建安4年(199年)に献帝が下した「曹操誅殺」の密勅と、袁術の最期についてまとめています。
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目次
曹操誅殺の密勅
劉備が許県に入る
建安3年(198年)、呂布は配下の高順と張遼に、劉備が駐屯する沛県(小沛)の攻撃を命じました。これに対し曹操は、夏侯惇を派遣して劉備を救援させます。
ですが、夏侯惇は高順に撃ち破られ、秋9月、沛県(小沛)は陥落し、劉備は身ひとつで逃走しました。
冬10月、劉備の敗北を知った曹操は、自ら呂布討伐に出陣。劉備と合流して呂布が籠もる下邳県を包囲・陥落させ、降伏した呂布を処刑しました。
その後劉備は、曹操に従って豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還します。
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曹操誅殺の密勅
許県に都を遷してより以降、政治の実権は完全に曹操に握られていました。
曹操の専横を忌み嫌った献帝は、舅*1に当たる車騎将軍・董承に密勅を下し、天下の義士と協力して曹操を誅殺させようとします。
そして、献帝から恩賜された御衣の帯の中に『曹公を誅殺すべし』という密勅が入れられていることに気づいた董承は、劉備と共に「曹操誅殺」の計画を練りました。
脚注
*1実際、董承は「献帝の祖母・董太后の甥」に当たる。
酒を煮て英雄を論ず
曹操は劉備に対する扱いを丁重にし、外出する時には同じ輿に乗り、座る時には席を同じくしていました。
曹操と劉備が酒を飲みながらくつろいでいた時のこと。
曹操が、
「今、天下に英雄と言えば、御身(あなた)と私だけだな。本初(袁紹の字)のような連中は、物の数にも入らぬ」
と言いました。
この言葉に驚いた劉備は、箸を口に運んでいるところでしたが、手にした箸を取り落としてしまいます。
そしてこの時、ちょうど雷が轟き渡ったので、劉備はそれにかこつけて、
「聖人が『突然の雷、激しい風に対しては必ず居住まいを正す』(『論語』郷党篇)と言っておりますが、なるほどもっともなことです。それにしても、雷鳴の凄さがこれほどまでとは…」
と言い、その場を取り繕いました。
『三国志演義』の名場面の1つであるこの「酒を煮て英雄を論じる」場面は、一見創作のように思えますが、『蜀書』先主伝の本文にしっかりと記されています。
(劉備が雷鳴に驚いたのだと誤魔化す部分は『華陽国志』より)
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袁術の栄華と没落
袁術の栄華
袁術が天子(皇帝)を僭称して以降、彼の荒淫や奢侈(身分を越えた贅沢)は ますます酷くなり、後宮には数百人の女たちが艶やかな薄絹を身にまとい、宮殿には上質の米と肉が有り余っていました。
ですがその一方で、士卒たちはみな飢え凍え、長江と淮河に挟まれた地帯(袁術の領内)には何一つなくなり、人々は互いに食い合いをする有り様でした。
豆知識
この頃、国中で第1等の美女と噂の司隷の馮方の娘(馮氏)は、戦乱を避けて揚州に避難していました。
城壁の上から彼女を見かけて大変気に入った袁術は、後宮に入れてたいそう寵愛していましたが、これを妬んだ他の女たちは、
「将軍(袁術)は操の固い方を大切になされます。いつも涙を流して物思いに耽ってみせられれば、きっといつまでも大切にされるでしょう」
と馮氏に言って聞かせます。馮氏ももっともだと思い、それ以降、袁術に会うたびに涙を流して見せたところ、袁術は「心に何か思うことがあるのだ」と思い、一層彼女を愛おしみました。
そこで女たちは共謀して馮氏を絞殺すると、彼女の遺体を厠の梁にぶら下げておきました。
すると袁術は、本当に「彼女が思いを遂げられなかったために自殺したのだ」と受け取り、馮氏を手厚く葬りました。
袁術の没落
