反董卓(とうたく)連合の韓馥(かんふく)・袁紹(えんしょう)らが天子(てんし)に推戴しようとした後漢(ごかん)の皇族・劉虞(りゅうぐ)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

スポンサーリンク

出自

劉虞(りゅうぐ)

出身地 / 生没年

字(あざな)

伯安(はくあん)。

出身地

徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)・郯県(たんけん)。


徐州・東海郡・郯県

徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)・郯県(たんけん)

生没年

  • 不明 〜 初平(しょへい)4年(193年)。
  • 『後漢書(ごかんじょ)』に列伝があります。
  • 『魏書(ぎしょ)』公孫瓚伝(こうそんさんでん)の注『呉書(ごしょ)』にまとまった記述があります。

家族・親族

祖先

東海恭王(とうかいきょうおう)・劉彊(りゅうきょう)。

後漢(ごかん)の初代皇帝・光武帝(こうぶてい) (劉秀(りゅうしゅう))の長子。

祖父

劉嘉(りゅうか)。

官職は光禄勲(こうろくくん)まで昇りました。

父

劉舒(りゅうしょ)。

官職は丹陽太守(たんようたいしゅ)まで昇りました。

子

劉和(りゅうか)。

侍中(じちゅう)。献帝(けんてい)の使者となって劉虞(りゅうぐ)の元に向かいました。

途中荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)で袁術(えんじゅつ)に捕らわれ、袁術(えんじゅつ)の元を脱出すると、今度は冀州(きしゅう)で袁紹(えんしょう)に引き留められました。後に袁紹(えんしょう)に従って公孫瓚(こうそんさん)と戦い、父の仇(かたき)を討ちます。


スポンサーリンク


清貧で知られる

県吏に出仕する

劉虞(りゅうぐ)は皇族として当代の天子(てんし)とは血縁が遠い間柄でしたので、故郷の徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)・郯県(たんけん)に出仕して戸曹(こそう)の役人*1となります。

そして、そこでよく身を修めて職務に励み、召(め)されて東海郡(とうかいぐん)の役人となると、さらに郡から孝廉(こうれん)に推挙されて、朝廷に入って郎(ろう)*2となりました。

脚注

*1 戸曹吏(こそうり)。県の民戸(みんこ)・祭礼・農業一般を担当します。

*2 郎官(ろうかん)。宮殿の門戸宿衛を職務とする官職の総称。宮中の廊下に控えて天子(てんし)の側近くに仕えます。

県令時代

劉虞(りゅうぐ)が兗州(えんしゅう)・東郡(とうぐん)・博平県(はくへいけん)の県令(けんれい)を務(つと)めていた時、正しく公平な政治を行い、劉虞(りゅうぐ)自身も高潔で質朴(しつぼく)(飾りけがなく純真・素直なこと)であったことから、領内に盗賊はいなくなりました。

また災害も発生しなくなり、当時、隣(となり)の県で蝗(いなご)が被害をもたらしていましたが、博平県(はくへいけん)の境まで来ても、県内には入って来ませんでした。

幽州刺史時代

異民族の信を得る

劉虞(りゅうぐ)は五経(ごきょう)*3に通じ、清潔さを保って倹約につとめ、礼儀と道徳によって領民を教え導きました。

そのため、劉虞(りゅうぐ)が幽州刺史(ゆうしゅうしし)となると、

  • 鮮卑(せんぴ)[北アジアの遊牧民族]
  • 烏桓(うがん)(烏丸(うがん))[内モンゴルの遊牧民族]
  • 夫余(ふよ)(扶餘(ふよ))[中国東北部(満州)に居住していた民族]
  • 濊貊(わいはく)[朝鮮半島北東部に居住していた民族]

などの諸民族は、みな彼の徳に感化され、季節に応じて朝貢して、あえて辺境を侵(おか)すことはありませんでした。

脚注

*3 儒学で尊重される五つの経書のこと。『易経(えききょう)』・『書経(しょきょう)』・『詩経(しきょう)』・『礼記(らいき)』・『春秋(しゅんじゅう)』の総称。

霊帝(れいてい)の配慮

洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))城内の南宮(なんきゅう)が火事で焼けた時、霊帝(れいてい)は南宮(なんきゅう)復興のため、州郡の長官に1千万銭〜2千万銭の寄付を義務づけます。

この時、裕福な者は私財をもってまかない、場合によっては領民から徴収して支払いに充(あ)てましたが、貧しくて清廉な者の中には、割り当てられた額を満たすことができず、自殺する者までいました。

