曹操そうそう屯田制とんでんせいを実施した経緯と、曹操そうそうが実施した屯田制とんでんせい兵戸制へいこせいについてまとめています。

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曹操が屯田制を実施する

屯田制実施の背景

中平ちゅうへい元年(184年)以降、動乱により天下の荒廃こうはいが進み、民衆(農業従事者)が農地をてて離散してしまったため、慢性的まんせいてきに食糧が不足していました。


その後、諸軍が一斉に並び起ちましたが、ほとんどの勢力は1年間の食糧計画さえも持っておらず、えれば略奪を働き、腹を満たしたら余り物をてるという有り様でしたので、数え切れないぼどの勢力が瓦解がかいして流浪るろうし、敵もいないのにみずから敗れ、多くの土地では人々は互いに食い合うような有り様で、郷村は荒れてひっそりとしていました。


例えば、袁紹えんしょう河北かほくにいてその軍人はくわの実を食物として頼り、袁術えんじゅつ江淮こうわいの地域で蒲蠃ほら(ハマグリの一種)をって食物としていました。

このような方法は、豊作(大漁)の年には良いけれど、いったん凶作(不漁)となれば、たちまち食糧に困窮こんきゅうしてしまいます。

当時、年間を通して安定して食糧を供給できる制度を確立することは、すべての勢力に共通する重要な課題でした。

屯田制の実施

建安けんあん元年(196年)、自身の本拠地の豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん献帝けんていを迎えた曹操そうそうに、棗祗そうし韓浩かんこうが「屯田制とんでんせい典農部屯田てんのうぶとんでん)の実施」を進言します。


棗祗そうし韓浩かんこうの進言を受けた曹操そうそうは、


「そもそも国を安定させる方策は、強力な軍隊と十分な食糧にかかっている。

しん人は農業重視政策によって天下を併合へいごうし、孝武帝こうぶてい前漢ぜんかんの第7代皇帝)は屯田とんでんによって西域せいいきを平定した。これらは前の時代の優れた手本である」


と言い、

  • 羽林監うりんかん棗祗そうし屯田都尉とんでんとい典農都尉てんのうとい
  • 騎都尉きとい任峻じんしゅん典農中郎将てんのうちゅうろうしょう

に任命し、民を募集して許県きょけんの近辺で屯田とんでんさせ、百万こくの穀物を備蓄することができました。


その後曹操そうそうは、他の州郡にも規定に基づいて田官でんかんを設置し、田官でんかんが置かれた場所に穀物を備蓄するようにしたので、これにより四方を征伐する際に食糧を輸送する苦労がなくなり、群賊を併合滅亡し、天下を平定するために大きく貢献しました。

このため「軍国が豊かになったのは、棗祗そうしによって始まり任峻じんしゅんによって完成された」と言われています。

豆知識

これより以前、曹操そうそう兗州えんしゅうに兵を進めた時に治中従事ちちゅうじゅうじに任命された毛玠もうかいも、


「現在、天下は分裂崩壊し、国のあるじ献帝けんてい)は都を離れて転々とされ、民草は仕事をやめ、飢饉ききんにあって逃亡流難しております。

かみ曹操そうそう)には1年を越えるたくわえもなく、民衆には安定した気持ちがなく、長く持ちこたえることは困難です。

現在、袁紹えんしょう劉表りゅうひょう士大夫したいふや庶民の数が多く、強力であるとは申しながら、いずれも将来を見通す思慮しりょを持たず、基礎を固めることもしておりません。

そもそも戦争は道義のある方が勝つもので、現状を維持する場合には財力をもちいるのです。

よろしく天子てんし献帝けんてい)を奉戴ほうたいして不実の臣下に号令し、農耕を大事にし、軍需物資をたくわえるべきでありまして、このようにいたしますれば、全国制覇の事業は完成できましょう


