反董卓連合の韓馥・袁紹らが天子に推戴しようとした後漢の皇族・劉虞とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
スポンサーリンク
目次
出自
出身地 / 生没年
字
伯安。
出身地
徐州・東海郡・郯県。
徐州・東海郡・郯県
生没年
- 不明 〜 初平4年(193年)。
- 『後漢書』に列伝があります。
- 『魏書』公孫瓚伝の注『呉書』にまとまった記述があります。
家族・親族
祖先
東海恭王・劉彊。
後漢の初代皇帝・光武帝 (劉秀)の長子。
祖父
劉嘉。
官職は光禄勲まで昇りました。
父
劉舒。
官職は丹陽太守まで昇りました。
子
劉和。
侍中。献帝の使者となって劉虞の元に向かいました。
途中荊州・南陽郡で袁術に捕らわれ、袁術の元を脱出すると、今度は冀州で袁紹に引き留められました。後に袁紹に従って公孫瓚と戦い、父の仇を討ちます。
スポンサーリンク
清貧で知られる
県吏に出仕する
劉虞は皇族として当代の天子とは血縁が遠い間柄でしたので、故郷の徐州・東海郡・郯県に出仕して戸曹の役人*1となります。
そして、そこでよく身を修めて職務に励み、召されて東海郡の役人となると、さらに郡から孝廉に推挙されて、朝廷に入って郎*2となりました。
脚注
*1 戸曹吏(こそうり)。県の民戸・祭礼・農業一般を担当します。
*2 郎官(ろうかん)。宮殿の門戸宿衛を職務とする官職の総称。宮中の廊下に控えて天子(てんし)の側近くに仕えます。
県令時代
劉虞が兗州・東郡・博平県の県令を務めていた時、正しく公平な政治を行い、劉虞自身も高潔で質朴(飾りけがなく純真・素直なこと)であったことから、領内に盗賊はいなくなりました。
また災害も発生しなくなり、当時、隣の県で蝗が被害をもたらしていましたが、博平県の境まで来ても、県内には入って来ませんでした。
幽州刺史時代
異民族の信を得る
劉虞は五経*3に通じ、清潔さを保って倹約につとめ、礼儀と道徳によって領民を教え導きました。
そのため、劉虞が幽州刺史となると、
- 鮮卑[北アジアの遊牧民族]
- 烏桓(烏丸)[内モンゴルの遊牧民族]
- 夫余(扶餘)[中国東北部(満州)に居住していた民族]
- 濊貊[朝鮮半島北東部に居住していた民族]
などの諸民族は、みな彼の徳に感化され、季節に応じて朝貢して、あえて辺境を侵すことはありませんでした。
脚注
*3 儒学で尊重される五つの経書のこと。『易経(えききょう)』・『書経(しょきょう)』・『詩経(しきょう)』・『礼記(らいき)』・『春秋(しゅんじゅう)』の総称。
霊帝の配慮
洛陽(雒陽)城内の南宮が火事で焼けた時、霊帝は南宮復興のため、州郡の長官に1千万銭〜2千万銭の寄付を義務づけます。
この時、裕福な者は私財をもってまかない、場合によっては領民から徴収して支払いに充てましたが、貧しくて清廉な者の中には、割り当てられた額を満たすことができず、自殺する者までいました。
そのため霊帝は、劉虞が清貧で知られていることから、特別に劉虞に課した寄付を免除しました。
その後、公務上の不祥事があり、劉虞は責任を取って幽州刺史を辞職します。
甘陵相時代
甘陵相に任命される
中平年間(184年〜189年)の初め、「黄巾の乱」が起こって冀州の諸郡が攻め荒らされると、劉虞は冀州・清河国・甘陵国の相(県令)に任命されます。
劉虞は荒廃した地域の人々を慰め労り、質素倹約によって民を導きましたが、その後病気のため職を辞して故郷に帰りました。
故郷でのエピソード
裁判を代行する
故郷に帰った劉虞は、名声や地位があるからと言って自分を特別扱いせず、いつもへりくだって質素な生活をし、暮らし向きを平等にして郷里の人々と苦楽を共にしました。
