黄巾の乱の際には名前も見えず、霊帝が崩御すると颯爽と現れて「反董卓連合」の盟主になってしまった袁紹の青年期は、どのようなものだったのでしょうか。
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目次
幼少期
出自
袁紹は字を本初と言い、豫州・汝南郡・汝陽県の人で、高祖父(祖父の祖父)・袁安以下、4代続いて三公を輩出した名門・汝南袁氏の御曹司です。生年は不明。
汝南袁氏家系図
汝南袁氏の家系図
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三公を経験した袁氏の人物
袁安
袁紹と袁術の高祖父。
袁安は、第3代皇帝・章帝の時代に司空、司徒を務めました。
袁敞
袁安には、袁賞、袁京、袁敞の3人の子がおり、第3子・袁敞は第6代皇帝・安帝の時代に司空を務めました。
袁湯
袁紹と袁術の祖父。
袁安の次子・袁京の子・袁湯は、第11代皇帝・桓帝の時代に司空、司徒、太尉を歴任し、安国亭侯に封ぜられて食邑500戸を与えられました。
袁逢、袁隗
袁湯には、袁平、袁成、袁逢、袁隗の4人の子がいましたが、長子・袁平と次子・袁成は早くに亡くなってしまいました。これにより、袁湯の爵位は第3子の袁逢が継ぐことになります。
その袁逢は第11代皇帝・霊帝の時代に司空を務め、第4子の袁隗は同じく霊帝の時代に2度に渡って司徒を務め、献帝が即位すると太傅に任命されました。
汝南袁氏は、章帝の時代から献帝の時代まで4代続いて三公を輩出した名門であり、袁紹が生まれた頃には、汝南袁氏は天下の人々に大きな影響力を持っていました。
袁紹と袁術の関係は?
袁紹の出自については、袁成の実子であるという記録と、袁逢の庶子(側室の子)で袁成の家に養子に出されたという記録の両方があり、どちらが正しいのかは定かではありません。
袁紹と袁術の関係は、袁紹が袁成の実子なら従兄弟、袁逢の庶子なら異母兄弟ということになります。
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青年期
濮陽県の県長となる
袁紹は早くから郎に取り立てられ、20歳の時に兗州・東郡・濮陽県の県長に任命されました。
当時、袁紹の県長としての執政は「心が清らかで私欲がない」との評判を得ていましたが、母が亡くなると、喪に服すために県長の職を辞任しました。
6年間喪に服す
袁紹は母の喪が明けると、遡って父の喪に服し、合わせて6年間を故郷の墓の側の小屋で過ごしました。
『魏書』袁紹伝の裴松之注によると、礼典には遡って親の喪に服すという決まりはなく、袁紹は何らかの理由で官職に就くことを避けるために、父の喪に服すことを口実にしたのだと思われます。
「奔走の友」と交わる
袁紹は喪が明けると洛陽に隠れ住み、むやみに賓客と交わらず、天下に名の知れた人物としか会おうとしませんでした。
また、堂々として威厳のある風貌をしていた袁紹は、男伊達を気取って仲間数人と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結びます。
この「奔走の友」には、
- 張孟卓(張邈)
- 何伯求(何顒)
- 呉子卿(諱不明)
- 許子遠(許攸)
- 伍徳瑜(伍瓊)
の5人の名前が挙げられています。
袁紹は「奔走の友」と何をしていたのか
『魏書』袁紹伝の注に引かれている『英雄記』には、袁紹が「奔走の友」と交わりを結んだことしか記されていません。では、袁紹は官職にも就かずに彼らと何をしていたのでしょうか?
その答えは、『魏書』荀攸伝に記載があります。
166年、陳蕃と李膺が宦官たちとの争いに敗れて失脚すると、彼らと親しくしていた何顒は、自分にも害が及ぶことを恐れて逃亡生活を送るようになりました。袁紹が何顒たちと「奔走の友」の交わりを結んだのはこの頃です。
その後「第一次党錮の禁」が起こると、袁紹は何顒たちと共に党錮の難に遭った士人たちの救済に奔走していたのでした。
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後に袁紹は態度が定まらない大将軍・何進に対して、かたくなに「宦官の粛清」を主張します。
これには、この頃何顒たちと共に党錮の難に遭った士人たちの救済に奔走していた背景があったのです。
袁紹と曹操の関係は?
