建安(けんあん)4年(199年)に起こった「易京(えききょう)の戦い」による公孫瓚(こうそんさん)の滅亡と、その後の幽州(ゆうしゅう)の再編についてまとめています。

スポンサーリンク

公孫瓚討伐への動き

公孫瓚の没落

初平(しょへい)4年(193年)冬、幽州牧(ゆうしゅうぼく)・劉虞(りゅうぐ)を処刑した公孫瓚(こうそんさん)は、事実上幽州(ゆうしゅう)を領有して隆盛を極めましたが、興平(こうへい)2年(195年)に鮮于輔(せんうほ)らが兵を挙(あ)げると、潞県(ろけん)の北に続いて鮑丘(ほうきゅう)でも敗北。易京(えききょう)に拠点を移して引き籠(こ)もるようになります。

その後、麴義(きくぎ)を撃退した公孫瓚(こうそんさん)ですが、失政により民の怨(うら)みを買って4つの郡が離反する中、易京(えききょう)の防備をさらに固め、敢(あ)えて動かず情勢の変化を待つことにしました。


易京(えききょう)

易京(えききょう)


その後、袁紹(えんしょう)は大将を差し向けて公孫瓚(こうそんさん)を攻撃させましたが、何年経っても陥落させることができませんでした。

関連記事

【鮑丘の戦い】鮮于輔らに敗れた公孫瓚が易京に立て籠もる

袁紹が和睦の手紙を送る

易京(えききょう)を攻めあぐねていた袁紹(えんしょう)は、手紙を送って公孫瓚(こうそんさん)を諭(さと)し、怨(うら)みを解(と)いて和睦(わぼく)しようとしました。

袁紹の手紙全文
タップ(クリック)すると開きます。

私と足下(そっか)(あなた)は、以前に盟約を結び、その上に乱臣(董卓(とうたく))討伐の誓約を交(か)わした間柄であり、互いの友情は伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟のそれより深く、各自の責任分担は記録に記(しる)されていた。

力を合わせ歩調を同じくすれば、古(いにしえ)の斉(せい)の桓公(かんこう)・晋(しん)の文公(ぶんこう)の後に続くことができると考えた。

それ故(ゆえ)、私は自(みずか)ら帯(お)びていた印綬(いんじゅ)を解(と)き、足下(そっか)の弟の公孫範(こうそんはん)に与えて彼を勃海太守(ぼっかいたいしゅ)とし、北方(公孫瓚(こうそんさん)の領土)に南方(袁紹(えんしょう)の領土)をつけ加え、肥沃(ひよく)な土地を分割して執事(しつじ)に奉納(ほうのう)したのである。これこそ私の真心の明らかな証拠でなくて、何であろうか。

足下(そっか)が烈々たる忠節の士としての気高い徳義を振り捨てて災厄と滅亡に連なる危険な道を辿(たど)り、途中で志を改め友情を怨恨(えんこん)に振り替え、奪い取った人馬を派遣して豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))に乱暴を働こうなどとは思いもよらなかった。

最初、足下(そっか)の武装した軍隊が南方に存在し、足下(そっか)自身が戦陣に臨(のぞ)んでいると聞き、飛び交(か)う矢は奔流(ほんりゅう)のごとく、猛(たけ)り狂う刃(やいば)は無茶苦茶に集中して、足下(そっか)に重大な災難(死)をもたらし、いたずらに私の過失を大きくすることを心配した。

そのため、足下(そっか)に書簡を差し上げて懇(ねんご)ろに述べ、悔(く)い改めてもらうことを期待したのだった。

しかるに足下(そっか)はどこ吹く風と気ままに振る舞い、自分の武威(ぶい)と詐術(さじゅつ)に自信を持ち、天罰など呑(の)み込んでしまえる、英雄は討ち滅ぼせると言っておられたが、やはり弟御(公孫越(こうそんえつ))は鋒(ほこ)の刃(やいば)の先にかかって落命するはめに陥(おちい)ってしまったのである。

関連記事

反董卓連合の崩壊。袁紹が孫堅を攻め、公孫瓚は河北に覇を唱える


この言葉は今も私の耳に残っているが、足下(そっか)はというと、災(わざわ)いの根を探り検討を加えることも、欲求を抑え自分の罪を反省することもまったくせず、いい加減に、その際限なき怒りにまかせて行動し、道理に従うことの重要さを顧(かえり)みようともせず、怨恨(えんこん)を内に隠して民衆を虐(しいた)げ、私の身にまで害悪を及ぼそうとなさった。

