195年【漢:興平(こうへい)2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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195年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協(りゅうきょう)(献帝(けんてい))
皇太后 ー
皇后 伏皇后(ふくこうごう)(伏寿(ふくじゅ))

朝廷

官職 人物
太尉(たいい) 楊彪(ようひょう)
司徒(しと) 趙温(ちょうおん)
司空(しくう) 張喜(ちょうき)
執金吾(しつきんご) 伏完(ふくかん)
大司馬(だいしば) 李傕(りかく)
驃騎将軍(ひょうきしょうぐん) 張済(ちょうせい)
車騎将軍(しゃきしょうぐん) 李傕(りかく) → 郭汜(かくし)
後将軍(こうしょうぐん) 郭汜(かくし) → 楊定(ようてい)
右将軍(ゆうしょうぐん) 袁紹(えんしょう)
征東将軍(せいとうしょうぐん) 胡才(こさい)
安国将軍(あんこくしょうぐん 張楊(ちょうよう)
安狄将軍(あんてきしょうぐん) 馬騰(ばとう)
安降将軍(あんこうしょうぐん) 韓遂(かんすい)
奮武将軍(ふんぶしょうぐん) 公孫瓚(こうそんさん)
奮威将軍(ふんいしょうぐん) 呂布(りょふ)
興義将軍(こうぎしょうぐん) 楊奉(ようほう)
安集将軍(あんしゅうしょうぐん) 董承(とうしょう)
寧輯将軍(ねいしゅうしょうぐん) 段煨(だんわい)
行殄寇将軍(こうてんこうしょうぐん) 孫策(そんさく)
折衝校尉(せっしょうこうい 孫策(そんさく)

地方官

官職 人物
冀州牧(きしゅうぼく) 袁紹(えんしょう)
兗州牧(えんしゅうぼく) 曹操(そうそう)
荊州牧(けいしゅうぼく) 劉表(りゅうひょう)
益州牧(えきしゅうぼく) 劉璋(りゅうしょう)
幽州刺史(ゆうしゅうしし) 段訓(だんくん)
豫州刺史(よしゅうしし) 郭貢(かくこう)(劉備(りゅうび))
青州刺史(せいしゅうしし) 田楷(でんかい)
揚州刺史(ようしゅうしし) 劉繇(りゅうよう)
交阯刺史(こうししし) 朱符(しゅふ)
遼東太守(りょうとうたいしゅ) 公孫度(こうそんたく)
河内太守(かだいたいしゅ) 張楊(ちょうよう)
河東太守(かとうたいしゅ) 王邑(おうゆう)
陳湣王(ちんびんおう) 劉寵(りゅうちょう)
九江太守(きゅうこうたいしゅ) 陳紀(ちんき)
丹楊太守(たんようたいしゅ) 呉景(ごけい) → 周尚(しゅうしょう) → 袁胤(えんいん)
呉郡太守(ごぐんたいしゅ) 許貢(きょこう)
豫章太守(よしょうたいしゅ) 周術(しゅうじゅつ) → 諸葛玄(しょかつげん) → 朱皓(しゅこう) → 華歆(かきん)
会稽太守(かいけいたいしゅ) 王朗(おうろう)

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195年の主な出来事

月 出来事
1月
  • 天下に大赦(たいしゃ)する。
  • 曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)・済陰郡(せいいんぐん)・定陶県(ていとうけん)を襲撃し、救援に来た呂布(りょふ)を撃ち破る。
  • 袁紹(えんしょう)が右将軍(ゆうしょうぐん)に任命される。
2月
  • 李傕(りかく)が樊稠(はんちゅう)を殺害し、郭汜(かくし)と争いを始める。
  • 献帝(けんてい)が李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和解させようとする。
  • 郭汜(かくし)が献帝(けんてい)を自分の陣営に行幸(ぎょうこう)(外出)させようとするが、李傕(りかく)に漏(も)れる。
3月
  • 李傕(りかく)が献帝(けんてい)を脅(おど)して自分の陣営に行幸(ぎょうこう)(外出)させ、皇宮を焼く。
  • 献帝(けんてい)が公卿(こうけい)を派遣して李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和解させようとする。
  • 郭汜(かくし)が公卿(こうけい)を人質に取る。
  • 朱儁(しゅしゅん)が憤死(ふんし)する。
4月
  • 貴人(きじん)の伏氏(ふくし)が皇后(こうごう)に立てられる。
  • 伏皇后(ふくこうごう)の父・伏完(ふくかん)が執金吾(しつきんご)に任命される。
  • 李傕(りかく)が羌(きょう)・胡(こ)数千人を招(まね)いて味方につける。
  • 郭汜(かくし)が李傕(りかく)を攻め、李傕(りかく)が献帝(けんてい)を北塢(ほくう)に移す。
  • 大日照りがあった。

