199年【漢:建安4年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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199年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
大司馬 |
ー |
太尉 |
ー |
司徒 |
趙温 |
司空 |
曹操 |
執金吾 |
伏完 |
将作大匠 |
孔融 |
大将軍 |
袁紹 |
車騎将軍 |
曹操 → 董承 |
衛将軍 |
董承 → ー |
前将軍 |
馬騰 |
後将軍 |
楊定 |
左将軍 |
劉備 |
右将軍 |
袁紹 |
輔国将軍 |
伏完 |
安降将軍 |
韓遂 |
奮武将軍 |
公孫瓚 |
建徳将軍 |
曹操 |
討逆将軍 |
孫策 |
伏波将軍 |
陳登 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
袁紹 |
豫州牧 |
劉備 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉璋 |
青州刺史 |
袁譚 |
揚州刺史 |
厳象 |
遼東太守 |
公孫度 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
王邑 |
広陵太守 |
陳登 |
丹楊太守 |
呉景 |
豫章太守 |
華歆 |
会稽太守 |
孫策 |
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199年の主な出来事
月 |
出来事 |
春 |
- 袁紹が易京の公孫瓚を包囲する。
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2月 |
- 曹操が兗州・山陽郡・昌邑県に入る。
- 司隷・河内郡で眭固が楊醜を殺害し、袁紹につく。
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3月 |
- 黒山賊が公孫瓚を救援する。
- 公孫瓚が袁紹の伏兵に敗れる。
- 公孫瓚が焼身自殺をし、袁紹が易京を陥落させる。
- 鮮于輔が建忠将軍に任命され、幽州の内6郡を都督する。
- 董承が車騎将軍に任命される。
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4月 |
- 曹操配下の史渙・曹仁が眭固を討つ。
- 曹操が魏种を河内太守に任命する。
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不明 |
- 献帝が董承に「曹操誅殺」の密詔を下す。
- 劉備が「曹操誅殺」の計画に加わる。
- 袁術が困窮し、袁紹を頼って北上を開始する。
- 曹操が劉備・朱霊・路招を袁術討伐に向かわせる。
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6月
|
- 袁術が病死する。
- 袁胤らが廬江太守・劉勲を頼る。
|
不明
|
- 元広陵太守・徐璆が伝国璽を朝廷に返還する。
- 劉備が沛県(小沛)に入る。
- 袁紹が許県の攻撃のため延津に宿営する。
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8月 |
- 曹操が袁紹領の黎陽に進軍する。
- 曹操が臧覇らを青州に進入させる。
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9月 |
- 劉備が徐州刺史・車冑を殺害する。
- 徐州の昌豨が反乱を起こし劉備に味方する。
- 官渡に軍を分け、曹操が許県に帰還する。
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不明 |
- 曹操が劉岱・王忠を劉備討伐に向かわせる。
- 劉岱・王忠が敗れる。
|
11月 |
- 張繡が曹操に帰順する。
- 関中の諸将が曹操に帰順する。
- 袁紹が劉表に援軍を求め、劉表は承知するも動かず。
- 孫策が黄祖討伐に出陣する。
- 廬江太守・劉勲が豫章郡に出陣する。
- 孫策が劉勲の本拠・晥県を降伏させる。
- 孫策が大橋を、周瑜が小橋を娶る。
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12月 |
- 孫策が西塞山で劉勲を破る。
- 劉勲が曹操の下に逃亡する。
- 劉勲が列侯に封ぜられる。
- 孫策が黄祖を破る。
- 孫策が華歆を降伏させ、豫章郡を平定する。
- 孫策が呉郡の厳白虎(厳虎)を破る。
- 孫策が厳白虎を頼っていた呉郡太守・許貢を殺害する。
- 曹操が官渡に布陣する。
- この年、初めて尚書左右僕射を置いた。
- 荊州・武陵郡の女子が死んで14日後に蘇生した。
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199年の三国志群雄勢力図
1月
建安4年(199年)1月の三国志群雄勢力図
公孫瓚の滅亡
春、袁紹は全軍を揚げて北に出陣すると、そのまま易京を包囲します。
公孫瓚は黒山賊の張燕と示し合わせて袁紹を挟み撃ちにしようとしますが、公孫瓚の張燕に宛てた手紙を手に入れた袁紹は、偽の合図で公孫瓚を誘い出し、これを撃ち破りました。
そして、公孫瓚が易京に籠もったまま出て来なくなると、袁紹は攻撃隊を分けて地下道を作らせ、敵の櫓の真下で火を放って櫓を倒壊させます。「もはや敗北を免れぬ」と悟った公孫瓚は、自分の姉妹・妻子をことごとく絞め殺し、自ら火をつけて自焚(焼身自殺)して果てました。
結果 幽州は、公孫瓚と勢力を二分した鮮于輔が曹操(朝廷)に帰順して幽州6郡を任され、異民族は袁紹に懐柔されるという歪な状況が生まれました。
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【易京の戦い】公孫瓚の滅亡と幽州の再編
曹操の河内郡平定
2月、司隷・河内郡で元黒山賊の眭固が、曹操派の楊醜を殺害して、郡をあげて袁紹につきました。
この時呂布征伐を終えて帰還の途中にあった曹操は、史渙と曹仁を派遣して眭固を討ち、魏种を河内太守に任命します。
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曹操の河内郡平定。曹操が袁紹についた眭固を討つ