かくして馬を躍(おど)らせ弦を引き絞(しぼ)り、我が領土に居座って民衆をあまねく毒牙にかけ、被害は白骨にまで降りかかっている。私は引き下がろうにも引き下がれず、界橋(かいきょう)の戦役に出陣したのである。

この時、足下(そっか)の軍兵の意気は雷(いかずち)が轟(とどろ)くごとく、駿馬は稲妻の走るがごとき有り様であった。

私の軍隊はやっと寄せ集めたばかりで大型兵器は整備されておらず、強さから言っても格が違い、人数から言っても問題にならなかったが、天の助けによってちょっと交戦しただけで大勝利を得(え)、敗走する足下(そっか)の軍を追撃し、足下(そっか)の築いた砦(とりで)を利用し、足下(そっか)の蓄(たくわ)えた穀物(こくもつ)の中に住むことになった。

これは、天のご威光は誠実な人間を助け、礼に従う人間に幸福が豊かに授(さず)けられる明らかな徴(しるし)ではなかろうか。

関連記事

【袁紹 vs 公孫瓚】界橋の戦い。白馬義従を破った麹義の底力


足下(そっか)は依然としてあくことなき野心を抱(いだ)き、なんと再び敗残兵を糾合(きゅうごう)し、我が稲を食らう蝗(いなご)のような輩(やから)を率(ひき)いて勃海郡(ぼっかいぐん)を火の海にした。私はまたも安閑(あんかん)としていることができず、そのため龍河(りゅうが)(龍湊(りゅうそう))の戦いとなった。

弱兵が前進して誘いをかけ、大軍はまだ龍河(りゅうが)を渡っていなかったにも拘(かか)わらず、足下(そっか)の肝(きも)は潰(つぶ)れ、軍勢は散り散りになり、陣太鼓も鳴らないうちに敗北を喫(きっ)し大混乱に陥(おちい)って、君臣ともども逃亡したのだった。これもまた足下(そっか)が自分で招(まね)いたことであり、私には何の罪もないのである。

関連記事

袁紹と袁術の揚州刺史を巡る争いと龍湊の戦い


これ以後、災(わざわ)いに満ちた反目はいよいよ深まり、我が軍隊は憤怒(ふんど)に堪(た)えず、かくして勝利のしるしとして、敵の屍(しかばね)を積み上げて小山を作り、髑髏(どくろ)が荒野に満つるがごとき状態になったのである。私はあの罪もなく害せられた者たちを悼(いた)んでは、いつも悲痛な思いに駆られて涙を流さずにはいられなかった。

この後(のち)、たびたび足下(そっか)から書簡を受け取ったが、そこには従順で控(ひか)えめな字句が連ねられ、過去を悔(く)い改めこれから先はきちんと身を慎(つつし)むと記(しる)されていた。私は、昔の誼(よしみ)が復活することを心嬉しく思った上に、万民が不安な状態に置かれていることを憐(あわ)れんだが故(ゆえ)に、その度(たび)に軍隊を引き上げて南方へ向かい、足下(そっか)の書簡の要求通りに事を執(と)り行った。

しかし3ヶ月も経(た)たぬうちに、北方の国境地帯から火急を告げる羽檄(うげき)が到達するのが常であった。私はこのため心を煩(わずら)わし頭を痛め、気持ちを安(やす)める暇もなかったのである。

そもそも三軍の統率者の地位におり、将軍(しょうぐん)の任務にあたる者は、怒る時には厳霜(げんそう)のごとく厳しく、喜ぶ時には時雨(しぐれ)のごとく恵み深く、是非善悪の判断は平易で理解しやすくするのが当然である。

しかるに足下(そっか)はその態度に一貫性がなく、彼我(ひが)の強弱によって考えを変え、追い詰(つ)めればペコペコと頭を下げ、緩(ゆる)めれば勝手気ままに振る舞い、行動には原則がなく発言には基準がない。壮士たる者が、実際こんなことで良いのか。

足下(そっか)が年寄り子供を虐殺したため、幽州(ゆうしゅう)の人士は憤(いきどお)り怨(うら)んでおり、人々は背を向け、身内の者も離反してしまって、足下(そっか)は孤立無援となっている。

