建安4年(199年)秋8月、曹操と袁紹が官渡で対峙した際の、関中の諸将、荊州牧・劉表、長沙太守・張羨の反応についてまとめています。
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関中が曹操に帰順する
官渡の戦いの開戦
建安4年(199年)春に幽州の公孫瓚を滅ぼした袁紹は、曹操の本拠地である豫州(予州)・潁川郡・許県を攻撃するため、冀州・魏郡・黎陽県において兵を整え、延津に宿営します。
一方、徐州の呂布を滅ぼして後顧の憂いを断った曹操は、秋8月、袁紹と雌雄を決すべく、冀州・魏郡・黎陽県に軍を進め、臧覇らを青州に進入させて斉国・北海国・東安*1を撃ち破り、于禁を黄河の河岸に駐屯させました。
曹操と袁紹の布陣
そして12月、許県に帰還していた曹操は、再び兵を進めて官渡に陣を取ります。
脚注
*1東安の詳細不明。北海国・東安平県か楽安国の誤記か。上記地図は楽安国として作成しています。(斉国・北海国が郡単位のため)
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「官渡の戦い」の開戦と張繡の帰順
関中諸将の反応
袁紹と曹操が争っている間、関中(函谷関の西側の地域)の諸将はみな中立の立場をとり、戦況を傍観していました。
涼州従事・楊阜の見解
この頃、涼州の従事・楊阜が涼州牧・韋端の使者として許県に赴き、涼州・安定郡の長史に任命されました。
楊阜が帰還すると、関西(陝西)の諸将はみな、楊阜に「袁紹と曹操の勝敗の行方」を尋ねます。
すると楊阜は、
「袁公(袁紹)は寛大ではありますが果敢さがなく、策謀好きですが決断に欠けます。果敢さがなければ威厳はなく、決断に欠ければ後の事が上手く行きません。今は強大ではありますが、最終的に大事業を成功させることはできないでしょう。
曹公(曹操)は雄大な才能と遠大な知略を持ち、機を逃さず決断してためらわず、法令は一貫し軍兵は精鋭、よく考えも及ばない人物を起用しますが、任命された者はそれぞれその力を充分に発揮しております。必ずや大事業を成し遂げることができるでしょう」
と答えました。
衛覬の提案
袁紹と曹操が戦火を交えると、荊州牧・劉表は袁紹の味方をし(後述)、関中(函谷関の西側の地域)の諸将もまた中立の立場をとっていました。
益州牧の劉璋は以前から劉表と仲が悪かったので、曹操は衛覬を治書侍御史として益州の劉璋に派遣し、劉表を牽制させることにしました。
ですが、衛覬が長安まで来てみると益州への道は通じておらず、そのまま関中に留まります。
当時関中には四方から帰郷中の民衆がたくさんおり、関中の諸将の多くは彼らを部下として引き入れていました。
そこで衛覬は、荀彧に手紙を送って関中の様子を伝え、司隷校尉に関中を統治させることを提案します。
衛覬の手紙全文
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関中は肥沃な地域ですが、先頃飢饉や騒乱に遭遇し、荊州に流れ込んだ民衆10万余家は、郷土の安定を聞いて、みな関中に帰りたいと願っております。
ところが、帰還した者には生業もなく、諸将はそれぞれ競い合って彼らを招き寄せては部下にしています。いったん変事や騒動があれば、必ず将来の禍根となりましょう。
そもそも塩は国の大切な宝ですが、動乱以来放置されています。以前のように使者を置いて売買を監督させるのが当然で、その利益をもって農牛を買い、もし帰郷の民がいれば、それを彼らに供給して農耕を奨励し、穀物を備蓄して関中を豊かにするべきです。そうすれば、遠方にいる民衆も、必ずや競い合って帰郷するでしょう。
また、司隷校尉に関中を統治させて彼らの主とすれば、諸将の力は日に日に削られ、官民は日に日に盛んになりましょう。これは本を強めて敵を弱める有利な策です。
そして、荀彧がこの内容を曹操に報告すると、曹操はこれに従って初めて謁者僕射を派遣して塩官*2を監督させ、司隷校尉(鍾繇)の治所を司隷・弘農郡に置くことにしたので、関中の諸将はみな曹操に服従しました。
脚注
*2司隷・河東郡に塩池があり、ここに塩官が置かれました。
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劉表が袁紹に味方する
袁紹よりの使者
一方この頃袁紹も、曹操の背後に位置する荊州牧・劉表に使者を派遣して援軍を求めましたが、劉表はこれを承諾しておきながら兵を出さず、また曹操に味方するでもなく、長江・漢江一帯の地域を支配して天下の形勢の変化を静観していました。
