霊帝が即位して十数年、民衆の間に一つの変化が見られるようになります。太平道と呼ばれる新興宗教の広まりです。
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目次
南華老仙と太平要術の書
前回は宦官の汚職や霊帝の売官によって、民衆への負担が増大していったところまででしたよね。
そうです。
今回は視点を朝廷から民衆に移してお話ししていきます。
よろしくお願いします!
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における太平道、黄巾の乱については、こちらをご覧ください。
鉅鹿郡の3兄弟
この頃、冀州・鉅鹿郡に、張角・張宝・張梁という3人の兄弟がいました。
鉅鹿郡の3兄弟
当時役人になるためには、秀才*1と孝廉の2つの試験に合格する必要がありました。
- 秀才:すぐれた才能があると認められた者に与えられる資格
- 孝廉:孝行をつくし、心が清く私欲がなくて行いが正しい者に与えられる資格
長兄の張角は、秀才には合格できたけれども孝廉には合格できず、役人になることができないという中途半端な男でした。
一言で言うと、頭は良いけど性格が悪い人ですね。
金があったら絶対賄賂を贈るタイプだな。
脚注
*1 後漢では初代皇帝の光武帝の諱(いみな)が劉秀(りゅうしゅう)であったことから、「秀」の字が避けられて「茂才(もさい)」と呼ばれていました。
張角、南華老仙と出会う
ある日、その張角が薬草を探しに山の中に入って行くと、一人の老人に出会います。
その老人は、
「この書物は『太平要術の書』じゃ。汝これを得たからには必ず天に代わって教化を広め、あまねく世人を救うのじゃ。もし悪心をきざすことがあれば、報いは必定じゃぞ」
と言って張角に3巻の巻物を預けます。
張角が名前を尋ねると、
「我こそは南華老仙なり…」
と言い残して、一陣の清風とともに消え去ってしまいました。
この南華老仙は、青い目をした子供のような顔の老人で、荘子が仙人になった姿であると言われています。
仙人のくせに人を見る目がないな。
荘子さんというと、道家の人ですね!
マリコさん、よく勉強してますね。
そうです。これから張角が開くことになる「太平道」は、道教の一派になります。
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張角、太平道を開く
太平道の広まり
元々勉強は嫌いではなかった張角は『太平要術の書』を読みあさり、ついには風を呼び雨を降らせる力を習得して、太平道人と号しました。
なんだかファンタジーになってきたな。
太平要術を習得した張角は、南華老仙の教えの通り、早速民衆を救うために尽力します。
184年1月、疫病が流行っていると聞くと、不思議な文字を書いたお札を貼り、まじないを施した水を飲ませて人々の病気を治してまわりました。
張角さん、凄いじゃない!
イエス・キリストみたい。
張角はみずからを大賢良師と称し、弟子を取ってお札の作り方やまじないの方法を教え、諸国を巡らせました。
その弟子の数は500人以上いたと言います。
太平道人って言ったり大賢良師って言ったり、クズのニオイがプンプンするわ。
その後も入門者は増え続け、大賢良師・張角を神とあがめる信者は、
青州・幽州・徐州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州
の8つの州にまで広がりました。
この大賢良師・張角が創始した宗教を太平道と言います。
太平道の信者が増えた州
すごい!後漢の領土の半分くらいを占めてるのね。
人口が多い州に信者が多いので、実際は後漢の民衆の2/3以上が、太平道の影響下に入ったと考えることができますね。
組織化する太平道と反乱計画
信者の数が増え、自分を神とあがめる人々が増えてくると、聖人を気取っていた張角の心にも、ムラムラと野心が湧いてきます。
やっぱりか!
「民衆の心は何よりも得難いものと言うが、今の俺にはそれがある!後漢に代わって天下を取る絶好の機会ではないか!」ということですね。
ここまで大きくならなかったら聖人のまま終わったかもしれないけど、俺ならできると思っちゃったんだろうね。
大勢の人を救うんじゃなかったの?
腐敗した後漢王朝を倒して、太平道による民衆のための国をつくるんだ!とか言ったんでしょ。
張角は、ふくれあがった信者たちを、6,000人〜10,000人ずつに分けて「方」と名付け、36の方を作ってそれぞれのリーダーを「将軍」と呼びました。
さらに、
蒼天すでに死す
黄天まさに立つべし
歳は甲子にありて
天下大吉ならん
というスローガンを掲げ、反乱の計画に着手します。
張角は弟子の馬元義に命じ、密かに十常侍の封諝に貢ぎ物を贈って内通の手はずを整えました。
あれ?
宦官は皇帝の後ろ盾があってこそ、権力を握っていられるんですよね。皇帝が倒されちゃったら困るんじゃない?
目先の貢ぎ物に目が眩んだんだよ。
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黄巾の乱の勃発
計画の露見と張角の決起
張角は反乱決起の日を3月5日と決めて、弟子の唐州に手紙を持たせ、封諝に決起の日にちを知らせる使者を送りました。
しかし、唐州は封諝の所へは行かず、その手紙を持って役所に訴えたのです。
これによって、朝廷は馬元義を斬首にし、封諝を投獄しました。
善良な信者は、反乱なんて望んでないものね!
唐州って人の名前だよね。ややこしいなぁ。
しっかりついてきてくださいね(笑)
計画の露見を知った張角は、その日のうちに行動を起こします。
張角は自らは天公将軍、張宝は地公将軍、張梁は人公将軍と称して信徒たちを扇動し、決起しました。
その数は、40〜50万人にものぼったと言われています。
太平道の信徒たちは全員黄色の頭巾をかぶっていたことから、この反乱のことを黄巾の乱と呼びます。
討伐軍の編成
張角の決起を受けて、霊帝は何進を大将軍に任命し、中郎将の盧植、皇甫嵩、朱儁の3人に、精鋭を率いて賊を討伐するように命じました。
何進って、妹が皇后になったお陰で出世した男だよね。そんなヤツが総大将で大丈夫なんか?
大将軍の何進は主に首都防衛の任につき、実際の討伐は3人の中郎将が行うことになりますね。
それなら安心ですねっ!
長年の重税や天災による生活難に苦しんでいた民衆は、みんな何かにすがりたい気持ちで一杯でした。
そんな民衆に手を差し伸べたのが、張角の開いた太平道だったのです。そのため、わずかな期間に40〜50万人にまで信徒がふくれあがり、反乱に至りました。
このことから「黄巾の乱」は張角個人の野望というよりも、これまで不満を溜めてきた民衆の反乱という側面が大きいと言えます。
冀州を中心に各地で蜂起した太平道の信者は、次々と勢力を拡大していきます。次回は、官軍の到着を待たずに侵攻してきた賊軍に対する地方の様子をお話します。