建安けんあん15年(210年)に曹操そうそうが下した2つの布令、求賢令きゅうけんれい唯才是挙ゆいざいぜきょ述志令じゅつしれい譲県自明本志令じょうけんじめいほんしれいと、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに築いた銅爵台どうじゃくだい銅雀台どうじゃくだい)についてまとめています。

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曹操が「求賢令(唯才是挙)」を布告する

和洽の異議

曹操そうそう荊州けいしゅうを平定すると、和洽かこう和洽わこう)を辟召まねいて丞相府じょうしょうふ掾属えんぞくに任命しました。

当時、毛玠もうかい崔琰さいえんは共に忠義・清廉せいれんによって政務を担当していましたが、彼らの官吏の選抜・起用は、倹節(倹約)を第一としていました。

建安けんあん14年(209年)、和洽かこう和洽わこう)は彼らに対して、


「節倹(倹約)・素朴もぎれば、自己の身の処し方としてはよろしいが、節倹(倹約)によって万物を正そうとすると、失うところが多かろう」


と、彼らの方針に異議をとなえました。

和洽の意見・全文
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天下の大器(国政)は、官位と人物にかかっております。節倹(倹約)1つで処置できるものではありません。節倹(倹約)・素朴もぎれば、自己の身の処し方としてはよろしいが、節倹(倹約)によって万物を正そうとすると、失うところが多かろうと思われます。

今、朝廷の意見では『新しい衣服を着け、立派な車に乗っている官吏』がいると、それを清廉せいれんでないと申し、『身だしなみを飾らず、ころもきゅうけものの毛皮で作った衣服)が破れ、くたびれている長吏ちょうり(県の高官)』がいると、それを廉潔れんけつと申しております。

そのため、士大夫したいふの中には故意こいにその衣服をけがして車や服をしまいこみ、朝廷の大官の中には自分で弁当を持参して役所に入る者があるほどです。

そもそも教化をうち立て風俗を判断する場合、中庸ちゅうよう(過不足がなく調和がとれていること)の状態を尊重してそれを継承してゆくべきだと考えます。

今、全体としてがたい行為をたっとんで、それ以外の行為を取り締まっておりますが、無理をして行いますと必ず疲弊ひへいするものです。

古代の大きな教化は、人のこころに通ずることに努力いたしました。およそ過激で突飛な行為は、秘密と虚偽きょぎを容認することになります。


この和洽かこう和洽わこう)の意見について。

魏書ぎしょ和洽伝かこうでんでは毛玠もうかい崔琰さいえんに対して言っていますが、資治通鑑しじつがんでは曹操そうそうに対して言っており、「曹操そうそう和洽かこう和洽わこう)の意見を称賛した」となっています。

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求賢令(唯才是挙)

建安けんあん15年(210年)春、曹操そうそうは「家柄や行いの善悪にらわれず、ただ才能のみを基準として推挙せよ(唯才是挙ゆいざいぜきょ)」という布告を出しました。

求賢令(唯才是挙)・全文
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いにしえより創業の君主や中興ちゅうこうの君主で、賢人・君子を見出みいだし、彼らと共に天下を統治しなかった者がおられただろうかっ!

もし、君主が賢者を得るにあたって、閭巷りょこう(村里)に出向かなかったなら、賢者に出会うことができただろうか?

上にある者が探し求め起用したからこそ、賢者を得ることができたのである。


今、天下はなお安定を見ない。それこそ特に賢者を求めることを急務とする時である。

孟公綽もうこうしゃくちょうの家老となれば余裕を持てるだろうが、とうせつ大夫たいふにはなれない*1』のだ。

もし『必ず廉潔れんけつの人物であって初めて起用すべき』とすれば、せい桓公かんこうは一体どうして覇者となれたのであろうかっ!*2

今、天下に粗末な衣服を着ながら玉のごとき清潔さをもって渭水いすいの岸辺で釣りをしている者*3が存在しないと言えようか?

また、あによめと密通し賄賂わいろを受け取ったりはするが、魏無知ぎむちにまだめぐり会っていない者*4が存在しないと言えようか?

