董卓とうたく連合の韓馥かんふく袁紹えんしょうらが天子てんしに推戴しようとした後漢ごかんの皇族・劉虞りゅうぐとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

劉虞(りゅうぐ)

出身地 / 生没年

あざな

伯安はくあん

出身地

徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけん


徐州・東海郡・郯県

徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけん

生没年

  • 不明 〜 初平しょへい4年(193年)。
  • 後漢書ごかんじょに列伝があります。
  • 魏書ぎしょ公孫瓚伝こうそんさんでんの注呉書ごしょにまとまった記述があります。

家族・親族

祖先

東海恭王とうかいきょうおう劉彊りゅうきょう

後漢ごかんの初代皇帝・光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の長子。

祖父

劉嘉りゅうか

官職は光禄勲こうろくくんまで昇りました。

劉舒りゅうしょ

官職は丹陽太守たんようたいしゅまで昇りました。

劉和りゅうか

侍中じちゅう献帝けんていの使者となって劉虞りゅうぐの元に向かいました。

途中荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん袁術えんじゅつに捕らわれ、袁術えんじゅつの元を脱出すると、今度は冀州きしゅう袁紹えんしょうに引き留められました。後に袁紹えんしょうに従って公孫瓚こうそんさんと戦い、父のかたきを討ちます。


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清貧で知られる

県吏に出仕する

劉虞りゅうぐは皇族として当代の天子てんしとは血縁が遠い間柄でしたので、故郷の徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけんに出仕して戸曹こそうの役人*1となります。

そして、そこでよく身を修めて職務に励み、されて東海郡とうかいぐんの役人となると、さらに郡から孝廉こうれんに推挙されて、朝廷に入ってろう*2となりました。

脚注

*1 戸曹吏こそうり)。県の民戸みんこ・祭礼・農業一般を担当します。

*2 郎官ろうかん)。宮殿の門戸宿衛を職務とする官職の総称。宮中の廊下に控えて天子(てんし)の側近くに仕えます。

県令時代

劉虞りゅうぐ兗州えんしゅう東郡とうぐん博平県はくへいけん県令けんれいつとめていた時、正しく公平な政治を行い、劉虞りゅうぐ自身も高潔で質朴しつぼく(飾りけがなく純真・素直なこと)であったことから、領内に盗賊はいなくなりました。

また災害も発生しなくなり、当時、となりの県でいなごが被害をもたらしていましたが、博平県はくへいけんの境まで来ても、県内には入って来ませんでした。

幽州刺史時代

異民族の信を得る

劉虞りゅうぐ五経ごきょう*3に通じ、清潔さを保って倹約につとめ、礼儀と道徳によって領民を教え導きました。

そのため、劉虞りゅうぐ幽州刺史ゆうしゅうししとなると、

  • 鮮卑せんぴ[北アジアの遊牧民族]
  • 烏桓うがん烏丸うがん)[内モンゴルの遊牧民族]
  • 夫余ふよ扶餘ふよ)[中国東北部(満州)に居住していた民族]
  • 濊貊わいはく[朝鮮半島北東部に居住していた民族]

などの諸民族は、みな彼の徳に感化され、季節に応じて朝貢して、あえて辺境をおかすことはありませんでした。

脚注

*3 儒学で尊重される五つの経書のこと。『易経(えききょう)』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)』の総称。

霊帝れいていの配慮

洛陽らくよう雒陽らくよう)城内の南宮なんきゅうが火事で焼けた時、霊帝れいてい南宮なんきゅう復興のため、州郡の長官に1千万銭〜2千万銭の寄付を義務づけます。

この時、裕福な者は私財をもってまかない、場合によっては領民から徴収して支払いにてましたが、貧しくて清廉な者の中には、割り当てられた額を満たすことができず、自殺する者までいました。

