『三国志演義』では「汜水関攻めの際に抜け駆けをして華雄に敗北を喫した無能な将」として描かれている鮑信とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地 / 生没年
字
不明。
『三国志演義』では允誠。
出身地
兗州・泰山郡。
鮑信の子・鮑勛の列伝である『魏書』鮑勛伝には、鮑勛は「兗州・泰山郡・平陽県の人」とありますが、鮑信が生まれた当時、平陽県はまだ設置されていません。
生没年
元嘉2年(152年)〜初平3年(192年)。
『魏書』鮑勛伝にまとまった記述があります。
兗州・泰山郡
家族・親族
祖先
鮑信は、前漢の第12代皇帝・哀帝の時代に司隷校尉を務めた鮑宣の仍孫[8世(7代後)の末裔]になります。
鮑宣の子孫で幷州(并州)・上党郡から兗州・泰山郡に転居した者がおり、以降その子孫は泰山郡に家を構えるようになりました。
父
鮑丹(ほうたん)
代々儒学の教養によって有名であり、少府侍中まで官位が登りました。
弟
鮑韜(ほうとう)
鮑信と共に挙兵して反董卓連合に参加しますが、「汴水の戦い」で敗死しました。
子
鮑邵(ほうしょう)
建安17年(212年)、父・鮑信の功績により曹操によって新都亭侯に封ぜられました。
父・鮑信の風格を受け継いでいたと言われています。
鮑勛(ほうくん)
清廉にして節操が高いことで世間に名を知られ、建安17年(212年)、父・鮑信の功績により曹操に召し出されて丞相掾に任命されました。
『魏書』に列伝があります。
孫
鮑融(ほうゆう)
鮑邵の子。
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挙兵するまで
黄巾の乱
光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると、鮑信は兵を呼び集めました。
『魏書』于禁伝には、この時の鮑信の募兵に応じて、于禁が従ったことが記されています。
泰山郡で募兵する
光熹元年(189年)4月、霊帝が崩御すると、大将軍・何進は袁紹と共に宦官の誅滅を計画しますが、異母妹の何太后が反対したため実行することができませんでした。
すると何進は、何太后を軍事力で脅して強引に宦官の誅滅を認めさせようと、董卓らを洛陽に呼び寄せると共に、鮑信を召し寄せて騎都尉に任命し、故郷の兗州・泰山郡で募兵をするように命じます。
兵・千人余りを手に入れて洛陽に戻る途中、司隷・河南尹・成皋県まで来たところで、鮑信は何進が殺害されたことを知りました。
募兵の時期について
今回の募兵については、出発した時期が明示されていません。
中平5年(188年)、霊帝の西園軍創設にあたって、何進が各地で兵の徴発を行っています。
鮑信が騎都尉に任命され、兗州・泰山郡で募兵を行ったのはこの時で、帰って来たのが光熹元年(189年)であった可能性もあります。
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董卓襲撃を進言する
鮑信が募兵から戻った時、洛陽にはすでに董卓が到着し、呂布に執金吾・丁原を殺害させて洛陽の軍権を掌握した後でした。
そこで鮑信は、袁紹にこう進言します。
「董卓は強力な軍隊を擁して異心を抱いています。今すぐに手を打たなければ、将来きっと奴に制圧されるでしょう。
到着したばかりで疲弊しているうちに襲撃したならば、生け捕りにできましょう」
ですが袁紹は董卓を恐れて行動を起こさなかったので、鮑信はそのまま郷里に帰りました。
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曹操と行動を共にする
曹操と共に挙兵する
郷里に帰った鮑信は改めて兵を募り、歩兵2万・騎兵7百・輜重(軍需物資)5千余台を集めます。
ちょうどその頃、曹操が兗州・陳留郡・己吾県で旗揚げをしたので、鮑信は曹操の旗揚げに呼応して、弟の鮑韜と共に兵を挙げました。中平6年(189年)12月のことです。
初平元年(190年)1月、反董卓連合が決起すると、曹操は袁紹と共に鮑信を行破虜将軍に、弟の鮑韜を裨将軍に任命するように上奏します。
この時、多くの豪傑たちは勢力が大きい袁紹の下に集まりましたが、鮑信だけは、
「そもそも世に稀な知略を抱き、よく英雄を統率して乱を治め、あるべき姿に返すことができるのは君(曹操)だけです。
いやしくもそれに値する人物でなければ、強力であっても必ず滅びるもの。君こそは天に導かれたお人でありましょう」
と言って、自分から曹操と深く交わりを結び、曹操も親しく接して鮑信を高く評価しました。
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汴水の戦い
曹操の軍に加わる
初平元年(190年)2月、董卓は反董卓連合の攻撃を避けるため、洛陽を焼き払って長安に遷都を強行します。
これを好機とみた曹操が追撃を主張すると、陳留太守・張邈はこれを許可して配下の衛茲*1に兵を与えて曹操の寄騎としました。