閏月

5月

  • 献帝(けんてい)が李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和解させようとする。
  • 献帝(けんてい)の使者・皇甫酈(こうほれき)が李傕(りかく)を叱責する。
  • 献帝(けんてい)が皇甫酈(こうほれき)を逃亡させる。
  • 李傕(りかく)が大司馬(だいしば)に任命される。
  • 曹操(そうそう)が呂布(りょふ)の将・薛蘭(せつらん)と李封(りほう)が駐屯する兗州(えんしゅう)・山陽郡(さんようぐん)・鉅野県(きょやけん)を攻撃する。
  • 曹操(そうそう)が呂布(りょふ)の救援軍を破り薛蘭(せつらん)らを斬る。
  • 曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)・済陰郡(せいいんぐん)・乗氏国(じょうしこく)に駐屯する。
  • 陶謙(とうけん)が亡くなったため曹操(そうそう)が再び徐州(じょしゅう)を攻めようとするが、荀彧(じゅんいく)の進言に従って中止する。
  • 呂布(りょふ)と陳宮(ちんきゅう)が(乗氏国(じょうしこく)に)攻撃を仕掛ける。
  • 曹操(そうそう)が呂布(りょふ)らを撃ち破り、呂布(りょふ)の陣営まで追撃する。
  • 呂布(りょふ)が劉備(りゅうび)を頼って徐州(じょしゅう)に逃亡する。
  • 曹操(そうそう)が諸県を平定する。
  • 劉備(りゅうび)が呂布(りょふ)を受け入れる。
6月
  • 李傕(りかく)配下の楊奉(ようほう)が李傕(りかく)の暗殺を謀(はか)り、事が漏(も)れて謀反(むほん)を起こす。
  • 司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯していた張済(ちょうせい)が長安(ちょうあん)に到着し、李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させる。
7月
  • 献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に向かう。
  • 献帝(けんてい)が司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・覇陵県(はりょうけん)に到着する。
  • 李傕(りかく)が司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)・池陽県(ちようけん)に駐屯する。
  • 郭汜(かくし)が献帝(けんてい)の行き先をめぐって諸将と揉(も)める。
  • 郭汜(かくし)が車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任命される。
  • 楊定(ようてい)が後将軍(こうしょうぐん)に任命される。
  • 楊奉(ようほう)が興義将軍(こうぎしょうぐん)に任命される。
  • 董承(とうしょう)が安集将軍(あんしゅうしょうぐん)に任命される。
  • 張済(ちょうせい)が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任命される。
8月
  • 献帝(けんてい)が司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・新豊県(しんほうけん)に到着する。
  • 曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・雍丘県(ようきゅうけん)の張超(ちょうちょう)を包囲する。
不明
  • 元張超(ちょうちょう)の功曹(こうそう)・臧洪(ぞうこう)が張超(ちょうちょう)救援の許可を求めるが、袁紹(えんしょう)は許可せず。
10月
  • 郭汜(かくし)が献帝(けんてい)を自分の陣営に来るように脅迫する。
  • 楊定(ようてい)と楊奉(ようほう)が郭汜(かくし)と戦いこれを破る。
  • 献帝(けんてい)が司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に到着する。
  • 寧輯将軍(ねいしゅうしょうぐん)・段煨(だんわい)が献帝(けんてい)を出迎える。
  • 赤気(せっき)(赤い色の雲気または彗星(すいせい))が紫微宮(しびきゅう)(星の名:天子(てんし)の居場所)を貫(つらぬ)いた。
  • 楊奉(ようほう)らが段煨(だんわい)を攻める。
  • 献帝(けんてい)が楊奉(ようほう)らと段煨(だんわい)を和解させる。
  • 李傕(りかく)と郭汜(かくし)が再び手を組む。
  • 楊定(ようてい)が荊州(けいしゅう)に逃亡する。
  • 張済(ちょうせい)が李傕(りかく)・郭汜(かくし)と合流する。
  • 曹操(そうそう)が正式に兗州牧(えんしゅうぼく)に任命される。
11月
  • 献帝(けんてい)が司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に到着する。
  • 李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが献帝(けんてい)を追撃し、弘農県(こうのうけん)の東澗(とうかん)(渓谷(けいこく))で撃ち破る。
  • 献帝(けんてい)が弘農県(こうのうけん)の曹陽澗(そうようかん)(渓谷(けいこく))で野営する。
  • 楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)の要請により、元白波賊(はくはぞく)の帥(すい)・李楽(りがく)、胡才(こさい)らが救援に現れて李傕(りかく)らを破る。
12月
  • 献帝(けんてい)一行が李傕(りかく)らに大敗し、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に逃走する。
  • 献帝(けんてい)一行が夜のうちに黄河(こうが)を渡り、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)に到着する。
  • 河内太守(かだいたいしゅ)・張楊(ちょうよう)が米を献上する。
  • 献帝(けんてい)が司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に到着する。
  • 河東太守(かとうたいしゅ)の王邑(おうゆう)が綿帛(めんはく)を献上する。
  • 胡才(こさい)が征東将軍(せいとうしょうぐん)に任命される。
  • 張楊(ちょうよう)が安国将軍(あんこくしょうぐんに任命される。
  • 献帝(けんてい)が李傕(りかく)・郭汜(かくし)と和睦(わぼく)する。
  • 張楊(ちょうよう)が献帝(けんてい)を洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に遷(うつ)すことを提案するが、諸将に却下される。
  • 袁紹(けんてい)が献帝(けんてい)に使者を送る。
  • 雍丘県(ようきゅうけん)が陥落し、張超(ちょうちょう)は自害。三族を皆殺しとなる。
  • 臧洪(ぞうこう)が、張超(ちょうちょう)救援を許可しなかった袁紹(えんしょう)と断交する。
  • 袁紹(えんしょう)が東武陽県(とうぶようけん)(臧洪(ぞうこう))を包囲、(翌年以降に)陥落させ、臧洪(ぞうこう)を処刑する。
不明