そのため霊帝れいていは、劉虞りゅうぐが清貧で知られていることから、特別に劉虞りゅうぐに課した寄付を免除しました。


その後、公務上の不祥事があり、劉虞りゅうぐは責任を取って幽州刺史ゆうしゅうしし辞職じしょくします。

甘陵相時代

甘陵相かんりょうしょうに任命される

中平ちゅうへい年間(184年〜189年)の初め、「黄巾こうきんの乱」が起こって冀州きしゅうの諸郡が攻め荒らされると、劉虞りゅうぐ冀州きしゅう清河国せいがこく甘陵国かんりょうこくしょう県令けんれい)に任命されます。

劉虞りゅうぐは荒廃した地域の人々をなぐさいたわり、質素倹約によって民を導きましたが、その後病気のため職をして故郷に帰りました。

故郷でのエピソード

裁判を代行する

故郷に帰った劉虞りゅうぐは、名声や地位があるからと言って自分を特別扱いせず、いつもへりくだって質素な生活をし、暮らし向きを平等にして郷里の人々と苦楽を共にしました。

郷里の人々はみな彼を尊敬し、裁判沙汰が起こった時には、役人ではなく劉虞りゅうぐに判断をあおぐほどで、劉虞りゅうぐはきちんと事件の筋道に従って公平に裁定をしたので、誰もがつつしんでその裁定に従い、怨恨えんこんを抱く者はいませんでした。

疑われた牛を与える

ある時、牛をなくした者がいて、その牛の骨格や毛色が劉虞りゅうぐの牛とそっくりだったので、劉虞りゅうぐの牛を自分の牛だと主張しました。

すると劉虞りゅうぐは、反論することなく、その者の言うままに自分の牛をゆずり渡します。

ですが、しばらくして本物の牛を見つけたその男は、劉虞りゅうぐに牛を返して謝罪しました。


曹操そうそう養曾祖父ようそうそふ曹萌そうぼう曹節そうせつ)にも、これと同じような内容で、牛を豚に変えたエピソードが伝わっています。

このように、「盗んだと疑われた○○を反論せずに渡す」エピソードは、仁徳を示すエピソードとして定型化されているように思えます。

ふたた甘陵相かんりょうしょうに任命される

ちょうどその頃、冀州きしゅう清河国せいがこく甘陵国かんりょうこくがまたもや混乱状態におちいりました。

甘陵国かんりょうこくの官民は劉虞りゅうぐ治績ちせき(政治上の実績)をしたっていたので、劉虞りゅうぐふたた甘陵相かんりょうしょうに任命され、甘陵国かんりょうこくの混乱は治まりました。


その後劉虞りゅうぐは中央に召し返されて、尚書令しょうしょれい光禄勲こうろくくんを歴任し、皇族の中でも特に礼儀をわきまえた人物だったことから、改めて宗正そうせいに任命されました。


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幽州牧時代

幽州牧に任命される

張純ちょうじゅんの乱

中平ちゅうへい元年(184年)冬に起こった「辺章へんしょう韓遂かんすいの乱」の討伐の際、車騎将軍しゃきしょうぐん張温ちょうおんに徴発されていた幽州ゆうしゅう烏桓突騎うがんとっき3千が、扶持米ふちまいとどこおったため、命令にそむいて幽州ゆうしゅうに帰ってしまいました。

中平ちゅうへい4年(187年)6月、これを知ったさき中山相ちゅうざんしょう張純ちょうじゅんは、秘かにさき泰山太守たいざんたいしゅ張挙ちょうきょ烏桓うがん大人たいじん丘力居きゅうりききょ、同じく烏桓うがん峭王しょうおうらを誘って幽州ゆうしゅう広陽郡こうようぐん薊県けいけんで反乱を起こします。

張純ちょうじゅんらの軍勢は10余万人にふくれ上がり、青州せいしゅう冀州きしゅうにも侵入して吏民を殺害しました。

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幽州牧ゆうしゅうぼくに任命される

反乱した烏桓突騎うがんとっきを任されていた公孫瓚こうそんさんは、みずから統括する軍勢をひきいて張純ちょうじゅんらの討伐を行いますが、反乱を鎮圧することができずにいました。