そのため霊帝(れいてい)は、劉虞(りゅうぐ)が清貧で知られていることから、特別に劉虞(りゅうぐ)に課した寄付を免除しました。


その後、公務上の不祥事があり、劉虞(りゅうぐ)は責任を取って幽州刺史(ゆうしゅうしし)を辞職(じしょく)します。

甘陵相時代

甘陵相(かんりょうしょう)に任命される

中平(ちゅうへい)年間(184年〜189年)の初め、「黄巾(こうきん)の乱」が起こって冀州(きしゅう)の諸郡が攻め荒らされると、劉虞(りゅうぐ)は冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)・甘陵国(かんりょうこく)の相(しょう)(県令(けんれい))に任命されます。

劉虞(りゅうぐ)は荒廃した地域の人々を慰(なぐさ)め労(いたわ)り、質素倹約によって民を導きましたが、その後病気のため職を辞(じ)して故郷に帰りました。

故郷でのエピソード

裁判を代行する

故郷に帰った劉虞(りゅうぐ)は、名声や地位があるからと言って自分を特別扱いせず、いつもへりくだって質素な生活をし、暮らし向きを平等にして郷里の人々と苦楽を共にしました。

郷里の人々はみな彼を尊敬し、裁判沙汰が起こった時には、役人ではなく劉虞(りゅうぐ)に判断を仰(あお)ぐほどで、劉虞(りゅうぐ)はきちんと事件の筋道に従って公平に裁定をしたので、誰もが謹(つつし)んでその裁定に従い、怨恨(えんこん)を抱く者はいませんでした。

疑われた牛を与える

ある時、牛をなくした者がいて、その牛の骨格や毛色が劉虞(りゅうぐ)の牛とそっくりだったので、劉虞(りゅうぐ)の牛を自分の牛だと主張しました。

すると劉虞(りゅうぐ)は、反論することなく、その者の言うままに自分の牛を譲(ゆず)り渡します。

ですが、しばらくして本物の牛を見つけたその男は、劉虞(りゅうぐ)に牛を返して謝罪しました。


曹操(そうそう)の養曾祖父(ようそうそふ)・曹萌(そうぼう)(曹節(そうせつ))にも、これと同じような内容で、牛を豚に変えたエピソードが伝わっています。

このように、「盗んだと疑われた○○を反論せずに渡す」エピソードは、仁徳を示すエピソードとして定型化されているように思えます。

再(ふたた)び甘陵相(かんりょうしょう)に任命される

ちょうどその頃、冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)・甘陵国(かんりょうこく)がまたもや混乱状態に陥(おちい)りました。

甘陵国(かんりょうこく)の官民は劉虞(りゅうぐ)の治績(ちせき)(政治上の実績)を慕(した)っていたので、劉虞(りゅうぐ)は再(ふたた)び甘陵相(かんりょうしょう)に任命され、甘陵国(かんりょうこく)の混乱は治まりました。


その後劉虞(りゅうぐ)は中央に召し返されて、尚書令(しょうしょれい)、光禄勲(こうろくくん)を歴任し、皇族の中でも特に礼儀をわきまえた人物だったことから、改めて宗正(そうせい)に任命されました。


スポンサーリンク


幽州牧時代

幽州牧に任命される

張純(ちょうじゅん)の乱

中平(ちゅうへい)元年(184年)冬に起こった「辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)の乱」の討伐の際、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・張温(ちょうおん)に徴発されていた幽州(ゆうしゅう)の烏桓突騎(うがんとっき)3千が、扶持米(ふちまい)が滞(とどこお)ったため、命令に背(そむ)いて幽州(ゆうしゅう)に帰ってしまいました。

中平(ちゅうへい)4年(187年)6月、これを知った前(さき)の中山相(ちゅうざんしょう)・張純(ちょうじゅん)は、秘かに前(さき)の泰山太守(たいざんたいしゅ)・張挙(ちょうきょ)と烏桓(うがん)の大人(たいじん)・丘力居(きゅうりききょ)、同じく烏桓(うがん)の峭王(しょうおう)らを誘って幽州(ゆうしゅう)・広陽郡(こうようぐん)・薊県(けいけん)で反乱を起こします。

張純(ちょうじゅん)らの軍勢は10余万人にふくれ上がり、青州(せいしゅう)や冀州(きしゅう)にも侵入して吏民を殺害しました。

関連記事

幽州の反乱「張純の乱」とは。公孫瓚の台頭と劉虞との確執

幽州牧(ゆうしゅうぼく)に任命される

反乱した烏桓突騎(うがんとっき)を任されていた公孫瓚(こうそんさん)は、自(みずか)ら統括する軍勢を率(ひき)いて張純(ちょうじゅん)らの討伐を行いますが、反乱を鎮圧することができずにいました。