■ 楊州(ようしゅう)方面

  • 孫策(そんさく)が袁術(えんじゅつ)に江東(こうとう)平定の許可を得る。
  • 袁術(えんじゅつ)が孫策(そんさく)を折衝校尉(せっしょうこういに任命する。
  • 孫策(そんさく)が江東(こうとう)平定のため揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・歴陽県(れきようけん)に駐屯する。
  • 孫策(そんさく)が周瑜(しゅうゆ)と再会する。
  • 孫策(そんさく)が横江津(おうこうしん)と当利口(とうりこう)を攻め、劉繇(りゅうよう)配下を敗走させる。
  • 孫策(そんさく)が揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)・秣陵県(ばつりょうけん)の薛礼(せつれい)を敗走させる。
  • 孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)に入る。
  • 袁術(えんじゅつ)が孫策(そんさく)を行殄寇将軍(こうてんこうしょうぐん)に任命する。
  • 袁術(えんじゅつ)が従弟(いとこ)の袁胤(えんいん)を丹陽太守(たんようたいしゅに任命する。
  • 周瑜(しゅうゆ)が揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・寿春県(じゅしゅんけん)に呼び戻される。
  • 周瑜(しゅうゆ)が揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・居巣県(きょそうけん)(居巣国(きょそうこく))の県長(けんちょう(侯国相(こうこくしょう)に任命される。
  • 劉繇(りゅうよう)が揚州(ようしゅう)・豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に逃亡する。
  • 劉繇(りゅうよう)の将・太史慈(たいしじ)が丹楊郡(たんようぐん)で独立する。
  • 劉繇(りゅうよう)が笮融(さくゆう)に劉表(りゅうひょう)(または袁術(えんじゅつ))に任命された豫章太守(よしょうたいしゅ)・諸葛玄(しょかつげん)を攻撃させる。
  • 笮融(さくゆう)が謀反を起こし、朝廷が任命した豫章太守(よしょうたいしゅ)・朱皓(しゅこう)を謀殺する。
  • 劉繇(りゅうよう)が笮融(さくゆう)を討伐する。
  • 劉繇(りゅうよう)が病死する。
  • 華歆(かきん)が豫章太守(よしょうたいしゅ)に任命される。
  • 孫策(そんさく)配下の朱治(しゅち)が呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を敗走させる。
  • 許貢(きょこう)が山越(さんえつ)の不服従民・厳白虎(げんはくこ)(厳虎(げんこ))を頼る。