そこで朝廷は、幽州ゆうしゅうの民や北方異民族の信頼を得ている劉虞りゅうぐ幽州牧ゆうしゅうぼくに任命して、温徳によって反乱を平定させることにします。中平ちゅうへい5年(188年)3月のことです。

着任した劉虞りゅうぐは、すぐに駐屯させていた兵を解散させると、峭王しょうおうらに使者を派遣して「改心して降伏すること」を勧め、また一方で張挙ちょうきょ張純ちょうじゅんの首に懸賞金をかけました。


その結果、張挙ちょうきょ張純ちょうじゅんとりでを出て逃亡し、その他はみな降伏。張純ちょうじゅんは食客の王政おうせいに殺害され、その首は劉虞りゅうぐの元に送り届けられます。

この功績により、霊帝れいてい劉虞りゅうぐ太尉たいいに任命し、容丘侯ようきゅうこうに封じました。

豆知識

魏書ぎしょ公孫瓚伝こうそんさんでんの注に引く英雄記えいゆうきには、


劉虞りゅうぐ太尉たいいの位を辞退し、同時に衛尉えいい趙謨ちょうぼ益州牧えきしゅうぼく劉焉りゅうえん豫州牧よしゅうぼく黄琬こうえん南陽太守なんようたいしゅ羊続ようぞくを推薦したところ、そろって三公さんこうに任命された」


とあります。

公孫瓚こうそんさんの妨害

劉虞りゅうぐが温徳をもって烏桓うがんを帰順させたことは、これまで最前線で烏桓うがん討伐の指揮をってきた公孫瓚こうそんさんには面白くありません。

公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐの指揮下にありながら、丘力居きゅうりききょらが劉虞りゅうぐに派遣した使者を待ち伏せて殺害するなど、劉虞りゅうぐの手柄を妨害しました。

反董卓連合の決起

董卓とうたくによる支配

中平ちゅうへい6年(189年)9月、朝廷で権力を掌握した董卓とうたくが、使者を派遣して劉虞りゅうぐ大司馬だいしばに昇進させ、襄賁侯じょうひこうに封じました。

また董卓とうたくは、袁隗えんかいに代えて劉虞りゅうぐ太傅たいふに任命しようとしますが、この時すでに反董卓とうたく連合が決起した後で、道がふさがれていたため、この命令は劉虞りゅうぐの元に届きませんでした。

劉虞りゅうぐ幽州ゆうしゅう統治

異民族の支配地と接している幽州ゆうしゅうは防備のための経費が莫大にかかるため、青州せいしゅう冀州きしゅう賦税ふぜいから毎年 2億銭 余りが幽州ゆうしゅうの経費として割り当てられていました。

この時、戦乱により所々で道が断絶して物資の輸送がとどこおっていましたが、劉虞りゅうぐは農業を奨励し、上谷郡じょうこくぐん胡市こし*4漁陽郡ぎょようぐんの豊富な塩と鉄の取引で利益をあげて不足分をおぎなったので、幽州ゆうしゅうは豊作となりました。

そのため、青州せいしゅう徐州じょしゅうから黄巾こうきんの難を逃れて幽州ゆうしゅうに身を寄せた者は百万人を越えましたが、劉虞りゅうぐはそのすべてを受け入れていたわあわれんで生業なりわいを与えたので、流民たちはみな、故郷から移ってきたことを忘れるほどでした。


また、劉虞りゅうぐ上公じょうこうでありながら常に節約をむねとし、ほつれた着物を着てなわんだくつをはき、食事の際も、1度に2種類以上の肉を食べることはありませんでした。