郷里の人々はみな彼を尊敬し、裁判沙汰が起こった時には、役人ではなく劉虞に判断を仰ぐほどで、劉虞はきちんと事件の筋道に従って公平に裁定をしたので、誰もが謹んでその裁定に従い、怨恨を抱く者はいませんでした。
疑われた牛を与える
ある時、牛をなくした者がいて、その牛の骨格や毛色が劉虞の牛とそっくりだったので、劉虞の牛を自分の牛だと主張しました。
すると劉虞は、反論することなく、その者の言うままに自分の牛を譲り渡します。
ですが、しばらくして本物の牛を見つけたその男は、劉虞に牛を返して謝罪しました。
曹操の養曾祖父・曹萌(曹節)にも、これと同じような内容で、牛を豚に変えたエピソードが伝わっています。
このように、「盗んだと疑われた○○を反論せずに渡す」エピソードは、仁徳を示すエピソードとして定型化されているように思えます。
再び甘陵相に任命される
ちょうどその頃、冀州・清河国・甘陵国がまたもや混乱状態に陥りました。
甘陵国の官民は劉虞の治績(政治上の実績)を慕っていたので、劉虞は再び甘陵相に任命され、甘陵国の混乱は治まりました。
その後劉虞は中央に召し返されて、尚書令、光禄勲を歴任し、皇族の中でも特に礼儀をわきまえた人物だったことから、改めて宗正に任命されました。
スポンサーリンク
幽州牧時代
幽州牧に任命される
張純の乱
中平元年(184年)冬に起こった「辺章・韓遂の乱」の討伐の際、車騎将軍・張温に徴発されていた幽州の烏桓突騎3千が、扶持米が滞ったため、命令に背いて幽州に帰ってしまいました。
中平4年(187年)6月、これを知った前の中山相・張純は、秘かに前の泰山太守・張挙と烏桓の大人・丘力居、同じく烏桓の峭王らを誘って幽州・広陽郡・薊県で反乱を起こします。
張純らの軍勢は10余万人にふくれ上がり、青州や冀州にも侵入して吏民を殺害しました。
関連記事
幽州牧に任命される
反乱した烏桓突騎を任されていた公孫瓚は、自ら統括する軍勢を率いて張純らの討伐を行いますが、反乱を鎮圧することができずにいました。
そこで朝廷は、幽州の民や北方異民族の信頼を得ている劉虞を幽州牧に任命して、温徳によって反乱を平定させることにします。中平5年(188年)3月のことです。
着任した劉虞は、すぐに駐屯させていた兵を解散させると、峭王らに使者を派遣して「改心して降伏すること」を勧め、また一方で張挙と張純の首に懸賞金をかけました。
その結果、張挙と張純は塞を出て逃亡し、その他はみな降伏。張純は食客の王政に殺害され、その首は劉虞の元に送り届けられます。
この功績により、霊帝は劉虞を太尉に任命し、容丘侯に封じました。
豆知識
『魏書』公孫瓚伝の注に引く『英雄記』には、
「劉虞は太尉の位を辞退し、同時に衛尉の趙謨、益州牧の劉焉、豫州牧の黄琬、南陽太守の羊続を推薦したところ、揃って三公に任命された」
とあります。
公孫瓚の妨害
劉虞が温徳をもって烏桓を帰順させたことは、これまで最前線で烏桓討伐の指揮を執ってきた公孫瓚には面白くありません。
公孫瓚は劉虞の指揮下にありながら、丘力居らが劉虞に派遣した使者を待ち伏せて殺害するなど、劉虞の手柄を妨害しました。
反董卓連合の決起
董卓による支配
中平6年(189年)9月、朝廷で権力を掌握した董卓が、使者を派遣して劉虞を大司馬に昇進させ、襄賁侯に封じました。
また董卓は、袁隗に代えて劉虞を太傅に任命しようとしますが、この時すでに反董卓連合が決起した後で、道がふさがれていたため、この命令は劉虞の元に届きませんでした。
劉虞の幽州統治
異民族の支配地と接している幽州は防備のための経費が莫大にかかるため、青州と冀州の賦税から毎年 2億銭 余りが幽州の経費として割り当てられていました。