■ 幽州(ゆうしゅう)方面

  • 公孫瓚(こうそんさん)が易京(えききょう)に拠点を移す。
  • 元劉虞(りゅうぐ)の従事(じゅうじ)・鮮于輔(せんうほ)らが幽州(ゆうしゅう)・漁陽郡(ぎょようぐん)・潞県(ろけん)の北で漁陽太守(ぎょようたいしゅ)・鄒丹(すうたん)を破る。
  • 鮮于輔(せんうほ)らが袁紹(えんしょう)の元にいる劉虞(りゅうぐ)の子・劉和(りゅうか)を迎える。
  • 鮮于輔(せんうほ)、劉和(りゅうか)、袁紹(えんしょう)の将・麴義(きくぎ)らが鮑丘(ほうきゅう)で公孫瓚(こうそんさん)を破る。
  • 幽州(ゆうしゅう)の4郡が公孫瓚(こうそんさん)に反する。
  • 公孫瓚(こうそんさん)が易京(えききょう)の防備を固めて立て籠(こ)もる。

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195年の三国志群雄勢力図

1月

興平2年(195年)1月の三国志群雄勢力図

興平2年(195年)1月の凡例

興平(こうへい)2年(195年)1月の三国志群雄勢力図

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)

興平(こうへい)2年(195年)3月、朝廷の実権を握(にぎ)った李傕(りかく)・郭汜(かくし)らの権力争いが激化し、互いに献帝(けんてい)と公卿(こうけい)を人質に取って軍事行動に出るようになります。

そして、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯していた張済(ちょうせい)が、長安(ちょうあん)に赴(おもむ)いて李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させると、献帝(けんてい)は長安(ちょうあん)を出て東の洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に向かいました。


ですが、再び手を組んだ李傕(りかく)と郭汜(かくし)は、献帝(けんてい)を長安(ちょうあん)に連れ戻そうと追撃を開始。3度に渡って献帝(けんてい)一行を襲撃します。

献帝(けんてい)一行は多くの犠牲を出しながら黄河(こうが)を渡り、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に入ってそこを仮の都に定めました。


献帝の東遷経路

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)経路

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曹操(そうそう)の兗州(えんしゅう)平定

前年の興平(こうへい)元年(194年)、徐州(じょしゅう)に侵攻した曹操(そうそう)の隙(すき)を突き呂布(りょふ)・陳宮(ちんきゅう)・張邈(ちょうばく)らが兗州(えんしゅう)で反乱。兗州(えんしゅう)奪還のため軍を返した曹操(そうそう)ですが、呂布(りょふ)の武勇の前に苦戦を強(し)いられ、蝗害(こうがい)(蝗(いなご)の大量発生)により兵糧不足となった両軍は、お互いに兵を退きました。

この年の春、兗州(えんしゅう)奪還を再開した曹操(そうそう)は徐々に奪われた城を攻略します。

そして呂布(りょふ)の攻撃を撃退した曹操(そうそう)は呂布(りょふ)の陣まで追撃し、ついに呂布(りょふ)は劉備(りゅうび)を頼って徐州(じょしゅう)に逃亡しました。

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袁紹(えんしょう)と臧洪(ぞうこう)

8月、曹操(そうそう)が張邈(ちょうばく)の弟・張超(ちょうちょう)が立て籠(こ)もる兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)・雍丘県(ようきゅうけん)を包囲します。

この時、張超(ちょうちょう)が(徐州(じょしゅう)の)広陵太守(こうりょうたいしゅ)だった時に功曹(こうそう)に取り立てられ、全幅(ぜんぷく)の信頼を受けていた臧洪(ぞうこう)は、袁紹(えんしょう)によって東郡太守(とうぐんたいしゅ)に任命されて東武陽県(とうぶようけん)に赴任(ふにん)していました。


雍丘県(ようきゅうけん)が包囲されると、臧洪(ぞうこう)は袁紹(えんしょう)に「張超(ちょうちょう)を救援すること」の許可を求めますが、袁紹(えんしょう)はこれを認めませんでした。

そのため、その後雍丘県(ようきゅうけん)が陥落すると臧洪(ぞうこう)は袁紹(えんしょう)と断交。袁紹(えんしょう)に包囲され、捕らえられた臧洪(ぞうこう)は袁紹(えんしょう)に処刑されました。

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12月

興平2年(195年)12月の三国志群雄勢力図

興平2年(195年)12月の凡例

興平(こうへい)2年(195年)12月の三国志群雄勢力図

孫策(そんさく)の江東(こうとう)進出

興平(こうへい)元年(194年)、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・寿春県(じゅしゅんけん)を本拠地とする袁術(えんじゅつ)が、孫策(そんさく)に命じて廬江太守(ろこうたいしゅ)の陸康(りくこう)を攻撃させると、朝廷に任命された揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)は、これを「漢(かん)王朝に対して反逆の意思がある」とみて、袁術(えんじゅつ)によって任命された呉景(ごけい)と孫賁(そんふん)を揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))から強制的に追い出しました。