そのため、豪族の中でかねてより贅沢をしていた者たちは、誰もが劉虞りゅうぐに心服して日頃の行いを改めました。

脚注

*4 国境の関所に設けられた漢人と非漢人が交易するための市場のこと。

天子に推戴される

天子てんしに推戴される

初平しょへい2年(191年)1月、冀州刺史きしゅうしし韓馥かんふく勃海太守ぼっかいたいしゅ袁紹えんしょうをはじめとする山東さんとうの諸将たちは、


「朝廷(天子てんし)はおさなく、董卓とうたくおどされ、函谷関かんこくかん桃林塞とうりんさいに遠くへだてられて、その安否さえも分からない。対して劉虞りゅうぐは、宗室そうしつ(皇室)の年長者である。天子てんしに立てて天下のあるじとしようではないか」


と言い、元楽浪太守らくろうたいしゅ張岐ちょうきたちを派遣して、劉虞りゅうぐ天子てんしの尊号をたてまつりました。

すると劉虞りゅうぐは、


「いま天下は崩壊し、天子てんしは都を避けておられる。私は深くご恩をこうむりながら、いまだ国の恥をそそぐこともできていない。

諸君らは各々おのおの州郡を拠点とし、共に力を合わせて王室のために尽力すべきであるのに、かえってかんへの反逆をはかり、恥辱にまみれたあやまった行動をすると言うのかっ!」


と、血相を変えて彼らをしかりつけます。

劉虞りゅうぐの返答を聞いた韓馥かんふくたちは、せめて劉虞りゅうぐ尚書しょうしょの職務を兼任させようと、みことのりを受けたとして官爵をさずけようとしますが、劉虞りゅうぐは承知せず、使者を捕らえて斬り捨ててしまいました。

献帝けんていに使者を送る

劉虞りゅうぐは、


「賊臣が動乱を引き起こし、朝廷は都を離れて流浪なされ、また、四海の内はあわてふためき、気持ちを動揺させない者はない。

我が身は皇族として先代からの老臣に数えられており、当然、一般民衆と同じわけにはいかぬ。今、使者を派遣したてまつり、臣下としての節義をささげたい」


と言って、えん田疇でんちゅう従事じゅうじ*5に任命し、同じく従事じゅうじ*5鮮于銀せんうぎんと共に、秘かに険阻な道を通って長安ちょうあんにいる献帝けんていの元に派遣します。

洛陽らくよう雒陽らくよう)に帰りたいと願っていた献帝けんていは、田疇でんちゅうたちを見て大変喜びました。


この時田疇でんちゅうは、勅命によって騎都尉きといに任命されましたが、「天子てんしみやこ洛陽らくよう雒陽らくよう)]を離れて落ち着くこともかなわぬのに、栄誉恩寵を頂くわけにはいかない」と、固く辞退しました。

また、三公さんこうが共に田疇でんちゅう招聘しょうへいしましたが、これらもすべて受けませんでした。

豆知識

田疇でんちゅう長安ちょうあんに出発する際、


「現在、みかどは幼弱(10歳)であらせられ、姦臣が勝手に命令を下しております。上奏文をたてまつり、答書を待っておられるのでは、事を起こす機会を見逃す心配があります。

それに、公孫瓚こうそんさんは兵力を頼みに残忍なことも平気でやる男です。早く始末なさらなければ、きっと後悔されることになるでしょう」


と進言しましたが、劉虞りゅうぐは聞き入れませんでした。

そして、田疇でんちゅうが返書を貰い幽州ゆうしゅうに帰り着いた時には、すでに劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんによって殺害された後でした。

脚注

*5 州牧州刺史の属吏。治中従事別駕従事簿曹従事兵曹従事などがある。

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献帝が劉虞を頼る

袁術えんじゅつたくら

劉虞りゅうぐの子・劉和りゅうかは、侍中じちゅうとして献帝けんていに仕えていました。

献帝けんてい洛陽らくよう雒陽らくよう)に帰りたいと願い、「兵をひきいて迎えに来るように」と、秘かに劉和りゅうか劉虞りゅうぐの元に派遣します。


劉和りゅうか董卓とうたくの支配地を避けるため、武関ぶかんから荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに入り、幽州ゆうしゅうを目指す予定でしたが、途中で袁術えんじゅつに会い、彼に天子てんしの意向を説明しました。