そこで朝廷は、幽州(ゆうしゅう)の民や北方異民族の信頼を得ている劉虞(りゅうぐ)を幽州牧(ゆうしゅうぼく)に任命して、温徳によって反乱を平定させることにします。中平(ちゅうへい)5年(188年)3月のことです。

着任した劉虞(りゅうぐ)は、すぐに駐屯させていた兵を解散させると、峭王(しょうおう)らに使者を派遣して「改心して降伏すること」を勧め、また一方で張挙(ちょうきょ)と張純(ちょうじゅん)の首に懸賞金をかけました。


その結果、張挙(ちょうきょ)と張純(ちょうじゅん)は塞(とりで)を出て逃亡し、その他はみな降伏。張純(ちょうじゅん)は食客の王政(おうせい)に殺害され、その首は劉虞(りゅうぐ)の元に送り届けられます。

この功績により、霊帝(れいてい)は劉虞(りゅうぐ)を太尉(たいい)に任命し、容丘侯(ようきゅうこう)に封じました。

豆知識

『魏書(ぎしょ)』公孫瓚伝(こうそんさんでん)の注に引く『英雄記(えいゆうき)』には、


「劉虞(りゅうぐ)は太尉(たいい)の位を辞退し、同時に衛尉(えいい)の趙謨(ちょうぼ)、益州牧(えきしゅうぼく)の劉焉(りゅうえん)、豫州牧(よしゅうぼく)の黄琬(こうえん)、南陽太守(なんようたいしゅ)の羊続(ようぞく)を推薦したところ、揃(そろ)って三公(さんこう)に任命された」


とあります。

公孫瓚(こうそんさん)の妨害

劉虞(りゅうぐ)が温徳をもって烏桓(うがん)を帰順させたことは、これまで最前線で烏桓(うがん)討伐の指揮を執(と)ってきた公孫瓚(こうそんさん)には面白くありません。

公孫瓚(こうそんさん)は劉虞(りゅうぐ)の指揮下にありながら、丘力居(きゅうりききょ)らが劉虞(りゅうぐ)に派遣した使者を待ち伏せて殺害するなど、劉虞(りゅうぐ)の手柄を妨害しました。

反董卓連合の決起

董卓(とうたく)による支配

中平(ちゅうへい)6年(189年)9月、朝廷で権力を掌握した董卓(とうたく)が、使者を派遣して劉虞(りゅうぐ)を大司馬(だいしば)に昇進させ、襄賁侯(じょうひこう)に封じました。

また董卓(とうたく)は、袁隗(えんかい)に代えて劉虞(りゅうぐ)を太傅(たいふ)に任命しようとしますが、この時すでに反董卓(とうたく)連合が決起した後で、道がふさがれていたため、この命令は劉虞(りゅうぐ)の元に届きませんでした。

劉虞(りゅうぐ)の幽州(ゆうしゅう)統治

異民族の支配地と接している幽州(ゆうしゅう)は防備のための経費が莫大にかかるため、青州(せいしゅう)と冀州(きしゅう)の賦税(ふぜい)から毎年 2億銭 余りが幽州(ゆうしゅう)の経費として割り当てられていました。

この時、戦乱により所々で道が断絶して物資の輸送が滞(とどこお)っていましたが、劉虞(りゅうぐ)は農業を奨励し、上谷郡(じょうこくぐん)の胡市(こし)*4や漁陽郡(ぎょようぐん)の豊富な塩と鉄の取引で利益をあげて不足分を補(おぎな)ったので、幽州(ゆうしゅう)は豊作となりました。

そのため、青州(せいしゅう)や徐州(じょしゅう)から黄巾(こうきん)の難を逃れて幽州(ゆうしゅう)に身を寄せた者は百万人を越えましたが、劉虞(りゅうぐ)はそのすべてを受け入れて労(いたわ)り憐(あわ)れんで生業(なりわい)を与えたので、流民たちはみな、故郷から移ってきたことを忘れるほどでした。


また、劉虞(りゅうぐ)は上公(じょうこう)でありながら常に節約を旨(むね)とし、ほつれた着物を着て縄(なわ)で編(あ)んだ履(くつ)をはき、食事の際も、1度に2種類以上の肉を食べることはありませんでした。

そのため、豪族の中でかねてより贅沢をしていた者たちは、誰もが劉虞(りゅうぐ)に心服して日頃の行いを改めました。

脚注

*4 国境の関所に設けられた漢人と非漢人が交易するための市場のこと。

天子に推戴される

天子(てんし)に推戴される

初平(しょへい)2年(191年)1月、冀州刺史(きしゅうしし)・韓馥(かんふく)と勃海太守(ぼっかいたいしゅ)・袁紹(えんしょう)をはじめとする山東(さんとう)の諸将たちは、


