張済の死と賈詡が張繡に仕えた経緯、張繡と劉表が手をむすんだ経緯についてまとめています。
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目次
張済の死
張済の動向
初平3年(192年)4月、董卓が誅殺されると、張済は李傕・郭汜・樊稠・李蒙・王方らと合流して長安を包囲・陥落させ、その後は司隷・弘農郡・陝県に駐屯していました。
興平2年(195年)6月、李傕・郭汜の争いが激化すると、張済は長安に赴いて両者を和睦させ、天子(献帝)をしばらく弘農郡・弘農県に行幸(外出)させることを提案します。
その後、献帝に同行して驃騎将軍に任命された張済ですが、楊奉・董承らと折り合いが悪かったため、再び李傕・郭汜と合流しました。
そして建安元年(196年)9月、曹操が献帝を迎えて豫州(予州)・潁川郡・許県に都を置き、司隷・河南尹を手中に収めると、関中はみな曹操に帰服しました。
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張済の死
張済は司隷・弘農郡・弘農県に駐屯していましたが、士卒の食糧が欠乏したため、荊州・南陽郡に南下して穰城(穣県)を攻撃しますが、流れ矢に当たって討ち死にしてしまいます。
張済が亡くなると、その軍勢は張済の族子で建忠将軍・宣威侯の張繡が配下に収め、宛県に駐屯しました。
荊州・南陽郡・穣県(穰城)
豆知識
『魏書』董卓伝には、
「張済は飢えに苦しみ、南陽郡に行って略奪を働いたが、穣県の住民に殺され、甥の張繡がその軍勢を統率した」
とあります。
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賈詡と張繡
賈詡の去就
段煨の元に身を寄せる
天子(献帝)が長安を出た後、宣義将軍・賈詡は印綬を天子に返上し、同郡(涼州・武威郡)出身の寧輯将軍・段煨が駐屯する司隷・弘農郡・華陰県に身を寄せました。
もともと名を知られた存在であった賈詡は、そこで段煨軍の者たちの期待の的となります。
すると段煨は、内心彼に権力を奪われることを恐れながら、それでも表面的には賈詡を立てて完璧な礼をもって待遇したので、賈詡はますます不安になりました。
張繡の元に身を寄せる
そこで賈詡は、秘かに荊州・南陽郡の張繡と手を組むことにし、張繡は人を遣って賈詡を迎えに行かせました。
そして賈詡が出発しようとしたその時、ある人が賈詡に向かって言いました。
「段煨はあなたを手厚く待遇しておりますのに、どうして立ち去られるのです?」
すると賈詡は、
「段煨は猜疑心の強い性格で、私に対して警戒心を抱いています。礼は手厚いとは言っても、この先長く頼りにすることはできず、将来生命を狙われることになるでしょう。
私が立ち去れば喜ぶに違いありませんし、また私が外部において強力な支援者と結びつくことを期待し、必ず私の妻子を大切にしてくれるでしょう。
張繡の方も参謀がいないので、私を手に入れたいと願っています。ですから、家族も私自身も共に安全を保てるに違いありません」
と答えました。
かくして賈詡が赴いたところ、張繡は子孫の礼をとって彼を遇し、段煨は予想通り彼の家族の面倒をよく見ました。
賈詡は劉表と同盟することを張繡に進言します。
張繡が劉表に合流する
張済が討ち死にしたことが伝わると、荊州の官吏たちは皆お祝いの言葉を述べましたが、劉表は、
「張済は困窮してこちらにやって来たのに、主人(劉表)が礼を尽くして迎えなかったために、戦争をするはめになったのだ。これ(張済の死)は私の本意ではない。私は弔辞は受けるが、祝辞は断る」
と言い、使者を遣って張済の軍兵(張繡)を迎え入れます。張済の軍兵(張繡)はこの言葉を聞いて喜び、みな劉表に服従しました。
豆知識
この張繡と劉表の合流について『献帝春秋』には、次のようにあります。
「張済は軍勢を率いて荊州に入り、賈詡はこれに追従して劉表に帰順しました。
