建安けんあん4年(199年)秋8月、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに軍を進め、袁紹えんしょうと対峙するに至る過程と、張繡ちょうしゅう曹操そうそうが帰順するまでをまとめています。

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決戦の決意

徐州と河内郡の平定

建安けんあん3年(198年)に徐州じょしゅう呂布りょふを攻め滅ぼした曹操そうそうは、翌年2月、曹操そうそう派の楊醜ようしゅうを殺害して袁紹えんしょうの支配下に入った眭固すいこを討ち、司隷しれい河内郡かだいぐんを併合しました。

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一方この頃、袁紹えんしょうはすでに幽州ゆうしゅう公孫瓚こうそんさんを攻め滅ぼし、

  • 青州せいしゅう
  • 冀州きしゅう
  • 幽州ゆうしゅう
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう

の4州を合わせて10余万*1の軍勢を持っており、軍を進めて曹操そうそうの本拠地である豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんを攻撃しようとしていました。

曹操そうそう配下の諸将はみな、とてもかなわないと袁紹えんしょうを恐れていましたが、曹操そうそうは、


わし袁紹えんしょうの人柄をよく知っている。

袁紹えんしょうこころざしは大きいが智恵はなく、顔つきは厳しいがきもは小さく、嫉妬しっと深く威厳に欠ける。

また、兵は多くても規律が不明確で、配下の将はおごり、政治上の命令には一貫性がない。

土地は広く糧食は豊かでも、まさわしへのささげ物となるだけのことだ」


と言いました。

脚注

*1魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎによる。魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでんでは数十万。

荀彧の戦力分析

この頃、孔融こうゆう荀彧じゅんいくに向かって言いました。


袁紹えんしょうは広大な領土と強大な兵力を有している。

田豊でんほう許攸きょゆうは智謀の士であって、袁紹えんしょうのために策謀さくぼうめぐらせており、また、審配しんぱい逢紀ほうきは忠義の臣であって、政治をになっている。さらに、顔良がんりょう文醜ぶんしゅうは三軍をおおう勇士で、彼らが軍兵を統率している。

これでは袁紹えんしょうに勝つことは難しいだろうな」


すると荀彧じゅんいくは、


袁紹えんしょうの兵は、数は多いが軍法が整っていない。田豊でんほうは強情で上に逆らい、許攸きょゆう貪欲どんよくで身持ちがおさまらない。審配しんぱいは独断的で計画性がなく、逢紀ほうきは向こう見ずで自分の判断だけで動く。

この2人を留守として後のことを任せているのだ。もし許攸きょゆうの家族が法律を犯しても、大目にみることができないに違いない。大目にみられないならば、許攸きょゆうは必ず裏切るであろう。

顔良がんりょう文醜がんりょうには大将としての器量はなく、男1匹の武勇を持つに過ぎない。1度の戦いで生け捕りにできよう」


と答えました。

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曹操の出陣と張繡の帰順

曹操の出陣

建安けんあん4年(199年)秋8月、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに軍を進め、臧覇ぞうはらを青州せいしゅうに進入させて斉国せいこく北海国ほっかいこく東安とうあん*2を撃ち破り、于禁うきん黄河こうがの河岸に駐屯させておきました。

この時袁紹えんしょうは、黎陽県れいようけんで兵を整えて延津えんしんに宿営していましたが、両軍に大きな動きはなく、9月、曹操そうそうは兵を分けて官渡かんとを守らせると、本拠地の豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還します。


曹操と袁紹の布陣

曹操そうそう袁紹えんしょうの布陣

脚注

*2東安とうあんの詳細不明。東莞郡とうかんぐん東安県とうあんけん徐州じょしゅう北海国ほっかいこく東安平県とうあんぺいけん楽安国らくあんこくの誤記か。上記地図は楽安国らくあんこくとして作成しています。(斉国せいこく北海国ほっかいこくが郡単位のため)
追記:魏書ぎしょ杜畿伝ときでんが注に引く傅子ふしに「東安太守とうあんたいしゅ郭智かくち」とあり、この東安とうあん東安郡とうあんぐんであったと思われる。領県は不明。