「朝廷(天子(てんし))は幼(おさな)く、董卓(とうたく)に脅(おど)され、函谷関(かんこくかん)や桃林塞(とうりんさい)に遠く隔(へだ)てられて、その安否さえも分からない。対して劉虞(りゅうぐ)は、宗室(そうしつ)(皇室)の年長者である。天子(てんし)に立てて天下の主(あるじ)としようではないか」


と言い、元楽浪太守(らくろうたいしゅ)の張岐(ちょうき)たちを派遣して、劉虞(りゅうぐ)に天子(てんし)の尊号を奉(たてまつ)りました。

すると劉虞(りゅうぐ)は、


「いま天下は崩壊し、天子(てんし)は都を避けておられる。私は深くご恩を蒙(こうむ)りながら、未(いま)だ国の恥を雪(そそ)ぐこともできていない。

諸君らは各々(おのおの)州郡を拠点とし、共に力を合わせて王室のために尽力すべきであるのに、却(かえ)って漢(かん)への反逆を謀(はか)り、恥辱に塗(まみ)れた誤(あやま)った行動をすると言うのかっ!」


と、血相を変えて彼らを叱(しか)りつけます。

劉虞(りゅうぐ)の返答を聞いた韓馥(かんふく)たちは、せめて劉虞(りゅうぐ)に尚書(しょうしょ)の職務を兼任させようと、詔(みことのり)を受けたとして官爵を授(さず)けようとしますが、劉虞(りゅうぐ)は承知せず、使者を捕らえて斬り捨ててしまいました。

献帝(けんてい)に使者を送る

劉虞(りゅうぐ)は、


「賊臣が動乱を引き起こし、朝廷は都を離れて流浪なされ、また、四海の内は慌(あわ)てふためき、気持ちを動揺させない者はない。

我が身は皇族として先代からの老臣に数えられており、当然、一般民衆と同じわけにはいかぬ。今、使者を派遣し奉(たてまつ)り、臣下としての節義を捧(ささ)げたい」


と言って、掾(えん)の田疇(でんちゅう)を従事(じゅうじ)*5に任命し、同じく従事(じゅうじ)*5の鮮于銀(せんうぎん)と共に、秘かに険阻な道を通って長安(ちょうあん)にいる献帝(けんてい)の元に派遣します。

洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に帰りたいと願っていた献帝(けんてい)は、田疇(でんちゅう)たちを見て大変喜びました。


この時田疇(でんちゅう)は、勅命によって騎都尉(きとい)に任命されましたが、「天子(てんし)が都(みやこ)[洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))]を離れて落ち着くことも叶(かな)わぬのに、栄誉恩寵を頂くわけにはいかない」と、固く辞退しました。

また、三公(さんこう)が共に田疇(でんちゅう)を招聘(しょうへい)しましたが、これらもすべて受けませんでした。

豆知識

田疇(でんちゅう)は長安(ちょうあん)に出発する際、


「現在、帝(みかど)は幼弱(10歳)であらせられ、姦臣が勝手に命令を下しております。上奏文を奉(たてまつ)り、答書を待っておられるのでは、事を起こす機会を見逃す心配があります。

それに、公孫瓚(こうそんさん)は兵力を頼みに残忍なことも平気でやる男です。早く始末なさらなければ、きっと後悔されることになるでしょう」


と進言しましたが、劉虞(りゅうぐ)は聞き入れませんでした。

そして、田疇(でんちゅう)が返書を貰い幽州(ゆうしゅう)に帰り着いた時には、すでに劉虞(りゅうぐ)は公孫瓚(こうそんさん)によって殺害された後でした。

脚注

*5 州牧・州刺史の属吏。治中従事・別駕従事・簿曹従事・兵曹従事などがある。

関連記事

反董卓連合が劉虞を天子に推戴する。袁紹と袁術の間に生まれた亀裂

献帝が劉虞を頼る

袁術(えんじゅつ)の企(たくら)み

劉虞(りゅうぐ)の子・劉和(りゅうか)は、侍中(じちゅう)として献帝(けんてい)に仕えていました。

献帝(けんてい)は洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に帰りたいと願い、「兵を率(ひき)いて迎えに来るように」と、秘かに劉和(りゅうか)を劉虞(りゅうぐ)の元に派遣します。


劉和(りゅうか)は董卓(とうたく)の支配地を避けるため、武関(ぶかん)から荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)に入り、幽州(ゆうしゅう)を目指す予定でしたが、途中で袁術(えんじゅつ)に会い、彼に天子(てんし)の意向を説明しました。

すると袁術(えんじゅつ)は、劉虞(りゅうぐ)を利用して自分の手柄にしようと考え、「劉虞(りゅうぐ)の軍隊が到着したら、一緒に長安(ちょうあん)に行こう」と、劉和(りゅうか)を南陽郡(なんようぐん)に引き留めて、改めて劉虞(りゅうぐ)に使者を派遣します。