また、異民族の烏丸(うがん)(烏桓(うがん))・濊貊(わいばく)らは足下(そっか)と同じ州の出身であり、私とは風俗を異にした国の者たちであるにも拘(かか)わらず、それぞれ激怒して奮い立ち、競って我が方の先鋒隊となっている。

また、東西の鮮卑(せんぴ)族も続々と我が方に帰順して来ている次第だ。これらの連中は、私の徳義が招(まね)き寄せたのではなく、つまりは足下(そっか)が彼らを駆り立ててそうしたのである。

そもそも荒廃した危機の時代にあり、戦闘相次ぐ困難な状況にいながら、内部では同盟者の誓約に反し、外部では異民族の信頼を失い、州内に内乱が起こり、家庭内に内輪(うちわ)揉(も)めが始まったのでは、覇業を樹立しようとしても、なんと困難なことではないか。

先に、西山(せいざん)(太行山(たいこうざん))の賊徒が暴れ回った際、出兵して征伐したが、ちょうど私に処刑された我が将・麹義(きくぎ)の残党が、処罰を恐れて逃亡した。そのため、このまま大軍を留(とど)め、軍兵を分遣して掃討した。

この軍勢は先の戦役の時、界橋(かいきょう)において足下(そっか)の軍の旗を奪い取り砦(とりで)を攻め落とし、先陣を承(うけたまわ)って敵を制圧した部隊である。最初に聞いたところでは、足下(そっか)が金印(きんいん)を刻み紫綬(しじゅ)をまとわせ、敗将を総指揮官に任命し、この待遇に感激して、孟明視(もうめいし)のごとく敗戦の恥辱に報復するに違いないと考えていたとか。そのために戦士たちは首を伸ばし、つま先立って軍旗を待ち望んでいた。

ところがどういう訳か、ひっそりと鳴(な)りを潜(ひそ)め、寂(せき)として音も立てぬまま、とうとう殺し尽くされる羽目に陥(おちい)ったということであるが、これは足下(そっか)のため、まことに惜(お)しむべきことである。

そもそも天下を平定しようという激しい感情を有し、永久に伝えられるような功業を樹立せんと願い、軍兵を掌握(しょうあく)し、軍馬を飼育しながら謀反(むほん)を企(くわだ)てたものを討(う)ち取らず、服従して来た者を受け入れなかったならば、武威(ぶい)も恩愛も共に捨て去ることになり、どうして功名を立てることができようか。

関連記事

【鮑丘の戦い】鮮于輔らに敗れた公孫瓚が易京に立て籠もる


今、故都[洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))]は復興され、法網の綻(ほころ)びは繕(つくろ)われ、罪人(董卓(とうたく)ら)は滅亡し、忠義の重臣が教化をお助けして中華は権威を回復し、頌歌(しょうか)(神の栄光や君主の徳、英雄の功績などを褒(ほ)め称(たた)える歌)の制作が待ち望まれ、まさに武器を取り集め、戦争に使用した牛や馬を放牧しようとしている。

足下(そっか)だけが何(なに)故(ゆえ)に狭(せま)い領土にしがみつき、軍内の大きな力(武器・牛馬など)をそのまま維持して悪名に甘んじつつ滅亡を早め、永続する美徳を捨て去ろうとなさるのか。勢いに任せて謀(はかりごと)を企(くわだ)てようとするのは、優(すぐ)れた方策ではない。

どうか怨恨(えんこん)を忘れ疑いを解(と)いて、私との旧交を復活されるように。もしこの言葉に誤(あやま)りがあるならば、大いなる天がご承知あるはずである。


ですが公孫瓚(こうそんさん)はこれに返事を出さず、軍備を強化して防衛を整えると、長史(ちょうし)の関靖(かんせい)に、


「現在四方では厳しい戦闘が続いているが、進軍して儂(わし)の城下に居座り、長年に渡って対峙できる者がいないことは明らかである。袁本初(えんほんしょ)(袁紹(えんしょう))などに、儂(わし)をどうすることもできまい」


と言いました。

蹋頓の使者

これより以前、烏丸(うがん)(烏桓(うがん))族の大人(たいじん)・丘力居(きゅうりききょ)が亡くなると、息子の楼班(ろうはん)がまだ幼かったため、武略に優れた従子の蹋頓(とうとん)が代わりに立って、3王(おう)の配下を統括するようになっていました。

