袁術が献帝の保護に動き出すと、袁紹は袁術派の孫堅が治める豫州に侵攻を開始。袁氏同士の確執はついに軍事衝突へと発展し、反董卓連合は完全に崩壊してしまうことになります。
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目次
豫州(よしゅう)争奪戦
袁術と公孫瓚が手を結ぶ
献帝よりの使者
この頃、董卓によって強制的に長安に遷された献帝は、洛陽に帰りたいと考えていました。
そこで献帝は、侍中として自分に仕えていた劉和(幽州牧・劉虞の子)に密詔を持たせ、董卓の元から逃亡したように見せかけて劉虞の元に向かわせます。
漢の忠臣である劉虞に、軍勢を率いて自分を迎えに来るように命じようというわけです。
袁術の野望
劉和は董卓の支配地域を避けるため、一度南の武関を通って荊州・南陽郡に出て、北の幽州を目指す経路をとりました。
その途中、袁術の元を訪れた劉和から献帝の思いを聞いた袁術は、自分も献帝の洛陽への帰還に協力することを約束します。
袁術は劉和に劉虞宛の書簡を書かせると、劉和を引きとめて南陽郡にとどめ置き、自分で別の使者を立てて劉虞に書簡を届けさせました。
劉和の進路
つまり袁術は、劉虞の手助けをするのではなく、自分が主導権を握って「献帝の洛陽への帰還」を成し遂げ、献帝の後ろ盾として権力を得ようと考えたのです。
また、その後劉和は袁術の元を脱出して幽州を目指しましたが、冀州を通りかかった時、またも袁紹に引き留められてしまいました。
劉虞と公孫瓚の確執
劉和の書簡を受け取った劉虞は、すぐさま数千の騎兵を劉和の元に派遣しようとします。
この時袁術の思惑を察した公孫瓚は、劉虞に派兵を取りやめるように進言しますが、劉虞は聞き入れませんでした。
公孫瓚は、劉虞の派兵に反対したことが袁術に知られて恨まれるのを恐れ、従弟の公孫越に千騎を与えて袁術の元に送り込み、袁術と手を結びました。
また一方で、ひそかに劉和を捕らえて劉虞の軍勢を奪おうとしたため、劉虞と公孫瓚の仲はますます険悪になっていきます。
豫州をめぐる争い
191年冬、袁紹は周昂*1を豫州刺史に任命し、孫堅の留守中を狙って豫州・潁川郡・陽城県を占領させます。
この時すでに袁術によって豫州刺史に任命されていた孫堅は、洛陽へ攻め登った後、荊州・南陽郡・魯陽県に駐屯していました。
この知らせを聞いた孫堅は、
「我らはみな国を救うために義兵を挙げたはずだっ!それなのに、逆賊(董卓)が敗れかかったかと思うと、すぐに味方同士で争うようになるとは、私はいったい誰と戦えば良いのだっ!?」
と涙を流して嘆くと、すぐさま軍勢を率いて陽城県に向かいました。
豫州・潁川郡・陽城県
これに袁術も公孫越を派遣し、孫堅と袁術は周昂*1を敗走させましたが、この戦いの最中、公孫越が流れ矢に当たって死んでしまいます。
このことで公孫瓚は、戦いの原因をつくった袁紹を恨むようになりました。
脚注
*1 『魏書(ぎしょ)』公孫瓚伝(こうそんさんでん)、『資治通鑑(しじつがん)』では周昂(しゅうこう)、『呉書(ごしょ)』孫堅伝(そんけんでん)が注に引く『呉録(ごろく)』では周喁(しゅうぐ)とされている。
周昂(しゅうこう)と周喁(しゅうぐ)は兄弟で、2人の兄には曹操(そうそう)の募兵に協力した丹陽太守(たんようたいしゅ)・周昕(しゅうきん)がいる。
袁紹はなぜ豫州を攻めたのか?
