事こうひょうきしょうぐんじに任命される。
195年

興平こうへい2年

 3月

  • 李傕りかく郭汜かくし仲違なかたがいする。
  • 李傕りかく献帝けんていを人質に取る。
  • 献帝けんてい公卿こうけい三公さんこう九卿きゅうけい)を派遣して、李傕りかく郭汜かくしを和解させようとする。
  • 郭汜かくし公卿こうけい三公さんこう九卿きゅうけい)を人質に取る。
  • 人質にされた朱儁しゅしゅんいきどおり、やまいを発して亡くなる。
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