そして袁紹(えんしょう)が公孫瓚(こうそんさん)と何度も戦いながら勝負がつかずにいたこの頃、蹋頓(とうとん)が袁紹(えんしょう)の元に使者を送って和親を求め、公孫瓚(こうそんさん)討伐に協力する姿勢を見せます。

豆知識

烏丸(うがん)(烏桓(うがん))族は興平(こうへい)2年(195年)に起こった「鮑丘(ほうきゅう)の戦い」においても、鮮于輔(せんうほ)と袁紹(えんしょう)が派遣した劉和(りゅうか)・麴義(きくぎ)に味方して公孫瓚(こうそんさん)と戦っていました。

関連記事

【鮑丘の戦い】鮮于輔らに敗れた公孫瓚が易京に立て籠もる


スポンサーリンク


易京の戦い

易京を包囲する

建安(けんあん)4年(199年)春、袁紹(えんしょう)は全軍を揚(あ)げて北に出陣すると、そのまま易京(えききょう)を包囲します。

豆知識

以前、公孫瓚(こうそんさん)の別将が敵軍に包囲されたことがありましたが、公孫瓚(こうそんさん)はこれを救援せず、


「1人を救援すれば、後(のち)の大将たちが救援を当てにして力の限り戦わないようになってしまうだろう。今これを救援しなかったならば、後(のち)の大将たちは肝(きも)に銘(めい)じて自(みずか)ら励(はげ)むようになるはずだ」


と言っていました。

このようなことがあったので、今回袁紹(えんしょう)が北方へ向かって攻撃を開始した時、公孫瓚(こうそんさん)の南方の国境線上にあった別営では、守っても自力では守りきれないと判断した上、決して救援軍もやって来ないことを知っていたので、自軍の指揮官を殺害して投降したり、散り散りになって逃げ去ったため、袁紹(えんしょう)軍は真っ直(す)ぐ易京(えききょう)の門に到達することができたのでした。

奪われた手紙

袁紹(えんしょう)軍に包囲された公孫瓚(こうそんさん)は「黒山賊(こくざんぞく)に救援を依頼すると同時に、自分も突騎兵を率(ひき)いて一気に包囲を突破して、西南の山岳地帯に沿(そ)って黒山賊(こくざんぞく)の軍兵を収(おさ)め、冀州(きしゅう)に侵攻して袁紹(えんしょう)軍の背後を断ち切る」作戦を立てます。

ですが関靖(かんせい)は、


「ただ今将軍(しょうぐん)(公孫瓚(こうそんさん))の将兵は、もはや完全に総崩れとなっております。彼らがなんとか維持し続けているのは、住居や年寄り子供を案じ、将軍(しょうぐん)(公孫瓚(こうそんさん))を主君と仰(あお)いでいるからに過ぎません。

将軍(しょうぐん)(公孫瓚(こうそんさん))が長期に渡って固守しておられましたならば、必ずや袁紹(えんしょう)は自分の方から撤退するに違いありません。彼が自分から撤退した後に、四方の軍勢は必ずや再び集まってくるでしょう。

ですがもし将軍(しょうぐん)(公孫瓚(こうそんさん))が今これを見捨てて出て行かれましたならば、軍の重鎮がいなくなり、立ち所に易京(えききょう)は危機に瀕(ひん)することになりましょう。将軍(しょうぐん)(公孫瓚(こうそんさん))は本拠地を失い、草野に孤立される羽目に陥(おちい)って、何が成し遂(と)げられるでしょうか」


と言ってこれに反対したので、公孫瓚(こうそんさん)は自(みずか)ら出陣して冀州(きしゅう)に侵攻する計画を取りやめました。


そこで公孫瓚(こうそんさん)は次の一手として、救援の到着を待って城の内外から袁紹(えんしょう)を攻撃しようと、使者の文則(ぶんそく)に手紙を持たせて息子の公孫続(こうそんしょく)の元に遣(や)り、「黒山賊(こくざんぞく)の帥(すい)・張燕(ちょうえん)に救援を求め、軍隊が到着したら狼煙(のろし)を上げて知らせよ」と命じました。