公孫瓚(こうそんさん)が劉虞(りゅうぐ)を諫(いさ)める

これを袁術(えんじゅつ)の企(たくら)みと見抜いた公孫瓚(こうそんさん)は、派兵することを固く引き止めましたが、劉虞(りゅうぐ)は聞く耳を持たず、ついに兵を出発させました。

すると公孫瓚(こうそんさん)は、派兵に反対したことで袁術(えんじゅつ)の恨(うら)みを買うことを恐れ、従弟の公孫越(こうそんえつ)を袁術(えんじゅつ)の下に派遣して手を結ぶ一方で、袁術(えんじゅつ)に劉和(りゅうか)を捕らえさせ、劉虞(りゅうぐ)が派遣した数千の兵を奪わせます。

これ以降、劉虞(りゅうぐ)と公孫瓚(こうそんさん)の関係は益々悪化しました。

また、その後劉和(りゅうか)は袁術(えんじゅつ)の元を脱出し、幽州(ゆうしゅう)を目指しましたが、途中また、袁紹(えんしょう)に引き留(と)められました。

関連記事

反董卓連合の崩壊。袁紹が孫堅を攻め、公孫瓚は河北に覇を唱える

公孫瓚との争い

公孫瓚(こうそんさん)の扶持米(ふちまい)を減らす

袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)の争いにより、袁術(えんじゅつ)の下に派遣されていた公孫越(こうそんえつ)が戦死すると、公孫瓚(こうそんさん)は袁紹(えんしょう)に宣戦を布告してたびたび敗れていましたが、戦いをやめようとしませんでした。

劉虞(りゅうぐ)は公孫瓚(こうそんさん)がみだりに軍事行動を起こすことを憂(うれ)い、また公孫瓚(こうそんさん)が袁紹(えんしょう)を破るようなことがあれば制御できなくなることを恐れ、固く軍事行動を禁止して、徐々に公孫瓚(こうそんさん)に支給する扶持米(ふちまい)を減らしました。

これに怒った公孫瓚(こうそんさん)はしばしば劉虞(りゅうぐ)の命令に逆らい、領民の財産や劉虞(りゅうぐ)が異民族に送った褒賞などを略奪するようになりましたが、劉虞(りゅうぐ)はこれを抑(おさ)えることができませんでした。


そこで劉虞(りゅうぐ)は、公孫瓚(こうそんさん)の略奪の罪を朝廷に上奏しますが、公孫瓚(こうそんさん)もまた劉虞(りゅうぐ)が扶持米(ふちまい)を行き渡らせていないと上奏します。

お互いに非難し合う2つの上奏文が届いたため、朝廷は裁定することができませんでした。

戦いの前触れ

劉虞(りゅうぐ)と公孫瓚(こうそんさん)の対立は激化の一途をたどり、ついに公孫瓚(こうそんさん)は、幽州(ゆうしゅう)・広陽郡(こうようぐん)・薊県(けいけん)内の東南、劉虞(りゅうぐ)の居所の近くに土塁(どるい)を築(きず)いて劉虞(りゅうぐ)に備え始めます。

これに危機感を感じた劉虞(りゅうぐ)は、公孫瓚(こうそんさん)を招(まね)いて和解を試(こころ)みますが、公孫瓚(こうそんさん)は病気を理由に劉虞(りゅうぐ)と会おうとしませんでした。

ここに至って劉虞(りゅうぐ)は、秘かに公孫瓚(こうそんさん)討伐を考えるようになり、東曹掾(とうそうえん)*6の魏攸(ぎゆう)に相談します。

すると魏攸(ぎゆう)は、


「いま天下は首を伸ばして公(あなた)を頼りにしております。そんな公(あなた)にとって、謀臣や爪牙となる勇士は必要不可欠な存在です。

公孫瓚(こうそんさん)の文武の才能と実力は恃(たの)むに足るものであり、小さな悪はあっても容認すべきです」


と言ったので、劉虞(りゅうぐ)は公孫瓚(こうそんさん)討伐を思い留(とど)まりました。

脚注

*6 太尉の属吏。太守の長吏の移動や任命および軍吏を担当する。

劉虞(りゅうぐ)の出陣

初平(しょへい)4年(193年)冬、公孫瓚(こうそんさん)討伐を諫(いさ)めた魏攸(ぎゆう)が亡くなると、抑(おさ)える者のいなくなった劉虞(りゅうぐ)は、公孫瓚(こうそんさん)討伐の兵を挙(あ)げるため10万人の兵を集めます。

