袁術えんじゅつ献帝けんていの保護に動き出すと、袁紹えんしょう袁術えんじゅつ派の孫堅そんけんが治める豫州よしゅうに侵攻を開始。袁氏えんし同士の確執はついに軍事衝突へと発展し、反董卓とうたく連合は完全に崩壊してしまうことになります。

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公孫瓚が黄巾賊を破る

趙雲が公孫瓚に仕える

袁紹えんしょう冀州牧きしゅうぼくとなると、しゅうの住民はこぞって袁紹えんしょうに従ったため、同じく冀州きしゅうを狙っていた公孫瓚こうそんさんは気が気ではありませんでした。

そんな時、冀州きしゅう常山国じょうざんこく趙雲ちょううんが義勇兵をひきいて公孫瓚こうそんさんの元にやってきます。


「聞けば冀州きしゅうの住民はみな袁紹えんしょうにつくことを願っているようだが、あなたはなぜ私の元にやって来たのかね?」


公孫瓚こうそんさんは大いに喜んでたずねると、趙雲ちょううんはこう答えました。


「わがしゅうは仁政を行うかたに従います」


つまり趙雲ちょううんは、公孫瓚こうそんさんが仁政を行わない場合、いつでも立ち去るという意志を示したのです。

公孫瓚が黄巾賊を破る

191年11月、青州せいしゅうの黄巾賊30万が兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐんに侵攻を開始しました。

ですが、泰山太守たいざんたいしゅ応劭おうしょうに撃退された黄巾賊は冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐんに矛先を変え、東光県とうこうけんの南で黒山賊こくざんぞくと合流しようとします。


これに公孫瓚こうそんさんは歩騎2万をひきいて黄巾賊を急襲し、3万人余りを討ち取り、多くの輜重しちょう(武器・兵糧などの物資)を奪いました。

さらに、黄河こうがのちょうど半分を渡ったところで再び公孫瓚こうそんさんの追撃を受けた黄巾賊は、数万人が戦死し、7万人が捕えられ、多くの物資を失いました。


黄巾賊の侵攻経路

黄巾賊の侵攻経路

劉備が公孫瓚を頼る

またこの頃、平原国へいげんこく高唐県こうとうけん県令けんれいとなっていた劉備りゅうびは、この時の黄巾賊の侵攻によって撃ち破られ、旧知の間柄である公孫瓚こうそんさんを頼って別部司馬べつぶしばに取り立てられました。

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豫州(よしゅう)争奪戦

豫州(よしゅう)争奪戦

袁術と公孫瓚が手を結ぶ

献帝けんていよりの使者

この頃、董卓とうたくによって強制的に長安ちょうあんうつされた献帝けんていは、洛陽らくように帰りたいと考えていました。

そこで献帝けんていは、侍中じちゅうとして自分に仕えていた劉和りゅうか幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐの子)に密詔みっしょうを持たせ、董卓とうたくの元から逃亡したように見せかけて劉虞りゅうぐの元に向かわせます。

かんの忠臣である劉虞りゅうぐに、軍勢をひきいて自分をむかえに来るように命じようというわけです。

袁術えんじゅつの野望

劉和りゅうか董卓とうたくの支配地域をけるため、一度南の武関ぶかんを通って荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに出て、北の幽州ゆうしゅうを目指す経路をとりました。


その途中、袁術えんじゅつの元をおとずれた劉和りゅうかから献帝けんていの思いを聞いた袁術えんじゅつは、自分も献帝けんてい洛陽らくようへの帰還に協力することを約束します。

袁術えんじゅつ劉和りゅうか劉虞りゅうぐ宛の書簡を書かせると、劉和りゅうかを引きとめて南陽郡なんようぐんにとどめ置き、自分で別の使者を立てて劉虞りゅうぐに書簡を届けさせました。


劉和の進路

劉和りゅうかの進路


つまり袁術えんじゅつは、劉虞りゅうぐの手助けをするのではなく、自分が主導権を握って「献帝けんてい洛陽らくようへの帰還」を成しげ、献帝けんていの後ろ盾として権力を得ようと考えたのです。

また、その後劉和りゅうか袁術えんじゅつの元を脱出して幽州ゆうしゅうを目指しましたが、冀州きしゅうを通りかかった時、またも袁紹えんしょうに引きめられてしまいました。

劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんの確執

劉和りゅうかの書簡を受け取った劉虞りゅうぐは、すぐさま数千の騎兵を劉和りゅうかの元に派遣しようとします。

この時袁術えんじゅつの思惑を察した公孫瓚こうそんさんは、劉虞りゅうぐに派兵を取りやめるように進言しますが、劉虞りゅうぐは聞き入れませんでした。


公孫瓚こうそんさんは、劉虞りゅうぐの派兵に反対したことが袁術えんじゅつに知られてうらまれるのを恐れ、従弟いとこ公孫越こうそんえつに千騎を与えて袁術えんじゅつの元に送り込み、袁術えんじゅつと手を結びました。

また一方で、ひそかに劉和りゅうかを捕らえて劉虞りゅうぐの軍勢を奪おうとしたため、劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさんの仲はますます険悪になっていきます。

豫州をめぐる争い

191年冬、袁紹えんしょう周昂しゅうこう*1豫州刺史よしゅうししに任命し、孫堅そんけんの留守中を狙って豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん陽城県ようじょうけんを占領させます。


