200年【漢:建安5年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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200年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
大司馬 |
ー |
太尉 |
ー |
司徒 |
趙温 |
司空 |
曹操 |
執金吾 |
伏完 |
将作大匠 |
孔融 |
大将軍 |
袁紹 |
前将軍 |
馬騰 |
左将軍 |
劉備 |
輔国将軍 |
伏完 |
安降将軍 |
韓遂 |
建徳将軍 |
曹操 |
伏波将軍 |
陳登 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
鍾繇 |
冀州牧 |
袁紹 |
豫州牧 |
劉備 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉璋 |
青州刺史 |
袁譚 |
揚州刺史 |
厳象 → 劉馥 |
遼東太守 |
公孫度 |
河内太守 |
魏种 |
河東太守 |
王邑 |
広陵太守 |
陳登 |
丹楊太守 |
呉景 |
会稽太守 |
孫権 |
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200年の主な出来事
月 |
出来事 |
春 |
- 董承らの「曹操誅殺計画」が漏洩する。
- 曹操が董承らを処刑し、三族を皆殺しにする。
- 曹操が徐州の劉備を攻める。
- 劉備が袁紹を頼って逃走する。
- 関羽が曹操に降伏する。
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2月 |
- 袁紹が田豊を牢獄に繋ぐ。
- 袁紹が州郡に「曹操を弾劾する檄文」を送りつける。
- 袁紹が黎陽に進軍する。
- 袁紹が郭図・淳于瓊・顔良に白馬県の東郡太守・劉延を攻撃させる。
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3月 |
- 袁紹が郭図・淳于瓊・顔良に白馬県の東郡太守・劉延を攻撃させる。
|
4月 |
- 曹操が劉延の救援に向かう。
- 関羽が顔良を斬る。
- 延津で文醜が敗死する。
- 幽州の閻柔と鮮于輔が曹操に帰順する。
- 孫策が北伐を計画し、揚州・呉郡・丹徒県で食糧を待つ。
- 廬江太守・李術が九江郡に侵攻し、揚州刺史・厳象を殺害する。
- 孫策が許貢の食客の襲撃を受ける。
- 孫策が孫権を後継者に指名して亡くなる。
- 孫権が孫策の後を嗣ぐ。
|
不明 |
- 揚州刺史・劉馥が九江郡を平定する。
- 曹操が華歆を招き、議郎・参司空軍事に任命する。
- 孫権が独立の意志を示した廬江太守・李術を討伐し晒し首にする。
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7月
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- 皇子の劉馮が南陽王に立てられる。
- 南陽王の劉馮が亡くなる。
- 豫州(予州)・汝南郡の黄巾・劉辟らが袁紹に呼応する。
- 袁紹が汝南郡に劉備を派遣し、諸県が呼応する。
- 陽安都尉の李通が袁紹の誘いを拒絶する。
- 関羽が劉備の下に帰還する。
- 曹仁が劉備を敗走させる。
- 劉備が再び汝南郡に入る。
- 劉備が蔡陽(蔡楊)を斬る。
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8月 |
- 袁紹が進軍を開始する。
- 曹操も陣営を分けて袁紹と対峙する。
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9月 |
- 日食があった。
- 三公には至孝の者を2人ずつ推挙させ、九卿・校尉・郡国の守相には1人ずつ推挙させる。
- 袁紹に敗れた曹操が官渡砦に入る。
- 曹操が発石車(霹靂車)で袁紹の攻撃に対抗する。
- 曹操が荀彧に「許都(許県)に帰還したい」旨の手紙を送る。
- 荀彧の返書を受け、曹操が撤退を思い止まる。
- 曹操が徐晃と史渙を派遣して袁紹の輜重(輸送物資)を焼く。
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10月 |
- 箒星(彗星)が西方の大梁に現れた。
- 東海王の劉祗が亡くなる。
- 袁紹が烏巣に食糧を輸送する。
- 袁紹の謀臣・許攸が曹操の下に身を寄せる。
- 曹操が烏巣を強襲して食糧を焼き、守将の淳于瓊を斬る。
- 張郃と高覧が曹操に降伏する。
- 袁紹軍が崩壊し、袁紹と袁譚が軍を棄てて逃走する。
- 曹操が偽りの投降兵8万人を生き埋めにする。
- 曹操が朝廷に戦勝を上書する。
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不明 |
■中央
- 曹操が密通の証拠を焼く。
- 袁紹が田豊を処刑する。
- 張紘が呉を討とうとする曹操を止める。
- 曹操が孫権を討虜将軍・会稽太守に任命する。
■揚州方面
- 張紘が会稽東部都尉に任命され、呉に還る。
- 孫権が曹操と内通しようとした廬陵太守・孫輔を罰する。
■荊州方面
- 長沙太守・張羨が病死し、張懌が後を嗣ぐ。
- 劉表が長沙郡・零陵郡・桂陽郡を平定する。
■益州方面
- 益州・漢中郡の張魯が劉璋に背く。
- 劉璋が張魯の母と弟を殺害する。
- 劉璋が龐羲を巴郡太守に任命して張魯を防がせる。
- 趙韙が反乱を起こし、蜀郡、広漢郡、犍為郡が呼応する。
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200年の三国志群雄勢力図
1月
建安5年(200年)1月の三国志群雄勢力図
曹操の徐州奪還
春正月、曹操は自ら出陣して徐州で独立した劉備を討伐。劉備は袁紹を頼って逃走し、後方の徐州・下邳国・下邳県の守備を任されていた関羽は曹操に降伏しました。