と、天子てんし献帝けんてい)の奉戴ほうたいと重農政策の実施を進言していました。


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屯田制

屯田制とんでんせいとは、たみに土地(国有地)を与えて耕作させる制度のことで、耕作者が兵士の場合を軍屯ぐんとんと言い、農民の場合を民屯みんとんと言います。

軍屯

屯田制とんでんせいは、前漢ぜんかんの第7代皇帝・武帝ぶてい(在位:紀元前141年~紀元前87年)が西北の辺境地帯(国境地帯)に設置した軍屯ぐんとんが最初です。

武帝ぶていは異民族の侵入に備えて西北の辺境地帯(国境地帯)に軍屯ぐんとんを設置し、平時は兵士に耕作させて自給自足しながら軍糧を確保し、有事には彼らを軍に編成して異民族の侵入を防ぎました。

民屯(典農部屯田)

民屯みんとん典農部屯田てんのうぶとんでん)の始まり

曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん献帝けんていを迎えた建安けんあん元年(196年)、打ち続く戦乱により地主や小作民が離散していたため、豫州よしゅう予州よしゅう)には多くの耕作放棄地が存在していました。

そこに目をつけた曹操そうそうは、許県きょけん近辺の所有者のいなくなった土地や戦いで奪った敵の所有地、これまで耕作に不適切とされていた土地などを接収し、離散した民やもともと土地を持っていなかった貧困農民、敵からの降伏民など、戦乱が生み出したおびただしい流民るみんたちに土地を与えて耕作させることにします。

また、曹操そうそう流民るみんたちに耕作地を与えるだけでなく、必要とする者には耕牛を貸し与え、さらに財産を一切持たない極貧農民には、農具や種子まで与えました。

屯田客とんでんかく屯田とんでんに従事する民)は、募集の他、強制移住させられることもあります。

民屯みんとん典農部屯田てんのうぶとんでん)の税率

民屯みんとん典農部屯田てんのうぶとんでん)における主要作物は当時の主食であったあわであり、

その税率は、

  • みずから耕牛を所有している者は収穫物の50%(五公五民)
  • 政府(曹操そうそう)から耕牛を貸し与えられた者は収穫物の60%(六公四民)

とされ、各地の倉庫に備蓄されました。


かん王朝の田租でんそが収穫物の10%であったことを考えると非常に高い税率ですが、当時の地主たちが小作人から取り立てていた小作料の多くも収穫物の5割でした。

屯田制とんでんせい典農部屯田てんのうぶとんでん)の実施によって、曹操そうそうは破格の税率で食糧を得るすべを手に入れたのです。


一方、屯田客とんでんかく屯田とんでんに従事する民)は一般の農民とは異なり、多くの徭役ようえき(労役)を免除される特権を与えられていました。

民屯みんとん典農部屯田てんのうぶとんでん)のメリット

  • 流民るみんに耕作放棄地を与えることで、失われた生産活動を再開させる
  • 耕作放棄地を国有化することで、高い税率で収穫物を徴収できる
  • 上記により、食糧を備蓄可能な生産力を得る
  • 各地の屯田部とんでんぶに食糧を備蓄することで、遠征時の補給が容易になる

屯田部に置かれた官職

屯田とんでんの実施地域で農業生産、民事、土地の賃貸管理などを担当する官職には、次のような武官が置かれました。

官名 種別 官秩かんちつ 職掌
度支中郎将たくしちゅうろうしょう 軍屯 二千石 職権は太守たいしゅに相当する
典農中郎将てんのうちゅうろうしょう 民屯
度支校尉たくしこうい 軍屯 比二千石 職権は太守たいしゅに相当するが、管轄する土地が上記より狭い
典農校尉てんのうこうい 民屯
度支都尉たくしとい 軍屯 六百石
または
四百石
職権は県令けんれい県長けんちょうに相当する
典農都尉てんのうとい 民屯

またそれぞれに、

  • 綱紀こうき
  • 功曹こうそう
  • 司馬しば
  • 掌犢人しょうとくにん
  • 守叢草吏しゅそうそうり

などの属官が置かれています。


これらの官職は(名目上は)大司農だいしのうに属しましたが、屯田客とんでんかく屯田とんでんに従事する民)はかん王朝の戸籍から除外された存在であり、かん王朝の地方組織とは別系統のもので、曹操そうそう軍団直属の民(曹氏そうしの私的な小作人)といった位置づけでした。