すると袁術えんじゅつは、劉虞りゅうぐを利用して自分の手柄にしようと考え、「劉虞りゅうぐの軍隊が到着したら、一緒に長安ちょうあんに行こう」と、劉和りゅうか南陽郡なんようぐんに引き留めて、改めて劉虞りゅうぐに使者を派遣します。

公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐいさめる

これを袁術えんじゅつたくらみと見抜いた公孫瓚こうそんさんは、派兵することを固く引き止めましたが、劉虞りゅうぐは聞く耳を持たず、ついに兵を出発させました。

すると公孫瓚こうそんさんは、派兵に反対したことで袁術えんじゅつのうらみを買うことを恐れ、従弟の公孫越こうそんえつ袁術えんじゅつの下に派遣して手を結ぶ一方で、袁術えんじゅつ劉和りゅうかを捕らえさせ、劉虞りゅうぐが派遣した数千の兵を奪わせます。

これ以降、劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんの関係は益々悪化しました。

また、その後劉和りゅうか袁術えんじゅつの元を脱出し、幽州ゆうしゅうを目指しましたが、途中また、袁紹えんしょうに引きめられました。

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公孫瓚との争い

公孫瓚こうそんさん扶持米ふちまいを減らす

袁紹えんしょう袁術えんじゅつの争いにより、袁術えんじゅつの下に派遣されていた公孫越こうそんえつが戦死すると、公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょうに宣戦を布告してたびたび敗れていましたが、戦いをやめようとしませんでした。

劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんがみだりに軍事行動を起こすことをうれい、また公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょうを破るようなことがあれば制御できなくなることを恐れ、固く軍事行動を禁止して、徐々に公孫瓚こうそんさんに支給する扶持米ふちまいを減らしました。

これに怒った公孫瓚こうそんさんはしばしば劉虞りゅうぐの命令に逆らい、領民の財産や劉虞りゅうぐが異民族に送った褒賞などを略奪するようになりましたが、劉虞りゅうぐはこれをおさえることができませんでした。


そこで劉虞りゅうぐは、公孫瓚こうそんさんの略奪の罪を朝廷に上奏しますが、公孫瓚こうそんさんもまた劉虞りゅうぐ扶持米ふちまいを行き渡らせていないと上奏します。

お互いに非難し合う2つの上奏文が届いたため、朝廷は裁定することができませんでした。

戦いの前触れ

劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんの対立は激化の一途をたどり、ついに公孫瓚こうそんさんは、幽州ゆうしゅう広陽郡こうようぐん薊県けいけん内の東南、劉虞りゅうぐの居所の近くに土塁どるいきずいて劉虞りゅうぐに備え始めます。

これに危機感を感じた劉虞りゅうぐは、公孫瓚こうそんさんまねいて和解をこころみますが、公孫瓚こうそんさんは病気を理由に劉虞りゅうぐと会おうとしませんでした。

ここに至って劉虞りゅうぐは、秘かに公孫瓚こうそんさん討伐を考えるようになり、東曹掾とうそうえん*6魏攸ぎゆうに相談します。

すると魏攸ぎゆうは、


「いま天下は首を伸ばしてあなたを頼りにしております。そんなあなたにとって、謀臣や爪牙となる勇士は必要不可欠な存在です。

公孫瓚こうそんさんの文武の才能と実力はたのむに足るものであり、小さな悪はあっても容認すべきです」


と言ったので、劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさん討伐を思いとどまりました。

脚注

*6 太尉の属吏。太守長吏の移動や任命および軍吏を担当する。

劉虞りゅうぐの出陣

初平しょへい4年(193年)冬、公孫瓚こうそんさん討伐をいさめた魏攸ぎゆうが亡くなると、おさえる者のいなくなった劉虞りゅうぐは、公孫瓚こうそんさん討伐の兵をげるため10万人の兵を集めます。