またこの時、冀州別駕の田豊が「曹操の背後を襲うように」と袁紹に進言しましたが、袁紹は「息子の病気」を理由にこれを拒絶し、出陣を許可しませんでした。
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白馬の戦いと延津の戦い
袁紹の出陣
2月、袁紹がようやく許都(許県)攻撃について論議を始めますが、田豊は「すでに劉備を破った曹操は守りを固めているはず」と、この出陣に反対します。
すると袁紹は、「兵の気勢を挫くつもりかっ!」と激怒して、田豊に枷をはめて牢獄に繋いでしまいました。
白馬の戦い
袁紹が郭図・淳于瓊・顔良らに白馬県の東郡太守・劉延を攻撃させました。
曹操はまず、延津に向かうと見せかけて袁紹の兵を分散させると、自ら兵を率いて白馬県の劉延を救援します。この時、曹操の麾下にいた関羽が顔良を討ち取りました。
白馬の戦い
延津の戦い
その後黄河に沿って西に向かった曹操は、延津を南に渡った文醜と劉備の軍・5〜6千騎に遭遇します。
延津の戦い
騎兵600人に満たない曹操は、馬を下るように命じて兵を伏せると、文醜と劉備の兵が輜重(輸送物資)を漁り始めたのを見計らって一気に兵を放ち、文醜を斬りました。
顔良と文醜はいずれも袁紹配下の名将でしたが、たった2度の戦闘で両人を失ってしまったので、袁紹軍は震え戦きました。
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孫策の死
孫策の北伐
揚州の大半を平定した孫策は、袁紹と曹操が官渡で対峙している隙を突いて、許都(許県)を襲撃しようと計画します。
そこで孫策は、自ら「背後を脅かす広陵太守・陳登の討伐」に向かい、同時に廬江太守・李術を揚州・九江郡に侵入させました。
孫策の死
兵糧の到着を待つため揚州・呉郡・丹徒県に軍を留めていた孫策が、その時間を利用して狩猟に出掛けたところ、そこで、かつて私怨により殺害した許貢の食客の襲撃を受けてしまいます。
頬に矢を受ける重傷を負った孫策は、弟の孫権を後継者に指名して亡くなりました。
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12月
建安5年(200年)12月の三国志群雄勢力図
豫州(予州)・汝南郡の反乱
7月、豫州(予州)・汝南郡の黄巾・劉辟らが曹操に反旗を翻し、袁紹に呼応します。
すると袁紹は、汝南郡に劉備を派遣して劉辟らと共に許都(許県)の周辺を荒らし回らせました。
豫州(予州)・汝南郡
また袁紹は、豫州(予州)の諸郡を味方につけようと誘いの手を伸ばし、多くの郡がその誘いを受け入れました。
その後曹操は、曹仁に騎兵を与えて劉備を攻撃させ、これを敗走させますが、劉備は再度汝南郡に侵攻し、曹操が派遣しが蔡陽(蔡楊)を斬りました。
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官渡砦の攻防
8月、袁紹は陣営を連ねて進軍を開始。曹操もまた陣営を分けて合戦に及びましたが負け戦となり、官渡の砦に引き返します。この時、曹操の兵は1万に満たないものでしたが、その2割〜3割が傷つきました。
官渡の砦に入った曹操は、「発石車(霹靂車)」を作って袁紹軍の櫓を目がけて発射し、長い塹壕を掘ってこれに対抗しました。
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袁紹軍の敗北
烏巣強襲
10月、袁紹の謀臣・許攸が曹操の下に身を寄せ、「袁紹軍の食糧が烏巣に集められていること」を伝えました。
烏巣
曹操は自ら5千人の歩兵・騎兵を率いて烏巣を強襲し、これを陥落させました。
袁紹の逃走
烏巣が陥落すると、曹洪と荀攸が守る官渡の砦を攻撃していた張郃と高覧が、官渡の曹洪に降伏してしまいます。
これにより袁紹軍は崩壊し、袁紹と袁譚は軍を棄て、黄河を渡って逃走しました。
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孫権の李術討伐
孫権が孫策の後を嗣ぐと、会稽東部都尉に任命された張紘が呉に還り、孫権は魯粛を抜擢して重用するようになりました。
一方で、孫権による継承に不安を持った廬陵太守・孫輔は、曹操と内通しようとして発覚。廬江太守・李術は、亡命者を受け入れて孫権の命令を拒絶します。
孫権は、曹操に「李術を救援しないように」手紙を送ると、李術を討伐して晒し首にしました。
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荊州南部の平定
劉表は建安3年(198年)に反乱を起こした張羨を包囲していましたが、陥落させることができませんでした。
ですが、その後張羨が病死して張羨の子・張懌が後を嗣ぐと、劉表はそのまま攻撃を続けて張懌を併合し、長沙郡・零陵郡・桂陽郡を平定しました。
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益州の反乱
この頃、益州・漢中郡の張魯が驕って劉璋に従うことを承知しなくなったので、劉璋は張魯の母と弟を殺害し、龐羲らを派遣して度々張魯を攻撃しましたが、逆に撃ち破られてしまいます。
また、当時劉璋は荊州・南陽郡や三輔地方から流れ込んだ人々を取り締まることができなかったため、(劉璋を益州刺史とするように上書した)州の大官・趙韙が反乱を起こし、蜀郡、広漢郡、犍為郡らが彼に呼応しました。
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この年、「白馬の戦い」と「延津の戦い」を経て官渡の砦に籠もった曹操は、烏巣を強襲して食糧を焼き、守将の淳于瓊を斬りました。
これを受け、官渡の砦を攻撃していた張郃と高覧が降伏。袁紹軍は崩壊し、袁紹と袁譚は軍を棄てて逃走します。
揚州では、許貢の食客の襲撃を受けた孫策が死亡。弟の孫権が後を嗣ぎ、荊州では劉表が荊州南部の反乱を平定。益州では漢中郡の張魯が劉璋に背いて、州の大官・趙韙が反乱を起こしました。
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