孫策に江東を追われた揚州牧として知られる劉繇とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
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出自
出身地 / 生没年
字
正礼。
出身地
青州・東萊郡・牟平県。
青州・東萊郡・牟平県
生没年
- 永寿3年(157年)〜 建安3年(198年)。
- 『呉書』に列伝があります。
先祖
斉の孝王
前漢の孝王の末息子が牟平侯に封ぜられ、子孫代々そこに家を営むようになりました。
家族・親族
祖父:劉本(劉丕)
学者から正式に経書の解釈を習い、広く様々な書物を学んで、「通儒(広い学識を持つ学者)」と称されました。
賢良方正に推挙され、青州・平原郡・般県の県長に任命されましたが、在任中に亡くなりました。
伯父:劉寵
漢の太尉をつとめました。
劉寵の詳細
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字を祖栄と言い、父[劉本(劉丕)]の学問を受け継ぎ、経典に明るく行いも正しいということで孝廉に推挙され、光禄勲によって「四行*1を備える」と認められて、青州・済南郡・東平陵県の県令に任命されました。
赴任して数年が経った頃、母親の病気が重くなったので、辞任して故郷に帰ろうとしたところ、一般民衆や士人たちが彼の乗り物に取りついて車輪を押し止め、道一杯に広がって辞任を阻止しようとしたため、車を前に進めることができませんでした。
そこで亭に留まると、質素な服装に着替えてこっそり逃げ帰り、母親に孝養を尽くしました。
後に大将軍の幕下に辟召かれ、しばらくして会稽太守に任命されると、劉寵は自らの身を修め正して下にある者の模範となったので、郡全体が大いに治まりました。
中央に徴召されて将作大匠に任命されることになった時、山陰県の民で郡の役所から数十里も離れた若邪山の山奥に住む、70〜80歳くらいの老人5、6人が、劉寵が転任すると聞いて連れ立って見送りにやって来て、おのおの百銭ずつを餞別に差し出します。
劉寵は彼らに会うと、わざわざやって来てくれたことを労って尋ねました。
「ご老人がたは、なぜわざわざこんなに遠くまでやって来てくださったのでしょうか」
すると老人たちは口々に、次のように答えました。
「わしたちは山奥に住むの世間知らずの年寄りでして、生まれてこの方、郡や県の役所に参ったことはございませんでした。
以前にはお役人たちが人々を賦役に駆り立て税を取り立てるため村々に留まられ、部落では夜通し犬が吠え、一晩中、人々の心が安らぐことはありませんでした。
太守(劉寵)さまのご着任以来、夜に犬が吠えることもなく、お役人たちが村に参ることも稀でございます。
歳を取ってから立派なご教化に巡り会うことができたのでございますが、今聞けば、我々を置いて行かれようとしておられるとのこと。それゆえ共々お見送りにやって参ったのでございます」
劉寵は大変ありがたく思い、彼らの気持ちを汲んで、差し出された銭の中から大銭1枚だけを受け取りました。このことがあってから、会稽郡では劉寵のことを「1銭取りの太守」と呼ぶようになりました。
劉寵はその生涯を通じて2度 郡の太守となり、8度九卿の位に就き、4度三公の位に昇りました。
ですが、彼の家には資産の貯えがなく、珍貴な器物もなくて、いつも粗末な食物を食べ、質素な着物を着、がたがたの車を痩せ馬に引かせていたので、そのみすぼらしさは評判となっていました。
3度まで宰相の位から退けられましたが、いつもそのまま故郷に帰ってしまいました。
また、京師[洛陽(雒陽)]に往き来する時には、いつも道の片隅を驂馬もつけずに行くため、誰も彼だと気が付く者はいませんでした。
ある時、劉寵が亭に泊まろうとすると、そのみすぼらしさを見た亭の役人は、
「宿舎を整えて劉公(劉寵)をお待ちしているので、泊まらせるわけにはいかない」
と言って拒否したので、劉寵はそのまま行き過ぎました。彼の清廉で驕らない様子は常にこのような感じでした。
劉寵は、歳を取って病気のため家で亡くなりました。
脚注
*1 人物を評価する際の4つの規範。
- 敦厚:誠実で人情に厚いこと
- 質樸:飾りけがなく純真・素直なこと
- 遜譲:へりくだり譲ること
- 節倹:出費を控えて質素にすること
叔父:劉韙