そして、劉虞りゅうぐが出陣しようとしたその時、従事じゅうじ*5程緒ていしょが進み出て言いました。


公孫瓚こうそんさんに過ぎた悪事があったとは言え、罪名はいまただされておりません。

明公あなたはこれまで、教えさとして公孫瓚こうそんさんの行いを改めさせることができませんでした。それなのに蕭牆しょうしょう(内輪・一族・国内)で戦いを起こすことは、国のためとは申せません。

また、勝敗の行方ゆくえは分からぬもの。兵を駐屯させ、武威を示してのぞむのが最良です。

そうすれば、公孫瓚こうそんさんは必ずやあやまちをいて謝罪するでしょう。これぞいわゆる『戦わずして人を服従させる』ということです」


ですが劉虞りゅうぐの決意は変わらず、出陣をはばんだ見せしめのため、程緒ていしょを斬ってしまいました。

劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんの戦い

公孫紀の密告

劉虞りゅうぐの計画を知った従事じゅうじ*5公孫紀こうそんきは、日頃公孫瓚こうそんさんが同姓のよしみで厚遇してくれていたことから、この計画をその夜のうちに公孫瓚こうそんさんに知らせます。


この時公孫瓚こうそんさんは、部曲(兵)を城外に散在させていたので、劉虞りゅうぐの兵の急襲を受けて逃げられなくなることを恐れ、東の城壁に穴を開けて逃走しようとしました。

劉虞の敗北

劉虞りゅうぐの将兵は、公孫瓚こうそんさん薊県けいけんを脱出するよりも早く公孫瓚こうそんさんの屋敷に到着しましたが、彼らは戦いに慣れておらず、また劉虞りゅうぐから、


「余人(他の人)を傷つけてはならぬ。ただ1人、伯珪はくけい公孫瓚こうそんさんあざな)のみを殺せ」


と命じられていたので、住民の家々を焼くこともできず大切に扱ったため、ただ包囲するだけで陥落させることはできませんでした。


この様子を見た公孫瓚こうそんさんは、精鋭数百人を選びつのって風に乗せて火を放ち、ただちに突撃をかけると、劉虞りゅうぐ軍は大敗して、劉虞りゅうぐは属官と共に幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐん居庸県きょようけんに逃走しました。


幽州(ゆうしゅう)の領郡

幽州ゆうしゅう


薊県(けいけん)と居庸県(きょようけん)

薊県けいけん居庸県きょようけん

劉虞の死

劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんに捕らわれる

公孫瓚こうそんさんは逃走した劉虞りゅうぐを追撃して居庸県きょようけんを3日で陥落させ、劉虞りゅうぐとその妻子を捕らえます。

そして、薊県けいけんに帰還した公孫瓚こうそんさんは、劉虞りゅうぐにこれまで通り幽州ゆうしゅうの文書を処理させました。

朝廷からの使者

ちょうどその頃、天子てんしが使者の段訓だんくんを派遣し、劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんにそれぞれ次のように告げました。

劉虞
  • 封邑ほうゆうを加増する
  • 6州の職務を統括させる
公孫瓚
  • 前将軍ぜんしょうぐんに任命し、易侯えきこうに封じる
  • 仮節かせつ(軍令違反者を処刑できる権限)を与え、幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)・青州せいしゅう冀州きしゅうを統括させる

これは、前述した劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんの訴えに対する朝廷の返答でしょう。

劉虞りゅうぐが統括する6州の内訳はしるされていませんが、おそらく、

  • 幽州ゆうしゅう
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう
  • 青州せいしゅう
  • 冀州きしゅう
  • 豫州よしゅう予州よしゅう
  • 兗州えんしゅう

の6州だと思われます。

2人の訴えに対し、

「朝廷はどちらか一方を罪に問うことはしない。劉虞りゅうぐは6州全体を統括し、公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐの下でその内の4州を統括せよ。それぞれ昇進したのだから争うな」