この時、鮑信は弟の鮑韜と共に自ら曹操の軍に加わります。
脚注
*1 衛茲(えいじ)は曹操(そうそう)が挙兵する際に援助をした人物です。
弟・鮑信の死
曹操はまず、司隷・河南尹・成皋県の要害の占拠を目標にして進軍を始めますが、滎陽県の汴水を渡ったところで董卓配下の徐栄の軍と遭遇します。
汴水の戦い
緒戦で徐栄軍に敗れた曹操軍は多数の死傷者を出し、鮑信自身も傷を受け、鮑信の弟・鮑韜と陳留太守・張邈の配下・衛茲は討ち死にしてしまいました。
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曹操に独立を勧める
初平2年(191年)7月、袁紹は反董卓連合の一員であった韓馥を騙し、冀州牧の位を奪って冀州を地盤とします。
この時鮑信は、
「姦臣(董卓)が間隙につけ込んで王室を覆しましたが、英雄たちが忠節を尽くさんと奮い立ち、天下の人々が呼応しておりますのは、それが正義であるからです。
今、袁紹は盟主となりながら権力を利用して利益を独占し、今にも動乱を引き起こそうとしています。もはやこれは、もう1人の董卓と言えるでしょう。
もし彼(袁紹)を抑えようとしても、我々の力では制御することはできませんので、ただ災難を引き起こすだけとなりましょう。
まずは大河(黄河)の南を手に入れ、彼の身に変事が起こるのを待つのがよろしいでしょう」
と言い、曹操も鮑信の意見に賛成しました。
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済北相となる
ちょうどその頃、黒山賊10余万人が冀州・魏郡を攻略し、兗州・東郡に侵攻してきますが、東郡太守・王肱はこれを防ぐことができませんでした。
これを見た曹操は、駐屯していた司隷・河内郡から兵を率いて東郡に入り、黒山賊を撃ち破ります。この功により曹操は、袁紹によって東郡太守に任命されました。
この時曹操は、鮑信を済北相(兗州・済北国の太守)に任命するように上奏します。
東郡と済北国
この時鮑信が済北相に任命されたことは、『魏書』鮑勛伝の注に引かれている『魏略』によります。
『魏書』武帝紀では、初平元年(190年)1月に反董卓連合が決起した段階で、すでに済北相となっています。
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青州黄巾の侵攻
兗州刺史・劉岱の出陣を諫める
初平3年(192年)4月、青州の黄巾賊・百万が兗州に侵攻し、任城相(兗州・任城国の太守)・鄭遂を殺害して東平国に方向を転じます。
任城国と東平国
兗州刺史・劉岱がこれを討伐しようとすると、鮑信が諫めて言いました。
「今、賊の軍勢は百万、人民は皆恐れおののき、士卒の士気も下がっており、まともに戦えません。
見たところ賊は秩序もなく雑然と連なり、武器・兵糧などの補給物資もなく、略奪によってこれらを調達しています。
まずは守りを固めるべきです。そして、敵の士気が下がったころを見計らい、要害を拠点に精鋭をもってこれを撃てば、必ず破ることができるでしょう」
ですが劉岱は、この鮑信の意見に従わずに出陣し、青州黄巾に敗れて殺されてしまいました。
鮑信の死
兗州刺史・劉岱が討たれると、陳宮の奔走によって曹操が兗州牧に迎えられます。
そして、兗州・東平国・寿張県の東に兵を進めた曹操が、鮑信と共に戦場を視察した時のこと。まだ後続の歩兵隊が到着しないうちに、不意に賊軍と遭遇してしまいます。
兗州・東平国・寿張県
鮑信は必死に戦って曹操を救い、激戦の末曹操軍は勝利を収めましたが、鮑信自身はこの戦いで命を落としてしまいました。
享年・41歳でした。
その後曹操は、賞金を約束して鮑信の遺体を探させましたが見つけることができず、鮑信の木像を造って祀り、哭礼(死者を悼んで大声をあげて泣く儀式)を執り行いました。
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動乱にあって旗揚げしたとはいえ、鮑信の家は代々儒学を修めた家柄で、若くして節義を重んじ、寛容でよく人を愛し、沈着豪毅(落ち着いて物事に動じない)にして知謀がありました。
また、我が身の生活は節制・倹約に努めながら、将兵には手厚い待遇をしていたため、鮑信が亡くなった時には彼の住居に財産は残っておらず、そのため兵士たちは鮑信によく懐いていたと言われています。
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鮑信データベース
鮑信関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
152年 |
■ 元嘉2年
|
184年 |
■ 光和7年【33歳】
|
188年 |
■ 中平5年【37歳】
|
189年 |
■ 中平6年【38歳】
|
190年 |
■ 初平元年【39歳】
|
191年 |
■ 初平2年【40歳】
|
192年 |
■ 初平3年【41歳】
|
配下
于禁