諸君、わしを助けて下賤げせんの地位にある者を照らし出して推薦してくれ。ただ才能のみを基準として推挙せよ(唯才是挙ゆいざいぜきょ)。わしはその者を起用するであろう。

脚注

*1論語ろんご憲問篇けんもんへんより。孟公綽もうこうしゃく春秋しゅんじゅう時代の大夫たいふちょうは大国・しんの重臣の家で、広大な領地を持ち、後にかんと共にしんを3分した。とうせつは独立の小国。人の才能には適材適所があることを言う。

*2せい桓公かんこうは反対派の管仲かんちゅうを起用して天下に覇をとなえた。管仲かんちゅうの若い頃の態度は潔癖けっぺきさと程遠いものであった。

*3しゅう文王ぶんおう見出みいだされた太公望たいこうぼう呂尚りょしょう)のこと。

*4かん高祖こうそ劉邦りゅうほう)を助けた謀臣・陳平ちんぺいのこと。行動には問題があるが、才能によって魏無知ぎむちから推薦された。


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銅爵台(銅雀台)と「述志令」

曹操が銅爵台(銅雀台)を築く

冬、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけん銅爵台どうじゃくだい銅雀台どうじゃくだい)を築きました。


資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注が引く水経注すいけいちゅうによると、銅爵台どうじゃくだい銅雀台どうじゃくだい)は鄴城ぎょうじょう内の西北部にあり、高さ10丈(約23.1m)、百余の部屋がありました。

述志令(譲県自明本志令)

12月、曹操そうそうは「自身のこれまでの経歴・功績とみずからのこころざしを明らかにし、封邑ほうゆう・3県2万戸を返上する」ことを布告し、天下に「これからも臣下としてかん王室を助ける」という態度を示しました。

この布告は、述志令じゅつしれいこころざしべるれい)、またはじょうけんめいほんれいけんゆずみずかほんかすれい)と呼ばれています。

述志令(譲県自明本志令)・全文
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私が初めて孝廉こうれんに推挙された時は年少であったが*5、元々巌穴がんけつに住み清廉せいれんをもって名を知られた人物ではないことから、おそらくは天下の人々から凡人・愚者とされることになるだろうと思い、1郡の太守たいしゅとなり政治と教化をうまく行うことによって名声を打ち立て、世の人士にはっきりと存在を知らしめたいと望んだ。

それゆえ、済南せいなん青州せいしゅう済南国せいなんこく)に在任した時は、最初に凶悪な者や汚濁に満ちた者を除去し、公平な心で官吏の選抜・推挙を行ったが、常侍じょうじ宦官かんがん)たちの意に逆らうこととなった。権力者・勢力家を怒らせたため、家に災難をまねくことが心配となり、病気を理由に帰郷した。

官を離れた後、年齢はなお若かったし、同じ年に推挙を受けた者を思い起こしてみても、中には50歳になりながら老人と呼ばれていなかった例もあり、これから20年を経過し、天下がみ渡るのを待っても、内心、やっと同期の年配者と同い年なのに過ぎないのだと計算した。

それゆえに1年中郷里に帰り、しょう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけん]の東50里(約21.5km)に書斎を建て、秋と夏は読書に、冬と春は狩猟に過ごしたいと考え、言わば低い土地を求め、泥水の中に自分を隠すように、賓客ひんかくたちの訪問を断ち切るつもりであった。

しかしながら思い通りにはいかず、後にし出されて都尉といとなり、典軍校尉てんぐんこういに昇任した。意図はこのように変更され、国家のためにぞくを討ち功を立てたいと思い、こうに封ぜられ征西将軍せいせいしょうぐんとなり、その後で墓石に『かんもと征西将軍せいせいしょうぐん曹公そうこう墓』としるされたいと望んだ。これがその時の希望であったが、董卓とうたくの難に遭遇し、正義の兵を起こしたのである。

この頃は、兵を多数集めるほど能力があるとされていた。しかし自分は常にみずから少なくおさえ、多くしたいとは思わなかった。兵数が多ければ意気盛んとなり、強敵と争って、あるいはかえってわざわいの源となるかもしれなかったからだ。それゆえ、汴水べんすいの戦いでは数千の兵であり、後に帰郷し、揚州ようしゅうのまで行って改めて募集した時もまた3千人に過ぎなかった。これは私が本来大きな望みを持たなかったためである。

