191年1月、袁紹と韓馥は、幽州牧・劉虞に使者を送って天子に即位するように願いました。袁紹による天子推戴の経緯とその影響について考えてみます。
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目次
反董卓連合が劉虞を天子に推戴する
袁紹が諸侯に相談する
191年1月、袁紹と韓馥は、
「天子(献帝)は幼く董卓に操られている。皇族の中でも徳が高く人望がある幽州牧・劉虞どのこそ天子にふさわしい」
と、反董卓連合の諸侯に幽州牧・劉虞を天子に立てることを相談しました。
ですが、これに曹操と袁術が反対します。
曹操の反対
「董卓の罪は天下に知れ渡っています。それゆえ諸侯が呼応して正義の軍を起こしたのです。
今、幼い天子には力なく、姦臣に操られておりますが、陛下に罪はありません。それなのに別の天子を立てるなど、天下の人々が認めるでしょうか?
あなた方は(劉虞がいる)北を向きなさい。私は(献帝がいる)西を向きます」
袁術の反対
劉虞を天子に推戴*1することを拒否した袁術に、袁紹は再度次のような書簡を送りました。
「今長安には名目上の天子(献帝)がいるが、血統的に皇室とのつながりもない。その上、私たちは親族を殺されているというのに、その仇も討たずに今の天子に仕え続けるのですか」
これに袁術が答えます。
「天子は聡明です。逆賊・董卓によって天下が混乱している今、天子を変えるなど、あなたはさらに混乱を大きくしようというのですか。
また、『血統的に皇室とつながりがない』など言いがかりに過ぎず、私たちの親族を殺したのは董卓であって天子ではない。ただ董卓を滅ぼすことだけが私の目的です」
袁術の言う通り「献帝が皇室の血統ではない」というのは袁紹によるデタラメです。
曹操と袁術は、董卓によって弘農王(少帝)が殺されてしまった以上、血統が一番近い献帝を正統な天子として認めるべきであるという立場を取りました。
これ以降、袁術は袁紹と反目するようになります。
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脚注
*1 組織の長として人を迎えること。
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天子推戴の失敗
劉虞に拒絶される
袁紹と韓馥は、曹操と袁術の反対を無視。楽浪太守・張岐を使者に立て、劉虞に天子の位につくように勧めます。
これを聞いた劉虞は、
「私は長年国家からご恩を受けてきた。天下動乱の今、忠義の諸侯と力を合わせて西方へ向かい、ご幼少の天子をお迎えしたいと願っているのに、その私に反逆を勧めに来るとは何事かっ!」
と、張岐を激しく叱責しました。
そこで袁紹たちは妥協して、劉虞に「天子に代わって官爵の任命を行ってもらえないか」と願い出ます。
ですが、劉虞は頑として受け入れず「これ以上強要するなら南匈奴に逃亡する」とまで言い出したので、袁紹たちもついに諦めました。
広陵太守・張超の使者
『魏書』臧洪伝には、
広陵太守・張超も「(天子に擁立することを)相談するために、臧洪を劉虞のもとに派遣した」と記されています。
ですが、河間国まで来たところで公孫瓚と袁紹が交戦しているところに出くわしたため、その使命を果たせませんでした。
そしてこの時、臧洪と会見した袁紹は彼を大変気に入って、亡くなった青州刺史・焦和の代わりとしてに青州を治めさせました。
ちなみに公孫瓚と袁紹が争うのは、もう少し後のことになります。
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袁紹はなぜ劉虞を天子に立てたかったのか?
大義名分
袁紹を盟主とする反董卓連合は、少帝を即位させた何進派の諸侯を中心として結成されていました。
つまり、暴虐非道な董卓を打倒し、「董卓が即位させた献帝を廃して、正統な皇位後継者である弘農王(少帝)を天子の座に戻す」ことこそが、反董卓連合の大義名分だったのです。
ですが、董卓によって弘農王が殺害されてしまったことでその大義名分が失われ、反董卓連合は単なる献帝に弓引く逆賊になってしまいました。
袁紹は劉虞を天子に担ぎ上げることで自分たちの行為を正当化し、再度反董卓連合の大義名分にしようとしたのです。
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権威の一本化
袁紹は、反董卓連合の盟主に着任した際に車騎将軍を称します。ですがこれは、朝廷が正式に任命したものではなく、袁紹が勝手に自称したものでした。
そしてその後、後将軍・袁術は孫堅を豫州刺史に任命し、兗州刺史・劉岱は王肱を東郡太守に任命するなど、反董卓連合の諸侯の間で勝手に官職を任命することが横行します。
袁紹が、せめて「天子に代わって官爵の任命を行ってもらえないか」と劉虞に頼んだことからも、権威を一本化し、反董卓連合の結束を高めようとしていたことが窺えます。
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董卓による弘農王の殺害と2度に渡る敗北によって、反董卓連合の結束は急激に弱まっていきました。
そして、幽州牧・劉虞を天子に推戴することによって再結束を図ろうとした袁紹ですが、逆に献帝肯定派と否定派に分裂する切っ掛けをつくってしまいました。