この時すでに袁術えんじゅつによって豫州刺史よしゅうししに任命されていた孫堅そんけんは、洛陽らくようへ攻め登った後、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん魯陽県ろようけんに駐屯していました。

この知らせを聞いた孫堅そんけんは、


「我らはみな国を救うために義兵をげたはずだっ!それなのに、逆賊(董卓とうたく)がやぶれかかったかと思うと、すぐに味方同士で争うようになるとは、私はいったい誰と戦えば良いのだっ!?」


と涙を流してなげくと、すぐさま軍勢をひきいて陽城県ようじょうけんに向かいました。


豫州・潁川郡・陽城県

豫州よしゅう潁川郡えいせんぐん陽城県ようじょうけん


これに袁術えんじゅつ公孫越こうそんえつを派遣し、孫堅そんけん袁術えんじゅつ周昂しゅうこう*1を敗走させましたが、この戦いの最中さなか公孫越こうそんえつが流れ矢に当たって死んでしまいます。

このことで公孫瓚こうそんさんは、戦いの原因をつくった袁紹えんしょううらむようになりました。

脚注

*1 『魏書(ぎしょ)』公孫瓚伝(こうそんさんでん)『資治通鑑(しじつがん)』では周昂(しゅうこう)『呉書(ごしょ)』孫堅伝(そんけんでん)が注に引く『呉録(ごろく)』では周喁(しゅうぐ)とされている。
周昂(しゅうこう)周喁(しゅうぐ)は兄弟で、2人の兄には曹操(そうそう)の募兵に協力した丹陽太守(たんようたいしゅ)周昕(しゅうきん)がいる。

袁紹えんしょうはなぜ豫州よしゅうを攻めたのか?

以前袁紹えんしょう韓馥かんふくは、董卓とうたくの元にいる献帝けんていを認めず、劉虞りゅうぐを天子に立てることを計画して袁術えんじゅつに賛同を求めました。

ですがその時袁術えんじゅつは「献帝けんていを支持する立場」を表明し、袁紹えんしょうの申し出を断ります。この時から、袁紹えんしょう袁術えんじゅつの間にはわだかまりが生じていました。


ここで袁術えんじゅつによる献帝けんてい救出が成功した場合、袁術えんじゅつの勢力が急激に増大するだけでなく、反献帝けんていの立場を取ってきた自分が逆賊にされかねません。

また、この時すでに袁紹えんしょうは、韓馥かんふくからゆずり受けた冀州きしゅうを地盤として青州せいしゅう幽州ゆうしゅう幷州へいしゅうの3しゅうを併合し、天下に号令する野望をいだいていました。

おそらく袁紹えんしょうはすでに袁術えんじゅつのことを仮想敵として想定しており、先手を打って豫州よしゅうを奪おうと考えたのではないでしょうか?

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公孫瓚と袁紹の争い

磐河(ばんが)の戦い

従弟いとこ公孫越こうそんえつを殺された公孫瓚こうそんさんは、袁紹えんしょうの罪状を上奏して磐河ばんがに出陣し、袁紹えんしょうに報復する構えを見せました。

すると、冀州きしゅうを手に入れて間もない袁紹えんしょうは、これは かなわない と見て、勃海太守ぼっかいたいしゅ印綬いんじゅ公孫瓚こうそんさん従弟いとこ公孫範こうそんはんに与えて友好関係を結ぼうとします。

ですが、勃海太守ぼっかいたいしゅとなった公孫範こうそんはん勃海郡ぼっかいぐんの兵をひきいて公孫瓚こうそんさんに助勢したため、公孫瓚こうそんさんの軍勢はさらに強大になり、周辺諸郡の多くは公孫瓚こうそんさんに従いました。

すると公孫瓚こうそんさんは、配下の厳綱げんこう冀州刺史きしゅうししに、田楷でんかい青州刺史せいしゅうししに、単経ぜんけい兗州刺史えんしゅうししに任命し、郡県の長官も新たに任命しなおしました。

群雄割拠のはじまり

通常、州牧しゅうぼく州刺史しゅうしし太守たいしゅ県令けんれいなどの地方官は、有力者による上奏(推挙)を朝廷が認めて初めて任命されます。当然、地方官がバッティングすることはありません。

ですがこの頃になると上奏は形式的なものとなり、諸侯が思い思いに地方官を任命するようになります。

このような場合、前任者がいた場合にはその地位を武力で奪い取るようになり、いよいよ本格的な群雄割拠の時代が始まりました。

劉備が平原相に任命される

公孫瓚こうそんさんによって別部司馬べつぶしばに取り立てられていた劉備りゅうびは、田楷でんかいに従って青州せいしゅうでの戦いで手柄を立てたため、平原相へいげんしょう平原国へいげんこく太守たいしゅ)に任命されました。

またこの時、趙雲ちょううん劉備りゅうびに従って平原国へいげんこくで騎兵を指揮することになりました。


董卓とうたく長安ちょうあんに入ると反董卓とうたく連合の諸侯たちはその目的を忘れ、各々自身の勢力の拡大に躍起やっきになっていました。

191年冬、冀州きしゅうを手に入れた袁紹えんしょうはついに反董卓とうたく連合の一員である孫堅そんけんが治める豫州よしゅうに攻撃をしかけます。

また、この戦いが原因となって公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょうに宣戦を布告。公孫瓚こうそんさん幽州ゆうしゅうだけでなく冀州きしゅう青州せいしゅう兗州えんしゅうにまで強い影響力を持つようになりました。