建安4年(199年)、孫策の揚州・豫章郡(予章郡)平定と、呉郡の厳白虎討伐についてまとめています。
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目次
揚州の平定
孫策の西進
建安4年(199年)6月、袁術が没落して病死すると、その旧領では廬江太守の劉勲が力をつけました。
これを危険視した孫策は、劉勲に贈り物をおくって油断させると、劉勲が出陣した隙を突いて彼の本拠地である皖県(皖城)を降伏させ、引き返して来た劉勲を撃ち破ります。
そして、そのまま荊州・江夏郡に進出した孫策は、沙羡県に陣を敷いた劉表配下の黄祖を散々に撃ち破り、敗走させました。
孫策と周辺地域の情勢
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華歆の降伏
黄祖を討伐した孫策は、その帰還の途上、豫章郡(予章郡)をまわってそこを手に入れようと考え、そこで虞翻(虞翻)1人だけを召し寄せて言いました。
「華子魚(華歆)はそれなりの評判を得てはいるが、聞けば兵器の準備も乏しいとのことだ。私の敵ではない。
もし彼が城門を開いて城を明け渡さぬ時には、戦闘の合図の鐘や太鼓が鳴らされて、死傷する者が出ることは避けられぬ。
あなたは先に行って私の意を彼にはっきりと伝えて欲しい」
虞翻はすぐに出発して豫章郡(予章郡)の役所に到着すると、褠の着物と葛布の頭巾を着けて華歆との会見を申し入れます。
華歆がこれに応じると、虞翻は「孫策に服従することと逆らうことの利害」について説いて聞かせ、次の日の日中まで返答を待つことを伝えて戻りました。
虞翻の説得全文
そして虞翻が去った次の日の朝、華歆は城を出ると役人を派遣して降伏を申し入れ、孫策を迎え入れました。
豆知識
『魏書』華歆伝が注に引く華嶠の『譜叙』には、この華歆の降伏について別の説が紹介されています。
「孫策は揚州を攻略して我が物とすると、強大な兵力で豫章郡(予章郡)に向かった。
郡全体は恐れおののき、官僚たちは郊外まで出迎えることを願い出たが、華歆は「出迎える出ないぞ」と命令した。
孫策軍が次第に進軍して来ると、官僚たちは今度は兵を出すことを進言したが、また許さなかった。
孫策が到着すると、役所中の者がみな官邸に来て、役所を出て彼を避けるよう請願した。
そこで華歆は笑って、「今に自分から来るだろう。どうして慌てて彼を避けるのかね?」と言った。
しばらくして門客が、「孫将軍(孫策)が参られまして、会見を求めております」と告げた。
そこで孫策は、進みよって華歆と同座し、しばらくの間談論し、夜になったので辞去した。
道義ある人士はそれを聞いてみな感歎の吐息を長くつき、自ずと心服した。孫策はかくて自分から子弟の礼をとり、上客として礼遇した」
豫章郡(予章郡)の華歆を降伏させた孫策は、元揚州刺史・劉繇の柩を引き取って遺族の元に返すと、その家族の者たちを手厚く処遇しました。
豫章郡(予章郡)の平定
廬陵県の僮芝を討つ
この時、廬陵県にはまだ丹楊郡出身の僮芝がいて勝手に廬陵太守を名乗っていました。
華歆を降伏させた孫策は、従兄の孫賁とその弟の孫輔に兵を預けて南昌県に留まらせると、孫賁に言いました。
「兄が今豫章郡(予章郡)に根拠地を置かれるのは、僮芝の咽喉を押さえ、その門戸を見張るものであります。
ひたすら形勢を窺い、もし有利だと見たならば、国儀(孫輔)どのに命じて兵器を取って攻め込み、公瑾(周瑜)どのにはその助勢を命じられますように。
そうすれば一挙に僮芝を平らげることができるのです」
後に僮芝が病気にかかったとの情報を得ると、孫賁はすぐさま孫策の謀の通りに事を運び、周瑜は巴丘県まで軍を進め、孫輔はそのまま進撃を続けて廬陵県を占拠しました。
僮芝を討った孫策は、豫章郡(予章郡)の南部を分けて廬陵郡を設置し、
- 孫賁を豫章太守
- 孫輔を廬陵太守
に任命しました。
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呉夫人の機転
この頃、会稽郡の功曹・魏騰が主君(孫策)の気持ちに逆らったため、孫策は彼を処刑しようとしました。士大夫たちはこれを心配して恐れましたが、為す術を知りません。
そんな時、これを聞いた孫策の母・呉夫人は、大きな井戸の縁に身を寄せて孫策に言いました。
「お前は江南の経営を始めたばかり。今こそ賢者や非凡な人物たちを礼遇し、欠点には目をつぶって功績を高く評価すべき時ではありませんか。
魏功曹(魏騰)どのは、その職務に全力を尽くしております。お前が今その魏功曹(魏騰)どのを殺せば、明日にはみな揃ってお前に背を向けるでしょう。
私は禍がやって来るのを見たくはありません。その前にこの井戸に身を投げるのです」
これを見た孫策は、驚き慌てて魏騰を釈放しました。
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呉郡の平定
