袁紹の後継者争いの火種と、曹操の本拠地である許県攻撃に対する反戦派と主戦派の論争についてまとめています。
スポンサーリンク
袁紹の驕り
帝位を望む
建安4年(199年)春、易京で公孫瓚を撃破してその軍勢を併合した袁紹は、
- 冀州は袁紹自身
- 青州は長男の袁譚
- 幽州は次男の袁煕
- 幷州(并州)は甥の高幹
にそれぞれ1州を治めさせ、その軍勢は数十万を擁するようになります。
これを契機として、袁紹は貢物の献納を怠るようになり、主簿の耿苞に内密に命じて、
「漢の赤徳は衰えきっている。袁氏は黄徳の血統であるゆえ、天意に従われますように」*1
と建白させました。
そこで袁紹は、耿苞の内密の建白書を大将軍*2の役所の将校・官吏に提示したところ、みな声を揃えて「耿苞はデタラメで怪しげな説を吐いている。処刑するべきだ」と言いました。
多くの反対を受けた袁紹は、やむなく耿苞を処刑して自分への嫌疑を晴らしました。
脚注
*1五行思想による王朝交代の法則では、赤徳の次は黄徳の帝王が立つとされています。また、ここで言う「天意に従う」とは、帝号を称すること。
*2この時は袁紹自身が大将軍ですので、自分の役所のことを指します。
関連記事
後継者争いの火種
袁紹が息子たちにそれぞれ1州を治めさせると、沮授は「必ず禍の始まりとなるでしょう」と袁紹を諫めました。ですが袁紹は、
「儂は4人の息子にそれぞれ1州を支配させ、それによって能力を観察したいと思う」
と言い、聞き入れませんでした。
退出した沮授は、「禍はここから始まるのか…」と嘆きました。
沮授の諫言全文
タップ(クリック)すると開きます。
世間では「1匹の兎が街路を疾駆すると万人がこれを追いかけるが、1人がこれを捕獲すれば貪欲なる者もみな追うのをやめる」と言っております。持ち主が決定したからです。
その上(後継者を決める場合)、年齢が同じ場合には賢明な者を選び、人徳が拮抗する場合には占卜によって選ぶというのが古の制度です。
どうか、上は前代の成功と失敗の戒めをご考慮くださり、下は兎を追いかけ持ち主が決まる(その後は揉め事が起こらない)という道理に思いをいたされますように。
スポンサーリンク
袁紹配下の不和
反戦派と主戦派の論争
数十万の軍勢を擁するようになった袁紹は、審配と逢紀に軍の事務を統括させ、田豊、荀諶、許攸を参謀に、顔良、文醜を将帥に任命し、精鋭兵10万・騎兵1万騎を選り抜いて、曹操の本拠地である豫州(予州)・潁川郡・許県を攻撃しようとします。
この時、沮授と田豊は袁紹を諫めて言いました。
「今は農業に力を入れ、民衆を慰撫なさるべきかと存じます」
沮授と田豊の諫言全文
タップ(クリック)すると開きます。
これまで何年も出兵が続き、民衆は疲れ切っており、倉庫に貯えはなく、役務(労役)が盛んに行われております。これこそ我が国にとっての大きな心配事です。
まず使者をやって天子に戦利品を献上し、農業に力を入れ、民衆を安楽になさるべきかと存じます。
もし天子さまにご連絡できなかった場合、曹氏は我々が天子さまへの敬意を表そうとしているのに、中途で邪魔していると上奏なされませ。
その後で黎陽に進駐し、時間をかけて河南の経営につとめ、船舶の増産・大小の武器を修繕し、精鋭の騎兵を遣わして辺境地帯を荒らします。奴らに安定を保つことをできなくさせておき、我が方は安逸を貪っておりますれば、3年以内に事は居ながらにして定まるでありましょう。
すると審配と郭図が進み出て、
「今こそ曹操を征伐する時です。今この時を逃せば、後になって征伐することが困難になりましょう」
と言います。
審配と郭図の言葉全文
タップ(クリック)すると開きます。
兵法の書物に書かれている戦術には、味方の兵力が10倍ならば包囲し、3倍ならば攻撃を仕掛け、相拮抗する時は戦いを交える(『孫子』謀攻篇)とあります。
今、殿(袁紹)の神の如き武勇の上に、河朔(黄河地方)の強力な軍隊を支配して曹操を征伐するのですから、例えば手を裏返すように簡単なことです。
今この時期に奪取しなければ、後になって始末することが困難です。