20歳で濮陽県の県長になり、その後6年間喪に服していたことから逆算すると、何顒らと「奔走の友」の交わりを結んだ時、袁紹は26歳以上であり、袁紹は140年以前の生まれになります。
『魏書』武帝紀には「曹操は若い頃袁紹と交際があった」と記されていますが、155年生まれの曹操と袁紹は実に15歳以上も年齢が離れていることになります。
袁紹にとって曹操は、同僚や友人といった対等な間柄ではなく、自分の所に集まってくる若者の1人くらいにしか認識していなかったのかもしれません。
何進の命を受け出仕する
中常侍・趙忠らが袁紹の行動に警戒心を抱きだすと、袁紹の叔父・袁隗は「お前は今に我が一族を滅ぼすぞっ!」と忠告しました。
これにより袁紹はやっと重い腰を上げ、大将軍・何進の属官から推薦を受けて侍御史となり、霊帝の西園八校尉の創設に合わせて中軍校尉に、霊帝が崩御すると司隷校尉に昇進しました。
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勃海郡に逃亡する
霊帝が崩御すると、袁紹は何進に宦官の一掃を献策しますが、何皇后はこれを許可しませんでした。すると袁紹はさらに一計を案じ、何皇后に圧力をかけて宦官一掃を認めさせようと、各地の豪族を洛陽に呼び寄せるように何進に働きかけます。
その後、この計画を知った宦官の策略により何進が殺害されると、袁紹は宮中に軍勢を突入させて、宦官2,000人余りを殺害しました。
しばらくして何進の召集を受けた董卓が洛陽に到着すると、董卓は瞬く間に権力を掌握。袁紹は洛陽から冀州・勃海郡に逃亡しました。
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袁紹の列伝である『後漢書』袁紹伝と『魏書』袁紹伝には、「身分にこだわらず多くの士人と丁寧に接した」→「天下に名の知れた人物としか会おうとしなかった」、「袁隗の忠告に従わず行いを改めなかった」→「袁隗の忠告を受けて出仕した」など、相反する記述があります。
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袁紹データベース
袁紹関連地図
袁紹の関連地図
① 汝陽
豫州・汝南郡・汝陽県。袁紹の本籍地。
袁紹は故郷の汝陽県で、6年間喪に服しました。
② 濮陽
兗州・東郡・濮陽県。
袁紹が県長として赴任した場所。
③ 洛陽
司隷・河南尹・洛陽県。後漢の首都。
袁紹の父親が袁成であれ袁逢であれ、袁紹は父親の任地である洛陽で生まれたと考える方が自然でしょう。
また、両親の喪が明けた後の袁紹はここ洛陽に隠れ住み、「奔走の友」と共に党錮の難に遭った士人たちの救済に奔走しました。
その後袁紹は朝廷に出仕し、侍御史、中軍校尉、司隷校尉と昇進を重ねていきます。
④ 勃海郡
冀州・勃海郡。
朝廷の実権を握った董卓から袁紹が逃亡した場所。その後、袁紹は董卓から勃海太守に任命されました。
袁紹関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
・袁紹、司隷・河南尹・洛陽県で生まれる。(推測) ・郎に取り立てられる。 ・20歳で兗州・東郡・濮陽県の県長に任命される。 ・母の喪に服す。 ・父の喪に服す。 ・洛陽に隠れ住む。 |
166年 |
・何顒らと「奔走の友」の交わりを結ぶ。 |
不明 |
・党錮の難に遭った士人たちの救済に奔走する。 ・侍御史に任命される。(184年以降) |
188年 |
・中軍校尉に任命される。 |
189年 |
・司隷校尉に任命される。 ・2,000人に及ぶ宦官を誅殺する。 ・董卓が朝廷の実権を握る。 ・洛陽から冀州・勃海郡に逃亡する。 ・勃海太守に任命される。 |