191年冬、ついに袁紹が袁術に従っていた孫堅が治める豫州に侵出し、同じ袁氏一族の間で戦いが起こりました。ではなぜ袁紹と袁術は争うことになったのでしょうか。
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目次
協力していた袁紹と袁術
反董卓連合の結成
宦官の粛清
189年4月、霊帝が崩御すると、その後継者争いから大将軍・何進と宦官たちの間で対立が起こりました。
そして、対立していた宦官たちに何進が殺害されると、袁紹と袁術は協力して宮中に突入し、2,000人に及ぶ宦官たちを誅殺します。
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反董卓連合の結成
その後、宦官誅殺のために何進と袁紹が呼び寄せていた董卓が洛陽に到着。
董卓はまたたく間に軍権を掌握し、すでに即位していた少帝を廃して献帝を即位させ、朝廷の実権を握ります。
そして190年1月、ついに董卓に不満を持つ諸侯が反董卓連合を結成しますが、この時もまた袁術は袁紹に従っていました。
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反董卓連合の結成
反董卓連合の崩壊
反董卓連合は「汴水の戦い」や「河陽津の戦い」で敗れはしたものの、その後の「陽人の戦い」で孫堅が勝利すると、董卓は洛陽を捨てて長安に撤退します。
董卓を倒す絶好の機会ですが、この頃になると反董卓連合の諸侯たちも兵糧が枯渇し、次々に撤退を始めていました。
そんな中、冀州牧・韓馥に物資の供給を頼っていた袁紹は、韓馥をだまして豊かな冀州を奪い取ってしまいます。ここに反董卓連合は完全に崩壊しました。
袁紹が、袁術が任命した豫州刺史・孫堅がいるにもかかわらず、新たに周昂を豫州刺史に任命し、豫州・潁川郡・陽城県を占領させたのはこの頃です。
豫州・潁川郡・陽城県
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袁紹と袁術の間に生まれた亀裂
画像引用元:ジグソーパズル「龍虎図」
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劉虞の天子推戴
河陽津の戦いの後の191年1月、袁紹と韓馥は董卓が擁立した献帝を認めず、幽州牧・劉虞を天子に立てることを提案し、袁術に同意を求めました。
ですがこの時袁術は、献帝を認めないとする袁紹に逆らって、献帝を支持する姿勢を表明します。袁紹と袁術の間の わだかまり が表面化した瞬間です。
ちなみに、袁紹の「劉虞を天子に推戴する計画」は、劉虞自身が承知しなかったため実現しませんでした。
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袁術の献帝救出作戦
袁紹が冀州を手に入れた後の191年冬、董卓によって強制的に長安に遷された献帝は、洛陽に帰りたいと考えるようになります。
そして献帝は、軍勢を率いて自分を迎えに来るようにと、ひそかに幽州牧・劉虞に使者を送りました。
献帝の使者に立った劉虞の子・劉和が袁術の元を訪れると、袁術は「献帝の洛陽への帰還」に協力することを約束します。
そして袁術は、劉和に劉虞宛の書簡を書かせると、劉和を引きとめて領内にとどめ置き、自分で別の使者を立てて劉虞に書簡を届けさせました。
つまり袁術は、劉虞の手助けをするのではなく、自分が主導権を握って「献帝の洛陽への帰還」を成し遂げようと考えたのです。
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冀州を手に入れた袁紹は、領土を拡大して覇権を握ることを考えるようになっていました。
もし袁術が「献帝の洛陽への帰還」を成功させた場合、献帝を擁する袁術の勢力が急激に増大することになり、反献帝の立場を取ってきた袁紹にとっては面白くありません。
袁紹が豫州に周昂を送り込んだ背景には、袁術の勢力の増大を阻止しようとする袁紹の思惑がありました。
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袁紹と袁術の争いの理由
ここまでの流れを確認してみると、袁紹と袁術が仲違いを始めたのは、袁術が袁紹の「劉虞を天子に推戴する計画」に逆らって、献帝を支持したことが原因だと言えます。
ですが、後に自ら天子に即位した袁術が、熱烈な献帝の支持者であったとは思えません。
では、これまで袁紹に従ってきた袁術が、なぜここに来て袁紹に逆らったのでしょうか?
袁紹と袁術の家系
ここで、袁紹と袁術の関係を確認しておきましょう。
まず、袁紹と袁術は、高祖父(祖父の祖父)・袁安以下、4代続いて三公を輩出した名門・汝南袁氏の御曹司です。
汝南袁氏の家系図
汝南袁氏は、袁湯の子の代になると、長子・袁平と次子・袁成が早くに亡くなったため、袁逢が宗主(本家の長)となり、反董卓連合が決起した頃には、袁逢の嫡子である袁基が跡を継いでいました。
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袁紹の出自については、袁成の実子であるという記録と、袁逢の庶子(側室の子)で袁成の家に養子に出されたという記録の両方があり、どちらが正しいのかは定かではありません。
ですがどちらにせよ、汝南袁氏の血統としては袁術の方が格が高いと言えます。
袁紹に従うことを選んだ袁術
袁紹と袁術の2人は若い頃、ともに名門・汝南袁氏の御曹司として名声を競っていました。
そしてその頃から袁術は、袁紹のことを庶子(妾の子)と蔑み、袁紹と行動を共にする何顒や許攸のことを公然と罵倒してライバル心を剥き出しにしています。
ですがこの時点では、汝南袁氏を継ぐのは袁逢の嫡子・袁基です。
結局袁術は、年長でもあり、自分よりも強固な人脈を築いた袁紹に従うことを選びました。
袁術の心境の変化
190年3月、反董卓連合の盟主となった袁紹への見せしめとして、董卓が袁紹の一族の袁隗と袁基を殺害しました。
汝南袁氏の宗主である袁基が殺害されたとなると、次の宗主を継ぐのが誰になるのかが問題になります。
そこで袁術は、袁逢の正室の子である自分こそが汝南袁氏の宗主を継ぐに相応しい。庶子の袁紹は自分に従うべきだと考えるようになりました。
そんなところに、袁紹から「劉虞を天子に推戴する計画」が持ちかけられたのです。
汝南袁氏の宗主を自認するようになった袁術には、庶子の袁紹が主導するこの計画に従うことは耐えられませんでした。
そのため袁術は、あえて袁紹とは逆の「献帝を支持する」姿勢をとって袁紹に対抗したのです。
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つまり、袁紹と袁術の対立は董卓が袁基を殺害したことが原因であると言えます。
董卓がどこまで意図していたかのかは分かりませんが、袁基を殺害したことによって結果的に袁紹と袁術を仲違いさせ、労せずして反董卓連合を崩壊させたのでした。