この年、袁術(えんじゅつ)に「舅(おじ)の呉景(ごけい)らを助けて江東(こうとう)を平定する」許可を得た孫策(そんさく)は、揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))に侵攻を開始。

揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)が駐屯する揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)に迫(せま)った孫策(そんさく)は、劉繇(りゅうよう)を呉郡(ごぐん)・丹徒県(たんとけん)に敗走させました。


劉繇の逃亡経路1

劉繇(りゅうよう)の逃亡経路1


一方、丹徒県(たんとけん)に逃走した劉繇(りゅうよう)は、新たな拠点とするべく長江(ちょうこう)を遡(さかのぼ)って揚州(ようしゅう)・豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に向かいますが、その途中で配下の太史慈(たいしじ)が丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))で独立してしまいます。


この時、揚州(ようしゅう)・豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))は、劉表(りゅうひょう)(または袁術(えんじゅつ))に任命された諸葛玄(しょかつげん)(諸葛亮(しょかつりょう)の従父(おじ))が治めていましたが、朝廷が任命した豫章太守(よしょうたいしゅ)・朱皓(しゅこう)と争っていました。

豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))・彭澤県(ほうたくけん)に軍営を置いた劉繇(りゅうよう)は、朱皓(しゅこう)を助けて豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))を新たな拠点とするべく、笮融(さくゆう)に朱皓(しゅこう)への加勢を命じます。

ですが、諸葛玄(しょかつげん)を敗走させた笮融(さくゆう)が朱皓(しゅこう)を謀殺し、自(みずか)ら豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))を支配しようとしたので、劉繇(りゅうよう)はこれを討ちましたが、まもなく病死してしまいました。朝廷は、新たな豫章太守(よしょうたいしゅ)に華歆(かきん)を任命します。


また、孫策(そんさく)配下の朱治(しゅち)に敗れた呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)は、山越(さんえつ)の不服従民・厳白虎(げんはくこ)(厳虎(げんこ))を頼りました。

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孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る

鮑丘(ほうきゅう)の戦い

初平(しょへい)4年(193年)冬、対立していた幽州牧(ゆうしゅうぼく)・劉虞(りゅうぐ)を処刑した公孫瓚(こうそんさん)は、事実上幽州(ゆうしゅう)を領有し、その勢いは益々盛んになっていました。


ですがこの年、元劉虞(りゅうぐ)の従事(じゅうじ)・鮮于輔(せんうほ)らが閻柔(えんじゅう)を烏桓司馬(うがんしば)(烏丸司馬(うがんしば))に推(お)し立てて、幽州(ゆうしゅう)の軍勢を率(ひき)いて公孫瓚(こうそんさん)への復讐に出ます。

そして、幽州(ゆうしゅう)・漁陽郡(ぎょようぐん)・潞県(ろけん)の北で漁陽太守(ぎょようたいしゅ)・鄒丹(すうたん)を撃ち破った鮮于輔(せんうほ)らは、冀州(きしゅう)にいる劉虞(りゅうぐ)の子・劉和(りゅうか)を迎え、袁紹(えんしょう)の将・麴義(きくぎ)と共に公孫瓚(こうそんさん)を攻めて、鮑丘(ほうきゅう)で撃ち破りました。


その後、

  • 代郡(だいぐん)
  • 広陽郡(こうようぐん)
  • 上谷郡(じょうこくぐん)
  • 右北平郡(ゆうほくへいぐん)

の4郡が公孫瓚(こうそんさん)に離反。公孫瓚(こうそんさん)は易京(えききょう)の防備を強化して立て籠(こ)もり、敢(あ)えて動こうとはしませんでした。


公孫瓚に反した諸郡

公孫瓚(こうそんさん)に反した諸郡

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興平(こうへい)2年(195年)、中原(ちゅうげん)では献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を仮の都と定め、曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)を平定し、曹操(そうそう)に敗れた呂布(りょふ)は劉備(りゅうび)を頼って徐州(じょしゅう)に落ちのびます。

一方楊州(ようしゅう)では、孫堅(そんけん)の子・孫策(そんさく)がついに江東(こうとう)の平定に動き出し、幽州(ゆうしゅう)では公孫瓚(こうそんさん)がその権勢を失いました。

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