豆知識

魏書ぎしょ呂布伝りょふでん 陳登伝ちんとうでんが注に引く先賢行状せんけんこうじょうには、


「当時、世の中は荒れすさび、民衆は飢餓きがに苦しんでいたため、徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんが上表して陳登ちんとう典農校尉てんのうこういに任命した。

そこで陳登ちんとうは、どんな作物がその土地の性質に合うかを調べて回り、堀をほって灌漑かんがいの利を十分に活用させたので、稲が豊かに実りたくわえられた」


とあります。


陶謙とうけんが亡くなったのは興平こうへい元年(194年)ですから、曹操そうそう屯田制とんでんせいを始めるよりも前に、陶謙とうけん陳登ちんとう典農校尉てんのうこういに任命していたことになります。

当時、徐州じょしゅうには戦乱をけて多くの流浪るろうする民が身を寄せていましたので、陳登ちんとうが彼らに耕作地を与えて屯田とんでんを実施していた可能性もありますが、先賢行状せんけんこうじょうを読む限り、その対象は管轄内のすべての民であり、陳登ちんとうは単に収穫高アップのために農業改革をしたに過ぎないように思えます。


典農校尉てんのうこういなどの典農官てんのうかんも、もともとは単にその土地の農業を推進する役割であったものが、曹操そうそう屯田制とんでんせい典農部屯田てんのうぶとんでん)を実施して以降、民屯みんとんの担当官に変化したのではないでしょうか。

魏王朝の主な屯田部

軍屯

軍事上重要な地点、または軍糧の補給に適した根拠地。

許昌きょしょう襄城じょうじょう芍陂しゃくひかん漢中かんちゅう長安ちょうあん渭浜いひん上邽じょうけい淮水わいすい潁水えいすいなど。

民屯

比較的灌漑かんがいの便があり、土地が肥沃ひよくな地点。

潁川えいせん魏郡ぎぐんぎょう汲郡きゅうぐん河内かだい河東かとうはい洛陽らくようなど。


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兵戸制

「そもそも国を安定させる方策は、強力な軍隊と十分な食糧にかかっている」

前述のこの言葉通り、曹操そうそう十分な食糧を確保するために屯田制とんでんせいを実施しました。

そしてもう1つ、強力な軍隊を維持するために実施されたのが、兵戸制へいこせいです。

兵戸制とは

租税そぜいを減免する代わりに、妻帯して戸(家族)を構えさせ、「永代の兵役義務」を負わせる、兵力の安定供給を目的とした制度のことです。

一般の民とは戸籍がけられ、男子は兵士になることが、女子は兵戸へいこの人間と結婚することが義務づけられました。

つまり兵戸へいこに組み入れられた者は、男女を問わず代々兵役に従事することになります。

曹操が実施した兵戸制

兵役の世襲せしゅう後漢ごかん初期から存在していましたが、虎牙営こがえい雍営ようえい)や黎陽営れいようえいのような禁軍きんぐん(皇帝直属の常備軍)に限られていました。


初平しょへい3年(192年)4月、曹操そうそう兗州えんしゅうに侵攻した青州せいしゅう黄巾こうきんの降兵・30余万人の中から選抜した者たちを「青州兵せいしゅうへい」として編成し、彼らを兵戸へいこに属させました。兵戸制へいこせいの始まりです。

これまで禁軍きんぐんに限られていた兵役の世襲せしゅうを自軍に取り入れることによって、曹操そうそうは永続的な兵力の安定供給を可能にしたのです。

曹操そうそう青州兵せいしゅうへいの他にも、後に降伏する張燕ちょうえんひきいた黒山賊こくざんぞく兵戸へいこに組み入れています。

関連記事

建安けんあん元年(196年)、自身の本拠地の豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん献帝けんていを迎えた曹操そうそうは、屯田制とんでんせい典農部屯田てんのうぶとんでん)を実施しました。

これにより、

  • 兵戸制へいこせいによる兵力の安定供給
  • 屯田制とんでんせい典農部屯田てんのうぶとんでん)による食糧の備蓄

 の両方が可能になり、やがて曹操そうそうが群雄を圧倒して華北かほくを制覇するための、大きな原動力となりました。

参考文献