ですが、襄陽は城を守って張済を受け付けなかったので、張済はこれを攻撃し、その最中に流れ矢に当たって戦死します。張済の従子の張繡は軍勢を収めて退却しました。
劉表は自責の念に駆られ、
『私には客人をもてなす主としての礼がない』
と言い、使者を派遣して張繡を招聘させると、張繡は襄陽に駐屯することになり、劉表の北方への藩屏(垣根・守護するもの)となりました」
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荊州牧・劉表
賈詡の劉表評
賈詡は南方に赴き、劉表と会見したことがありました。この時劉表は、賓客の礼をもって彼をもてなしましたが、会見の後賈詡は、
「劉表は平和な時代なら三公になれる人物だが、事態の変化を見抜くことができず、猜疑心が強くて決断力がないので何事も成し遂げられないだろう」
と言いました。
雅楽(楽団)を編成させる
劉表は民を愛し、有能な者を養い、威厳と親しみを兼ね合わせていたので、領内に争いごとはありませんでした。
関西(函谷関より西の地域)・兗州・豫州(予州)の学士で荊州に帰属した者はおよそ千人にのぼり、劉表は彼らを慰安して施しを与え、学校を設立して広く経術(儒学)の士を求めました。
劉表は司隷・河南尹出身の元雅楽郎・杜夔に、孟曜と協力して漢の天子を自分の元に迎えるための準備として「天子のための楽団」を編成するように命じました。
楽団が編成され、劉表が役所の前庭でそれを演奏させてみようとしたところ、杜夔は諫めて言いました。
「今、将軍(劉表)は『天子のために楽団を準備する』と言われたのに、ご自分の前庭でその演奏を行ってしまって良いものでしょうか」
これを聞いた劉表は、この言葉を受け入れて演奏させるのを取りやめました。
禰衡に対する反応
曹操と禰衡
青州・平原郡(平原国)出身の禰衡は、若い頃から弁舌の才がありましたが、気が強く傲慢な性格で、好んで時勢に逆らい人を侮るところがありました。
孔融は禰衡の才能を愛し、しばしば彼を称賛していたので、曹操は禰衡に面会しようとしましたが、禰衡は曹操を罵って辱めました。
すると曹操は、
「禰衡のような小者など、儂は雀や鼠のように容易く殺すことができる。
だが考えてみると、かねてから此奴(禰衡)には虚名があり、もし殺害すれば、遠近の者が儂に禰衡を受け入れる度量がないなどと言うだろう。
今は此奴(禰衡)を劉表の元に送りつけ、どうなるかを見届けてやろう」
と言って、禰衡を劉表の元に送らせました。
劉表と禰衡
劉表や荊州の士大夫たちは禰衡の才名に敬服し、賓客としてとても丁重にもてなしました。
ですが後に禰衡はまた劉表を侮ったので、劉表は恥じて受け入れることが出来ず、江夏太守・黄祖が短気な性格であることから、禰衡を彼の元に送りつけます。
黄祖も禰衡を丁重にもてなしましたが、後にまた禰衡が衆前で彼を辱めたため、結局禰衡は黄祖によって殺害されてしまいました。
『資治通鑑』胡三省注
曹操が禰衡を劉表の元に送った裏には、「劉表が寛大で有能な人物を愛する」と聞いていたので、彼が禰衡を許容することができるのかを試す目的がありました。
一方、劉表が禰衡を黄祖の元に送ったのは、黄祖が短気な性格から彼を受け入れることができないことを知った上で、禰衡を死地に置くことを望んだものでした。
両人とも策を弄し術を用いましたが、劉表の方がその動機において浅かったと言えます。
※禰衡が黄祖によって殺害されるのは、建安元年(196年)より後のことになります。
建安元年(196年)、困窮した張済が荊州・南陽郡に南下して穰城(穣県)を攻撃しましたが、流れ矢に当たって討ち死にしてしまいました。
これに劉表は、張済が戦死したのは「自分が礼を尽くして彼を迎えなかったため」だと言い、張済の軍を引き継いだ張繡に使者を送ります。
すると張繡は、参謀に迎えていた賈詡の勧めに従って劉表と同盟を結び、荊州・南陽郡・宛県に駐屯しました。