そして、劉虞(りゅうぐ)が出陣しようとしたその時、従事(じゅうじ)*5の程緒(ていしょ)が進み出て言いました。


「公孫瓚(こうそんさん)に過ぎた悪事があったとは言え、罪名は未(いま)だ質(ただ)されておりません。

明公(あなた)はこれまで、教え諭(さと)して公孫瓚(こうそんさん)の行いを改めさせることができませんでした。それなのに蕭牆(しょうしょう)(内輪・一族・国内)で戦いを起こすことは、国のためとは申せません。

また、勝敗の行方(ゆくえ)は分からぬもの。兵を駐屯させ、武威を示して臨(のぞ)むのが最良です。

そうすれば、公孫瓚(こうそんさん)は必ずや過(あやま)ちを悔(く)いて謝罪するでしょう。これぞいわゆる『戦わずして人を服従させる』ということです」


ですが劉虞(りゅうぐ)の決意は変わらず、出陣を阻(はば)んだ見せしめのため、程緒(ていしょ)を斬ってしまいました。

劉虞(りゅうぐ)と公孫瓚(こうそんさん)の戦い

公孫紀の密告

劉虞(りゅうぐ)の計画を知った従事(じゅうじ)*5の公孫紀(こうそんき)は、日頃公孫瓚(こうそんさん)が同姓の誼(よし)みで厚遇してくれていたことから、この計画をその夜のうちに公孫瓚(こうそんさん)に知らせます。


この時公孫瓚(こうそんさん)は、部曲(兵)を城外に散在させていたので、劉虞(りゅうぐ)の兵の急襲を受けて逃げられなくなることを恐れ、東の城壁に穴を開けて逃走しようとしました。

劉虞の敗北

劉虞(りゅうぐ)の将兵は、公孫瓚(こうそんさん)が薊県(けいけん)を脱出するよりも早く公孫瓚(こうそんさん)の屋敷に到着しましたが、彼らは戦いに慣れておらず、また劉虞(りゅうぐ)から、


「余人(他の人)を傷つけてはならぬ。ただ1人、伯珪(はくけい)(公孫瓚(こうそんさん)の字(あざな))のみを殺せ」


と命じられていたので、住民の家々を焼くこともできず大切に扱ったため、ただ包囲するだけで陥落させることはできませんでした。


この様子を見た公孫瓚(こうそんさん)は、精鋭数百人を選び募(つの)って風に乗せて火を放ち、直(ただ)ちに突撃をかけると、劉虞(りゅうぐ)軍は大敗して、劉虞(りゅうぐ)は属官と共に幽州(ゆうしゅう)・上谷郡(じょうこくぐん)・居庸県(きょようけん)に逃走しました。


幽州(ゆうしゅう)の領郡

幽州(ゆうしゅう)


薊県(けいけん)と居庸県(きょようけん)

薊県(けいけん)と居庸県(きょようけん)

劉虞の死

劉虞(りゅうぐ)が公孫瓚(こうそんさん)に捕らわれる

公孫瓚(こうそんさん)は逃走した劉虞(りゅうぐ)を追撃して居庸県(きょようけんを3日で陥落させ、劉虞(りゅうぐ)とその妻子を捕らえます。

そして、薊県(けいけん)に帰還した公孫瓚(こうそんさん)は、劉虞(りゅうぐ)にこれまで通り幽州(ゆうしゅう)の文書を処理させました。

朝廷からの使者

ちょうどその頃、天子(てんし)が使者の段訓(だんくん)を派遣し、劉虞(りゅうぐ)と公孫瓚(こうそんさん)にそれぞれ次のように告げました。

劉虞
  • 封邑(ほうゆう)を加増する
  • 6州の職務を統括させる
公孫瓚
  • 前将軍(ぜんしょうぐん)に任命し、易侯(えきこう)に封じる
  • 仮節(かせつ)(軍令違反者を処刑できる権限)を与え、幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・青州(せいしゅう)・冀州(きしゅう)を統括させる

これは、前述した劉虞(りゅうぐ)と公孫瓚(こうそんさん)の訴えに対する朝廷の返答でしょう。

劉虞(りゅうぐ)が統括する6州の内訳は記(しる)されていませんが、おそらく、

  • 幽州(ゆうしゅう)
  • 幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))
  • 青州(せいしゅう)
  • 冀州(きしゅう)
  • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))
  • 兗州(えんしゅう)

の6州だと思われます。

2人の訴えに対し、

「朝廷はどちらか一方を罪に問うことはしない。劉虞(りゅうぐ)は6州全体を統括し、公孫瓚(こうそんさん)は劉虞(りゅうぐ)の下でその内の4州を統括せよ。それぞれ昇進したのだから争うな」