賊徒に捕らえられて人質となりましたが、劉繇に助け出されました。
父:劉輿(劉方)
山陽太守をつとめました。
兄:劉岱
字を公山と言い、侍中や兗州刺史を歴任しました。
父母に孝行を尽くし、兄弟の仲が良く、他人に対しても思いやり深く、自分を虚しくして人の意見をよく聴き入れました。
子
劉基
字は敬輿。
劉基は多くの苦難に見舞われ、苦労を舐め尽くしましたが、ひっそりと世に処して道を楽しみ、そうした境遇を悲しんだりしませんでした。
弟たちと一緒に暮らし、弟たちは彼を畏敬し、父親に対するように彼に仕えました。
いつも晩く寝て早く起き、妻妾たちも彼の顔を見ることは稀で、みだりに交遊を広めたりはせず、その門をつまらぬ客が訪れることはありませんでした。
劉基の詳細
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劉繇が亡くなった時、劉基は14歳でしたが、父(劉繇)の喪に服して少しも礼に外れるところがなく、元の部下たちからのお見舞いの食糧を1つも受け取りませんでした。
劉基は容姿端麗で、孫権は彼を愛して丁重に待遇し、孫権が驃騎将軍となると、東曹掾として劉基をその将軍府に辟召き、輔義校尉・建忠中郎将の官を授け、孫権が呉王となると、大農(大司農)の官に昇進させました。
孫権が酒宴を開いた際、騎都尉の虞翻が酒に酔って孫権の逆鱗に触れたことがありました。
孫権は「虞翻を殺せ」と言い、その怒りは手もつけられない程でしたが、劉基が強く諫めたので虞翻は死を免れることができました。
また、とても暑い季節のこと。孫権が船上で酒宴を開いたことがありました。
船の上に設けられた楼の上にいる時に雷雨に遭いましたが、孫権は自分の上に蓋をさしかけさせ、劉基にも蓋をさしかけるように命じました。他の者たちは蓋の下に入ることはできなかったのです。孫権の劉基への手厚い礼遇の仕方はこんな風でした。
その後劉基は郎中令にうつり、孫権が帝位につくと改めて光禄勲に任ぜられ、分平尚書事(録尚書事)の任にあたり、49歳で亡くなりました。
それより後、孫権が息子の孫覇に劉基の女を娶らせると、都に1区画分の広さの屋敷を賜り、季節ごとの特別の賜りものは、全琮や張昭と同等でした。
劉鑠・劉尚
劉基の2人の弟・劉鑠と劉尚は、共に孫権の下で騎都尉となりました。
孫:女
孫権の息子・孫覇の妻。
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揚州刺史となるまで
叔父の劉韙を救う
劉繇が19歳の時、叔父の劉韙が賊徒に捕らえられて人質となりましたが、劉繇はそれを奪い返して来ました。
このことから、劉繇の名前が人々に知られるようになります。
下邑長に任命される
劉繇は孝廉に推挙されて郎中となり、豫州(予州)・梁国・下邑県の県長に任命されました。
ですが当時の郡守(太守)が、劉繇が貴顕(身分が高く名声が高い人)の親戚であることを利用しようとしたので、さっさと職を棄てて去ってしまいます。
中常侍の息子を罷免する
その後劉繇は、青州の役所に辟召かれて、済南国の行政監察にあたることになりました。
この時、済南相(済南国の太守)は中常侍の息子がつとめていましたが、賄賂を貪って法を蔑ろにしていたので、劉繇は上奏してこれを罷免しました。
戦乱を避ける
青州・平原国出身の陶丘洪が、「劉繇を茂才に推挙してほしい」と青州刺史に推挙しました。
すると刺史は、
「前年には公山(劉岱)どのを推挙され、今また正礼(劉繇)どのを推挙されるのはどうしたことか」
と尋ねます。すると陶丘洪はこう答えました。
「もし刺史さまが前に公山(劉岱)どのを登用された上、またここで正礼(劉繇)どのを抜擢なさいますならば、まさしく2匹の龍を御して遠かに行き、騏驥(駿馬)を駆けさせて千里の道に上られると申すもの。素晴らしいことではございませんか」
ちょうどこの頃、司空の掾(属官)として辟召かれ、侍御史の任につくようにという話がありましたが、劉繇はそれに応じず、戦乱を避けて淮水流域に避難しました。
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揚州刺史として
曲阿県に入る
初平4年(193年)秋〜興平元年(194年)頃、劉繇は揚州刺史に任命されました。
ですが当時、袁術が揚州刺史の治所である寿春県にいたことから、劉繇は袁術を避けて寿春県には向かわず、呉景と孫賁の手引きを受けて揚州・呉郡・曲阿県に落ち着きました。
