建安4年(199年)に起こった「易京の戦い」による公孫瓚の滅亡と、その後の幽州の再編についてまとめています。
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公孫瓚討伐への動き
公孫瓚の没落
初平4年(193年)冬、幽州牧・劉虞を処刑した公孫瓚は、事実上幽州を領有して隆盛を極めましたが、興平2年(195年)に鮮于輔らが兵を挙げると、潞県の北に続いて鮑丘でも敗北。易京に拠点を移して引き籠もるようになります。
その後、麴義を撃退した公孫瓚ですが、失政により民の怨みを買って4つの郡が離反する中、易京の防備をさらに固め、敢えて動かず情勢の変化を待つことにしました。
易京
その後、袁紹は大将を差し向けて公孫瓚を攻撃させましたが、何年経っても陥落させることができませんでした。
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袁紹が和睦の手紙を送る
易京を攻めあぐねていた袁紹は、手紙を送って公孫瓚を諭し、怨みを解いて和睦しようとしました。
袁紹の手紙全文
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私と足下(あなた)は、以前に盟約を結び、その上に乱臣(董卓)討伐の誓約を交わした間柄であり、互いの友情は伯夷・叔斉兄弟のそれより深く、各自の責任分担は記録に記されていた。
力を合わせ歩調を同じくすれば、古の斉の桓公・晋の文公の後に続くことができると考えた。
それ故、私は自ら帯びていた印綬を解き、足下の弟の公孫範に与えて彼を勃海太守とし、北方(公孫瓚の領土)に南方(袁紹の領土)をつけ加え、肥沃な土地を分割して執事に奉納したのである。これこそ私の真心の明らかな証拠でなくて、何であろうか。
足下が烈々たる忠節の士としての気高い徳義を振り捨てて災厄と滅亡に連なる危険な道を辿り、途中で志を改め友情を怨恨に振り替え、奪い取った人馬を派遣して豫州(予州)に乱暴を働こうなどとは思いもよらなかった。
最初、足下の武装した軍隊が南方に存在し、足下自身が戦陣に臨んでいると聞き、飛び交う矢は奔流のごとく、猛り狂う刃は無茶苦茶に集中して、足下に重大な災難(死)をもたらし、いたずらに私の過失を大きくすることを心配した。
そのため、足下に書簡を差し上げて懇ろに述べ、悔い改めてもらうことを期待したのだった。
しかるに足下はどこ吹く風と気ままに振る舞い、自分の武威と詐術に自信を持ち、天罰など呑み込んでしまえる、英雄は討ち滅ぼせると言っておられたが、やはり弟御(公孫越)は鋒の刃の先にかかって落命するはめに陥ってしまったのである。
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この言葉は今も私の耳に残っているが、足下はというと、災いの根を探り検討を加えることも、欲求を抑え自分の罪を反省することもまったくせず、いい加減に、その際限なき怒りにまかせて行動し、道理に従うことの重要さを顧みようともせず、怨恨を内に隠して民衆を虐げ、私の身にまで害悪を及ぼそうとなさった。
かくして馬を躍らせ弦を引き絞り、我が領土に居座って民衆をあまねく毒牙にかけ、被害は白骨にまで降りかかっている。私は引き下がろうにも引き下がれず、界橋の戦役に出陣したのである。
この時、足下の軍兵の意気は雷が轟くごとく、駿馬は稲妻の走るがごとき有り様であった。
私の軍隊はやっと寄せ集めたばかりで大型兵器は整備されておらず、強さから言っても格が違い、人数から言っても問題にならなかったが、天の助けによってちょっと交戦しただけで大勝利を得、敗走する足下の軍を追撃し、足下の築いた砦を利用し、足下の蓄えた穀物の中に住むことになった。
これは、天のご威光は誠実な人間を助け、礼に従う人間に幸福が豊かに授けられる明らかな徴ではなかろうか。
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足下は依然としてあくことなき野心を抱き、なんと再び敗残兵を糾合し、我が稲を食らう蝗のような輩を率いて勃海郡を火の海にした。私はまたも安閑としていることができず、そのため龍河(龍湊)の戦いとなった。
