交趾刺史こうししし朱符しゅふの死から士燮ししょう兄弟の台頭、その後の交州こうしゅうの混乱と、交州こうしゅう孫権そんけん配下の歩騭ほしつによって平定されるまでをまとめています。

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交趾刺史部の士燮兄弟

交趾刺史・朱符の死

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん出身の交趾刺史こうししし朱符しゅふは、同郷の虞褒ぐほう劉彦りゅうげんといった連中を大々的にもちいて各地を治めさせました。

彼らは人々を侵害・虐待ぎゃくたいして民衆に厳しい税金を課し、黄魚1匹につき米1石を取り立てたので、人々はうらみをいだいて反抗し、山中の不服従民たちが州郡の役所に攻め込みました。朱符しゅふは逃亡して海に出ましたが、うろうろと放浪さすらううちに死亡しました。

以降、交趾刺史部こうしししぶの州郡は乱れておさまりがつかない状態となってしまいます。

士燮が交趾太守に任命される

建安けんあん8年(203年)、かんの朝廷は荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の張津ちょうしんを派遣して交趾刺史こうしししとし、交趾刺史部こうしししぶ蒼梧郡そうごぐん広信県こうしんけん出身の士燮ししょう交趾太守こうしたいしゅ交趾刺史部こうしししぶ交趾郡こうしぐん太守たいしゅ)に任命しました。

この時、張津ちょうしん士燮ししょうは「州を立てること」を上表し、これが認められて、張津ちょうしんは改めて交州牧こうしゅうぼくに任命されました。


またこの時士燮ししょうは、

  • 董卓とうたくの乱により郷里に帰っていた弟の士壱しいつ合浦太守がっぽたいしゅ
  • 交趾刺史部こうしししぶ合浦郡がっぽぐん徐聞県じょぶんけん県令けんれいであった次弟の士䵋しい九真太守きゅうしんたいしゅ
  • 士䵋しいの弟の士武しぶ南海太守なんかいたいしゅ

に任命するように願い出て、認められました。


交州における士燮兄弟の勢力

交州こうしゅうにおける士燮ししょう兄弟の勢力

豆知識

士燮

士燮ししょうあざな威彦いげんと言い、その先祖は元々国の汶陽ぶんようの人でしたが、王莽おうもうのために混乱が起こると、それをけて交趾刺史部こうしししぶに移住しました。それから6代目が士燮ししょうの父・士賜ししで、彼は桓帝かんていの時代に日南太守じつなんたいしゅとなります。

士燮ししょうは若い頃に京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に遊学に出て、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん出身の劉子奇りゅうしき劉陶りゅうとう)に師事し、左氏春秋さししゅんじゅうおさめました。

その後、孝廉こうれんに推挙されて尚書郎しょうしょろうとなりましたが、仕事上のトラブルにより免官となってしまいます。

父・士賜ししが亡くなり、そのが明けると、士燮ししょう茂才もさいに推挙されて荊州けいしゅう南郡なんぐん巫県ふけん県令けんれいに任命され、のち交趾太守こうしたいしゅに昇進しました。

士燮の弟・士壱

士燮ししょうの弟・士壱しいつは、元々郡の督郵とくゆう*1でしたが、交趾刺史こうししし丁宮ていきゅう京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]にかえされることになった時、心を込めて送別しました。

これに感激した丁宮ていきゅうは、


「もし私が三公さんこうの職をつとめることになったなら、きっとあなたをし寄せよう」


と言って士壱しいつと別れ、のち丁宮ていきゅう三公さんこうの1つである司徒しととなると、約束通り士壱しいつし寄せました。士壱しいつ京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に着いた時には、丁宮ていきゅうはすでに官を免ぜられ、黄琬こうえん司徒しととなっていましたが、黄琬こうえん士壱しいつを厚遇しました。