興平2年(195年)、孫策配下の朱治が呉郡太守・許貢を撃ち破って以降、彼が呉郡を統治していましたが、呉郡にはまだ孫策に従わない勢力が存在していました。
鄒他・銭銅・王晟を討つ
当時呉郡には、
- 烏程県の鄒他(鄒佗)や銭銅
- 嘉興県(由拳県)の前の合浦太守・王晟
らがそれぞれ1万余人、あるいは数千人の軍勢を集めて割拠していました。
揚州・呉郡の様子
孫策は兵を率いて彼らをみな撃ち破りましたが、この時、孫策の母・呉夫人は、
「王晟は、お前の父上(孫堅)とは奥座敷に通り妻と挨拶するような親しい間柄でした。
今、その子らや兄弟たちはみな斬首誅滅されて、年寄り(王晟)1人が残っているだけです。何の懼れることがありましょう」
と王晟を助命するように言ったので、孫策は母の言葉に従って王晟だけは見逃し、他はすべて一家皆殺しとしました。
厳白虎を討つ
呉郡太守・許貢
以前、呉郡太守の盛憲が呉郡出身の高岱を孝廉に推挙しました。
その後、許貢がやって来て郡(呉郡)を乗っ取ると、高岱は盛憲を許昭の家に案内して難を避けさせ、自分は徐州牧・陶謙の元に赴いて救援を求めましたが、陶謙はすぐには救援に応じませんでした。
興平2年(195年)、孫策配下の朱治に敗れた許貢は、南に逃げて山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)の不服従民、厳白虎(厳虎)の元に身を寄せていました。
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厳白虎の使者・厳輿を殺す
鄒他(鄒佗)らを討った孫策が、さらに兵を進めて自ら厳白虎(厳虎)の討伐に向かうと、厳白虎(厳虎)は塁を高くして守りを固めたまま、弟の厳輿を派遣して和睦を求めて来ました。
孫策がこれに同意すると、厳輿は「孫策と1対1で合って和約を結びたい」と申し出て来たので、孫策は2人で合う席を用意しました。
その席上、2人が席に着くと、孫策はいきなり刃を抜き放って席を斬りつけます。
驚いた厳輿がビクリと身体を震わせると、孫策は笑って言いました。
「あなたが即座に立ち上がり、非常に素早い立ち回りができると聞きましたので、少しふざけたまでです」
これに厳輿が、
「刃物を見るとそんな風にできるのです」
と答えたのを聞いた孫策は、間髪入れず今度は手戟を投げつけます。厳輿はこれを避けることができず、命を落としてしまいました。
厳白虎(厳虎)の弟・厳輿は、勇猛なことで知られていました。
この時、孫策がすでに和睦に同意したにも拘わらず、厳輿が「孫策との1対1での会見」を望んだのは、隙を見て孫策を斬るつもりだったのかもしれません。
厳白虎を討伐する
孫策が軍を進めると、「勇猛な厳輿が殺された」と聞いてひどく怖じ気づいた厳白虎(厳虎)の一味はあっけなく敗退し、厳白虎(厳虎)は呉郡・余杭県の許昭の元に身を寄せます。
この時程普は「このまま許昭を討伐しましょう」と願い出ましたが、孫策は、
「許昭は元の主君(盛憲)への忠義を忘れず、古い友人(厳白虎)にも誠を尽くしている。これは大丈夫たる者が心掛けるべきところだ」
と言い、許昭への攻撃を差し控えました。
許貢を殺害する
以前呉郡太守であった許貢は、
「孫策は武芸に長けた英傑で、秦末に天下を争った項籍(項羽)と似ております。宜しく恩寵を加え、京邑に召し還されますように。もし詔を受ければ京邑に還らぬわけにはゆきますまい。もし地方に放置されますれば、必ずや世の患となりましょう」
という上表をしていましたが、孫策の斥候(偵察隊)がこの上表文を手に入れて、孫策に届けていました。
厳白虎を敗走させた孫策は、彼の元に身を寄せていた許貢に会見を申し入れ、この上表のことを責めました。
それでも許貢は「上表などしていない」と弁解するので、孫策はその場で力のある兵士に許貢を絞殺させました。
厳白虎討伐の時期について
厳白虎討伐の時期について、『呉書』孫策伝には「会稽に根拠地を置いて東冶城を落とし、その後で厳白虎たちを撃ち破った」とあり、その後に「袁術の皇帝僭称」の記述が続きます。
ですが、「袁術の皇帝僭称」の後にも厳白虎が登場し、対孫策のために陳瑀が厳白虎に調略を行っています。
孫策が王朗を降伏させたのは建安元年(196年)、袁術の皇帝僭称と陳瑀の調略は建安2年(197年)です。
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この記事では『資治通鑑』に従って厳白虎討伐の時期を建安4年(199年)の豫章郡(予章郡)平定の後としていますが、総合的に見て、孫策の丹楊郡(丹陽郡)平定の前[建安3年(198年)]である可能性が高いと思われます。
建安4年(199年)、劉勲から廬江郡を奪取し、荊州・江夏郡・沙羡県で黄祖を撃ち破った孫策は、その帰還の途上、豫章郡(予章郡)の華歆を降伏させ、呉郡の厳白虎を敗走させました。
袁術の下を離れてから約5年、孫策は九江郡を除く揚州全域と荊州・江夏郡の一部を支配下に収めたことになります。