196年【漢:建安元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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196年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉協(献帝) |
皇太后 |
ー |
皇后 |
伏皇后(伏寿) |
朝廷
官職 |
人物 |
大司馬 |
李傕 → 張楊 |
太尉 |
楊彪 → ー |
司徒 |
趙温 |
司空 |
張喜 → 曹操 |
執金吾 |
伏完 |
将作大匠 |
孔融 |
大将軍 |
韓暹 → 曹操 → ー |
驃騎将軍 |
張済 |
車騎将軍 |
郭汜 → 楊奉 → 曹操 |
衛将軍 |
董承 |
征東将軍 |
胡才 |
鎮東将軍 |
劉備 → 曹操 → ー |
後将軍 |
楊定 |
左将軍 |
呂布 |
右将軍 |
袁紹 |
輔国将軍 |
伏完 |
安国将軍 |
張楊 → ー |
建徳将軍 |
曹操 |
安狄将軍 |
馬騰 |
安降将軍 |
韓遂 |
奮武将軍 |
公孫瓚 |
奮威将軍 |
呂布 |
興義将軍 |
楊奉 |
寧輯将軍 |
段煨 |
行殄寇将軍 |
孫策 |
折衝校尉 |
孫策 |
地方官
官職 |
人物 |
司隸校尉 |
韓暹 → 曹操 |
冀州牧 |
袁紹 |
豫州牧 |
劉備 |
兗州牧 |
曹操 |
荊州牧 |
劉表 |
益州牧 |
劉璋 |
徐州牧 |
呂布 |
幽州刺史 |
段訓 |
豫州刺史 |
劉備 → ー |
青州刺史 |
田楷 → 孔融 → 袁譚 |
揚州刺史 |
劉繇 |
交阯刺史 |
朱符 |
遼東太守 |
公孫度 |
河内太守 |
張楊 |
河東太守 |
王邑 |
陳湣王 |
劉寵 |
広陵太守 |
陳登 |
九江太守 |
陳紀 |
丹楊太守 |
袁胤 |
呉郡太守 |
許貢 |
豫章太守 |
華歆 |
会稽太守 |
王朗 → 孫策 |
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196年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 上帝を司隷・河東郡・安邑県に郊祀する。
- 天下に大赦する。
- 「建安」と改元する。
- 曹操が豫州(予州)・陳国・武平県に侵攻し、陳相(陳国の太守)・袁嗣が曹操に降伏する。
|
2月 |
- 韓暹が衛将軍・董承を攻める。
- 董承が司隷・河内郡・野王県の張楊を頼る。
- 曹操が豫州(予州)・汝南郡、潁川郡の黄巾、劉辟・黄邵らを斬る。
- 何儀・何曼が曹操に降伏する。
- 曹操が建徳将軍に任命される。
|
不明 |
- 董承が洛陽宮(雒陽宮)を修繕する。
- 荊州牧の劉表が洛陽(雒陽)に物資を運ぶ。
|
春 |
- 袁譚が孔融を攻める。(共に青州刺史)
|
5月 |
- 献帝が楊奉・李楽・韓暹と共に洛陽(雒陽)に出発する。
|
6月
|
- 献帝が司隷・河東郡・聞喜邑に到着する。
- 軹道を下ったところで張楊が献帝を出迎える。
- 袁術が徐州に侵攻する。
- 劉備が鎮東将軍に任命される。
- 呂布が徐州・下邳国・下邳県を奪う。
- 呂布配下の郝萌が叛旗を翻す。
- 呂布が都督の高順の陣営に逃げ込む。
- 高順が下邳県を攻め、郝萌を敗走させる。
- 曹性が郝萌に背き、高順が郝萌の首を斬る。
- 呂布が郝萌反乱の共謀者・陳宮を不問に付す。
|
夏
|
- 袁譚に敗れた孔融が曹操を頼る。
- 孔融が将作大匠に任命される。
|
7月 |
- 献帝が洛陽(雒陽)に到着し、故中常侍・趙忠邸に入る。
- 麋竺の妹が劉備の夫人となる。
- 劉備が呂布と和睦する。
- 劉備が豫州刺史に任命される。
- 劉備が豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯する。
- 呂布が徐州牧を自称する。
|
8月 |
- 献帝が南宮の楊安殿に移る。
- 安国将軍・張楊が大司馬に任命される。
- 楊奉が車騎将軍に任命される。
- 韓暹が大将軍・司隸校尉に任命される。
- 曹操が鎮東将軍・費亭侯に封ぜられる。
- 曹操が洛陽(雒陽)に入る。
- 曹操が司隸校尉・録尚書事に任命される。