これに沮授が、
「天子を擁する曹操を攻撃するのは道義に外れています。また、兵は精鋭でよく訓練されており、公孫瓚の如き者とは訳が違います。絶対安全な方法を棄てて名分なき戦争を起こすことは、良策ではありません」
審配と郭図の言葉全文
タップ(クリック)すると開きます。
考えますに、「混乱を救い暴虐を懲らしめる」これを義兵と呼び、「人数を頼み武力に依拠する」これを驕兵と呼びます。義兵は無敵、驕兵は真っ先に滅亡します。
曹操は天子(献帝)をお迎えし、許都に安んじまいらせました。今、兵を起こして南に向かうのは、道義から言って間違っております。その上、中央で巡らす勝利の策は、武力の強弱によって左右されるのではありません。
曹氏の施行する法令はすでに行き渡り、士卒は精鋭でよく訓練されております。公孫瓚の如き、成すところなく包囲された者とは訳が違います。
今、絶対安全な方法を棄てて名分なき戦争を起こすことを、公(袁紹)のために内心、危惧いたしております。
と返すと郭図らは、
「沮授の計略は絶対の安全を維持しようという考えです。あれこれ考慮した結果、好機に当たって速やかに大業を定められないのは、臨機応変な策とは言えません」
審配と郭図の言葉全文
タップ(クリック)すると開きます。
周の武王が主君であった殷の紂王を征伐したことすら、道義に外れるとは申さないのです。まして曹操に攻撃を加えるのを、名分がないなどと言えましょうか。
その上、殿(袁紹)の軍は勇武、臣は強力、将兵は怒りをたぎらせ、各々ありったけの力を出そうと決意しております。
好機に当たって速やかに大業を定められないのは、あれこれ考慮する結果起こる失敗です。
そもそも天が与えたもうものを取らなければ、逆にその咎めを受けるもの。これこそ越王・勾践が覇者となり、呉王・夫差が滅亡した原因です。
監軍(沮授)の計略は絶対の安全を維持しようという考えで、時の動き見て事の兆しを理解したものではありません。
と答え、この言葉を聞いた袁紹は、郭図の意見に従うことにしました。
沮授の失脚
また郭図らは、この機会に沮授を誹って、
「沮授は内外(政治と軍事)を監督統御し、その権威は全軍に轟いています。
もし彼が次第に力をつけてきた場合、どうやって制圧するのですか。そもそも臣下と主君の権限が同等でない国は隆盛になり、主君と臣下の権限が同等である国は滅亡します。これこそ黄石公の戒めることです。
その上、外部で軍隊を統御する者を、内政に関与させるべきではありません」
と言いました。
すると袁紹は疑心暗鬼になり、監軍(沮授)の権限を分割して3つの都督に分け、
- 沮授
- 郭図
- 淳于瓊
にそれぞれ1軍を管理させるようにしました。
袁紹の出陣
その後袁紹は、冀州・魏郡・黎陽県において兵を整え、延津に宿営します。
この時騎都尉の崔琰は、
「天子(献帝)は(曹操の本拠地である)許県におり、民衆は曹操に帰順することを望んでいます。境界を保持し、職務を報告し、それによって領内を安定させるのがよろしいかと存じます」
と袁紹を諫めましたが、袁紹は聞き入れませんでした。
建安4年(199年)春、易京で公孫瓚を撃破してその軍勢を併合した袁紹は、息子たちにそれぞれ1州を治めさせ、ついに曹操の本拠地である豫州(予州)・潁川郡・許県への侵攻を口にします。
すると、この出陣に反対する沮授・田豊らと、「今こそ曹操と雌雄を決すべし」と言う審配・郭図らの意見が対立。
結果、袁紹は主戦派の審配・郭図らの意見に従い、論争に敗れた沮授は、郭図の進言によってその職権を縮小されました。
豆知識
今回曹操との対決に反対した田豊は、建安3年(198年)3月に曹操が3度目の張繡征伐を行った際には、袁紹に「許県攻撃」を進言しており、そのことを知った曹操は包囲を解いて許県に撤退しています。
この時田豊は、許県に曹操が不在であることに加え、徐州の呂布との連携も視野に入れていたものと思われます。
ですが、その後曹操は呂布を攻め滅ぼして後顧の憂いを絶ち、敵対する司隷・河内郡の眭固を討つなど、情況は一変していました。
関連記事