と言う訳です。

劉虞(りゅうぐ)の死

ですが公孫瓚(こうそんさん)は、「以前劉虞(りゅうぐ)が袁紹(えんしょう)らと共に帝号を僭称(せんしょう)しようとした」と誣告(ぶこく)(事実を偽って告げること)し、段訓(だんくん)を脅迫して劉虞(りゅうぐ)を薊県(けいけん)の市中に引き出させます。


公孫瓚(こうそんさん)は、劉虞(りゅうぐ)の前に座って呪文を唱(とな)えてみせ、


「もしお前が天子(てんし)となるべき人物であれば、天が風雨を起こして救ってくれるだろう」


と言いました。

当時、薊県(けいけん)は日照りが強く猛暑が続いており、雨が降るはずもなく、劉虞(りゅうぐ)は処刑されてしまいました。


また公孫瓚(こうそんさん)は、劉虞(りゅうぐ)の首を京師(けいし)(長安(ちょうあん))に送りましたが、劉虞(りゅうぐ)の故吏(こり)の尾敦(びとん)が途中でこれを奪って故郷に埋葬しました。

劉虞(りゅうぐ)はその恩愛によって多くの人々の心を掴(つか)んでいたため、古くから幽州(ゆうしゅう)に住んでいた人々だけでなく、北方諸民族から流民に至るまで、その死を惜(お)しまない人はいませんでした。


劉虞(りゅうぐ)は清貧なことで知られ、民を慈(いつく)しむ政策で領民や北方異民族の信任を得ます。

また、群雄割拠の情勢に向かう中、山東(さんとう)の諸将の誘いを断って漢(かん)への忠義を示しますが、指揮下の公孫瓚(こうそんさん)の暴走を抑(おさ)えることができず、その手にかかって最期を迎えました。


一方で、劉虞(りゅうぐ)が処刑された後、公孫瓚(こうそんさん)の兵が城内を捜索してみると、劉虞(りゅうぐ)の妻妾たちは羅(うすぎぬ)や紈(しろぎぬ)の着物を着て煌(きら)びやかに飾り立てていたので、人々はこれまでの劉虞(りゅうぐ)の清貧な行いは、表面的なパフォーマンスではないかと疑いを持つようになったと言われています。

関連記事

劉虞が公孫瓚討伐の兵を挙げる。劉虞と公孫瓚の争いまとめ


スポンサーリンク


スポンサーリンク

劉虞データベース

劉虞関連年表

西暦 出来事
不明
  • 徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)・郯県(たんけん)に出仕して戸曹(こそう)*1となる。
  • 東海郡(とうかいぐん)の役人となる。
  • 孝廉(こうれん)に推挙されて郎(ろう)*2となる。
  • 博平令(はくへいれい)(兗州(えんしゅう)・東郡(とうぐん)・博平県(はくへいけん)の県令(けんれい))に任命される。
  • 幽州刺史(ゆうしゅうしし)に任命され、北方異民族の信任を得る。
  • 幽州刺史(ゆうしゅうしし)を辞職(じしょく)する。
184年

■ 中平(ちゅうへい)元年

3月

  • 黄巾(こうきん)の乱が起こる。
不明
  • 甘陵相(かんりょうしょう)(冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)・甘陵国(かんりょうこく)の県令(けんれい))に任命される。
  • 病気のため職を辞(じ)して故郷に帰る。
  • 再び甘陵相(かんりょうしょう)に任命される。
  • 尚書令(しょうしょれい)に任命される。
  • 光禄勲(こうろくくん)に任命される。
  • 宗正(そうせい)に任命される。
187年

■ 中平(ちゅうへい)4年

6月

  • 張純(ちょうじゅん)の乱が起こる。
188年

■ 中平(ちゅうへい)5年

3月

  • 劉虞(りゅうぐ)が幽州牧(ゆうしゅうぼく)に任命される。

9月

  • 中郎将(ちゅうろうしょう)の孟益(もうえき)が公孫瓚(こうそんさん)を率いて張純(ちょうじゅん)らを討伐する。

11月

  • 公孫瓚(こうそんさん)が遼東属国(りょうとうぞっこく)の石門山(せきもんさん)で大勝する。
  • 張純(ちょうじゅん)が鮮卑(せんぴ)を頼って長城の外に逃亡する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が遼西郡(りょうせいぐん)の管子城(かんしじょう)で丘力居(きゅうりききょ)に包囲される。(200余日)
189年

■ 中平(ちゅうへい)6年

3月

  • 劉虞(りゅうぐ)が北方異民族を帰順させる。
  • 劉虞(りゅうぐ)が張純(ちょうじゅん)の首に懸賞金をかけ、張純(ちょうじゅん)の食客・王政(おうせい)が張純(ちょうじゅん)を斬る。

