袁術死後の廬江郡の情勢と孫策の廬江郡侵攻、その後の黄祖との戦いについてまとめています。
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目次
袁術の死
袁術の死
揚州・九江郡・寿春県を拠点に揚州一帯に影響力を及ぼした袁術ですが、皇帝を僭称したことにより孫策をはじめとする諸将が離反。
その後、呂布や曹操に敗れて勢力を維持できなくなった袁術は、袁紹を頼って北に向かいましたが、曹操が派遣した劉備に阻まれて引き返し、ついには血を吐いて死んでしまいました。
建安4年(199年)6月のことです。
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廬江太守・劉勲
袁術の従弟・袁胤、女婿の黄猗らは、曹操を畏れて寿春県を守り通そうとはせず、袁術の柩をかつぎ、その妻子や配下の男女を引き連れて揚州・廬江郡・皖県(皖城)の劉勲の元に身を寄せます。
また、袁術の長史であった楊弘や大将の張勲たちは、その部下を引き連れて孫策の下に身を寄せようとしましたが、廬江太守の劉勲が待ち伏せをして攻撃をかけ、みなこれを捕虜として、珍宝を奪い取って引き揚げました。
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劉勲が鄭宝の兵を得る
揚州の名士・劉曄
揚州には軽はずみな男伊達やずる賢い荒くれ者が多く、鄭宝、張多、許乾といった連中がそれぞれ配下を抱えて割拠しており、その中でも鄭宝が最も勇敢で決断力があり、才能・力量が人並み優れていました。
鄭宝は、民衆を追い立てて長江の南に行くつもりでしたが、淮南出身の劉曄が高貴な家柄の名士であることから、劉曄を脅迫してこの計画の主導者にさせようとします。
劉曄はこの時20余歳。「なんとか鄭宝の脅迫から逃れることができないか」と悩んでいましたが、その方法が思いつきませんでした。
鄭宝の暗殺
曹操の使者
ちょうどこの時、曹操が揚州の状況を調査するため、揚州に使者を派遣して来ます。
劉曄はその使者を訪問して「当時の揚州の状勢について」話して聞かせ、無理にでも帰還する使者のお供について北方に逃れようと、数日間通い続けていました。
鄭宝を斬る
一方鄭宝も、数百人を引き連れ牛と酒を持って曹操の使者のご機嫌伺いに訪れました。
すると劉曄は、下男に命じて仲間たちを引き連れて中門の外に座り、彼らのために酒と食事を用意させ、鄭宝と酒盛りを始めます。
この時劉曄は秘かに血気盛んな若者と約束し、酒に酔った隙を見て鄭宝を斬る手筈を整えていたのですが、鄭宝は元々酒が嫌いだったのであまり酒を飲まず、いつまでも正気を保っていたので、彼らはいつまでも行動を起こせずにいました。
そこで劉曄は、自ら佩刀を引き寄せて鄭宝を斬り殺し、その首を斬って軍に命令して言いました。
「曹公(曹操)より命令がある。抵抗する者がいれば、鄭宝と同罪であるっ!」
これを聞いた元鄭宝の兵たちは驚き恐れて陣営に逃げ帰りましたが、陣営にはまだ、監督の将と精鋭兵数千がいました。
彼らが混乱することを懸念した劉曄はすぐさま鄭宝の馬に乗り、下男数人を引き連れて鄭宝の陣営の門まで行くと、服従することと逆らうことの利害について説いて聞かせます。
そして、門を開いて受け入れられた劉曄が彼らを労り心を落ち着かせると、みな喜んで服従し、劉曄を主君に推し立てました。
以上は『魏書』劉曄伝を基にしていますが、『呉書』魯粛伝では、孫策の死後、劉曄は親しい友人関係にあった魯粛に「一緒に鄭宝に身を寄せよう」と誘っており、劉曄の鄭宝への態度に矛盾がみられます。
ここでは『魏書』劉曄伝の記述に従っています。
劉勲に兵を譲る
劉曄は漢王室が次第に衰微していくさまを目撃していたので、王族のはしくれである自分*1が兵を持つことを望みませんでした。
そこで劉曄は、その配下の者たちを廬江太守・劉勲に任せることにします。