後に兗州えんしゅうを所領していた時に、黄巾こうきん30万の軍勢を撃ち破って降伏させた。

また袁術えんじゅつ九江きゅうこう揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん)で帝号を僭称せんしょうした時、彼の配下の者はみな『しん』と称し、門に建号門けんごうもんと名をつけ、着る物はすべて天子てんしの制度にのっとり、2人の夫人ふじん皇后こうごうの位を争い合った。意志も計画もすでに決定してから、袁術えんじゅつに『このまま帝位につき、天下に公表せよ』と勧める者がいたが、彼は『曹公そうこう曹操そうそう)がなお存在しておる。まだいかん』と答えた。後に私が彼の配下の4人の将軍しょうぐんを討伐してとりこにし、その軍勢を手に入れた結果、袁術えんじゅつは追いめられて逃亡し、野望をくじかれ、病気になって死んだのである。

袁紹えんしょう河北かほくを支配した結果、強大な軍事力を有することになった。私は自己の勢力を計算して、実際、彼に敵対できないと思った。ただ死を覚悟で国のために尽くし、正義を守って我が身を殺すのは、後世に残す価値のあることだと考えただけである。さいわいにして袁紹えんしょうを破り、その2人の子の首をさらすことができた。

また、劉表りゅうひょうみずから皇族であることを良いことに、悪心を胸にいだき、進んだり退いたりしながら、世の中の動きを観望し、荊州けいしゅうを占有していた。私はまた彼を平らげ、天下を平定した。

身は宰相さいしょうとなり、人臣としての最高の地位を極めた以上は、望みはすでに越えている。

今、私が以上のことをべるのは、過度に自己宣伝しているみたいだが、充分に説明したいがために遠慮しなかっただけである。もし国家に私が存在しなかったとしたならば、幾人いくにんが皇帝と称し、幾人いくにんおうと称したか分からない。

あるいは、私の強盛を見た上で天命を信じない者がおり、心中秘かに批評して『不遜ふそんの気持ちをいだいている』とべ、勝手に忖度そんたくして常に落ち着かない思いでいるかもしれない。

せい桓公かんこうしん文公ぶんこうが今日に至るまで評判を残している理由は、その広大な軍事力をもって、なおよくしゅう王室を奉戴ほうたいしたからである。

論語ろんご秦伯篇しんはくへんに言う。『(しゅうは)天下の3分の2を領有しながら、いんに服従し仕えた。しゅうの道徳は最高の道徳と評価して良いであろう』と。よく大をもって小に仕えたから、このように評価されるのである。

昔、(えんの)楽毅がくきちょうに逃亡した時、趙王ちょうおうは彼と共にえんを攻めようとしたが、楽毅がくきは平伏して涙を流し、『わたくしが(えんの)昭王しょうおうにお仕えしたのは、ちょうど今、大王(趙王ちょうおう)にお仕えしているのと同じことです。わたくしがもし、大王(趙王ちょうおう)に罪を得て他国に放逐ほうちくされたとしましても、ちょうの奴隷に対してさえはかりごといだくに忍びないでしょう。ましてえんの(昭王しょうおう)の後継ぎに対してはなおさらですっ!』と答えたと言う。

胡亥こがいしん二世皇帝にせいこうてい)が蒙恬もうてんを殺した時、蒙恬もうてんは『我が先祖から子孫に至るまで、しんの3代のおうに信義を積み重ねてきた。今、わたくしは30余万の兵をひきいており、反逆するに充分な力を持っている。しかしながら、必ず死ぬことを知りながら道義を守るのは、先祖の教訓をはずかしめて先代のおうのご恩を忘れることができないからである』と言ったという。

私はこの2人についての記録を読むたびに、痛ましい思いに涙を流さずにはおられなかった。私の祖父からこの身に至るまで、みな恩愛を受けて重い任務をになったのは、信頼されたからだと言って良いであろう。

子桓しかん曹丕そうひあざな)兄弟の時代になれば、3代を越えることになる。私はただ諸君に対してだけこのことを説明しているのではない。常に妻妾さいしょうにも語っており、この気持ちを充分に理解させてある。私は彼女らに向かって『わしが死んだ後のことを考えると、お前たちはみな嫁に出されるに違いない。その時はわしの心を言い伝えさせて、他の人間すべてにこのことを理解させたいと思っている』と言ってある。私のこの言葉は、すべて胸中の急所である。

