袁術と公孫瓚が手を組んで袁紹と争うようになると、袁術を敵視していた劉表は共通の敵を持つ袁紹と手を組みました。
袁術は後顧の憂いを取り除くため、ついに劉表討伐に乗り出します。
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目次
襄陽の戦い
劉表が袁紹と手を結ぶ
荊州刺史に任命された劉表は、荊州7郡のうち南郡、江夏郡、長沙郡、武陵郡、零陵郡、桂陽郡の6郡を瞬く間に平定します。
ですが、いまだに南陽郡だけは袁術に支配されたままであり、劉表は荊州から袁術の勢力を追い出したいと思っていました。
191年の荊州の情勢
そんな中、袁術が公孫瓚と手を結んで袁紹と争い出すと、劉表は共通の敵を持つ袁紹と手を結びました。
袁紹陣営と袁術陣営
袁術が公孫瓚と、袁紹が劉表と手を結んだことによって、袁術・公孫瓚を中心とする袁術陣営と、袁紹・劉表を中心とする袁紹陣営の対立という図式ができ上がりました。
袁紹陣営と袁術陣営
この時、これより前に起こった「磐河の戦い」で公孫瓚が袁紹に勝利したことによって、公孫瓚は冀州、青州、兗州の3州に刺史を送り込んでいました。
また一方で、袁紹も青州に臧洪を送り込んでいた上、兗州各郡の太守の多くは袁紹に味方していました。
そのため、青州と兗州は両陣営が混在していることになりますが、ここではより影響力が強いと思われる陣営に色分けしています。
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孫堅が黄祖を破る
191年冬*1、袁術は後顧の憂いを取り除くため、孫堅に劉表の本拠地である荊州・南郡・襄陽県の攻略を命じます。
孫堅は全軍で荊州に侵攻すると、樊城、鄧城の辺りまで迎撃に出た劉表の部将・黄祖を敗走させて襄陽県を包囲しました。
樊城と鄧城
脚注
*1 『呉書(ごしょ)』孫堅伝(そんけんでん)、『後漢書(ごかんじょ)』献帝紀(けんていき)では192年のこととされていますが、ここでは『資治通鑑(しじつがん)』に従って191年冬の出来事としています。
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孫堅の敗北
孫堅の死
劉表は城門を閉じて守りに徹すると、夜陰にまぎれて黄祖を城外に出して徴兵をさせました。ですが、このことは孫堅の知るところとなってしまいます。
孫堅は徴兵を終えた黄祖が襄陽県に戻ろうとしたところに襲いかかり、またもや大敗した黄祖は襄陽県の南10里にある峴山へと兵を引きました。
勝ちに乗じて黄祖を追った孫堅は、黄祖を探しているうちに味方とはぐれてしまいます。そしてこの時、茂みに隠れていた黄祖の兵が放った矢を受けて、孫堅は討ち死にしてしまいました。
豆知識
『呉書』孫堅伝の注に引かれている『英雄記』には、孫堅の死に様について別の記述があり、『三国志演義』ではこちらの説を採用しています。
劉表の部将・呂公を追った孫堅は、軽装のまま騎馬で呂公を探していました。
これに気づいた呂公はひそかに孫堅を見下ろす位置に近づくと、孫堅に向けて石を落とします。運悪く落石が頭に当たった孫堅は、即死してしまいました。
※ 孫堅の没年については、191年〜193年まで史料によって諸説あります。
孫堅の遺体のゆくえ
父の喪に服して官職を退いていた桓階は、かつて孫堅に仕えていた恩に報いるため、劉表を訪ねて「孫堅の遺体を引き取りたい」と申し出ました。
桓階の「義」の心に感動した劉表は、桓階の希望通り孫堅の遺体を引き渡します。
その後、孫堅の遺体は桓階から孫堅の兄(孫羌)の子・孫賁に引き渡され、孫策によって揚州・呉郡・曲阿県に埋葬されました。
孫賁と豫州刺史
孫堅死後の孫堅軍の動向については、次の2つの記録があります。