と言う訳です。

劉虞りゅうぐの死

ですが公孫瓚こうそんさんは、「以前劉虞りゅうぐ袁紹えんしょうらと共に帝号を僭称せんしょうしようとした」と誣告ぶこく(事実を偽って告げること)し、段訓だんくんを脅迫して劉虞りゅうぐ薊県けいけんの市中に引き出させます。


公孫瓚こうそんさんは、劉虞りゅうぐの前に座って呪文をとなえてみせ、


「もしお前が天子てんしとなるべき人物であれば、天が風雨を起こして救ってくれるだろう」


と言いました。

当時、薊県けいけんは日照りが強く猛暑が続いており、雨が降るはずもなく、劉虞りゅうぐは処刑されてしまいました。


また公孫瓚こうそんさんは、劉虞りゅうぐの首を京師けいし長安ちょうあん)に送りましたが、劉虞りゅうぐ故吏こり尾敦びとんが途中でこれを奪って故郷に埋葬しました。

劉虞りゅうぐはその恩愛によって多くの人々の心をつかんでいたため、古くから幽州ゆうしゅうに住んでいた人々だけでなく、北方諸民族から流民に至るまで、その死をしまない人はいませんでした。


劉虞りゅうぐは清貧なことで知られ、民をいつくしむ政策で領民や北方異民族の信任を得ます。

また、群雄割拠の情勢に向かう中、山東さんとうの諸将の誘いを断ってかんへの忠義を示しますが、指揮下の公孫瓚こうそんさんの暴走をおさえることができず、その手にかかって最期を迎えました。


一方で、劉虞りゅうぐが処刑された後、公孫瓚こうそんさんの兵が城内を捜索してみると、劉虞りゅうぐの妻妾たちはうすぎぬしろぎぬの着物を着てきらびやかに飾り立てていたので、人々はこれまでの劉虞りゅうぐの清貧な行いは、表面的なパフォーマンスではないかと疑いを持つようになったと言われています。

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劉虞データベース

劉虞関連年表

西暦 出来事
不明
  • 徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん郯県たんけんに出仕して戸曹こそう*1となる。
  • 東海郡とうかいぐんの役人となる。
  • 孝廉こうれんに推挙されてろう*2となる。
  • 博平令はくへいれい兗州えんしゅう東郡とうぐん博平県はくへいけん県令けんれい)に任命される。
  • 幽州刺史ゆうしゅうししに任命され、北方異民族の信任を得る。
  • 幽州刺史ゆうしゅうしし辞職じしょくする。
184年

中平ちゅうへい元年

3月

  • 黄巾こうきんの乱が起こる。
不明
  • 甘陵相かんりょうしょう冀州きしゅう清河国せいがこく甘陵国かんりょうこく県令けんれい)に任命される。
  • 病気のため職をして故郷に帰る。
  • 再び甘陵相かんりょうしょうに任命される。
  • 尚書令しょうしょれいに任命される。
  • 光禄勲こうろくくんに任命される。
  • 宗正そうせいに任命される。
187年

中平ちゅうへい4年

6月

  • 張純ちょうじゅんの乱が起こる。
188年

中平ちゅうへい5年

3月

  • 劉虞りゅうぐ幽州牧ゆうしゅうぼくに任命される。

9月

  • 中郎将ちゅうろうしょう孟益もうえき公孫瓚こうそんさんを率いて張純ちょうじゅんらを討伐する。

11月

  • 公孫瓚こうそんさん遼東属国りょうとうぞっこく石門山せきもんさんで大勝する。
  • 張純ちょうじゅん鮮卑せんぴを頼って長城の外に逃亡する。
  • 公孫瓚こうそんさん遼西郡りょうせいぐん管子城かんしじょう丘力居きゅうりききょに包囲される。(200余日)
189年

