袁術が天子(皇帝)の位を望むようになった経緯と、孫策が袁術と関係を絶つまでの経緯についてまとめています。
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袁術が天子(皇帝)の位を望む
預言書の言葉
当時、「漢に代わるのは当塗高である」という讖言(予言)が広く知られていました。
この「当塗高」の意味するところは、
まず、「塗」は「途」に通じるので「道」を意味し、「当塗高」とは「道に当たって高くなる」と解釈することができ、これは「権力を握ること」を意味します。
袁術は自分の字である公路も「道」を意味することから、この「当塗高」を「漢に代わるのは自分であること」を指しているのだと考えるようになりました。
また袁氏は、春秋時代の陳の大夫・轅濤塗の子孫に当たり、陳国は土徳の帝王・舜の子孫が封じられた国でした。
袁術は「土徳の舜の子孫である自分が、火徳の漢に代わることは五行思想に則っている」と考え、ついに漢王朝に対して反逆の野望を持つようになりました。
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豆知識
「当塗高」の解釈について
建安25年(220年)、魏王・曹丕が漢の献帝から禅譲を受ける際、その正当性を示すためにも、この「当塗高」の讖言(予言)が持ち出されました。
宮門の両側に建てられた楼のことを「象魏」と言い、「当塗高(道に当たる高いもの)」とは、この「象魏」=「魏王・曹丕」を指しているという訳です。
袁術が天子(皇帝)の位を望む
伝国璽を奪う
漢王朝に対して反逆の野望を持つようになった袁術は、孫堅が伝国璽を手に入れたことを聞くと、孫堅の妻を人質にして伝国璽を奪い取りました。
天子(皇帝)に即位することを相談する
興平2年(195年)12月に、献帝が司隷・弘農郡・弘農県の曹陽澗(渓谷)で李傕らに敗れたことを聞いた袁術は、配下を集めて「自ら天子(皇帝)に即位すること」を相談します。
この時、敢えて答えようとする者はいませんでしたが、しばらくして主簿の閻象が進み出て口を開きました。
「昔、周は后稷(農業神であり周王朝の始祖神)から文王に至るまで、徳を積んで功を重ねてきましたが、天下の2/3を有してもまだ殷に仕えました。
明公(袁術)は代々繁栄してきましたが、周の繁栄には及びません。また、漢室は衰退しましたが、殷の紂王の暴政ほど酷くはありません」
これに袁術は、黙ったまま何も答えませんでした。
また、袁術が処士(仕官していない人)の張範を招聘した時のこと。
張範は袁術の招聘に応じず、弟の張承を送ってお詫びの言葉を伝えさせましたが、この時袁術は、張承に次のように尋ねました。
「儂は広い土地と多くの民をもって、斉の桓公のような福を求め、高祖(劉邦)のようになりたいと思っているのだが、どう思うか?」
すると張承は、
「重要なのは徳であって強いことではありません。
徳によって天下の求めることに応じれば、匹夫の助けでも覇王の功を興すことができるでしょう。
ですが、身分をわきまえず時勢に逆らって動いたならば、必ずや人々に見捨てられ、功を興すことはできないでしょう」
と答え、これを聞いた袁術は不愉快に思いました。
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孫策が袁術との関係を絶つ
孫策の諫言
この時江東の平定にあたっていた孫策は、袁術が天子(皇帝)を僭称しようとしていることを聞くと、袁術に次のような書簡を送りました。
「昔、殷の湯王が夏の桀王を伐たんとした時、『夏王朝に罪が多い』と宣言し、周の武王が殷の紂王を伐った時には『殷には重い罪と罰がある』と言いました。
この2人の王者は聖徳を備えて主君として世を治めるべき人物ではありましたが、もしそうした時代に巡り会わなかったならば、事を起こす理由もなかったのです。
今、幼いご主君(献帝)は、天下に対し悪事を働かれたわけではなく、ただ年若くあられるために、権臣たちの圧力に抗しきれないだけなのです。過ちもないのにその権力を奪われたならば、湯王や武王のやられたこととは合致せぬのではないかと心配します。
董卓は道理に背いてめちゃくちゃをやりましたが、主君(少帝)を廃して自らが取って代わろうとまではいたしませんでした。それでも天下の人々は彼の凶暴残虐を伝え聞いて、切歯扼腕(歯を食いしばり自分の腕を握りしめて酷く悔しがったり怒ったりすること)し心を合わせて彼を憎み、戦いに慣れていない中原の兵士でもって董卓の率いる辺境の勇猛精悍な賊軍に当たって勝利を得、かくして間もなく董卓は殺されてその魂は中有(人が死んでから次の生を受けるまでの間)に迷うことになったのです。
幼いご主君(献帝)は優れた器量をお持ちになり、もし権力者の圧迫を除き、頑迷な側近を追い出されれば、必ずや漢王朝の中興(再び繁栄させること)を成し遂げられましょう。
今の世の乱れを見て、強力な武力だけでこれを支配しようとしても、それは禍の中に足を踏み入れるだけのことです。
袁氏は5代に渡って宰相を務められ、その権威の重さ、勢力の盛んさでは、天下に並ぶものもないお家柄です。
幼いご主君(献帝)は優れた器量をお持ちになり、もし権力者の圧迫を除き、頑迷な側近を追い出されれば、必ずや漢王朝の中興(再び繁栄させること)を成し遂げられましょう。
ご主君(献帝)を補佐して周の成王と同様の盛んな御世を招来し、自らは周公旦や召公奭のごとき誉れを受けられる。これがあなた(袁術)にやっていただきたいと心より望んでおるところなのです。
世の人々は多く図緯(政治的予言)に惑わされ関係のないことまでこじつけて、文字を組み合わせて自分が仕えている者に天子(皇帝)となる徴があるなどと言って悦ばせております。
かりそめの気持ちから上の人物におもねり人を惑わせて、結局は後悔をせねばならなくなった者は、古今を通じて絶えることがありません。
忠言は耳に逆らうと申しますが、お耳にお留めいただければ幸いでございます」
「孫策の書簡」全文
この「孫策の書簡」について、『呉書』孫策伝の注・『呉録』では「張紘に書かせた」とあり、『典略』では「張昭が書いた」とあります。
また、正史『三国志』に付注した裴松之は、
「張昭は名声は高かったが、張紘ほどの文章は書けなかった。この手紙は張紘が書いたものであるに違いない」
と言っています。
孫策が袁術との関係を絶つ
孫策は、袁術がこの諫言を受け入れないことを知ると、彼との関係を絶ちました。
袁術は自分が淮南の勢力を従えているので、孫策も必ず自分に合流するものと思っていましたが、「孫策の書簡」を読んで失望し、病を患ってしまいました。
建安元年(196年)8月、袁術は配下を集めて「自ら天子(皇帝)に即位すること」を相談しましたが、主簿の閻象や張範の弟・張承らの諫言を受けてしまいます。
また、この時江東の平定にあたっていた孫策も諫言の書簡を送りましたが、受け入れられないことを知ると袁術との関係を絶ちました。
実際に袁術が天子(皇帝)を僭称するのは、まだ先のことになります。