董卓とうたくの乱が起こると、士壱しいつ董卓とうたくと対立する黄琬こうえんのために心を尽くして働いたため、董卓とうたくはこれをにくんで、


司徒掾しとえん司徒しとの属官)の士壱しいつは、官に任用してはならぬ」


というきょう(他の役所に送る公式の布告)を出したので、士壱しいつは何年もの間、官位の昇進がありませんでした。

そうこうするうちに、董卓とうたく関中かんちゅう長安ちょうあん)に都をうつしたので、士壱しいつは官をてて故郷に帰りました。

脚注

*1五部ごぶ督郵とくゆう。郡に所属する諸県を監督する。東部・南部・西部・北部・中部の5部に分かれ、それぞれ管轄かんかつする諸県を監督した。

士燮兄弟の栄華

士燮ししょうは温厚な人柄で、謙虚けんきょで人におごることがなかったので、中原ちゅうげんの士人たちの中で、彼の元に身を寄せて難を避ける者は、何百人という数にのぼりました。

士燮ししょう兄弟はそれぞれ郡の太守たいしゅをつとめ、州(交州こうしゅう)で一番の実力者となり、しかも都から遠く離れていたため、並ぶ者のない権威を振るうようになります。

その様子は、外出や帰還の時にはしょうけい(石の楽器)が鳴らされ、儀杖ぎじょうととのえ、楽隊が従い、おつきの車馬や騎馬が道一杯にあふれ、彼の乗る馬車の左右に、数十人の香を胡人こじんがつき従っているという有り様でした。

また、彼らの妻妾さいしょうたちは輜軿車しへいしゃ*2に乗り、その子弟たちは重んぜられて歩兵や騎兵を従え、異民族たちを服従させた様子は、前漢ぜんかんの初めに南越なんえつに独立政権を樹立し、みずか南越武帝なんえつぶていと称した尉佗いた尉他いた趙佗ちょうた)でさえも及ばない程でした。


南海太守なんかいたいしゅとなった末の弟・士武しぶは、早くに病死しています。

脚注

*2主に女性が乗車した四方をまくおおわれた馬車のこと。


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交州の混乱

交州牧・張津の死

交州牧こうしゅうぼく張津ちょうしんは、昔の聖人たちの権威ある教えを打ちて、かん王朝の律法もないがしろにして、いつも絳帕頭こうはくとう(赤い帕頭ずきん)をかぶり、琴を鳴らし香をいて、間違った凡庸ぼんような内容の道書どうしょを読み、「このようにして政治教化の助けとなすのだ」と言っていました。


また張津ちょうしん荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうと対立し、自軍は弱兵にもかかわらず、連年、強兵の荊州けいしゅうに対して軍事行動を起こしたため、部将たちはうんざりして勝手に持ち場を離れるようになります。

張津ちょうしんは規律を引きめて彼らを取りまとめようとしますが、威厳が足らずあなどられ、結局は部将の区景おうけいに殺害されてしまいました。


張津ちょうしんが朝廷から交州牧こうしゅうぼくに任命された建安けんあん8年(203年)は、献帝けんていようする曹操そうそうが、河北かほく袁尚えんしょう袁譚えんたんと争いを続けていた時期に当たります。

この張津ちょうしん劉表りゅうひょうとの対立は、張津ちょうしん個人の領土的野心ではなく、背後をおびやかす劉表りゅうひょう牽制けんせいするための、朝廷(曹操そうそう)からの命令だったのではないでしょうか。

荊州牧・劉表の交州進出

交州牧こうしゅうぼく張津ちょうしんが殺害されると、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうは、荊州けいしゅう零陵郡れいりょうぐん出身の頼恭らいきょうを派遣して張津ちょうしんの後任にしようとしました。この頼恭らいきょうは仁愛がありつつしみ深い人物でしたが、時事には通じていませんでした。

その後、蒼梧太守そうごたいしゅ史璜しこうが亡くなると、劉表りゅうひょうはさらに荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん出身の呉巨ごきょを派遣して史璜しこうの後任にしようとしました。

豆知識

この時、劉表りゅうひょうが派遣した蒼梧太守そうごたいしゅ呉巨ごきょは、建安けんあん13年(208年)に曹操そうそうの南征を受けて敗北した劉備りゅうびが頼ろうとした人物です。

関連記事

詔により士燮が交州を監督する

一方、かんの朝廷の方では、交趾太守こうしたいしゅ士燮ししょう璽書じしょ天子てんし印璽いんじのある書簡)をくだして綏南中郎将すいなんちゅうろうしょうに任命し、交州こうしゅう7郡*3の監督に当たらせました。

