諸豪族を洛陽に召集して宦官たちを追いつめた何進ですが、逆に宦官たちに暗殺されてしまいました。
その後、宦官一掃に成功した袁紹ですが、袁紹がこれまで誰も成し得なかった宦官一掃に成功した理由について考えてみます。
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目次
諸豪族を洛陽に召集
宦官一掃計画と何太后の反対
霊帝の崩御後、何太后が生んだ少帝(劉辯)が14歳で即位したことで、何太后を頂点とする外戚が政治の実権を握ることに成功しました。
ですが、中常侍をはじめとする宦官たちが存在する限り、汚職は続き、彼らに政治の実権を奪われる危険が常につきまといます。
そこで、大将軍・何進は袁紹の提案を受け入れ、何太后に宦官を一掃する許可を求めました。
宦官を排除する計画は以前にもありましたが、これまで天子や皇太后がこれを許可した例はありませんでした。天子や皇后、皇太后にとって宦官とは、自分たちの身の回りの世話をする大切な存在だったからです。
さらに、宦官の後押しによって皇后になることができた何太后は、宦官に対して深い恩義を感じていた上、何太后の母である舞陽君と一族である何苗も反対に回ったため、許可を得ることは非常に難しい状況でした。
そこで、何進は諸豪族を洛陽に召集し、彼らにも「宦官の誅殺」を求めさせることで、反対する何太后を屈服させようとしました。
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何太后への脅し
何進は各地の豪族に、次のように命令を発しました。
- 前将軍・董卓は軍勢を率いて関中(上林苑)に駐屯せよ。
- 大将軍府の掾(属官)である王匡と鮑信は、泰山郡で兵を集めよ。
- 東郡太守・橋瑁は軍勢を率いて成皋に駐屯せよ。
- 武猛都尉・丁原は、軍勢を率いて孟津を焼き払え。
そして、それぞれの軍勢に「宦官を誅殺すべし!」と叫ばせたのです。
何進による群雄の配置
丁原が洛陽の北東すぐ近くにある孟津を焼き討ちすると、その炎は洛陽の城中を照らすほどでしたが、何太后はそれでも首を縦に振りません。
さらに何苗が何進に言います。
「南陽で暮らしていた頃は貧しかったのに、宦官のお陰で今の地位にまで昇ることができたのです。この恩を忘れず、宦官と和解してください」
すると、ここに来て何進はまた迷い出しました。
一方で袁紹は、何進が心変わりをすることを恐れてさらに進言します。
「すでに我々の計画は宦官の知るところとなりました。今中止したところで宦官たちの恨みは消えません。ご決断をっ!」
これに対し何進は、袁紹を司隷校尉として軍権を与え、従事中郎の王允を河南尹に任命しました。このことは、袁紹たちに軍を動かす権限を与えたということです。
袁紹は、宦官に対する監視を強め、董卓ら諸豪族に洛陽に入るように使いを送りました。
事ここに至ると何太后も不安を募らせ、中常侍・小黄門ら官職に就く宦官をすべて罷免し、郷里に帰るように命じました。
中常侍たちは揃って何進を訪問し、謝罪して許しを請います。
これに対し何進は、
「お前たちを殺そうと董卓らがすぐそこまで迫っているのに、何で早く郷里に帰らないのか」
と答えました。
袁紹は、中常侍・小黄門らが集まっているまたとない好機に、彼らを殺すように進言しますが、何進はそれを許しませんでした。
何進は妹の何氏が皇后になって以来、宦官と共存関係を維持して来たため、宦官をそれほど危険視していませんでした。
袁紹の進言を入れて「宦官の一掃」を掲げてみたものの、本心では自分に害をなそうとした中常侍・蹇碩を殺した時点で十分だと考えていたのかもしれません。
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何進の暗殺と宦官の一掃
張讓(ちょうじょう)の陰謀
何進・袁紹による「宦官一掃計画」から逃れるために、宦官たちは官職を解かれ、郷里に帰ることを余儀なくされたのですが、彼らも黙って引き下がれません。
中常侍・張讓の子(養子)の妻は、何太后の妹でした。
張讓は彼女に「郷里に帰る前にもう一度宮中に上がり、皇太后と天子のご尊顔を拝したい」と懇願すると、舞陽君を通して何太后に伝わり、宦官たちは再び宮中に参内することを許されました。
何進の暗殺
そして、189年の8月、何進は宮中に参内します。
これを見た宦官たちは、
「何進は病気を理由に霊帝の葬儀にも参列しなかったのに、今頃何のために参内したのだろうか」
と訝しがりました。
張讓たちが人を使って宮中の様子を盗み聞くと、何進はまたもや「宦官一掃の許可を求めた」とのことです。
これを聞いた張讓は、中常侍の段珪・畢嵐に数十名の兵を率いさせて宮中に伏せると、偽の詔で再度何進を呼び出しました。
参内した何進に張讓らは言い放ちます。
「天下が乱れたのは 私たちの罪だけではない。