- 曹操が尚書の馮碩、議郎の侯祈、侍中の臺崇(壺崇)らを誅殺する。
- 曹操が衛将軍の董承、輔国将軍の伏完ら13人を列侯に封じる。
- 曹操が射声校尉の沮儁に弘農太守の官位を追贈する。
- 袁術が「自ら天子(皇帝)に即位すること」を配下に相談する。
- 孫策が袁術を諫める。
- 孫策が袁術との関係を絶つ。
- 孫策が揚州・会稽郡に侵攻する。
- 会稽太守・王朗が孫策に投降する。
- 孫策が自ら会稽太守となる。
|
9月 |
- 豫州(予州)・潁川郡・許県に遷都する。
- 太尉の楊彪が罷免される。
- 司空の張喜が罷免される。
- 曹操が大将軍・武平侯に封ぜられる。
|
11月 |
- 曹操が大将軍を辞任する。(袁紹に大将軍の位を譲るため)
- 曹操が司空・行車騎将軍に任命される。
|
不明 |
■豫州(予州)方面
- 曹操が屯田制(典農部屯田)を実施する。
■徐州方面
- 袁術配下の将軍・紀霊ら歩兵・騎兵3万が沛県[小沛(劉備)]に侵攻する。
- 呂布が袁術と劉備を仲裁する。
- 呂布の娘と袁術の息子が婚約する。
- 陳珪の進言により呂布が婚約を破棄し、袁術の使者・韓胤を豫州(予州)・潁川郡・許県の市場でさらし首にする。
- 呂布が左将軍に任命される。
- 陳登が曹操に広陵太守に任命される。
- 呂布が沛県[小沛(劉備)]を攻める。
- 劉備が曹操を頼る。
- 劉備が曹操に豫州牧(予州牧)に任命される。
■荊州方面
- 驃騎将軍・張済が荊州・南陽郡・穰城(穣県)を攻撃する。
- 張済が流れ矢に当たって戦死する。
- 張済の族子で建忠将軍の張繡が軍を引き継ぐ。
- 張繡が荊州牧・劉表に合流する。
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196年の群雄勢力図
1月
建安元年(196年)1月の三国志群雄勢力図
献帝の洛陽(雒陽)入り
興平2年(195年)7月、長安を出て洛陽(雒陽)を目指した献帝は、司隷・河東郡・安邑県に入ると、上帝(天帝)を祀る郊祀を行い、大赦して建安元年に改元しました。
献帝の東遷経路
ここで、献帝を洛陽(雒陽)に帰還させようとする董承・張楊と、それを望まない楊奉・李楽の間で意見が対立し、董承は張楊が駐屯する司隷・河内郡・野王県に逃亡します。
そこで張楊は、献帝を迎えるために董承を向かわせて洛陽宮(雒陽宮)を修繕させました。
夏5月、献帝が楊奉・李楽・韓暹の陣営に使者を派遣して、洛陽(雒陽)まで供をするように詔を下し、7月、献帝はついに洛陽(雒陽)に還ることができました。
曹操の豫州(予州)侵攻
建安元年(196年)春正月、曹操が豫州(予州)・陳国・武平県に侵攻し、袁術が任命した陳相(陳国の太守)・袁嗣が曹操に降伏しました。
2月、曹操はさらに軍を進めて汝南郡・潁川郡の黄巾・劉辟・黄邵らを斬り、何儀・何曼とその軍兵すべてを降伏させました。
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袁術の徐州侵攻
建安元年(196年)6月、袁術が徐州に侵攻すると、劉備は司馬の張飛に徐州・下邳国・下邳県を守らせ、自ら兵を率いて盱眙県と淮陰県で袁術の進撃を阻みます。
この時、袁術から「下邳県を攻撃するならば兵糧を援助する」ことを約束された呂布は、大いに喜んで東方へ下ると、下邳県を攻撃して張飛の軍勢を散々に撃ち破り、劉備の妻子や軍需品、配下の将兵や官吏の家族などを捕虜にしました。
袁術の徐州侵攻
本拠地を失い、袁術に敗北を重ねた劉備は、呂布に和睦を求め、豫州刺史に任命されて豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯します。
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袁譚の青州平定
この年の春、曹操に任命された青州刺史・袁譚が、劉備に上奏されて青州刺史となった孔融を攻め、夏に至りました。
この頃すでに、生き残っている孔融の兵はわずか数百人だけとなり、辺りには流れ矢が飛び交っていましたが、孔融は几(脇息:肘置き)に寄りかかって読書をし、少しも慌てた様子もなく談笑していました。
ですがその夜に城は陥落。孔融は(都昌県の)東山に逃亡し、彼の妻子は袁譚に捕えられてしまいます。