弱兵が前進して誘いをかけ、大軍はまだ龍河を渡っていなかったにも拘わらず、足下の肝は潰れ、軍勢は散り散りになり、陣太鼓も鳴らないうちに敗北を喫し大混乱に陥って、君臣ともども逃亡したのだった。これもまた足下が自分で招いたことであり、私には何の罪もないのである。
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これ以後、災いに満ちた反目はいよいよ深まり、我が軍隊は憤怒に堪えず、かくして勝利のしるしとして、敵の屍を積み上げて小山を作り、髑髏が荒野に満つるがごとき状態になったのである。私はあの罪もなく害せられた者たちを悼んでは、いつも悲痛な思いに駆られて涙を流さずにはいられなかった。
この後、たびたび足下から書簡を受け取ったが、そこには従順で控えめな字句が連ねられ、過去を悔い改めこれから先はきちんと身を慎むと記されていた。私は、昔の誼が復活することを心嬉しく思った上に、万民が不安な状態に置かれていることを憐れんだが故に、その度に軍隊を引き上げて南方へ向かい、足下の書簡の要求通りに事を執り行った。
しかし3ヶ月も経たぬうちに、北方の国境地帯から火急を告げる羽檄が到達するのが常であった。私はこのため心を煩わし頭を痛め、気持ちを安める暇もなかったのである。
そもそも三軍の統率者の地位におり、将軍の任務にあたる者は、怒る時には厳霜のごとく厳しく、喜ぶ時には時雨のごとく恵み深く、是非善悪の判断は平易で理解しやすくするのが当然である。
しかるに足下はその態度に一貫性がなく、彼我の強弱によって考えを変え、追い詰めればペコペコと頭を下げ、緩めれば勝手気ままに振る舞い、行動には原則がなく発言には基準がない。壮士たる者が、実際こんなことで良いのか。
足下が年寄り子供を虐殺したため、幽州の人士は憤り怨んでおり、人々は背を向け、身内の者も離反してしまって、足下は孤立無援となっている。
また、異民族の烏丸(烏桓)・濊貊らは足下と同じ州の出身であり、私とは風俗を異にした国の者たちであるにも拘わらず、それぞれ激怒して奮い立ち、競って我が方の先鋒隊となっている。
また、東西の鮮卑族も続々と我が方に帰順して来ている次第だ。これらの連中は、私の徳義が招き寄せたのではなく、つまりは足下が彼らを駆り立ててそうしたのである。
そもそも荒廃した危機の時代にあり、戦闘相次ぐ困難な状況にいながら、内部では同盟者の誓約に反し、外部では異民族の信頼を失い、州内に内乱が起こり、家庭内に内輪揉めが始まったのでは、覇業を樹立しようとしても、なんと困難なことではないか。
先に、西山(太行山)の賊徒が暴れ回った際、出兵して征伐したが、ちょうど私に処刑された我が将・麹義の残党が、処罰を恐れて逃亡した。そのため、このまま大軍を留め、軍兵を分遣して掃討した。
この軍勢は先の戦役の時、界橋において足下の軍の旗を奪い取り砦を攻め落とし、先陣を承って敵を制圧した部隊である。最初に聞いたところでは、足下が金印を刻み紫綬をまとわせ、敗将を総指揮官に任命し、この待遇に感激して、孟明視のごとく敗戦の恥辱に報復するに違いないと考えていたとか。そのために戦士たちは首を伸ばし、つま先立って軍旗を待ち望んでいた。
ところがどういう訳か、ひっそりと鳴りを潜め、寂として音も立てぬまま、とうとう殺し尽くされる羽目に陥ったということであるが、これは足下のため、まことに惜しむべきことである。
そもそも天下を平定しようという激しい感情を有し、永久に伝えられるような功業を樹立せんと願い、軍兵を掌握し、軍馬を飼育しながら謀反を企てたものを討ち取らず、服従して来た者を受け入れなかったならば、武威も恩愛も共に捨て去ることになり、どうして功名を立てることができようか。
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今、故都[洛陽(雒陽)]は復興され、法網の綻びは繕われ、罪人(董卓ら)は滅亡し、忠義の重臣が教化をお助けして中華は権威を回復し、頌歌(神の栄光や君主の徳、英雄の功績などを褒め称える歌)の制作が待ち望まれ、まさに武器を取り集め、戦争に使用した牛や馬を放牧しようとしている。
足下だけが何故に狭い領土にしがみつき、軍内の大きな力(武器・牛馬など)をそのまま維持して悪名に甘んじつつ滅亡を早め、永続する美徳を捨て去ろうとなさるのか。勢いに任せて謀を企てようとするのは、優れた方策ではない。