また、先帝(霊帝)が何太后を廃位されようとした際、私たちが涙を流してお救いしたのは、あなたの一族を頼みと思えばこそである。
それなのに私たちを滅ぼそうとするとは。
朝廷が腐敗しているというが、あなたの言う忠清な者の中に、あの時あなた方を救おうとした者がいるのか!」
言い終わると、尚方監の渠穆は剣を抜いて嘉徳殿の前で何進を斬りました。
そして、張讓と段珪は元太尉の樊陵を司隷校尉に、少府の許相を河南尹とする詔を尚書に渡します。
司隷校尉と河南尹を新たに任命することには、何進派の袁紹と王允の軍権を剥奪する意図がありました。
尚書が「大将軍と協議すべきです」というと、尚書の前に何進の首を投げ出してこう言い放ちます。
「何進は謀反し、すでに罪に服した!」
宦官たちが謝罪に来た時に殺すことをためらったのは、名声が傷つくことを恐れたのか、何太后によって逆臣にされることを恐れたのか、何進はあくまでも宦官一掃の許可を求めていました。
あるいは失脚した宦官に利用価値はなく、殺しておいた方が良いと考え直したのかもしれません。
また、霊帝の葬儀にも参加しなかったほど慎重だった何進が、偽の詔でノコノコ参内してしまったのは、宦官たちはすべて郷里に帰ったものと安心していたものと思われます。
張讓たちが現れたときの何進の様子は記されていませんが、さぞかし驚いた筈です。
宦官の一掃
門の外で待機していた呉匡と張璋は、何進が殺害されたことに気づくと、袁術と合流して攻撃をしかけましたが、なかなか打ち破ることができません。袁術は張讓たちをいぶり出そうと嘉徳殿と青瑣門に火をかけます。
張讓と段珪は「何進が謀反した」と言い、何太后と少帝、陳留王を連れて北宮に逃れようとしますが、尚書の盧植が立ちはだかったために何太后とはぐれてしまいました。
また、呉匡は日頃から何進と対立していた何苗に疑いを抱いていたため、董卓の弟の奉車都尉・董旻と共に兵を率いて何苗を攻めて首を斬りました。
一方袁紹は、張讓らが任命した司隷校尉・樊陵と河南尹・許相を斬ると、兵を率いて宦官たちを捕らえ、年齢を問わず皆殺しにかかります。
この時袁紹によって殺された宦官の人数は、2,000人に及んだと言われています。
中にはヒゲを生やしていなかったために宦官と間違われて殺された例もあり、服を脱いで去勢されていないことを証明する者もいました。
なぜ袁紹の宦官一掃は成功したのか
宦官の一掃を計画した何進と袁紹は、何太后の許可が得られないため、苦心の末に諸豪族を洛陽に呼び寄せ、何太后に圧力をかける作戦をとりました。
これは、何太后の許可を得ずに宦官の一掃を強行した場合、過去の例からも失敗する確率が高かったからです。
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ではなぜ、袁紹はこうも簡単に宦官の一掃に成功することができたのでしょうか。
何進の人望
呉匡が何苗を討った時のエピソードです。
呉匡が元何進の兵に向かって、
「大将軍(何進)を殺したのは車騎将軍(何苗)である。私と共に仇討ちをする者はいるかっ!」
と号令をかけると、兵たちは「大将軍のために死なせて下さい!」と、涙を流して呉匡に従いました。
たとえ大将軍の率いる兵であっても、それは天子から預けられた兵であり、天子に仕える兵です。これまでも、宦官たちが偽の詔を示して「賊を討て!」と命じれば、兵たちは詔に従ってしまうため、宦官を討つことに失敗してきました。
つまり、何進には人望があり、平素から兵に慕われていたため、兵たちは皆、「詔に背いて殺されようとも何進の仇討ちをするんだ!」と立ち上がったのだと言えるでしょう。
諸豪族の圧力
その昔宦官に敗北した竇武と陳蕃も、清廉潔白な人物として知られ、何進に劣らない人望があった人たちです。
では、この兵たちの反応の違いはどこにあるのでしょうか。
それは、口々に「宦官誅殺」を叫んで洛陽に集結しつつある諸豪族の存在です。
彼らの存在に何太后も不安に駆られ、中常侍たちの任を解き郷里に帰るように命じました。ですが、誰より不安になったのは洛陽に住む住民や兵士だったのではないでしょうか。
洛陽の城中を照らす炎は、彼らに宦官の天下の終わりを予感させ、優勢である袁紹たちによる宦官一掃に従ったと考えることもできます。
また、何進が殺害されていたことも重要です。兵たちは何進の「仇討ち」という特別な感情に突き動かされたのであって、もし何進が生きていたら、いくら人望があったからと言っても、同じように結束できたかどうかは分かりません。
宦官の一掃は、一見いとも簡単にやってのけられたように見えますが、「諸豪族の圧力」や、「何進の死」のような突発的な要素も加わって、初めて成し遂げられた快挙であると言えます。
また、宦官一掃に成功した袁紹たちですが、少帝と陳留王は、張讓たちに連れられて洛陽を脱出してしまいました。
少帝を保護できなかったことは、袁紹たちにとって大きな誤算となります。