以前袁紹と韓馥は、董卓の元にいる献帝を認めず、劉虞を天子に立てることを計画して袁術に賛同を求めました。
ですがその時袁術は「献帝を支持する立場」を表明し、袁紹の申し出を断ります。この時から、袁紹と袁術の間にはわだかまりが生じていました。
ここで袁術による献帝救出が成功した場合、袁術の勢力が急激に増大するだけでなく、反献帝の立場を取ってきた自分が逆賊にされかねません。
また、この時すでに袁紹は、韓馥から譲り受けた冀州を地盤として青州、幽州、幷州の3州を併合し、天下に号令する野望を抱いていました。
おそらく袁紹はすでに袁術のことを仮想敵として想定しており、先手を打って豫州を奪おうと考えたのではないでしょうか?
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公孫瓚と袁紹の争い
趙雲が公孫瓚に仕える
袁紹が冀州牧となると、州の住民はこぞって袁紹に従ったため、同じく冀州を狙っていた公孫瓚は気が気ではありませんでした。
そんな時、冀州・常山国の趙雲が義勇兵を率いて公孫瓚の元にやってきます。
「聞けば冀州の住民はみな袁紹につくことを願っているようだが、あなたはなぜ私の元にやって来たのかね?」
公孫瓚は大いに喜んで尋ねると、趙雲はこう答えました。
「わが州は仁政を行う方に従います」
つまり趙雲は、公孫瓚が仁政を行わない場合、いつでも立ち去るという意志を示したのです。
磐河(ばんが)の戦い
従弟の公孫越を殺された公孫瓚は、袁紹の罪状を上奏して磐河に出陣し、袁紹に報復する構えを見せました。
すると、冀州を手に入れて間もない袁紹は、これは かなわない と見て、勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の公孫範に与えて友好関係を結ぼうとします。
ですが、勃海太守となった公孫範は勃海郡の兵を率いて公孫瓚に助勢したため、公孫瓚の軍勢はさらに強大になり、周辺諸郡の多くは公孫瓚に従いました。
すると公孫瓚は、配下の厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史に任命し、郡県の長官も新たに任命しなおしました。
群雄割拠のはじまり
通常、州牧・州刺史・太守・県令などの地方官は、有力者による上奏(推挙)を朝廷が認めて初めて任命されます。当然、地方官がバッティングすることはありません。
ですがこの頃になると上奏は形式的なものとなり、諸将が思い思いに地方官を任命するようになります。
このような場合、前任者がいた場合にはその地位を武力で奪い取るようになり、いよいよ本格的な群雄割拠の時代が始まりました。
劉備が平原相に任命される
公孫瓚によって別部司馬に取り立てられていた劉備は、その後田楷に従って青州での戦いで手柄を立てたため、平原相(平原国の太守)に任命されました。
またこの時、趙雲も劉備に従って平原国で騎兵を指揮することになりました。
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公孫瓚が黄巾賊を破る
公孫瓚が黄巾賊を破る
191年11月、青州の黄巾賊30万が兗州・泰山郡に侵攻を開始しました。
ですが、泰山太守の応劭に撃退された黄巾賊は冀州・勃海郡に矛先を変え、東光県の南で黒山賊と合流しようとします。
これに公孫瓚は歩騎2万を率いて黄巾賊を急襲し、3万人余りを討ち取り、多くの輜重(武器・兵糧などの物資)を奪いました。
さらに、黄河のちょうど半分を渡ったところで再び公孫瓚の追撃を受けた黄巾賊は、数万人が戦死し、7万人が捕えられ、多くの物資を失いました。
黄巾賊の侵攻経路
劉備が公孫瓚を頼る
またこの頃、平原国・高唐県の県令となっていた劉備は、この時の黄巾賊の侵攻によって撃ち破られ、旧知の間柄である公孫瓚を頼って別部司馬に取り立てられました。
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董卓が長安に入ると反董卓連合の諸侯たちはその目的を忘れ、各々自身の勢力の拡大に躍起になっていました。
191年冬、冀州を手に入れた袁紹はついに反董卓連合の一員である孫堅が治める豫州に攻撃をしかけます。
また、この戦いが原因となって公孫瓚が袁紹に宣戦を布告。公孫瓚は幽州だけでなく冀州、青州、兗州にまで強い影響力を持つようになりました。