この時、戦乱により所々で道が断絶して物資の輸送が滞っていましたが、劉虞は農業を奨励し、上谷郡の胡市*4や漁陽郡の豊富な塩と鉄の取引で利益をあげて不足分を補ったので、幽州は豊作となりました。
そのため、青州や徐州から黄巾の難を逃れて幽州に身を寄せた者は百万人を越えましたが、劉虞はそのすべてを受け入れて労り憐れんで生業を与えたので、流民たちはみな、故郷から移ってきたことを忘れるほどでした。
また、劉虞は上公でありながら常に節約を旨とし、ほつれた着物を着て縄で編んだ履をはき、食事の際も、1度に2種類以上の肉を食べることはありませんでした。
そのため、豪族の中でかねてより贅沢をしていた者たちは、誰もが劉虞に心服して日頃の行いを改めました。
脚注
*4 国境の関所に設けられた漢人と非漢人が交易するための市場のこと。
天子に推戴される
天子に推戴される
初平2年(191年)1月、冀州刺史・韓馥と勃海太守・袁紹をはじめとする山東の諸将たちは、
「朝廷(天子)は幼く、董卓に脅され、函谷関や桃林塞に遠く隔てられて、その安否さえも分からない。対して劉虞は、宗室(皇室)の年長者である。天子に立てて天下の主としようではないか」
と言い、元楽浪太守の張岐たちを派遣して、劉虞に天子の尊号を奉りました。
すると劉虞は、
「いま天下は崩壊し、天子は都を避けておられる。私は深くご恩を蒙りながら、未だ国の恥を雪ぐこともできていない。
諸君らは各々州郡を拠点とし、共に力を合わせて王室のために尽力すべきであるのに、却って漢への反逆を謀り、恥辱に塗れた誤った行動をすると言うのかっ!」
と、血相を変えて彼らを叱りつけます。
劉虞の返答を聞いた韓馥たちは、せめて劉虞に尚書の職務を兼任させようと、詔を受けたとして官爵を授けようとしますが、劉虞は承知せず、使者を捕らえて斬り捨ててしまいました。
献帝に使者を送る
劉虞は、
「賊臣が動乱を引き起こし、朝廷は都を離れて流浪なされ、また、四海の内は慌てふためき、気持ちを動揺させない者はない。
我が身は皇族として先代からの老臣に数えられており、当然、一般民衆と同じわけにはいかぬ。今、使者を派遣し奉り、臣下としての節義を捧げたい」
と言って、掾の田疇を従事*5に任命し、同じく従事*5の鮮于銀と共に、秘かに険阻な道を通って長安にいる献帝の元に派遣します。
洛陽(雒陽)に帰りたいと願っていた献帝は、田疇たちを見て大変喜びました。
この時田疇は、勅命によって騎都尉に任命されましたが、「天子が都[洛陽(雒陽)]を離れて落ち着くことも叶わぬのに、栄誉恩寵を頂くわけにはいかない」と、固く辞退しました。
また、三公が共に田疇を招聘しましたが、これらもすべて受けませんでした。
豆知識
田疇は長安に出発する際、
「現在、帝は幼弱(10歳)であらせられ、姦臣が勝手に命令を下しております。上奏文を奉り、答書を待っておられるのでは、事を起こす機会を見逃す心配があります。
それに、公孫瓚は兵力を頼みに残忍なことも平気でやる男です。早く始末なさらなければ、きっと後悔されることになるでしょう」
と進言しましたが、劉虞は聞き入れませんでした。
そして、田疇が返書を貰い幽州に帰り着いた時には、すでに劉虞は公孫瓚によって殺害された後でした。
脚注
*5 州牧・州刺史の属吏。治中従事・別駕従事・簿曹従事・兵曹従事などがある。
関連記事
反董卓連合が劉虞を天子に推戴する。袁紹と袁術の間に生まれた亀裂
献帝が劉虞を頼る
袁術の企み
劉虞の子・劉和は、侍中として献帝に仕えていました。
献帝は洛陽(雒陽)に帰りたいと願い、「兵を率いて迎えに来るように」と、秘かに劉和を劉虞の元に派遣します。
劉和は董卓の支配地を避けるため、武関から荊州・南陽郡に入り、幽州を目指す予定でしたが、途中で袁術に会い、彼に天子の意向を説明しました。