張繍の帰順

曹操そうそう袁紹えんしょう官渡かんとで対峙すると、袁紹えんしょう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに使者をつかわして張繡ちょうしゅうまねき、同時に賈詡かくに手紙を与えて味方に引き入れようとしました。


建安4年(199年)9月の勢力図

建安けんあん4年(199年)9月の勢力図


張繡ちょうしゅうが承知しようとしたところ、賈詡かく張繡ちょうしゅうが出席している会合の席上で、袁紹えんしょうの使者に対して、


「帰って袁本初えんほんしょ袁紹えんしょう)に伝えてください。『兄弟さえ受け入れることのできない者が、どうして天下の国士を受け入れられましょうぞ』と」


と、公然と言い放ちました。


張繡ちょうしゅうは「なぜそこまではっきり言うのか」と驚き恐れて、こっそり賈詡かくに「こうなったからには、誰につけば良いのか」とたずねると、賈詡かくは「曹公そうこう曹操そうそう)に従うのが一番です」と答えました。


袁紹えんしょうは強く曹氏そうし曹操そうそう)は弱い上に、曹氏そうし曹操そうそう)とは仇敵きゅうてきの間柄だ。彼に従うというのは、いかがなものだろうか」


張繡ちょうしゅうがこう疑問を口にすると、賈詡かくは次のように「曹操そうそうに従うべき3つの理由」を挙げました。


「それこそ曹氏そうし曹操そうそう)に従うべき理由なのです。

そもそも曹公そうこう曹操そうそう)は天子てんしを奉じて天下に号令しております。これが従うべき第1の理由です。

袁紹えんしょうは強大でありますから、我が方が少数の軍勢をつれて従ったとしても、我らを尊重しないに違いありません。曹公そうこう曹操そうそう)の方は弱小ですから、我らを味方につければ喜ぶに違いありません。これが従うべき第2の理由です。

そもそも天下を支配するこころざしを持つ者は、当然個人的なうらみを忘れ、徳義を四海の外にまで輝かせようとするものです。これが従うべき第3の理由です。

どうか、将軍しょうぐん張繡ちょうしゅう)にはためらわれることのありませんように」


そして冬11月、張繡ちょうしゅうはこの意見に従い、軍兵を引き連れて曹操そうそうの下に帰順しました。

張繡ちょうしゅうの処遇

張繡ちょうしゅうが到着すると、曹操そうそうは彼の手を取って喜び、歓迎の宴会をもよおして、張繡ちょうしゅうの娘を子の曹均そうきんの嫁にし、張繡ちょうしゅう揚武将軍ようぶしょうぐんの位をさずけました。

賈詡かくの処遇

また曹操そうそうは、賈詡かくの手を握って言いました。


わしに天下の人々の信頼と尊重を与えてくれる者は君だ」


そして曹操そうそうは、上奏して賈詡かく執金吾しつきんごに任命し、都亭侯とていこうに封じて冀州牧きしゅうぼくに栄転させました。

ですが当然、この時はまだ冀州きしゅう袁紹えんしょうが支配していましたので、曹操そうそう賈詡かくそばめ置いて参司空軍事さんしくうぐんじとしました。


袁紹えんしょう許県きょけん攻撃のため、冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんにおいて兵を整え、延津えんしんに宿営すると、建安けんあん4年(199年)秋8月、曹操そうそう黎陽県れいようけんに軍を進め、臧覇ぞうはらを青州せいしゅうに進入させて斉国せいこく北海国ほっかいこく東安平県とうあんぺいけんを撃ち破り、于禁うきん黄河こうがの河岸に駐屯させました。

一方袁紹えんしょうは、曹操そうそうの背後に当たる荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん張繡ちょうしゅうに使者を送って彼を味方につけようとしますが、張繡ちょうしゅう賈詡かくの進言に従って曹操そうそうに帰順してしまいます。

そして12月、許県きょけんに帰還していた曹操そうそうは、再び兵を進めて官渡かんとに陣を取りました。