そして劉勲がその理由を不審がると、劉曄は言いました。
「鄭宝が規律を立てなかったため、彼の部下たちは平素から略奪によって利益を得ていました。私には元来財力がありませんから、彼らをきっちりと取り仕切ることとなりますと、必ずや怨みを持たれ、永らえることは困難でしょう。だからあなたに任せるのです」
これを聞いた劉勲は、納得して元鄭宝の兵たちを受け入れました。
脚注
*1劉曄は後漢・光武帝の子・阜陵王・劉延の後裔で、蔣済、胡質と共に揚州の名士として知られていました。
海昬・上繚の宗帥
この時劉勲は、袁術の兵を収容したばかりのところに鄭宝の兵まで収容し、食糧が不足して彼らに充分な援助を与えることができなくなってしまいます。
そこで劉勲は、従弟の劉偕を派遣して豫章太守の華歆に食糧の買い入れを申し込みました。
ですが、華歆の郡でもかねてから穀物が不足していたので、劉偕に役人をつけて海昬国・上繚*2一帯に行き、その地の宗帥(地方の独立勢力の首領)たちから合わせて3万石の米を供出させ、それを劉偕に与えようとします。
豫章郡(予章郡)の情況
ですが、劉偕が現地に赴いて1ヶ月余りが経っても、わずか数千石を手に入れただけでした。
そこで劉偕は劉勲に報告を送り、現在の情勢を詳しく述べて「軍を進めてここを襲い、食糧を分捕るように」と告げました。
脚注
*2建昌県から海昬国にかけて僚水が流れる地域。
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孫策の西進
晥城奪取作戦
孫策の手紙
袁術亡き後、劉勲は長江・淮河一帯の地域で強力な勢力となっていました。
孫策はそれを不愉快に思い、使者を遣って謙った言葉と手厚い贈り物をもって、書面で劉勲に次のような提案をします。
「上繚*2の部族民がたびたび弊国を馬鹿にいたしますので、何年間も腹を立ててまいりました。ですが、奴らを攻撃するにも交通が不便であります。
願わくば大国(劉勲)のお力添えで奴らを討伐したいと存じます。
上繚*2は大変豊かですから、あれを手に入れれば国を富ませることができます。どうか兵を出して外部からの援助をしてください」
劉勲はこの孫策の書面を信用し、また孫策から贈られた真珠や宝玉、葛布を手に入れて有頂天になりました。そしてこの時、内外の官吏はすべて慶賀しましたが、ただ1人・劉曄だけは良い顔をしていません。
劉勲がその理由を尋ねると、劉曄は言いました。
「上繚*2は小さいとはいえ、城は堅く壕は深く、攻めるに難しく守るに易しい所です。10日で片をつけられないならば、兵が外地で疲弊する上に、国内が空になります。
もし孫策がその隙を突いて我が国を襲撃すれば、残された者だけで持ちこたえることは不可能で、それこそ将軍(劉勲)は、進んでは敵に挫かれ、退くにも帰る場所がないという結果となります。もし軍をどうしても出すとなると、災難は今にも訪れましょう」
ですが劉勲はこれを聞き入れず、自ら兵を動員して海昬国・上繚*2一帯の討伐に向かいます。
ですが、海昬国・上繚*2一帯の宗帥(地方の独立勢力の首領)たちは、劉勲が出陣したことを知ると邑(城)の中の物資を空にして逃亡してしまったので、結局劉勲は何1つ手に入れることができませんでした。
脚注
*2建昌県から海昬国にかけて僚水が流れる地域。
孫策の晥城強襲
これより以前、孫策は詔勅を受けて、
- 司空・曹操
- 衛将軍・董承*3
- 益州牧・劉璋
らと共同して袁術と劉表を討伐することになっていましたが、ちょうど出陣しようとしている時に袁術が死にました。
劉勲が海昬国に出陣した時、孫策はちょうど劉表配下の黄祖の討伐に向かっていましたが、揚州・丹楊郡(丹陽郡)・石城県まで来たところで、「劉勲が少人数の軍勢で自ら海昬国に向かった」という報告が届きます。