公孫続への手紙全文
タップ(クリック)すると開きます。

袁氏(えんし)の攻撃振りは鬼神のようで、軍鼓や角笛の音が地の底から聞こえるかと思うと、雲梯(うんてい)(敵城を視察する高い梯子(はしご))と衝車(しょうしゃ)(敵城にぶち当てて城壁を崩す車)が我が方の城楼の上で活躍する。

日に日に追い詰(つ)められ頼む当てもない。お前は張燕(ちょうえん)に砕(くだ)けるほど地に頭を打ちつけて頼み込み、速(すみ)やかに軽騎兵を寄越し、到着したならば北の方角において狼煙(のろし)を上げよ。儂(わし)は城内から撃って出よう。

そうしないと儂(わし)が滅びた後、天下広しとはいえ、お前が安住の地を探しても見つからないぞ。


ですが、袁紹(えんしょう)の斥候(せっこう)(偵察兵)がこの手紙を手に入れたため、袁紹(えんしょう)は頃合いを見計らって偽(にせ)の狼煙(のろし)を上げさせます。

すると、それを見た公孫瓚(こうそんさん)は張燕(ちょうえん)の援軍が来たものと思い込み、出陣して合戦を挑(いど)もうとしますが、袁紹(えんしょう)が設(もう)けた伏兵に散々に撃ち破られて、再び城に引き返し守備を固めました。

豆知識

以上は『魏書(ぎしょ)』公孫瓚(こうそんさん)伝(でん)を基(もと)にしていますが、これ以降張燕(ちょうえん)に関する記述はありませんので、これを読む限り「公孫瓚(こうそんさん)の張燕(ちょうえん)への援軍要請」は失敗に終わったように思えます。

ですが『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』ではまず、

「建安(けんあん)4年(199年)春、黒山賊(こくざんぞく)の帥(すい)・張燕(ちょうえん)は公孫続(こうそんしょく)と共に兵10万を率(ひき)い、3つの道から救援軍を出した」

とあり、まだ援軍が到着しないうちに上記のやり取りが行われています。(その後張燕(ちょうえん)に関する記述なし)

また『魏書(ぎしょ)』張燕(ちょうえん)伝(でん)にも、

「袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)が冀州(きしゅう)の領土を争った時、張燕(ちょうえん)は将軍(しょうぐん)の杜長(とちょう)らを派遣し、公孫瓚(こうそんさん)に味方して袁紹(えんしょう)と交戦したが、袁紹(えんしょう)に撃ち破られて、軍勢はだんだん離散していった」

とありますので、この時張燕(ちょうえん)は実際に公孫瓚(こうそんさん)に援軍を派遣していたことが窺(うかが)えます。

公孫瓚の死

公孫瓚(こうそんさん)が易京(えききょう)に籠(こ)もったまま出て来なくなると、袁紹(えんしょう)は攻撃隊を分けて地面を掘って地下道を作らせました。

そして、敵の櫓(やぐら)の真下まで穴ぐらを掘らせ、少しずつ材木を立てて櫓(やぐら)を支え、土台の半分に達したところを見計らって、立てた支柱に火をつけたところ、櫓(やぐら)はあっという間に倒壊してしまいます。

こうして袁紹(えんしょう)の軍が公孫瓚(こうそんさん)のいる中央部に至(いた)ると、「もはや敗北を免(まぬか)れぬ」と悟(さと)った公孫瓚(こうそんさん)は、自分の姉妹・妻子をことごとく絞(し)め殺し、自(みずか)ら火をつけて自焚(じふん)(焼身自殺)して果てました。


この戦いで田楷(でんかい)は戦死し、長史(ちょうし)の関靖(かんせい)は、


「あの時もし将軍(しょうぐん)(公孫瓚(こうそんさん))が出陣するのを止めていなかったなら、或(ある)いは助かっていたかもしれない。『君子(くんし)は人を危難(きなん)に陥(おとしい)れた場合には、必ずその人と運命を共にする』と聞いている。どうして儂(わし)1人生きていられようか」


と言うと、馬に鞭(むち)打って袁紹(えんしょう)軍に突入して戦死しました。また、この時公孫続(こうそんしょく)は、屠各(とかく)(匈奴(きょうど))に殺されています。

