197年【漢:建安けんあん2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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197年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后
皇后 伏皇后ふくこうごう伏寿ふくじゅ

朝廷

官職 人物
大司馬だいしば 張楊ちょうよう
太尉たいい
司徒しと 趙温ちょうおん
司空しくう 曹操そうそう
執金吾しつきんご 伏完ふくかん
将作大匠しょうさくたいしょう 孔融こうゆう
大将軍だいしょうぐん 袁紹えんしょう
車騎将軍しゃきしょうぐん 曹操そうそう
衛将軍えいしょうぐん 董承とうしょう
征東将軍せいとうしょうぐん 胡才こさい
前将軍ぜんしょうぐん 馬騰ばとう
後将軍こうしょうぐん 楊定ようてい
左将軍さしょうぐん 呂布りょふ
右将軍ゆうしょうぐん 袁紹えんしょう
輔国将軍ほこくしょうぐん 伏完ふくかん
安降将軍あんこうしょうぐん 韓遂かんすい
奮武将軍ふんぶしょうぐん 公孫瓚こうそんさん
奮威将軍ふんいしょうぐん 呂布りょふ
興義将軍こうぎしょうぐん 楊奉ようほう
寧輯将軍ねいしゅうしょうぐん 段煨だんわい
行殄寇将軍こうてんこうしょうぐん 孫策そんさく
明漢将軍めいかんしょうぐん 孫策そんさく

地方官

官職 人物
司隸校尉しれいこうい 曹操そうそう鍾繇しょうよう
冀州牧きしゅうぼく 袁紹えんしょう
豫州牧よしゅうぼく 劉備りゅうび
兗州牧えんしゅうぼく 曹操そうそう
荊州牧けいしゅうぼく 劉表りゅうひょう
益州牧えきしゅうぼく 劉璋りゅうしょう
徐州牧じょしゅうぼく 呂布りょふ
幽州刺史ゆうしゅうしし 段訓だんくん
青州刺史せいしゅうしし 袁譚えんたん
揚州刺史ようしゅうしし 劉繇りゅうよう
交阯刺史こうししし 朱符しゅふ
遼東太守りょうとうたいしゅ 公孫度こうそんたく
河内太守かだいたいしゅ 張楊ちょうよう
河東太守かとうたいしゅ 王邑おうゆう
陳湣王ちんびんおう 劉寵りゅうちょう
広陵太守こうりょうたいしゅ 陳登ちんとう
九江太守きゅうこうたいしゅ 陳紀ちんき
丹楊太守たんようたいしゅ 袁胤えんいん
豫章太守よしょうたいしゅ 華歆かきん
会稽太守かいけいたいしゅ 孫策そんさく

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197年の主な出来事

出来事
1月
  • 曹操そうそうが南征して荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん淯水いくすいに陣を置く。
  • 張繡ちょうしゅう曹操そうそうに降伏する。
  • 曹操そうそう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんに入る。
  • 袁術えんじゅつ天子てんし(皇帝)を僭称せんしょうする。
  • 沛相はいしょう陳珪ちんけい袁術えんじゅつの誘いを断る。
  • 徐璆じょきゅう袁術えんじゅつからの上公じょうこうへの任命を断る。
  • 兗州刺史えんしゅうしし金尚きんしょう袁術えんじゅつからの太尉たいいへの任命を断り逃亡する。
  • 金尚きんしょう袁術えんじゅつに殺害される。
不明
  • 曹操そうそうが故・張済ちょうせいの妻(張繡ちょうしゅう叔母おば)を側妾そくしょうにする。
  • 曹操そうそう張繡ちょうしゅう配下の胡車児こしゃじに手ずから黄金を与える。
  • 張繡ちょうしゅう曹操そうそうを襲撃する。(宛城えんじょうの戦い)
  • 曹昂そうこう曹安民そうあんみん典韋てんいが戦死する。
  • 袁紹えんしょう曹操そうそうに礼に反した手紙を送りつける。
  • 曹操そうそう鍾繇しょうよう司隷校尉しれいこういに任命し、関中かんちゅうの諸軍を委任する。
  • 鍾繇しょうよう馬騰ばとう韓遂かんすいらを従わせる。
3月
  • 袁紹えんしょう大将軍だいしょうぐんに任命される。
  • 献帝けんてい袁紹えんしょう冀州きしゅう青州せいしゅう幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)の4州を監督させる。
5月
  • 蝗害こうがいがあった。