袁術との衝突
その後袁術は漢王朝を乗っ取ろうと企て、郡県を攻撃して支配下に収めていきました。
これに劉繇は、樊能と張英を長江の岸辺に派遣して袁術の進出を食い止めさせます。またこの時劉繇は、袁術から官位を受けて働いていた呉景と孫賁も、強制的に追い出しました。
すると袁術は、故吏の恵衢を勝手に揚州刺史に、呉景を督軍中郎将に任命して、孫賁と共に兵を率いて張英らを攻撃させますが、これを撃ち破ることができず、両軍は長江を挟んで対峙したまま膠着状態となります。
またこの時朝廷は、劉繇に揚州牧・振武将軍の官を加え、配下の軍勢は数万人になりました。
揚州の勢力図
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袁術の誤算。孫策に命じた陸康攻撃と揚州刺史・劉繇との衝突
孫策との戦い
膠着状態となって1年余りが過ぎた頃、袁術の許可を得た孫策が長江を東に渡り、張英・樊能らを撃ち破ります。
許子将(許劭)の助言
孫策軍が曲阿県に迫ると、劉繇は会稽郡に逃亡しようとしますが、この時、許子将(許劭)が劉繇に言いました。
「会稽郡は豊かな土地なので孫策が欲しがっております。それに、海が迫った逃げ場のない土地ですから、行かれてはなりません。
それに対し豫章郡(予章郡)は、北は豫州(予州)につながり、西は荊州に接しておりますから、そちらへ行かれる方がよろしいでしょう。
もし豫章郡(予章郡)にあって役人や民衆たちを1つにまとめ、使者を遣って朝貢をし、曹兗州(曹操)どのと連絡をつけられれば、袁公路(袁術)が間を隔ててはいても、彼の人となりは豺狼(豺と狼。転じて残酷で欲深い人)であるから、長く勢力を保つことはできません。
あなたさまは、漢の王朝から命を受けておられますから、孟徳(曹操の字)さまや景升(劉表の字)さまからも、必ずや援助がありましょう」
劉繇はこの許子将(許劭)の意見に従い、長江を遡って豫章郡(予章郡)に向かうことにしました。
豆知識
孫策と太史慈が一騎打ちを行ったのはこの時です。
この後太史慈は劉繇の下を離れ、揚州・丹楊郡(丹陽郡)・蕪湖県で姿をくらませて山中に入ると、勝手に丹楊太守を名乗ります。
笮融の謀叛
この時、豫章郡(予章郡)は劉表(または袁術)が任命した豫章太守・諸葛玄(諸葛亮の従父)が治めており、朝廷が豫章太守に任命した朱皓と争っていました。
豫章郡(予章郡)に入り彭澤県に軍営を置いた劉繇は、笮融に朱皓に加勢するように命じて諸葛玄を討伐させようとします。
この時、許子将(許劭)が劉繇に言いました。
「笮融が軍を率いて行きましたが、彼は大義名分などに目もくれぬ男です。
朱文明(朱皓)どのは、誠実で人を疑ったりせぬお方ですので、秘かに笮融には気をつけるように知らせたほうがよろしゅうございます」
その後、諸葛玄は撤退して西城に駐屯し、朱皓が郡治所である南昌県に入りましたが、許子将(許劭)の言う通り、笮融は朱皓を謀殺して自分が豫章郡(予章郡)の支配権を握りました。
劉繇の逃亡経路
劉繇の死
劉繇は軍を進めて笮融を討とうとしましたが、逆に笮融に撃ち破られ、もう一度配下の県から兵士を集めて笮融を撃ち破りました。敗れた笮融は山中に逃げ込みますが、付近の住民のために殺されてしまいます。
そして建安2年(198年)、劉繇は病気で亡くなりました。享年42歳でした。
豆知識
『蜀書』諸葛亮伝の注に引かれている『献帝春秋』には、
「建安2年(197年)正月、西城の民衆が反乱して諸葛玄を殺害し、その首を劉繇に送り届けた」
とあります。
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孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
豆知識
劉繇の柩
後に孫策が西へ軍を進めて荊州・江夏郡を征伐した時のこと。
孫策はその帰途に豫章郡(予章郡)に立ち寄って、劉繇の柩を引き取って遺族の元に返してやると共に、その家族の者たちを手厚く処遇しました。
王朗の手紙
王朗が孫策に手紙を送りました。
手紙の内容は、劉繇が孫策と戦うことになったのは本意ではなかったことと、孫策が劉繇の家族を手厚く処遇したことを賞賛する内容です。
王朗の手紙全文
タップ(クリック)すると開きます。