繰り返しねんごろに心中をべる理由は、周公しゅうこう金縢きんとう(金属製の箱)の文書があることによって自己の真意を明らかにし得た*6のを見るにつけ、人が信用しないことを懇念こんねんするからこそである。しかしながら、私が今すぐ宰領さいりょうしている軍勢を打ち捨てて執事しつじに返還し、武平侯ぶへいこうの国に帰任することを望まれても、実際上不可能である。

なぜかと言うと、軍から離れた後、人から災難を受けることが心配されるからである。子孫のためを考慮する必要がある上に、自分が敗れたならば国家が傾き危険となる。だからこそ空虚くうきょな名声にあこがれて現実の災禍さいかに身を置く訳にはいかないのである。これはとてもできないことである。

先に朝恩によって3人の子をこうに取り立てられたが、固辞してお受けしなかった。今、改めてそれをお受けしようというのは、さらに栄誉を加えたいのではなく、外部の援助体制を作り上げて万全の計としたいからである。

私は介之推かいしすいしん禄位ろくい*7申包胥しんほうしょの恩賞をのがれた*8と聞き、いつも書物をおいて感歎かんたんしないではいられない。おのれかえりみる点があるからである。国家の威光と神霊を奉じ、まさかりを杖ついて征伐し、弱きをもって強きに打ち勝ち、小でありながら大をとりこにし、胸の中で計画したことを行動によって裏切ることなく、心の中で考慮したことを実行に移して成功させぬことなく、とうとう天下を平定し、主命をはずかしめなかったのは、天がかん王室を助けたもうたからであって、人間の力ではないと言って良いであろう。

しかしながら、4つの県を合わせた領土を持ち、3万戸をんでいるのは、それにえるどんな徳を持っているのだろうかっ!

江湖こうこの地域(長江ちょうこう流域)がまだしずまらない以上、官位はゆずるわけにはいかないが、領土については辞退することが可能である。今、陽夏ようかしゃ豫州よしゅう予州よしゅう)・陳国ちんこく陽夏県ようかけん柘県しゃけん苦県こけん]の3県・2万戸を返上し、ただ武平ぶへい豫州よしゅう予州よしゅう)・陳国ちんこく武平県ぶへいけん]の1万戸をむだけとし、まずは非難の論を減少させ、私の負担を軽減したいと思う。

脚注

*5曹操そうそう孝廉こうれんに推挙されてろうとなったのは、20歳の時。

*6周公しゅうこうは幼主・成王せいおうを補佐して政治を担当したが、簒奪さんだつの意志があると疑われ流言が飛んだ。周公しゅうこうは以前、武王ぶおうが重病の時、身代わりとなって死ぬことを神に祈願し、その祈祷文きとうぶん金縢きんとう(金属製の箱)に入れて埋めておいた。それが嵐によって発掘され、疑いは晴れたという。尚書しょうしょ金縢きんとうはその文章である。

*7しん文公ぶんこう重耳ちょうじ)は位につく前、諸国を放浪した。帰国の後、苦労を共にした臣下に禄位ろくいを与えたが、介之推かいしすいだけは自分から発言せず、無視されて山中に隠れたと言う。

*8呉王ごおう夫差ふさに攻められて滅亡にひんしたを救うため、申包胥しんほうしょしんの宮門に7日7晩立ったまま泣き続け、ついにしんを動かしてを救ったが、「国家のためにしたのであって、我が身のためにしたのではないと言って恩賞を受けなかった。


建安けんあん16年(211年)春正月、献帝けんていは返書を出して5千戸を削減し、ゆずられた3県、1万5千戸を分割して、曹操そうそうの3人の子に与え、

  • 曹植そうしょく平原侯へいげんこう
  • 曹拠そうきょ范陽侯はんようこう
  • 曹豹そうほう饒陽侯じょうようこう

に封じ、領邑りょうゆうはそれぞれ5千戸としました。


建安けんあん15年(210年)春、曹操そうそうは「家柄や行いの善悪にらわれず、ただ才能のみを基準として推挙せよ」という、いわゆる求賢令きゅうけんれいを布告しました。

また、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけん銅爵台どうじゃくだい銅雀台どうじゃくだい)を築いてその威勢を示す一方で、反対派に配慮して述志令じゅつしれいじょうけんめいほんれい)を布告し、天下に「これからも臣下としてかん王室を助ける」という態度を示しました。