袁術討伐のため許県から出陣した劉備が、徐州刺史・車冑を殺害して徐州を手に入れるまでをまとめています。
スポンサーリンク
曹操誅殺の密勅と劉備
劉備の出陣
建安4年(199年)、豫州(予州)・潁川郡・許県に都を遷してより以降、曹操の専横を忌み嫌った献帝から「天下の義士と協力して曹操を誅殺せよ」という密勅を下された車騎将軍・董承は、当時許県にいた劉備と共に「曹操誅殺」の計画を練りました。
ですが、その劉備が曹操に命じられて袁術討伐のために出陣してしまったため、董承は王子服(王服)、种輯、呉碩らと謀議を続けました。
関連記事
許褚の胸騒ぎ
その後袁紹との決戦を決意した曹操は、自ら兵を率いて官渡に陣を取ります。
この頃、常に曹操に随行していた兵士の徐他(徐佗)らが反乱を計画しますが、曹操の側にはいつも許褚が付き従って目を光らせていることから、実行に踏み切れずにいました。
そこで徐他(徐佗)らは、許褚が休暇を取って外出する時を狙い、懐に刀を忍ばせて曹操がいる帳に侵入しますが、そこにはなぜか、休暇を取っているはずの許褚が侍衛しています。
休暇のため宿舎に帰ってきた許褚は、何やら胸騒ぎを覚えてすぐさま引き返し、職務に戻っていたのでした。
自分を見て愕然とし、顔色を変えた徐他(徐佗)らを見た許褚は、彼らが曹操を殺害しに来たのだと気づき、即座に打ち殺しました。
この事があってから曹操は益々許褚を信頼し、常に出入りに同行させ、左右から離さなくなりました。
この徐他(徐佗)らの反乱は、『魏書』許褚伝に記載があり、その時期は「官渡の戦い」の頃としか分かりませんが、『資治通鑑』に従ってここで紹介しています。
献帝の密勅による董承らの「曹操誅殺計画」との関連性はないものと思われます。
スポンサーリンク
劉備の独立
袁術の死
袁紹と合流するため揚州・九江郡・寿春県から北上していた袁術は、劉備が出陣したこと知ると寿春県に引き返そうとしますが、その途中で病のため死んでしまいました。
関連記事
劉備が曹操に背く
徐州刺史・車冑を殺害する
すでに袁術が死んだことを知った劉備は、方向を変えて豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に入ります。
そして、共に出陣した曹操の将・朱霊と路招が帰還すると、劉備は曹操が任命した徐州刺史・車冑を殺害し、関羽を下邳県を守備させて自分は沛県(小沛)に戻りました。
袁紹と結ぶ
劉備が車冑を殺害すると、これに呼応して徐州・東海郡の昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)が反乱を起こし、郡県の多数が曹操に背いて劉備に味方します。
そして数万の軍勢を擁するようになった劉備は、孫乾を派遣して袁紹と連合しました。
劉備の徐州入り後の勢力図
豆知識
建安4年(199年)に呂布が敗れた際、徐州の独立勢力であった、
- 臧覇
- 呉敦
- 尹礼(尹禮)
- 孫観
らはみな曹操に投降していましたが、昌豨だけは曹操に従っていませんでした。
劉岱・王忠を撃退する
劉備が背き、車冑を殺害して徐州を乗っ取ったことを知った曹操は、
- 司空長史の劉岱
- 中郎将の王忠
を派遣して劉備を攻撃させます。
ですが彼らでは劉備に勝つことができず、劉備は劉岱・王忠に向かって、
「お前たちが百人来たとしても儂をどうすることもできぬ。曹公(曹操)が自身で来るなら、どうなるか分からぬがなっ!」
と言い放ちました。
劉岱と王忠
劉岱
字は公山。豫州(予州)・沛国の人。
司空長史として曹操の征伐につき従い、功績があったので列侯に封ぜられました。
反董卓連合に参加した兗州刺史・劉岱とは別人です。
王忠
字は不明。司隷・右扶風の人。
若い頃亭長となり、三輔が動乱に陥った時、王忠は飢えに苦しんで人を食べたことがありました。
その後、仲間を連れて南方の武関に向かった時のこと。ちょうど婁子伯(婁圭)が荊州を治めており、北方から来る者を配下に加えようと王忠らを出迎えました。
王忠は彼の下につきたくなかったので、仲間たちを引き連れて婁子伯(婁圭)を迎え撃ち、その兵器を奪って千余人の軍兵を集め、曹操に帰順します。
すると曹操は、王忠を中郎将に任命し、征討に従わせました。
当時五官中郎将であった曹丕は、以前王忠が「人を食べたことがある」ことを知っていたので、曹操のお供をして外に出た時、芸人に命じて墓場に転がっている髑髏を取って来させ、王忠の馬の鞍に結びつけて笑いの種にしました。
建安4年(199年)、袁術討伐のため出陣した劉備は、そのまま豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に入って徐州刺史・車冑を殺害し、昌豨の呼応を得て徐州を乗っ取りました。
この時すでに袁紹と戦争状態にあった曹操にとって、劉備に徐州を奪われ袁紹と手を結ばれたことは、存亡にかかわる一大事です。
曹操はすぐさま劉岱と王忠を劉備討伐に向かわせましたが、劉備を撃ち破ることはできませんでした。