すると袁術は、劉虞を利用して自分の手柄にしようと考え、「劉虞の軍隊が到着したら、一緒に長安に行こう」と、劉和を南陽郡に引き留めて、改めて劉虞に使者を派遣します。
公孫瓚が劉虞を諫める
これを袁術の企みと見抜いた公孫瓚は、派兵することを固く引き止めましたが、劉虞は聞く耳を持たず、ついに兵を出発させました。
すると公孫瓚は、派兵に反対したことで袁術の恨みを買うことを恐れ、従弟の公孫越を袁術の下に派遣して手を結ぶ一方で、袁術に劉和を捕らえさせ、劉虞が派遣した数千の兵を奪わせます。
これ以降、劉虞と公孫瓚の関係は益々悪化しました。
また、その後劉和は袁術の元を脱出し、幽州を目指しましたが、途中また、袁紹に引き留められました。
関連記事
反董卓連合の崩壊。袁紹が孫堅を攻め、公孫瓚は河北に覇を唱える
公孫瓚との争い
公孫瓚の扶持米を減らす
袁紹と袁術の争いにより、袁術の下に派遣されていた公孫越が戦死すると、公孫瓚は袁紹に宣戦を布告してたびたび敗れていましたが、戦いをやめようとしませんでした。
劉虞は公孫瓚がみだりに軍事行動を起こすことを憂い、また公孫瓚が袁紹を破るようなことがあれば制御できなくなることを恐れ、固く軍事行動を禁止して、徐々に公孫瓚に支給する扶持米を減らしました。
これに怒った公孫瓚はしばしば劉虞の命令に逆らい、領民の財産や劉虞が異民族に送った褒賞などを略奪するようになりましたが、劉虞はこれを抑えることができませんでした。
そこで劉虞は、公孫瓚の略奪の罪を朝廷に上奏しますが、公孫瓚もまた劉虞が扶持米を行き渡らせていないと上奏します。
お互いに非難し合う2つの上奏文が届いたため、朝廷は裁定することができませんでした。
戦いの前触れ
劉虞と公孫瓚の対立は激化の一途をたどり、ついに公孫瓚は、幽州・広陽郡・薊県内の東南、劉虞の居所の近くに土塁を築いて劉虞に備え始めます。
これに危機感を感じた劉虞は、公孫瓚を招いて和解を試みますが、公孫瓚は病気を理由に劉虞と会おうとしませんでした。
ここに至って劉虞は、秘かに公孫瓚討伐を考えるようになり、東曹掾*6の魏攸に相談します。
すると魏攸は、
「いま天下は首を伸ばして公を頼りにしております。そんな公にとって、謀臣や爪牙となる勇士は必要不可欠な存在です。
公孫瓚の文武の才能と実力は恃むに足るものであり、小さな悪はあっても容認すべきです」
と言ったので、劉虞は公孫瓚討伐を思い留まりました。
脚注
*6 太尉の属吏。太守の長吏の移動や任命および軍吏を担当する。
劉虞の出陣
初平4年(193年)冬、公孫瓚討伐を諫めた魏攸が亡くなると、抑える者のいなくなった劉虞は、公孫瓚討伐の兵を挙げるため10万人の兵を集めます。
そして、劉虞が出陣しようとしたその時、従事*5の程緒が進み出て言いました。
「公孫瓚に過ぎた悪事があったとは言え、罪名は未だ質されておりません。
明公はこれまで、教え諭して公孫瓚の行いを改めさせることができませんでした。それなのに蕭牆(内輪・一族・国内)で戦いを起こすことは、国のためとは申せません。
また、勝敗の行方は分からぬもの。兵を駐屯させ、武威を示して臨むのが最良です。
そうすれば、公孫瓚は必ずや過ちを悔いて謝罪するでしょう。これぞいわゆる『戦わずして人を服従させる』ということです」
ですが劉虞の決意は変わらず、出陣を阻んだ見せしめのため、程緒を斬ってしまいました。
劉虞と公孫瓚の戦い
公孫紀の密告
劉虞の計画を知った従事*5の公孫紀は、日頃公孫瓚が同姓の誼みで厚遇してくれていたことから、この計画をその夜のうちに公孫瓚に知らせます。
この時公孫瓚は、部曲(兵)を城外に散在させていたので、劉虞の兵の急襲を受けて逃げられなくなることを恐れ、東の城壁に穴を開けて逃走しようとしました。