『呉書』孫堅伝
孫堅が戦死すると、孫賁は兵をまとめて袁術を頼り、袁術は改めて孫賁を豫州刺史に任命しました。
『呉書』孫賁伝
孫堅の死後、孫賁は残された軍勢を率い、孫堅の棺を守って故郷に帰りました。そして、袁術が寿春に本拠地を移すと孫賁もその配下に入ります。
その後、袁紹が周昂を九江太守に任命すると、袁術の命を受けた孫賁がこれを撃ち破ります。この功により孫賁は、袁術によって豫州刺史に任命されました。
この2つを読み比べると、孫賁は「孫堅の死後」と「周昂を撃ち破った後」の、どちらのタイミングで豫州刺史に任命されたのかが気になります。
これは、孫賁が「孫堅の死後に任命された豫州刺史を断って一時故郷に帰った」と考えると筋が通ります。
孫賁が豫州刺史を断った後は、おそらく郭貢が豫州刺史を務めたものと思われます。
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朱儁の挙兵
朱儁の挙兵
河内尹の朱儁は、反董卓連合に呼応するべく山東の諸侯と連絡を取り合っていましたが、董卓の攻撃を恐れた朱儁は官職を棄てて荊州に逃亡します。
ですが、董卓が新たに楊懿を河内尹に任命すると、朱儁は再び洛陽に攻め上がって楊懿を敗走させました。
その後、荒廃した洛陽から司隷・河南尹・中牟県に移った朱儁が「董卓討伐」を呼びかけると、周辺の州郡も物資を提供し、徐州刺史・陶謙は精兵3,000を派遣して朱儁を車騎将軍に推挙する上奏をしました。
朱儁と孫堅
朱儁は、盧植、皇甫嵩とともに「黄巾の乱」の討伐で大きな功績をあげた人物で、孫堅を抜擢したのもこの朱儁です。
その後、幷州、冀州に勢力を拡大した黒山賊を警戒するため、朱儁が河内尹に任命されました。
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191年2月、孫堅が荊州・南陽郡・魯陽県から北上を開始。胡軫、董卓、呂布を次々に撃破して洛陽に入ります。
この時河内尹の朱儁も洛陽にいた可能性が高く、朱儁が荊州に逃亡したのは、孫堅の手引きによって袁術・孫堅と共闘するためだったと考えることができます。
ですが、その後反董卓連合が崩壊して袁紹と袁術が互いに争うようになると、「董卓討伐」の大義が忘れ去られてしまいました。
そのため朱儁は自ら兵を挙げ、諸侯にもう一度「董卓討伐」を呼びかけたのです。
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徐州刺史・陶謙
袁紹が盟主となって決起した反董卓連合は、その実袁紹の派閥によって結成されたものでした。
反董卓連合に加わらず事態を静観していた徐州刺史・陶謙は、ここに来て朱儁の呼びかけに応じ、朱儁を車騎将軍に推挙する上奏をします。
車騎将軍は反董卓連合の盟主となった袁紹も自称しており、陶謙は朱儁を車騎将軍に推挙することによって袁紹を否定し、朱儁こそが反董卓の盟主であると天下に知らしめたのです。
また、孫堅と陶謙は共に「辺章・韓遂の乱」の討伐戦に参加しており、朱儁と陶謙を結びつけたのも孫堅だったのかもしれません。
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劉表が袁紹と手を結ぶと、袁術は孫堅に荊州・南郡・襄陽県の攻略を命じました。
ですが、怒濤の進撃を見せた孫堅は、黄祖の兵が放った矢を受けてあっさりと戦死してしまいます。
これまでも軍の先頭に立って幾多の戦功をあげてきた孫堅ですが、今回ばかりは「当たらなければどうということはない」というわけにはいきませんでした。
その後、黄巾の乱討伐の英雄・朱儁が反董卓の狼煙を上げ、反董卓の動きは新たな展開を見せ始めます。