すると孫策はすぐさま軍を分け、従兄の孫賁と孫輔に8千人を率いて豫章郡(予章郡)・彭澤県で待ち伏せさせ、自分自身は周瑜と共に2万人を率いて徒歩で廬江郡・晥城(劉勲の本拠地)を襲って即座に降伏させました。
この時孫策は、袁術配下の工芸者や楽隊など3万余人、それに袁術や劉勲の妻子を手に入れます。
孫策と劉勲の戦い1
晥城を降伏させた孫策は、上表して汝南郡出身の李術を廬江太守に任命し、兵3千人を与えて晥城を守らせると、捕虜にした者はみな東方の呉県まで護送しました。
また、その後袁術の娘は孫権の後宮に入り、子の袁燿は郎中に任命され、袁燿の娘は孫権の子の孫奮の妻となります。
脚注
*3この年[建安4年(199年)]董承は、献帝の密勅を受け曹操の誅殺を計画していました。この計画が発覚して董承が殺害されるのは、建安5年(200年)春正月のことになります。
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大橋と小橋
孫策と周瑜が晥城を降伏させた時、袁術や劉勲の妻子の他に、橋公の2人の女で共に絶世の美女である大橋と小橋を捕虜にしました。
そこで、孫策は自ら姉の大橋を妻とし、周瑜は妹の小橋を妻としました。
豆知識
『呉書』周瑜伝が注に引く『江表伝』に、
「孫策は私的な立場で戯れに周瑜に言った。
『橋公の2人の女は美貌であるとはいえ、我々2人を婿にできたのだから、喜んで良いのではないかな』」
とあります。
孫策と周瑜の妻の名前として、大喬と小喬と「木へんのない喬姓」が一般的になっていますが、これは『三国志演義』における名前です。
正史『三国志』では、上記『呉書』周瑜伝にそれぞれ1度ずつ登場し、その名前は大橋・小橋となっています。
孫策が黄祖を破る
劉勲の逃亡
海昬国から晥城に引き返そうとした劉勲は、彭澤県で孫賁と孫輔の待ち伏せに遭って撃ち破られ、楚江に入り廬江郡・尋陽県から徒歩で晥城を目指しました。
ですが、置馬亭まで来たところで「すでに孫策たちが晥城を降した」ことを聞きいた劉勲は、西塞山に身を潜め、山中の流沂城に塁を築いて守りを固め、劉表に急を告げて黄祖に救援を求めます。
これを受け、黄祖は子*4の黄射と水軍5千人を派遣して劉勲を救援させますが、孫策はさらに西塞山まで軍を進めて劉勲を大いに撃ち破り、黄射も慌てて逃亡しました。
劉勲は劉偕と共に北に逃亡。軍勢を引き連れて曹操に降伏し、列侯に封ぜられました。
孫策と劉勲の戦い2
豆知識
『呉書』孫策伝が注に引く『呉歴』に、
「曹公(曹操)は、孫策が江南を平定したと聞き、心中厄介なことになったと考え、つねづね『狂犬野郎とは喧嘩するわけにはゆかぬのだ』と大声で言ったりしていた」
とあります。
脚注
*4『呉書』孫策伝の原文では太子。『後漢書』禰衡伝の李賢注に「黄射の『射』の発音は『亦』」とあります。
黄祖を破る
劉勲の兵2千余人と船千艘を手に入れた孫策は、そのまま夏口まで軍を進めて黄祖に攻撃をかけました。
この時劉表は、従子の劉虎と南陽郡の韓晞が指揮する長矛部隊・5千人を派遣して沙羡県に陣を敷いた黄祖軍の先鋒としていましたが、孫策はこれと戦って大いに撃ち破ります。
この戦いで孫策は、劉虎や韓晞をはじめ2万余の首級を斬り、水にはまって溺死した者は1万余名。黄祖はただ1人逃亡し、彼の妻や息子たち男女7人を捕虜としました。
孫策と黄祖の戦い
この戦いの様子は、孫策の上奏文に詳しく記されています。
孫策の上奏文全文
建安4年(199年)6月に袁術が病死すると、廬江太守の劉勲の勢力が増大。
これを危険視した孫策は、劉勲に贈り物をおくって油断させ、豫章郡(予章郡)の宗民の討伐を勧めました。
その後、詔勅により黄祖討伐に向かっていた孫策は、劉勲が出陣したことを知ると、軍を分けて手薄になった皖城を降伏させ、引き返して来た劉勲を撃ち破ります。
劉勲は曹操の下に逃亡し、そのまま荊州・江夏郡に進出した孫策は、沙羡県に陣を敷いた黄祖軍を散々に撃ち破りました。