どうか怨恨を忘れ疑いを解いて、私との旧交を復活されるように。もしこの言葉に誤りがあるならば、大いなる天がご承知あるはずである。
ですが公孫瓚はこれに返事を出さず、軍備を強化して防衛を整えると、長史の関靖に、
「現在四方では厳しい戦闘が続いているが、進軍して儂の城下に居座り、長年に渡って対峙できる者がいないことは明らかである。袁本初(袁紹)などに、儂をどうすることもできまい」
と言いました。
蹋頓の使者
これより以前、烏丸(烏桓)族の大人・丘力居が亡くなると、息子の楼班がまだ幼かったため、武略に優れた従子の蹋頓が代わりに立って、3王の配下を統括するようになっていました。
そして袁紹が公孫瓚と何度も戦いながら勝負がつかずにいたこの頃、蹋頓が袁紹の元に使者を送って和親を求め、公孫瓚討伐に協力する姿勢を見せます。
豆知識
烏丸(烏桓)族は興平2年(195年)に起こった「鮑丘の戦い」においても、鮮于輔と袁紹が派遣した劉和・麴義に味方して公孫瓚と戦っていました。
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易京の戦い
易京を包囲する
建安4年(199年)春、袁紹は全軍を揚げて北に出陣すると、そのまま易京を包囲します。
豆知識
以前、公孫瓚の別将が敵軍に包囲されたことがありましたが、公孫瓚はこれを救援せず、
「1人を救援すれば、後の大将たちが救援を当てにして力の限り戦わないようになってしまうだろう。今これを救援しなかったならば、後の大将たちは肝に銘じて自ら励むようになるはずだ」
と言っていました。
このようなことがあったので、今回袁紹が北方へ向かって攻撃を開始した時、公孫瓚の南方の国境線上にあった別営では、守っても自力では守りきれないと判断した上、決して救援軍もやって来ないことを知っていたので、自軍の指揮官を殺害して投降したり、散り散りになって逃げ去ったため、袁紹軍は真っ直ぐ易京の門に到達することができたのでした。
奪われた手紙
袁紹軍に包囲された公孫瓚は「黒山賊に救援を依頼すると同時に、自分も突騎兵を率いて一気に包囲を突破して、西南の山岳地帯に沿って黒山賊の軍兵を収め、冀州に侵攻して袁紹軍の背後を断ち切る」作戦を立てます。
ですが関靖は、
「ただ今将軍(公孫瓚)の将兵は、もはや完全に総崩れとなっております。彼らがなんとか維持し続けているのは、住居や年寄り子供を案じ、将軍(公孫瓚)を主君と仰いでいるからに過ぎません。
将軍(公孫瓚)が長期に渡って固守しておられましたならば、必ずや袁紹は自分の方から撤退するに違いありません。彼が自分から撤退した後に、四方の軍勢は必ずや再び集まってくるでしょう。
ですがもし将軍(公孫瓚)が今これを見捨てて出て行かれましたならば、軍の重鎮がいなくなり、立ち所に易京は危機に瀕することになりましょう。将軍(公孫瓚)は本拠地を失い、草野に孤立される羽目に陥って、何が成し遂げられるでしょうか」
と言ってこれに反対したので、公孫瓚は自ら出陣して冀州に侵攻する計画を取りやめました。
そこで公孫瓚は次の一手として、救援の到着を待って城の内外から袁紹を攻撃しようと、使者の文則に手紙を持たせて息子の公孫続の元に遣り、「黒山賊の帥・張燕に救援を求め、軍隊が到着したら狼煙を上げて知らせよ」と命じました。
公孫続への手紙全文
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袁氏の攻撃振りは鬼神のようで、軍鼓や角笛の音が地の底から聞こえるかと思うと、雲梯(敵城を視察する高い梯子)と衝車(敵城にぶち当てて城壁を崩す車)が我が方の城楼の上で活躍する。
日に日に追い詰められ頼む当てもない。お前は張燕に砕けるほど地に頭を打ちつけて頼み込み、速やかに軽騎兵を寄越し、到着したならば北の方角において狼煙を上げよ。儂は城内から撃って出よう。
そうしないと儂が滅びた後、天下広しとはいえ、お前が安住の地を探しても見つからないぞ。
ですが、袁紹の斥候(偵察兵)がこの手紙を手に入れたため、袁紹は頃合いを見計らって偽の狼煙を上げさせます。
すると、それを見た公孫瓚は張燕の援軍が来たものと思い込み、出陣して合戦を挑もうとしますが、袁紹が設けた伏兵に散々に撃ち破られて、再び城に引き返し守備を固めました。