劉虞の敗北
劉虞の将兵は、公孫瓚が薊県を脱出するよりも早く公孫瓚の屋敷に到着しましたが、彼らは戦いに慣れておらず、また劉虞から、
「余人(他の人)を傷つけてはならぬ。ただ1人、伯珪(公孫瓚の字)のみを殺せ」
と命じられていたので、住民の家々を焼くこともできず大切に扱ったため、ただ包囲するだけで陥落させることはできませんでした。
この様子を見た公孫瓚は、精鋭数百人を選び募って風に乗せて火を放ち、直ちに突撃をかけると、劉虞軍は大敗して、劉虞は属官と共に幽州・上谷郡・居庸県に逃走しました。
幽州
薊県と居庸県
劉虞の死
劉虞が公孫瓚に捕らわれる
公孫瓚は逃走した劉虞を追撃して居庸県を3日で陥落させ、劉虞とその妻子を捕らえます。
そして、薊県に帰還した公孫瓚は、劉虞にこれまで通り幽州の文書を処理させました。
朝廷からの使者
ちょうどその頃、天子が使者の段訓を派遣し、劉虞と公孫瓚にそれぞれ次のように告げました。
劉虞
- 封邑を加増する
- 6州の職務を統括させる
公孫瓚
- 前将軍に任命し、易侯に封じる
- 仮節(軍令違反者を処刑できる権限)を与え、幽州・幷州(并州)・青州・冀州を統括させる
これは、前述した劉虞と公孫瓚の訴えに対する朝廷の返答でしょう。
劉虞が統括する6州の内訳は記されていませんが、おそらく、
- 幽州
- 幷州(并州)
- 青州
- 冀州
- 豫州(予州)
- 兗州
の6州だと思われます。
2人の訴えに対し、
「朝廷はどちらか一方を罪に問うことはしない。劉虞は6州全体を統括し、公孫瓚は劉虞の下でその内の4州を統括せよ。それぞれ昇進したのだから争うな」
と言う訳です。
劉虞の死
ですが公孫瓚は、「以前劉虞が袁紹らと共に帝号を僭称しようとした」と誣告(事実を偽って告げること)し、段訓を脅迫して劉虞を薊県の市中に引き出させます。
公孫瓚は、劉虞の前に座って呪文を唱えてみせ、
「もしお前が天子となるべき人物であれば、天が風雨を起こして救ってくれるだろう」
と言いました。
当時、薊県は日照りが強く猛暑が続いており、雨が降るはずもなく、劉虞は処刑されてしまいました。
また公孫瓚は、劉虞の首を京師(長安)に送りましたが、劉虞の故吏の尾敦が途中でこれを奪って故郷に埋葬しました。
劉虞はその恩愛によって多くの人々の心を掴んでいたため、古くから幽州に住んでいた人々だけでなく、北方諸民族から流民に至るまで、その死を惜しまない人はいませんでした。
劉虞は清貧なことで知られ、民を慈しむ政策で領民や北方異民族の信任を得ます。
また、群雄割拠の情勢に向かう中、山東の諸将の誘いを断って漢への忠義を示しますが、指揮下の公孫瓚の暴走を抑えることができず、その手にかかって最期を迎えました。
一方で、劉虞が処刑された後、公孫瓚の兵が城内を捜索してみると、劉虞の妻妾たちは羅や紈の着物を着て煌びやかに飾り立てていたので、人々はこれまでの劉虞の清貧な行いは、表面的なパフォーマンスではないかと疑いを持つようになったと言われています。
関連記事
スポンサーリンク
劉虞データベース
劉虞関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
|
184年 |
■ 中平元年 3月
|
不明 |
|
187年 |
■ 中平4年 6月
|
188年 |
■ 中平5年 3月
9月
11月
|
189年 |
■ 中平6年 3月
4月
5月以降
9月
|
191年 |
■ 初平2年 1月
不明
7月
11月
冬
|
192年 |
■ 初平3年 1月
不明
冬
|
193年 |
■ 初平4年 不明
冬
|
配下
公孫瓚、田疇、鮮于輔、鮮于銀、魏攸、程緒、公孫紀、尾敦、斉周、閻柔