198年【漢:建安3年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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198年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
大司馬 |
張楊 → ー |
太尉 |
ー |
司徒 |
趙温 |
司空 |
曹操 |
執金吾 |
伏完 |
将作大匠 |
孔融 |
大将軍 |
袁紹 |
車騎将軍 |
曹操 |
衛将軍 |
董承 |
前将軍 |
馬騰 |
後将軍 |
楊定 |
左将軍 |
呂布 → 劉備 |
右将軍 |
袁紹 |
輔国将軍 |
伏完 |
安降将軍 |
韓遂 |
奮武将軍 |
公孫瓚 |
建徳将軍 |
曹操 |
討逆将軍 |
孫策 |
伏波将軍 |
陳登 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
袁紹 |
豫州牧 |
劉備 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉璋 |
徐州牧 |
呂布 → ー |
幽州刺史 |
段訓 |
青州刺史 |
袁譚 |
揚州刺史 |
劉繇 |
交阯刺史 |
朱符 |
遼東太守 |
公孫度 |
河内太守 |
張楊 → ー |
河東太守 |
王邑 |
広陵太守 |
陳登 |
九江太守 |
陳紀 |
丹楊太守 |
呉景 |
豫章太守 |
華歆 |
会稽太守 |
孫策 |
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198年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 曹操が南陽郡征伐から許県に帰還する。
- 曹操が初めて軍師祭酒を設置する。
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3月 |
- 曹操が再び穣県に張繡を包囲する。
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4月 |
- 謁者僕射の裴茂と中郎将の段煨が李傕を討伐し、三族を皆殺しにする。
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5月 |
- 袁紹を警戒した曹操が退却を開始する。
- 張繡と劉表が曹操の退路を断つ。
- 曹操が奇策を用いて張繡を破る。
- 賈詡の進言を受けた張繡が曹操を破る。
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7月
|
|
不明
|
- 呂布が沛県(小沛)の劉備を攻撃する。
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9月 |
- 沛県(小沛)が陥落し、劉備が逃走する。
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10月 |
- 曹操が呂布討伐の軍を起こし、劉備と合流する。
- 臧覇ら徐州の独立勢力が呂布に味方する。
- 曹操が下邳県に呂布を包囲する。
- 呂布が袁術に救援を求める。
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11月 |
- 張楊の将・楊醜が、河内太守・張楊を殺害して曹操に味方する。
- 曹操が下邳県を水攻めにする。
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12月 |
- 呂布が曹操に降伏する。
- 曹操が呂布を斬る。
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不明 |
- 孫策が朝貢する。
- 孫策が討逆将軍・呉侯に封ぜられる。
- 周瑜と魯粛が孫策に従う。
- 王朗が諫議大夫に任命され、朝廷に入る。
- 袁術が丹楊郡(丹陽郡)を煽動する。
- 孫策が祖郎と太史慈を帰順させる。
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198年の三国志群雄勢力図
1月
建安3年(198年)1月の三国志群雄勢力図
3度目の張繡征伐
3月、曹操は荀攸が止めるのも聞かず3度目の張繡征伐の軍を起こし、穣県まで進軍して張繡を包囲しました。
荊州・南陽郡・穣県
ですがこの時、冀州の袁紹のところから逃亡して来た兵が、「田豊が袁紹に許県攻撃を進言した」ことを伝えたので、曹操は穣県の包囲を解いて許県に撤退します。
李傕の死
4月、朝廷は謁者僕射の裴茂を派遣して、中郎将の段煨を率いて李傕を討伐させ、その三族を皆殺しにしました。
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曹操の呂布討伐
下邳県を包囲する
9月、呂布の将・高順と張遼が豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)を攻め落とし、劉備は身1つで逃走します。
豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)
10月、劉備を保護していた曹操は、劉備の敗北を聞くと自ら呂布討伐の軍を起こし、逃走した劉備と合流して、呂布の本拠地である徐州・下邳国・下邳県に向かいました。
これに呂布は自ら兵を率いて迎え撃ちますが、曹操軍は大いにこれを撃ち破り、敗戦に懲りた呂布は、以降、城に籠もって敢えて出撃しなくなります。
陳宮は、呂布が城外に出て陣を敷き、城を守る陳宮・高順と連携して曹操軍の兵糧が尽きるのを待つ作戦を立てますが、呂布は「陳宮らは信用出来ない」と言う妻の言葉に惑わされ、行動を起こすことはありませんでした。
下邳県を水攻めにする
一方、曹操の方でも、城を陥落させることができず、士卒たちが疲弊していたため、撤退を考えるようになっていました。
ですが、荀攸と郭嘉が包囲の続行を強く主張したので、曹操は包囲の続行を決め、沂水と泗水を決壊させてその水を下邳県の城内に灌ぎ込みました。
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呂布の降伏
呂布が降伏する
12月、水攻めを受けた城内では、呂布の将軍、侯成・宋憲・魏続らが陳宮と高順を縛り上げ、配下の兵を引き連れて曹操に降伏してしまいます。
すると、事ここに至って観念した呂布は、自らも城を出て曹操に降伏しました。
呂布の死
降伏した呂布は「曹操に仕えること」を申し出ますが、「呂布が丁原と董卓を裏切ったことをお忘れか?」という劉備の言葉を聞いた曹操は、呂布を処刑しました。
劉備は呂布に捕らえられていた妻子を取り戻し、曹操に従って豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還します。
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12月
建安3年(198年)12月の三国志群雄勢力図
孫策の丹楊郡(丹陽郡)平定
孫策の朝廷工作
揚州・会稽郡を平定した孫策が、再び朝廷に地方の産物を献上します。
これに、孫策を懐柔しておきたいと思った曹操は、孫策を討逆将軍に任命して呉侯に封じ、また一方で、孫策に降伏した元会稽太守・王朗を朝廷に徴きました。
孫策の丹楊郡(丹陽郡)平定
この頃、袁術に仕えていた周瑜と魯粛は、「袁術には将来性がない」と見て孫策の下に身を寄せました。
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孫策は、未だに反乱分子が残る丹楊郡(丹陽郡)に侵攻し、祖郎と太史慈を帰順させました。
そしてこの頃、孫策の攻撃を受けて揚州・豫章郡(予章郡)に拠点を移していた揚州刺史の劉繇が亡くなってしまいます。
そこで孫策は、帰順したばかりの太史慈を信頼して豫章郡(予章郡)の様子を探らせると、豫章郡(予章郡)を併合する野心を抱きました。
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張羨(荊州南部)の反乱
この年、長沙太守の張羨が、
- 長沙郡
- 零陵郡
- 桂陽郡
の3郡を挙げて劉表に反乱を起こしました。劉表はこれを包囲しましたが、陥落させることができませんでした。
建安3年(198年)、李傕が討たれ、董卓の残党がついに姿を消します。
曹操は、張繡を討つことはできなかったものの、袁紹との決戦を前にかねてからの計画通り呂布を討伐しました。
また周瑜と魯粛を得て丹楊郡(丹陽郡)を平定し、猛将・太史慈を帰順させた孫策は、次の目標を豫章郡(予章郡)に定めます。
ここに至って次第に小さな勢力は淘汰され、袁紹と曹操の間の緊張感がより一層高まっていきました。
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