豆知識
以上は『魏書』公孫瓚伝を基にしていますが、これ以降張燕に関する記述はありませんので、これを読む限り「公孫瓚の張燕への援軍要請」は失敗に終わったように思えます。
ですが『資治通鑑』ではまず、
「建安4年(199年)春、黒山賊の帥・張燕は公孫続と共に兵10万を率い、3つの道から救援軍を出した」
とあり、まだ援軍が到着しないうちに上記のやり取りが行われています。(その後張燕に関する記述なし)
また『魏書』張燕伝にも、
「袁紹と公孫瓚が冀州の領土を争った時、張燕は将軍の杜長らを派遣し、公孫瓚に味方して袁紹と交戦したが、袁紹に撃ち破られて、軍勢はだんだん離散していった」
とありますので、この時張燕は実際に公孫瓚に援軍を派遣していたことが窺えます。
公孫瓚の死
公孫瓚が易京に籠もったまま出て来なくなると、袁紹は攻撃隊を分けて地面を掘って地下道を作らせました。
そして、敵の櫓の真下まで穴ぐらを掘らせ、少しずつ材木を立てて櫓を支え、土台の半分に達したところを見計らって、立てた支柱に火をつけたところ、櫓はあっという間に倒壊してしまいます。
こうして袁紹の軍が公孫瓚のいる中央部に至ると、「もはや敗北を免れぬ」と悟った公孫瓚は、自分の姉妹・妻子をことごとく絞め殺し、自ら火をつけて自焚(焼身自殺)して果てました。
この戦いで田楷は戦死し、長史の関靖は、
「あの時もし将軍(公孫瓚)が出陣するのを止めていなかったなら、或いは助かっていたかもしれない。『君子は人を危難に陥れた場合には、必ずその人と運命を共にする』と聞いている。どうして儂1人生きていられようか」
と言うと、馬に鞭打って袁紹軍に突入して戦死しました。また、この時公孫続は、屠各(匈奴)に殺されています。
その後袁紹は、兵に促し台に登らせて公孫瓚の首を斬ると、彼らの首をことごとく許県(朝廷)に送り届けました。
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幽州の再編
「易京の戦い」後の勢力図
鮮于輔
当時の幽州は、「公孫瓚」と「公孫瓚に叛旗を翻した鮮于輔」によって勢力が二分されていました。
公孫瓚が敗死すると、幽州・漁陽郡出身の田豫は漁陽太守の鮮于輔に言いました。
「曹氏は天子を奉じて諸侯に号令しており、きっと天下を定めることができるでしょう。いち早く曹操に従うべきです」
鮮于輔はこの言葉に従って軍勢を引き連れて帰順し、朝廷は詔を下して彼を建忠将軍に任命し、幽州6郡を都督させました。
烏丸(烏桓)
袁紹が公孫瓚を攻撃すると、蹋頓は烏丸(烏桓)族を率いて袁紹を援護しました。
公孫瓚を滅ぼした袁紹は、勝手に朝廷の命令を偽造して、この戦いに協力した、
- 遼西烏丸の大人・蹋頓
- 上谷烏丸の大人・難楼
- 峭王・蘇僕延
- 汗魯王・烏延
ら全員に印綬を与えてそれぞれ単于に任命し、
- 安車(腰掛けのある馬車)
- 華蓋(絹張りの長柄の傘)
- 羽旄(飾りのついた旗)
- 黄屋(裏面の黄色い車蓋)
- 左纛(大きな旗)
の使用を許可しました。
豆知識
後に丘力居の子・楼班が成長すると、難楼と蘇僕延はその配下を取りまとめつつ楼班を奉じて単于に立て、蹋頓を王としましたが、烏丸(烏桓)族の方針は以前として蹋頓が主導していました。
閻柔
幽州・広陽郡出身の閻柔は、若い時に捕らえられて烏丸(烏桓)と鮮卑の元に連れて来られましたが、やがて異民族の者たちの崇敬を集めるようになり、鮮卑族の力を借りて烏丸校尉の邢挙を殺害すると、自ら烏丸校尉の官についていました。
袁紹はこれを利用して、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計りました。
興平2年(195年)の「鮑丘の戦い」以降、易京に立て籠もる公孫瓚に対し、袁紹は大将を差し向けて攻撃させていましたが、何年経っても陥落させることができずにいました。
建安4年(199年)春、ついに袁紹は自ら全軍を揚げて出陣すると、地下道を掘って易京を陥落させ公孫瓚を自害に追い込んで、初平2年(191年)から続いた袁紹と公孫瓚の争いに終止符が打たれました。
結果 幽州は、公孫瓚と勢力を二分した鮮于輔が曹操(朝廷)に帰順して幽州6郡を任され、異民族は袁紹に懐柔されるという歪な状況が生まれました。