そこで従事中郎の韓嵩と別駕の劉先は、
「このまま態度を明らかにしなければ、両者から怨まれることになります。きっと曹操は袁紹を滅ぼすに違いありません。その次に狙われるのは荊州です。
ここは曹操に従うのが最良と存じます。曹操はきっと将軍(劉表)を大事にし、感謝するでしょう」
と劉表に進言します。
韓嵩と劉先の進言全文
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豪傑が互いに抗争し、両雄が対峙し合っております今、天下がどちらに傾くかは将軍(劉表)の態度にかかっています。
もし将軍(劉表)が大事を成すお気持ちをお持ちならば、立ち上がって彼らの疲弊につけこむべきです。もしそうでないならば、当然服属する相手を選択なさってください。
将軍(劉表)は10万の軍勢を擁し、安閑として座ったまま成り行きを静観しておられます。そもそも賢者を見ながら応援の手を差し伸べもせず、和睦を請うてきているのにそれもなさらないなら、この2つの怨みは必ずや将軍(劉表)に集中するでありましょう。将軍(劉表)は中立でおられることは不可能です。
そもそも曹公(曹操)は英智を持たれ、天下の優れた人物はすべて帰順しております。その形勢から申して、袁紹を滅ぼすに違いありません。その後で、軍勢を挙げて長江・漢江の地域(荊州)に向かって来たならば、おそらく将軍(劉表)は防ぎとめることができないでしょう。
それゆえ将軍(劉表)のために計画いたしますならば、荊州を挙げて曹公(曹操)に従うのが最良と存じます。曹公(曹操)はきっと将軍(劉表)を大事にし感謝するでしょう。将軍(劉表)は永久に幸いを享受され、これを後の代まで伝えることになりましょう。これこそ万全の対策と存じます。
すると、劉表の大将・蒯越も彼らの意見に同意しました。
韓嵩を許県に派遣する
劉表は散々悩んだ結果、韓嵩を呼んで言いました。
「現在天下は乱れに乱れ、誰の手に落ち着くか分からない。曹公(曹操)は天子を擁して許県に都を置いている。君は儂のために彼の弱点を見てきてくれ」
すると韓嵩は、
「私は将軍(劉表)の臣として名を連ね、主君と仰ぐ以上、たとえ熱湯をくぐり火を踏むことさえ厭わず、将軍(劉表)の命令に従う覚悟です。
ですが私が観察しますに、曹公(曹操)はきっと天下を救済されるに違いありません。将軍(劉表)が、上は天子に、下は曹公(曹操)に帰服なされるならば、必ずや百代の後までも利益を享受されるでしょう。
もしそうでないのならば、私が都に使者として出向き、天子さまが私に官職を授与された場合、私は天子さまの家来となり、将軍(劉表)の故吏(旧臣)に過ぎなくなります。
どうか将軍(劉表)には充分お考えになり、私の気持ちを裏切らないでくださいますように」
と言いましたが、劉表はそのまま韓嵩を都(許県)に派遣しました。
韓嵩の返答全文
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聖人は時代の変化に従った柔軟な生き方をわきまえ、それに次ぐ人間は頑なに生き方を守り抜くものです。
私は自分の生き方を守り抜く人間です。そもそも主君にお仕えすれば、主君の御為を計るのが原則で、君臣の名義が定まったならば、命をかけてその原則を守り抜くものです。
今、将軍(劉表)の臣として名を連ね主君と仰ぐ以上、たとえ熱湯をくぐり火を踏むことさえ厭わず、将軍(劉表)の命令に従います。
ですが私が観察しますに、曹公(曹操)は極めて英明な方でして、きっと天下を救済されるでしょう。将軍(劉表)には、上は天子に帰順され、下は曹公(曹操)に帰服されましたならば、必ずや百代の後までも利益を享受され、楚国(荊州)も実際そのお陰をこうむることになります。
そのようなおつもりで私を使者として遣わされるのならよろしゅうございます。もしまだご計画を決めておられないのならば、私が都に使者として出向き、天子さまが私に官職を授与された場合、私は天子さまの家来となり、将軍(劉表)の故吏(旧臣)に過ぎなくなります。
主君の御為を計るという原則からすると、私は天子のご命令を守り抜き、道義的にもう将軍(劉表)の御為に死ぬことはできなくなります。
どうか将軍(劉表)には充分お考えになり、私の気持ちを裏切らないでくださいますように。
すると案の定、献帝は韓嵩を侍中に任命し、零陵太守に昇進させました。
そして帰還した韓嵩は、曹操の威光と恩徳について充分に説明し、劉表の子供を人質として送るように進言します。