璽書・全文
タップ(クリック)すると開きます。

交州こうしゅう隔絶かくぜつした地域にあり、その南は大河と海に面して、上からの恩徳も十分には及ばず、しもじもの者の忠義の心が中央に伝えられることもないままであった。(そうした状況を利用して)逆賊の劉表りゅうひょうめがまたもや頼恭らいきょうつかわして、南方の土地をうかがおうとしていることを知った。(それをすべく)ここに士燮ししょう綏南中郎将すいなんちゅうろうしょうに任命し、7郡*3の監督に当たらせる。交趾太守こうしたいしゅの任務はこれまで通りに行うように」


脚注

*3南海郡なんかいぐん蒼梧郡そうごぐん鬱林郡うつりんぐん合浦郡がっぽぐん交趾郡こうしぐん交阯郡こうしぐん)、九真郡きゅうしんぐん日南郡じつなんぐんの7郡=交州こうしゅう全域。

豆知識

のち士燮ししょうは役人の張旻ちょうびんつかわして、貢納品をたずさえて京師けいし許県きょけん)におもむかせました。

当時、天下は混乱のきわみにあって道路も通じなくなっていましたが、士燮ししょうが貢納の義務を果たし続けたことから、特別に重ねてみことのりくだされ、士燮ししょう安遠将軍あんえんしょうぐんはいし、龍度亭侯りょうたくていこうに封ぜられました。

頼恭と呉巨の対立

劉表りゅうひょうが派遣した蒼梧太守そうごたいしゅ呉巨ごきょは勇猛一点張りの武人で、同じく劉表りゅうひょうが派遣した交州牧こうしゅうぼく頼恭らいきょうなかたがいしてその指図に従わず、兵を動かして頼恭らいきょう荊州けいしゅう零陵郡れいりょうぐんに追い払ってしまいました。


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孫権の交州進出

交州刺史・歩騭

建安けんあん15年(210年)、孫権そんけんは新設した揚州ようしゅう鄱陽郡はようぐん太守たいしゅ歩騭ほしつを任命しました。

その後、交州こうしゅうの混乱を見た孫権そんけんは、その年のうちに歩騭ほしつ交州刺史こうしゅうしし立武中郎将りつぶちゅうろうしょうとして交州こうしゅうに派遣し、歩騭ほしつは弓矢で武装した役人・千人を預かって、近道をして南方の任地に向かいました。


交州の情勢

交州こうしゅうの情勢

蒼梧太守・呉巨らの粛清

建安けんあん16年(211年)、歩騭ほしつ使持節しじせつ征南中郎将せいなんちゅうろうしょうの称号を加えられました。


劉表りゅうひょうが任命した蒼梧太守そうごたいしゅ呉巨ごきょや、前の交州牧こうしゅうぼく張津ちょうしんの部将、夷廖いりょう銭博せんはくといった連中は、表面的には歩騭ほしつ)の支配を受けれていましたが、内心では秘かに異心をいだいていました。

そこで歩騭ほしつは、丁重な礼をって彼らを懐柔かいじゅうし、「会見をしたい」と言って誘い寄せると、その席で呉巨ごきょらを斬って見せしめとしました。

士燮兄弟の降伏

歩騭ほしつ呉巨ごきょらを斬ったことが知れ渡ると、歩騭ほしつの威勢は大いにあたりを振るわせました。

これに、交州こうしゅうで栄華をほこっていた士燮ししょうもついに兄弟たちを引き連れて歩騭ほしつの支配下に入り、孫権そんけんから左将軍さしょうぐんに任命されました。


建安けんあん8年(203年)、交趾太守こうしたいしゅに任命された士燮ししょうは3人の弟をそれぞれ太守たいしゅとし、交州こうしゅうにおいて絶大な権勢を持つようになりました。

その後、交州牧こうしゅうぼく張津ちょうしんが部将の区景おうけいによって殺害されると、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょう交州牧こうしゅうぼく頼恭らいきょう蒼梧太守そうごたいしゅ呉巨ごきょを派遣し、交州こうしゅうは再び混乱の様相をていするようになります。

建安けんあん15年(210年)、その様子を見た孫権そんけんは、歩騭ほしつ交州刺史こうしゅうししとして派遣し、翌年には呉巨ごきょらを斬り、士燮ししょう兄弟を降伏させて交州こうしゅうを平定しました。