4月

  • 劉虞(りゅうぐ)が太尉(たいい)・容丘侯(ようきゅうこう)に任命される。

5月以降

  • 丘力居(きゅうりききょ)が柳城県(りゅうじょうけん)に撤退する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が遼東属国長史(りょうとうぞっこくちょうし)を兼ね、北方異民族に睨(にら)みを利(き)かす。
  • 烏桓(うがん)を帰順させた劉虞(りゅうぐ)と掃討しようとする公孫瓚(こうそんさん)が対立する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が劉虞(りゅうぐ)に帰順した丘力居(きゅうりききょ)らの使者を殺害する。

9月

  • 劉虞(りゅうぐ)が大司馬(だいしば)に任命される。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が奮武将軍(ふんぶしょうぐん)・薊侯(けいこう)に任命される。
191年

■ 初平(しょへい)2年

1月

  • 袁紹(えんしょう)・韓馥(かんふく)らが劉虞(りゅうぐ)を天子(てんし)に立てようとする。
  • 劉虞(りゅうぐ)が献帝(けんてい)に田疇(でんちゅう)と鮮于銀(せんうぎん)を派遣する。

不明

  • 献帝(けんてい)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))帰りたいと劉虞(りゅうぐ)に劉和(りゅうか)を派遣する。
  • 袁術(えんじゅつ)が劉和(りゅうか)を留(とど)め、劉虞(りゅうぐ)に派兵を要請する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が派兵しようとする劉虞(りゅうぐ)を諫言(かんげん)する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が袁術(えんじゅつ)の元に従弟の公孫越(こうそんえつ)を派遣する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が袁術(えんじゅつ)に劉虞(りゅうぐ)の兵を奪わせる。
  • 袁紹(えんしょう)の要請を受け、公孫瓚(こうそんさん)が冀州(きしゅう)に侵攻する。

7月

  • 韓馥(かんふく)が袁紹(えんしょう)に冀州(きしゅう)を譲る。

11月

  • 公孫瓚(こうそんさん)が冀州(きしゅう)・勃海郡(ぼっかいぐん)・東光県(とうこうけん)に侵入した黄巾賊を撃ち破る。

冬

  • 袁紹(えんしょう)が豫州(よしゅう)に侵攻し、孫堅(そんけん)と袁術(えんじゅつ)が撃退する。
  • 袁術(えんじゅつ)の下に派遣されていた公孫越(こうそんえつ)が戦死する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が冀州(きしゅう)に侵攻する。(磐河(ばんが)の戦い)
192年

■ 初平(しょへい)3年

1月

  • 袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)が界橋(かいきょう)で戦い公孫瓚(こうそんさん)が大敗する。(界橋(かいきょう)の戦い)
  • 袁紹(えんしょう)配下の崔巨業(さいきょぎょう)が幽州(ゆうしゅう)・涿郡(たくぐん)・故安県(こあんけん)を包囲する。

不明

  • 公孫瓚(こうそんさん)が崔巨業(さいきょぎょう)を破り勢力を回復する。(巨馬水(きょばすい)の戦い)

冬

  • 公孫瓚(こうそんさん)が劉備(りゅうび)・単経(ぜんけい)・陶謙(とうけん)を派遣して袁紹(えんしょう)に圧力をかける。
  • 袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)が劉備(りゅうび)・単経(ぜんけい)・陶謙(とうけん)を撃ち破る。(龍湊(りゅうそう)の戦い)
193年

■ 初平(しょへい)4年

不明

  • 劉虞(りゅうぐ)が公孫瓚(こうそんさん)討伐を考える。
  • 魏攸(ぎゆう)が劉虞(りゅうぐ)を諫(いさ)める。

冬

  • 魏攸(ぎゆう)が亡くなる。
  • 劉虞(りゅうぐ)が公孫瓚(こうそんさん)討伐の兵を挙げる。
  • 劉虞(りゅうぐ)が幽州(ゆうしゅう)・上谷郡(じょうこくぐん)・居庸県(きょようけん)に逃走する。
  • 公孫瓚(こうそんさんが居庸県(きょようけん)を落とし、劉虞(りゅうぐ)を捕らえる。
  • 朝廷の使者・段訓(だんくん)が派遣される。
  • 劉虞(りゅうぐ)が処刑される。

配下

公孫瓚(こうそんさん)、田疇(でんちゅう)、鮮于輔(せんうほ)、鮮于銀(せんうぎん)、魏攸(ぎゆう)、程緒(ていしょ)、公孫紀(こうそんき)、尾敦(びとん)、斉周(せいしゅう)、閻柔(えんじゅう)

関連記事

三国志人物伝【一覧】