これを聞いた劉表は「韓嵩が二心を抱いたのだ」と思い込み激怒して、幕僚数百人を集め、軍兵を連ねて韓嵩を引見し、節(処罰権を示す旗)を持って彼を斬り捨てようとして、
「韓嵩よくも裏切ったなっ!」
と詰問しました。
人々はみな恐れ、韓嵩に謝罪させようとしましたが、韓嵩は身動き 1つせずに、劉表に向かって、
「将軍(劉表)が私を裏切られたのであり、私が将軍(劉表)を裏切ったのではありません」
と言い、もう一度前の発言について詳細に説明します。
劉表の怒りは収まりませんでしたが、劉表の妻の蔡氏が彼を諫めて、
「韓嵩は楚国(荊州)の名門です。その上、彼の言葉は率直であり、彼を処刑なさるだけの理由がございません」
と言ったので、劉表は処刑を取りやめましたが、韓嵩を拘禁しました。
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長沙太守・張羨が曹操につく
張羨の反乱
これより以前の建安3年(198年)、長沙太守・張羨が、
- 長沙郡
- 零陵郡
- 桂陽郡
の3郡を挙げて劉表に反乱を起こしており、劉表はこれを包囲していましたが、未だに陥落させることができずにいました。
建安4年(199年)の勢力図
※上図の荊州南部に張繡とあるのは、張羨の誤りです。
豆知識
南陽郡出身の張羨は以前、零陵郡と桂陽郡の管轄下にある県の県長となり、長江・湘江一帯の民心を掴んでいました。
ですが、張羨は強情で人に屈することがなかったので、劉表は彼の人物を軽んじ、あまり礼遇しませんでした。
張羨はこのために遺恨を抱き、結局劉表に叛旗を翻したのです。
桓階の進言
曹操と袁紹が官渡において対峙して、劉表が州を挙げて袁紹に呼応すると、長沙郡の桓階は張羨に、
「曹公(曹操)は弱いとはいえ、道義に従って起ち上がっています。誰があえて服従しないでおれましょうか」
と、曹操につくことを勧めました。
桓階の進言全文
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そもそも行動を起こしても道義に基づかない場合、失敗しない者はありません。それゆえ、春秋時代の桓公は諸侯を統率して周を尊重し、晋の文王は王子叔帯を放逐して周王を都に入れました。
今、袁氏はそれと反対の態度を取っているのに、劉牧(劉表)がそれに呼応されますのは、災難を招くやり方です。
明府(張羨)には必ず功業を打ち立て道義を明らかにし、福禄を全うし災禍を遠ざけたいと願われますならば、彼と同調してはいけません」
張羨が「そうなれば、どちらに向かえばよかろう」と尋ねると桓階は、
「曹公(曹操)は弱いとはいえ、道義に従って起ち上がり、朝廷の危機を救い、王命をかしこみ罪ある者を討伐しておりまして、誰があえて服従しないでおれましょうか。
今もし4つの郡と3つの江を保持してその到来を待ち、彼のために内応するならば、よろしいではございませんか。
桓階の進言に「なるほど」と頷いた張羨は、長沙郡・零陵郡・桂陽郡の3郡を挙げて曹操に使者を派遣し、劉表に抵抗しました。
曹操は大層喜び、後に荊州を平定した曹操は、桓階が張羨のために画策した(張羨に曹操につくように勧めた)と聞き、桓階を召し出して丞相掾主簿とし、趙郡太守に昇進させました。
張羨の反乱のその後
劉表は張羨を包囲しましたが、幾年も陥落させることができませんでした。
ですが、その間に張羨は病死。長沙郡では張羨の子・張懌を太守に立てて抵抗を続けましたが、袁紹との戦いが続いていたため曹操は援軍を出すことができず、劉表はそのまま攻撃を続けて張懌を併合し、長沙郡・零陵郡・桂陽郡を平定しました。
これにより、劉表の領地は数千里、武装兵は10万以上におよび、荊州の境界に叛徒がいなくなると、劉表は学校を開設して広く儒者を探し求め、綦毋闓・宋忠らに『五経章句』*3を編集させて、これを『後定』と称しました。
※この「張羨の反乱の平定」について『資治通鑑』では、建安5年(200年)の最後に記されています。
脚注
*35つの経典(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)の注釈。それ以前の注釈に比して『後定』(後に定めた)という。
曹操と袁紹が官渡で対峙すると、周辺の諸将は曹操と袁紹のどちらにつくか、態度を鮮明にする必要に迫られました。
結果、関中(函谷関の西側の地域)の諸将は曹操につき、荊州の劉表は袁紹につくことを決めます。
一方、前年から荊州南部で劉表に叛旗を翻していた張羨は、曹操に使者を派遣して内応しましたが、曹操には彼のために援軍を出す余裕はありませんでした。