その後呂布に撃ち破られ、さらに曹操に撃破された袁術は、ついに宮殿を焼きはらい、揚州・廬江郡・潜県の灊山にいた配下の雷薄、陳蘭の元に逃げ込みますが、2人に受け入れを拒否されてしまいます。
雷薄、陳蘭に拒否され、心配と恐怖にどうしたら良いか分からなくなった袁術は、使者を送って皇帝の称号を袁紹に譲り、青州の袁譚の元に身を寄せることにしました。
袁紹への手紙全文
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劉備の出陣
袁紹の子・袁譚が青州から袁術を迎えに出たので、袁術は徐州を通過して北に向かおうとします。
そしてこれを知った曹操が、劉備に朱霊と路招を率いさせて袁術を迎え撃たせると、劉備の軍に道を阻まれた袁術は、再び揚州・九江郡・寿春県に引き返しました。
豆知識
『蜀書』先主伝が注に引く胡沖の『呉歴』には、劉備が曹操の下を去る際の別のエピソードが載せられています。
曹公(曹操)はたびたび側近を派遣して「諸将の中で賓客を招き酒食のもてなしをする者があるかどうか」を探らせ、あれば必ず事にかこつけて殺害した。
ある時、劉備が門を閉ざして人と一緒にカブラを植えていると、曹公(曹操)が人を遣って門を窺わせた。
密偵が立ち去った後で、劉備は関羽と張飛に向かって言った。
「儂は一体、野菜なぞを植える男か。曹公(曹操)は疑念を持っているに違いないから、これ以上留まるべきではない」
その夜、裏手の柵を開け張飛らと共に軽騎に乗って立ち去った。
曹公(曹操)から貰った贈り物の衣服はすべて封印をして後に残し、小沛[豫州(予州)・沛国・沛県]に行き軍勢をかり集めた。
ですが、このエピソードについて裴松之は、
「魏の武帝(曹操)が先主(劉備)を派遣し、諸将を統率させて袁術を迎え撃たせようとしたところ、郭嘉らは口を揃えて諫めたが、武帝(曹操)は聞き入れなかった。
その事実は明白であって、野菜を植えてごまかし、逃亡したのではない。胡沖の言っていることは、なんと甚だしく事実と食い違っていることか」
と言っています。
計画の漏洩
董承らは劉備と「曹操誅殺」の計画を練っていましたが、まだ行動を起こさないうちに、劉備は都(許県)を離れて袁術討伐に出陣してしまいました。
そこで董承は改めて、
- 偏将軍・王子服(王服)
- 長水校尉・种輯
- 議郎・呉碩
らと謀議しますが、建安5年(200年)春正月、その計画が漏洩し、曹操は董承らを殺害して三族を皆殺しにしました。
豆知識
『献帝起居注』には、この時のことが次のように記されています。
董承らは劉備と計画を練ったが、まだ行動を起こさないうちに劉備は出陣した。
董承は王子服(王服)に向かって言った。
「郭多(郭汜)は数百人の兵をもって李傕の数万人を壊滅させた。しかし、あなたと私ではそうはいかない。
昔、呂不韋の門は子楚[秦の荘襄王(始皇帝の父)]によって初めて立派になったとか。今、私はあなたと共にこのやり方をとろう」
王子服(王服)は、
「恐れ多くて私には引き受けられません。その上、兵士もまた少ししかおりません」
と言った。董承が、
「行動を起こした後で、曹公(曹操)の正規兵を手に入れたとしても、それでも不十分かな?」
と言った。王子服(王服)は、
「今、都(許県)で信用のできる者がおりますか?」
と尋ねると、董承は、
「長水校尉の种輯、議郎の呉碩は儂の腹心で、仕事のできる者たちだ」
と言った。かくて計画を定めたのである。
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袁術の死
袁術の死
建安4年(199年)6月、袁術は寿春県から80里(約34.4km)離れた江亭まで引き返して来ましたが、その頃にはすでに麦のクズが30石ばかりが残っているだけで、ちょうど夏の暑い盛り、袁術が蜂蜜入りの飲み物が欲しいと思っても、その蜂蜜すらありませんでした。
袁術は楸の木の寝台に腰を下ろしてしばらくため息をついていましたが、やがて大声で、
「袁術ともあろうものが、こんな様になってしまったかっ!!」