その後、孔融と旧知の間柄であった曹操が、彼を招いて将作大匠に任命しました。
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12月
建安元年(196年)12月の三国志群雄勢力図
許県遷都
8月、豫州(予州)・潁川郡・許県にいた曹操は、許県に献帝を迎え入れようと考えました。
洛陽(雒陽)と許県
ちょうど洛陽(雒陽)では、韓暹が功績を誇って横暴になっていたため、これを煩わしく思った董承が秘かに曹操を召し寄せたので、曹操はこれを受け、兵を率いて洛陽(雒陽)に向かいました。
洛陽(雒陽)に入った曹操は、賞罰を行うと、董昭を招いて今後のことを相談します。
9月、董昭の提案を受けた曹操は、献帝を豫州(予州)・潁川郡・許県に迎えました。
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孫策の会稽郡侵攻
8月、孫策は天子(皇帝)の位を望むようになった袁術を諫める書簡を送りましたが、受け入れられないことを知ると袁術との関係を絶ちました。
この月、諸県を安定させた孫策は、次の目標を揚州・会稽郡に定めます。
孫策は、固陵(渡し場の名前)で会稽太守・王朗の抵抗に遭って苦戦しますが、孫静の活躍により勝利を収めることができました。
王朗は海に出て東冶国(東部侯国)に逃亡しますが、孫策はこれを追撃して大いに撃ち破り、ついに王朗は孫策の元を訪れて投降します。
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曹操が袁紹に大将軍の位を譲る
豫州(予州)・潁川郡・許県に献帝を迎え入れた曹操が、袁紹を太尉に任命し、鄴侯に封じようとましたが、袁紹はその序列が大将軍である曹操の下位にあることを恥じ、激怒してこれを辞退してきました。
これを懼れた曹操は、朝廷に大将軍の位を袁紹に譲ることを請い、改めて司空に任命され、車騎将軍の職務を代行することになりました。
[実際に袁紹が大将軍に任命されるのは、建安2年(197年)3月のことになります。]
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曹操が屯田制の開始
この年、棗祗と韓浩の進言を受けた曹操が、屯田制を開始しました。
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徐州を巡る争い
袁術配下の将軍・紀霊らの歩兵・騎兵合わせて3万が、劉備が駐屯する沛県(小沛)に侵攻を開始すると、劉備は呂布に救援を求めました。
1度はこれを仲裁した呂布ですが、劉備が再び1万余人の兵を集めると、これを忌まわしく思った呂布は自ら兵を出して劉備を攻め、敗走した劉備は曹操の元に身を寄せます。
曹操は劉備を受け入れると、彼を豫州牧(予州牧)に任命し、共に沛県(小沛)に行き、散り散りになった兵卒を受け入れ、さらに兵員を増加し、兵糧を補給して、東の呂布への具えとしました。
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張繡が劉表と手を結ぶ
この年、驃騎将軍・張済は司隷・弘農郡・弘農県に駐屯していましたが、士卒の食糧が欠乏したため、荊州・南陽郡に南下して穰城(穣県)を攻撃しますが、流れ矢に当たって討ち死にしてしまいました。
荊州・南陽郡・穣県(穰城)
この時、荊州牧・劉表は、
「困窮してやって来た張済が死んだのは、自分が礼を尽くして迎えなかったためだ」
と言い、張済の軍勢を受け継いだ、張済の族子で建忠将軍の張繡に使者を送ります。
これにより、張繡は劉表と合流し、宛県に駐屯しました。
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建安元年(196年)、中原では曹操が献帝を許県に迎え、袁譚に敗れた孔融、呂布に敗れた劉備も曹操を頼りました。
一方楊州では、袁術との関係を絶った孫策が会稽太守・王朗を降し、荊州では張済の族子の張繡が、劉表と合流して宛県に駐屯しました。
曹操が屯田制を開始したのもこの年です。
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