劉正礼(劉繇)どのがかつて揚州刺史となられた際には、袁術の妨害があってその任地に赴かれることができませんでしたが、あなた(孫策)のご一族のお力添えを頼り、長江を渡ってその行政機構を定め、しっかりした身の落ちつけ所を得ることができたのであります。
州に赴くに際して賜った厚いご援助は、心に感じ肝に銘じて片時も忘れることはございませんでした。
後には袁術のやり方に不満を持ったことから、貴家(孫策)との間にも行き違いが重なり、同盟の関係にあったものが、返って仇敵となってしまいましたが、本心では望むところではありませんでした。
情勢が安定して以降、つねづね和睦を再び実現し、昔の誼を回復したいと願っておったのでございますが、一度別れ別れとなりますと、誠の心を明らかにお伝えすることもできぬまま、突然に死去することとなって、残念至極のことでございました。
聞き及べば、心のこもったご処置で薄情な者たちを励まし、徳によって怨みに報いるべく柩を引き取り、孤児たちを育まれ、死者を哀悼されると共に、遺族には憐れみの情をかけられ、これまでの行き違いを忘れて孤児たちの後ろ楯となってやっておられますとのこと。
まことに深いご恩愛と厚いご配慮で、立派なご評判に確かな内実が沿ったものでございます。
昔、魯国の人々は斉に対して怨みを懐いてはおりましたが、斉の国君の逝去に際しては弔礼を怠ることはございませんでした。
『春秋』は、魯のこうした態度を善しとし、礼にかなったものと評価いたしております。
あなたのご行為も、これと同様であってまことに立派な史官が1つの模範として書きつけておくべきところであり、郷の学校でも賞賛し、言い伝えておるところでございます。
劉正礼(劉繇)どののご長子(劉基)は、志と節操とを立派にその身にそなえられ、思いますに、必ずや優れた人物となりましょう。
(孫策の)ご威声は盛んに、刑罰は順守されておりますが、それに恩愛あるご処置を加えられますならば、まことに素晴らしいことでございます。
劉繇は若い頃から清廉で知られ、兄・劉岱と共に高く評価されていました。
揚州刺史に任命された劉繇は、(揚州刺史の治所である)寿春県を占拠する袁術との争いを避け、呉景と孫賁の手引きを受けて揚州・呉郡・曲阿県に落ち着きます。
ですが、袁術が漢王朝を乗っ取ろうと企て、勝手に郡県を攻撃して支配下に収めていくと、劉繇はこれに反発。袁術から官位を受けていた呉景と孫賁を追い出し、樊能と張英を派遣して袁術の侵攻を阻ませました。
その後、江東の地に地盤を築こうとする孫策の標的となって敗北を重ねた劉繇は、豫章郡(予章郡)に拠点を移し、曹操や劉表と手を組んで孫策に対抗しようとしますが、間もなく病死してしまいます。
劉繇の死後、残された家族は孫策・孫権によって手厚く処遇されました。
劉繇は立派な行いをなすことに厲め、物事の善悪を正しく判断することに気を配っていましたが、混乱の時代に遠く万里の土地にあって自立するようなことは、得意ではありませんでした。
劉繇データベース
劉繇関連年表
西暦 |
出来事 |
157年 |
■ 永寿3年
- 青州・東萊郡・牟平県に生まれる。
|
175年 |
■ 熹平4年【19歳】
- 賊徒に捕らえられた叔父・劉韙を奪い返して名を挙げる。
|
不明 |
- 孝廉に推挙されて郎中となる。
- 下邑長に任命される。
- 青州の役所に辟召かれて済南国の行政監察にあたる。
- 上奏して済南相(中常侍の息子)を罷免する。
- 戦乱を避けて淮水流域に避難する。
|
不明 |
■ 初平4年(193年)秋〜興平元年(194年)【37歳〜38歳】
|
194年 |
■ 興平元年【38歳】
- 呉景と孫賁の手引きを受けて揚州・呉郡・曲阿県に入る。
- 袁術が周辺の郡県を攻撃する。
- 丹楊郡(丹陽郡)から呉景と孫賁を追い出す。
- 長江の岸辺に樊能と張英を派遣して袁術の侵攻を阻む。
- 揚州牧・振武将軍に任命される。
|
195年 |
■ 興平2年【39歳】
- 孫策が丹楊郡(丹陽郡)に侵攻する。
- 豫章郡(予章郡)に逃亡する。
- 太史慈が丹楊郡(丹陽郡)で独立する。
- 豫章郡(予章郡)で笮融が謀叛を起こす。
- 笮融を討伐する。
|
197年 |
■ 建安2年【41歳】
|
198年 |
■ 建安3年【42歳】
|
配下
樊能、于麋、張英、薛礼、笮融、于茲、許子将(許劭)、太史慈、是儀、孫邵
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