と叫ぶと、突然寝台の下にうつ伏せになり、1斗(2ℓ)あまりの血を吐いて死んでしまいました。
徐州(呂布)を平定した曹操は、建安4年(199年)2月に兗州・山陽郡・昌邑県に入り、夏4月、そのまま司隷・河内郡の眭固の討伐に向かいました。
袁術が死んだのが6月ですので、劉備が曹操と共に許県に帰還したのだとすると、その後の劉備の行動がかなり忙しなくなります。
おそらく劉備は、昌邑県で曹操と別れて先に許県に帰還し、曹操不在の間に董承らと「曹操誅殺」の密談を行っていたものと思われます。
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袁術の一族
袁術死後の彼の一族の動向については、史料によって内容が異なります。
『呉書』孫策伝
後に袁術が死ぬと、その長史であった楊弘や大将の張勲たちは、その部下を引き連れて孫策の下に身を寄せようとしたが、廬江太守の劉勲が待ち伏せをして攻撃をかけ、みなこれを捕虜とし、珍宝を奪い取って引き揚げた。
孫策はこのことを聞くと、本心を隠して劉勲と同盟関係を結んだ。
劉勲は新たに元の袁術の配下を手に入れて意気が上がっており、ちょうどその頃、揚州・豫章郡(予章郡)・上繚*2一帯の宗民*3たち1万余戸が江東の地にいたことから、孫策は劉勲にそれらの者も武力によって手に入れてしまうように勧めた。
劉勲が宗民*3の攻撃に出発した後、孫策は軽装備の兵士たちを率い昼夜兼行で軍を進めて廬江郡を攻め落とした。
劉勲の配下はみな降伏し、張勲は麾下の数百人だけを引き連れて曹公(曹操)の下に身を寄せた。
脚注
*2建昌県から海昬国にかけて僚水が流れる地域。
*3宗教的な結社だとも異民族と関係を持つ者たちともされるが、詳細は不明。
『江表伝』(要約)
孫策は詔勅を受けると、司空の曹公(曹操)、衛将軍の董承、益州牧の劉璋らと共に共同して袁術と劉表の討伐に当たることになったが、ちょうど軍勢を整えて出発しようとしている時に、袁術が死んだ。
袁術の従弟・袁胤、女婿の黄猗らは、曹公(曹操)を畏れて寿春県を守り通そうとはせず、袁術の柩をかつぎ、その妻子や配下の男女を引き連れて皖城の劉勲の元に身を寄せた。
この時、孫策は西方の黄祖の討伐に向かっていたのであるが、石城まで来たところで、劉勲が少人数の軍勢で自ら海昬に向かったと聞くと、皖城を襲って即座に降伏させ、袁術配下の工芸者や楽隊など3万余人、それに袁術や劉勲の妻子を手に入れ、揚州・呉郡・呉県まで護送した。
袁術の一族のその後について、
- 劉勲が捕虜にした後、劉勲を攻撃した孫策の捕虜となった
- 劉勲を頼ったが、劉勲を攻撃した孫策の捕虜となった
と、劉勲との関係に相違がありますが、どちらも最終的に孫策によって呉県に送られています。
また、袁術の従弟・袁胤のその後についての記述はありませんが、袁術の子・袁燿は孫策の世話を受けて郎中となり、袁術の娘・袁夫人は孫権の夫人となりました。
徐璆が伝国璽を返還する
兗州・任城国、豫州(予州)・汝南郡、東海3郡の太守を歴任し、中央に召し返された徐璆は、その帰還の途上、袁術に無理矢理引き留められました。
そして、その後帝号を僭称した袁術は、彼に上公の位を授けようとしましたが、徐璆はあくまでも屈服しませんでした。
袁術の死後、袁術が孫策から奪った印璽(伝国璽)を手に入れた徐璆は、それらを朝廷に届け、衛尉、太常を拝命しました。
建安4年(199年)、曹操の専横を忌み嫌った献帝は、車騎将軍・董承に「曹操誅殺」の密勅を下し、董承は劉備らと計画を練りました。
ちょうどその頃、勢力を維持できなくなった袁術が袁紹を頼って北上を開始。曹操は劉備にその討伐を命じます。これを受け、袁術は寿春県に引き返しますが、その途上、血を吐いて死んでしまいました。
一方董承は、王子服(王服)らと「曹操誅殺」の計画を練っていましたが、まだ行動を起こさないうちに計画が漏洩し、彼らは全員曹操に殺害されてしまうことになります。
この時劉備は、袁術討伐のために許県を出たことで、難を逃れることができたと言えるでしょう。