その後袁紹(えんしょう)は、兵に促(うなが)し台に登らせて公孫瓚(こうそんさん)の首を斬ると、彼らの首をことごとく許県(きょけん)(朝廷)に送り届けました。


スポンサーリンク


幽州の再編

「易京の戦い」後の勢力図

「易京の戦い」後の勢力図凡例

「易京(えききょう)の戦い」後の勢力図

鮮于輔

当時の幽州(ゆうしゅう)は、「公孫瓚(こうそんさん)」と「公孫瓚(こうそんさん)に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)した鮮于輔(せんうほ)」によって勢力が二分されていました。

公孫瓚(こうそんさん)が敗死すると、幽州(ゆうしゅう)・漁陽郡(ぎょようぐん)出身の田豫(でんよ)は漁陽太守(ぎょようたいしゅ)の鮮于輔(せんうほ)に言いました。


「曹氏(そうし)は天子(てんし)を奉じて諸侯に号令しており、きっと天下を定めることができるでしょう。いち早く曹操(そうそう)に従うべきです」


鮮于輔(せんうほ)はこの言葉に従って軍勢を引き連れて帰順し、朝廷は詔(みことのり)を下して彼を建忠将軍(けんちゅうしょうぐん)に任命し、幽州(ゆうしゅう)6郡を都督させました。

烏丸(烏桓)

袁紹(えんしょう)が公孫瓚(こうそんさん)を攻撃すると、蹋頓(とうとん)は烏丸(うがん)(烏桓(うがん))族を率(ひき)いて袁紹(えんしょう)を援護しました。

公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼした袁紹(えんしょう)は、勝手に朝廷の命令を偽造して、この戦いに協力した、

  • 遼西(りょうせい)烏丸(うがん)の大人(たいじん)・蹋頓(とうとん)
  • 上谷(じょうこく)烏丸(うがん)の大人(たいじん)・難楼(なんろう)
  • 峭王(しょうおう)・蘇僕延(そぼくえん)
  • 汗魯王(かんろおう)・烏延(うえん)

ら全員に印綬(いんじゅ)を与えてそれぞれ単于(ぜんう)に任命し、

  • 安車(あんしゃ)(腰掛けのある馬車)
  • 華蓋(かがい)(絹張りの長柄の傘)
  • 羽旄(うぼう)(飾りのついた旗)
  • 黄屋(こうおく)(裏面の黄色い車蓋(しゃがい))
  • 左纛(さとう)(大きな旗)

の使用を許可しました。

豆知識

後(のち)に丘力居(きゅうりききょ)の子・楼班(ろうはん)が成長すると、難楼(なんろう)と蘇僕延(そぼくえん)はその配下を取りまとめつつ楼班(ろうはん)を奉じて単于(ぜんう)に立て、蹋頓(とうとん)を王(おう)としましたが、烏丸(うがん)(烏桓(うがん))族の方針は以前として蹋頓(とうとん)が主導していました。

閻柔

幽州(ゆうしゅう)・広陽郡(こうようぐん)出身の閻柔(えんじゅう)は、若い時に捕らえられて烏丸(うがん)(烏桓(うがん))と鮮卑(せんぴ)の元に連れて来られましたが、やがて異民族の者たちの崇敬(すうけい)を集めるようになり、鮮卑(せんぴ)族の力を借りて烏丸校尉(うがんこうい)の邢挙(けいきょ)を殺害すると、自(みずか)ら烏丸校尉(うがんこうい)の官についていました。

袁紹(えんしょう)はこれを利用して、閻柔(えんじゅう)を手厚く扱うことによって北辺の安定を計(はか)りました。


興平(こうへい)2年(195年)の「鮑丘(ほうきゅう)の戦い」以降、易京(えききょう)に立て籠(こ)もる公孫瓚(こうそんさん)に対し、袁紹(えんしょう)は大将を差し向けて攻撃させていましたが、何年経っても陥落させることができずにいました。

建安(けんあん)4年(199年)春、ついに袁紹(えんしょう)は自(みずか)ら全軍を揚(あ)げて出陣すると、地下道を掘って易京(えききょう)を陥落させ公孫瓚(こうそんさん)を自害に追い込んで、初平(しょへい)2年(191年)から続いた袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)の争いに終止符が打たれました。

結果 幽州(ゆうしゅう)は、公孫瓚(こうそんさん)と勢力を二分した鮮于輔(せんうほ)が曹操(そうそう)(朝廷)に帰順して幽州(ゆうしゅう)6郡を任され、異民族は袁紹(えんしょう)に懐柔(かいじゅう)されるという歪(いびつ)な状況が生まれました。