建安4年(199年)春2月に起こった眭固による楊醜殺害から、曹操が司隷・河内郡を平定するまでをまとめています。
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曹操の河内郡侵攻
河内太守・張楊の死
建安3年(198年)10月、曹操が徐州・下邳国・下邳県に呂布を包囲しました。
すると、かねてから呂布と仲が良かった河内太守・張楊は、呂布を救おうと司隷・河内郡・野王県の東の市場に出兵して背後から曹操を牽制しますが、翌11月、張楊の将・楊醜が張楊を殺害して曹操に味方してしまいます。
曹操と張楊
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河内郡が袁紹に属す
建安4年(199年)春2月、呂布を降して徐州を平定し帰還の途についた曹操が、兗州・山陽郡・昌邑県に入りました。
そしてちょうどこの時、司隷・河内郡では元黒山賊の眭固が楊醜を殺害し、河内郡の軍勢をあげて袁紹の配下に入って野王県の射犬聚に駐屯します。
射犬聚
豆知識
曹操と眭固の間には、初平2年(191年)、曹操が兗州・東郡に侵攻した黒山賊の于毒、白繞、眭固らを撃ち破って東郡太守に任命されたという因縁がありました。
そして、その後眭固は河内郡に身を寄せ、張楊の将となっていました。
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河内郡の平定
曹操が眭固を討つ
夏4月、曹操は軍を進めて黄河に臨み、将軍の史渙と曹仁に黄河を渡って眭固を攻撃させました。
これに対し眭固は、張楊の元長史・薛洪と河内太守・繆尚を射犬聚に留めて守らせ、自分は兵を率いて袁紹に救援を求めに行きます。
ですが、犬城で眭固の軍と遭遇した史渙と曹仁は散々にこれを撃ち破り、眭固を斬りました。
豆知識
眭固が射犬聚に駐屯した時、巫の1人が眭固に忠告して、
「将軍の字は『兎』(眭固の字は白兎)であるのに、この村の名前は『犬』です。兎が犬と出遭えばびっくりするのが当然。早速他にお移りになるべきです」
と言いましたが、眭固は聞き入れず、その結果戦死したのでした。
この眭固との戦いに参加した人物について、『魏書』武帝紀には史渙と曹仁の名前しかありませんが、楽進、于禁、徐晃らも参加していたことが、それぞれの列伝に記されています。
董昭の説得
眭固を討った曹操は、黄河を渡って射犬聚を包囲すると、以前 張楊の下にいたことのある董昭を単身使者として派遣します。
董昭の説得を受けた薛洪と繆尚は、即日 軍勢をあげて降伏したので、曹操は2人を列侯に封じました。
その後曹操は引き揚げて敖倉*1に駐留し、魏种を河内太守に取り立てて河北(河内郡)の軍政を委ねました。
敖倉
脚注
*1 司隷・河南尹・滎陽県の西北にある食料の貯蔵庫があった場所。
河内太守・魏种
以前、曹操は魏种を孝廉に推挙しました。
そして興平元年(194年)、呂布・張邈らが兗州で反乱を起こした時のこと。曹操は、
「魏种だけは儂を見棄てはしないだろう」
と言っていましたが、魏种は城を棄てて逃げ出してしまいます。そのことを知った曹操は、
「魏种よ、南方の越か北方の胡にでも逃げない限り、お前を許しはしないぞっ!」
と怒りを露わにしていましたが、射犬聚を陥落させて魏种を生け捕りにした曹操は、「その才能があれば…」と彼の縛めを解かせ、河内太守に取り立てました。
建安4年(199年)春2月、曹操が徐州を平定して帰途についた頃、司隷・河内郡では元黒山賊の眭固が、曹操に味方していた楊醜を殺害して袁紹の支配下に入ります。
すると曹操は躊躇することなくこれを攻撃し、眭固を斬って魏种を河内太守に取り立てました。
直接的な戦闘はなくとも袁紹についた眭固を討ったことで、水面下でお互いに敵対視していた曹操と袁紹の戦いが、ついに表面化することになります。