中平ちゅうへい6年

3月

  • 劉虞りゅうぐが北方異民族を帰順させる。
  • 劉虞りゅうぐ張純ちょうじゅんの首に懸賞金をかけ、張純ちょうじゅんの食客・王政おうせい張純ちょうじゅんを斬る。

4月

  • 劉虞りゅうぐ太尉たいい容丘侯ようきゅうこうに任命される。

5月以降

  • 丘力居きゅうりききょ柳城県りゅうじょうけんに撤退する。
  • 公孫瓚こうそんさん遼東属国長史りょうとうぞっこくちょうしを兼ね、北方異民族ににらみをかす。
  • 烏桓うがんを帰順させた劉虞りゅうぐと掃討しようとする公孫瓚こうそんさんが対立する。
  • 公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐに帰順した丘力居きゅうりききょらの使者を殺害する。

9月

  • 劉虞りゅうぐ大司馬だいしばに任命される。
  • 公孫瓚こうそんさん奮武将軍ふんぶしょうぐん薊侯けいこうに任命される。
191年

初平しょへい2年

1月

  • 袁紹えんしょう韓馥かんふくらが劉虞りゅうぐ天子てんしに立てようとする。
  • 劉虞りゅうぐ献帝けんてい田疇でんちゅう鮮于銀せんうぎんを派遣する。

不明

  • 献帝けんてい洛陽らくよう雒陽らくよう)帰りたいと劉虞りゅうぐ劉和りゅうかを派遣する。
  • 袁術えんじゅつ劉和りゅうかとどめ、劉虞りゅうぐに派兵を要請する。
  • 公孫瓚こうそんさんが派兵しようとする劉虞りゅうぐ諫言かんげんする。
  • 公孫瓚こうそんさん袁術えんじゅつの元に従弟の公孫越こうそんえつを派遣する。
  • 公孫瓚こうそんさん袁術えんじゅつ劉虞りゅうぐの兵を奪わせる。
  • 袁紹えんしょうの要請を受け、公孫瓚こうそんさん冀州きしゅうに侵攻する。

7月

  • 韓馥かんふく袁紹えんしょう冀州きしゅうを譲る。

11月

  • 公孫瓚こうそんさん冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん東光県とうこうけんに侵入した黄巾賊を撃ち破る。

  • 袁紹えんしょう豫州よしゅうに侵攻し、孫堅そんけん袁術えんじゅつが撃退する。
  • 袁術えんじゅつの下に派遣されていた公孫越こうそんえつが戦死する。
  • 公孫瓚こうそんさん冀州きしゅうに侵攻する。(磐河ばんがの戦い)
192年

初平しょへい3年

1月

  • 袁紹えんしょう公孫瓚こうそんさん界橋かいきょうで戦い公孫瓚こうそんさんが大敗する。(界橋かいきょうの戦い)
  • 袁紹えんしょう配下の崔巨業さいきょぎょう幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん故安県こあんけんを包囲する。

不明

  • 公孫瓚こうそんさん崔巨業さいきょぎょうを破り勢力を回復する。(巨馬水きょばすいの戦い)

  • 公孫瓚こうそんさん劉備りゅうび単経ぜんけい陶謙とうけんを派遣して袁紹えんしょうに圧力をかける。
  • 袁紹えんしょう曹操そうそう劉備りゅうび単経ぜんけい陶謙とうけんを撃ち破る。(龍湊りゅうそうの戦い)
193年

初平しょへい4年

不明

  • 劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさん討伐を考える。
  • 魏攸ぎゆう劉虞りゅうぐいさめる。

  • 魏攸ぎゆうが亡くなる。
  • 劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさん討伐の兵を挙げる。
  • 劉虞りゅうぐ幽州ゆうしゅう上谷郡じょうこくぐん居庸県きょようけんに逃走する。
  • 公孫瓚こうそんさん居庸県きょようけんを落とし、劉虞りゅうぐを捕らえる。
  • 朝廷の使者・段訓だんくんが派遣される。
  • 劉虞りゅうぐが処刑される。

配下

公孫瓚こうそんさん田疇でんちゅう鮮于輔せんうほ鮮于銀せんうぎん魏攸ぎゆう程緒ていしょ公孫紀こうそんき尾敦びとん斉周せいしゅう閻柔えんじゅう

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