曹操誅殺の密詔と袁術の死
この頃、曹操の専横を忌み嫌った献帝は、車騎将軍・董承に「曹操誅殺」の密勅を下し、当時曹操の下に身を寄せていた劉備もこの計画に加わります。
そしてちょうどこの頃、困窮して勢力を保てなくなった袁術が袁紹を頼って北上を開始。
曹操はこれを討伐するため劉備に朱霊・路招をつけて出陣させますが、袁術は戦いを交える前に病死してしまいました。
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酒を煮て英雄を論ず。曹操誅殺の密勅と袁術の最期
袁紹の出陣
この頃、
- 冀州
- 青州
- 幽州
- 幷州(并州)
の4州を併合して数十万の軍勢を擁した袁紹は、精鋭兵10万・騎兵1万騎を選り抜いて、曹操の本拠地である豫州(予州)・潁川郡・許県を攻撃しようと考えます。
この時、袁紹の陣営では主戦派と反戦派に分かれて議論が繰り広げられましたが、主戦派が勝利して、袁紹は冀州・魏郡・黎陽県において兵を整え、延津に宿営しました。
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袁紹が許県(曹操)攻撃を決意する。反戦派と主戦派の論争
曹操の出陣と張繡の帰順
8月、袁紹が延津に宿営すると、曹操配下の諸将はみなとても敵わないと袁紹を恐れていました。
ですが、呂布を滅ぼし後顧の憂いを断った曹操は、自ら冀州・魏郡・黎陽県に軍を進め、臧覇らを青州に進入させて斉国・北海国・東安*1を撃ち破り、于禁を黄河の河岸に駐屯させておきます。
そして9月、曹操は兵を分けて官渡を守らせると、本拠地の豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還しました。
曹操と袁紹の布陣
11月、袁紹は荊州・南陽郡に使者を遣わして張繡を味方に引き入れようとしましたが、張繡の参謀・賈詡は「曹操に従うべき3つの理由」を挙げ、張繡はこれに従って曹操に帰順します。
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「官渡の戦い」の開戦と張繡の帰順
脚注
*1東安の詳細不明。北海国・東安平県か楽安国の誤記か。上記地図は楽安国として作成しています。(斉国・北海国が郡単位のため)
曹操の出陣時期は「8月」と明記されていますが、袁紹の出陣時期は明記されていません。
「袁紹の檄文(為袁紹檄豫州)」には「袁紹が公孫瓚と戦っている間に、曹操が(袁紹を援助すると見せかけて)黄河を渡った」とありますが、その間、曹操は河内郡で眭固と戦っており、また袁紹陣営の主戦派と反戦派の論争では戦端を開く主導権は袁紹にあるように思えますので、ここでは『資治通鑑』に従って袁紹の出陣を先としています。
12月
建安4年(199年)12月の三国志群雄勢力図
劉備が徐州を奪う
袁術の死後、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に入った劉備は、曹操の将・朱霊・路招が帰還すると、徐州刺史・車冑を殺害して徐州に入ります。
これに呼応して昌豨が反乱を起こすと、郡県の多数が曹操に背いて劉備に味方しました。その後劉備は袁紹と手を結びます。
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この劉備の徐州入りの時期も明記されていませんが、8月に冀州・魏郡・黎陽県に軍を進めた曹操が9月に許県に帰還しており、これが劉備への警戒のためではないかと思われますので、ここでは9月として扱っています。
ちなみに『資治通鑑』では、この年の最後に記述されています。
関中の諸将の反応
袁紹と曹操が戦火を交えると、荊州牧・劉表は袁紹の味方をし、関中(函谷関の西側の地域)の諸将もまた中立の立場をとっていました。
この時曹操は、治書侍御史・衛覬の提案を受け入れてあ司隷校尉の治所を司隷・弘農郡に移して関中の民を慰撫したので、関中の諸将はみな曹操に服従しました。
また、この前年[建安3年(198年)]に荊州の南部で反乱を起こしていた長沙太守の張羨は、長沙郡・零陵郡・桂陽郡の3郡を挙げて曹操につき、劉表に抵抗しました。
劉表はこの時、張羨の討伐を行っている最中であり、袁紹のために兵を動かすことはありませんでした。
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孫策の西進
袁術が病死すると、袁術の妻子や旧臣たちは廬江太守・劉勲を頼り、劉勲は長江・淮河一帯の地域で強力な勢力となっていました。
この時、劉表討伐の勅命を受けて西に向かっていた孫策は、これを不愉快に思い、劉勲に豫章郡(予章郡)討伐を勧め、劉勲が出陣した隙に手薄になった晥城(劉勲の本拠地)を降伏させます。
さらに孫策は、引き返して来た劉勲を撃ち破ると、荊州・江夏郡に侵攻して沙羡県に陣を敷いた黄祖軍を散々に撃ち破りました。
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豫章郡(予章郡)と呉郡の平定
黄祖を撃ち破った孫策はその帰還の途上、豫章郡(予章郡)を手に入れようと考えます。
そこで孫策は、豫章太守・華歆の元に虞翻(虞翻)を派遣して「孫策に服従することと逆らうことの利害」について説いて聞かせ、華歆を降伏させました。
また、後回しにしていた呉郡の山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)の不服従民・厳白虎(厳虎)の討伐に取りかかり、和睦の使者としてやって来た彼の弟・厳輿を斬って敵の戦意を挫くと、いとも簡単に厳白虎(厳虎)を撃ち破りました。
またこの後孫策は、厳白虎(厳虎)の元に身を寄せていた元呉郡太守・許貢を殺害しています。
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建安4年(199年)、幽州の公孫瓚を滅ぼした袁紹は、ついに曹操の本拠地・許県に向けて侵攻を開始します。
呂布征伐を終えて後顧の憂いを断った曹操も、袁紹と雌雄を決すべく出陣しましたが、このタイミングで劉備が離反して袁紹と手を結んだことは、大きな誤算でした。
一方孫策は、その間に豫章郡(予章郡)と呉郡の平定を終え、袁術の下を離れてから約5年、孫策は九江郡を除く揚州全域と荊州・江夏郡の一部を支配下に収めました。
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