不明

  • 袁術えんじゅつの息子と呂布りょふの娘が婚約する。
  • 呂布りょふが婚約を破棄し、袁術えんじゅつの使者・韓胤かんいんを処刑する。
  • 呂布りょふ左将軍さしょうぐんに任命される。
  • 陳登ちんとう広陵太守こうりょうたいしゅに任命される。
  • 袁術えんじゅつ韓暹かんせん楊奉ようほうと連合して呂布りょふを攻める。
  • 韓暹かんせん楊奉ようほう呂布りょふに寝返り、袁術えんじゅつが大敗する。
  • 臧覇ぞうは琅邪相ろうやしょう蕭建しょうけんを襲撃して物資を奪う。
  • 呂布りょふ臧覇ぞうはを攻めるが得るものなく撤退する。
  • 孫策そんさく騎都尉きとい烏程侯うていこう会稽太守かいけいたいしゅに任命される。
  • 夏、献帝けんてい曹操そうそう)が呂布りょふ陳瑀ちんう孫策そんさくに「袁術えんじゅつ討伐」の詔勅しょうちょくを下す。
  • 孫策そんさく明漢将軍めいかんしょうぐんに任命される。
  • 孫策そんさくが朝廷に貢物をささげる。
  • 陳瑀ちんう孫策そんさく統治下の郡県を離反させようとする。
  • 孫策そんさく陳瑀ちんうを攻め、陳瑀ちんう冀州きしゅうに逃亡する。
  • 長江ちょうこうから淮水わいすいにかけて飢饉ききんとなった。
  • 陳相ちんしょう駱俊らくしゅん袁術えんじゅつの食糧の援助要請を拒絶する。
  • 袁術えんじゅつ陳王ちんおう劉寵りゅうちょう陳相ちんしょう駱俊らくしゅんだまして殺害する。
9月
  • 漢水かんすい氾濫はんらんした。
  • 曹操そうそうが東征して袁術えんじゅつを討つ。
  • 許褚きょちょ曹操そうそうに帰順する。
  • 曹操そうそう許県きょけんかえる。
11月
  • 曹操そうそうが再び荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんに南征する。
  • 曹操そうそう淯水いくすいのぞんで、張繡ちょうしゅうの反乱によって命を落とした将兵をまつる。
  • 楊奉ようほう劉備りゅうびに殺害される。
  • 韓暹かんせん杼秋令ちょしゅうれい張宣ちょうせんに殺害される。
  • 胡才こさい仇敵きゅうてきに殺害される。
  • 李楽りがくが病死する。
  • 郭汜かくしが配下の伍習ごしゅうに襲撃され、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんで殺害される。

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197年の三国志群雄勢力図

1月

建安2年(197年)1月の三国志群雄勢力図

建安2年(197年)1月の凡例

建安けんあん2年(197年)1月の三国志群雄勢力図

張繡ちょうしゅう謀叛むほん

春、曹操そうそうみずから南征して荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん淯水いくすいに陣を置くと、劉表りゅうひょうと組んで荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん割拠かっきょしていた張繡ちょうしゅう曹操そうそうに降伏しました。


淯水(いくすい)と宛県(えんけん)

淯水いくすい宛県えんけん

赤線淯水いくすい


ですがその後、曹操そうそうが故・張済ちょうせいの妻(張繡ちょうしゅう叔母おば)を側妾そくしょうにすると、これをうらみに思った張繡ちょうしゅう曹操そうそうを襲撃します。

この反乱で、

  • 曹操そうそうの長子・曹昂そうこう
  • 弟の子・曹安民そうあんみん
  • 典韋てんい

が命を落としました。

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袁紹えんしょう曹操そうそうの不和

曹操そうそう張繡ちょうしゅうに敗れると、袁紹えんしょう曹操そうそうに礼に反して人を馬鹿にした内容の手紙を送りつけました。そして、この手紙を読んで激怒した曹操そうそうは、「袁紹えんしょうを討伐したい」と思い、荀彧じゅんいく郭嘉かくかに相談します。

すると荀彧じゅんいく郭嘉かくかはそれぞれ「袁紹えんしょう曹操そうそうおとる点」と「曹操そうそう袁紹えんしょうまさる点」を列挙して曹操そうそうを落ち着かせると、「袁紹えんしょうと雌雄を決する前に、まず呂布りょふを討伐すべき」であるときました。


また荀彧じゅんいくは、呂布りょふを討伐する際に関中かんちゅう函谷関かんこくかんより西の長安ちょうあんを中心とする地域)の安全を確保するため、侍中じちゅう尚書僕射しょうしょぼくや鍾繇しょうように西方を任せることを推薦します。

曹操そうそうはこれに従って、鍾繇しょうよう侍中じちゅうのまま司隷校尉しれいこういを兼務させると、長安ちょうあんに入った鍾繇しょうよう馬騰ばとう韓遂かんすいらに文書をまわし、彼らを従わせました。

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袁術えんじゅつの皇帝僭称せんしょう

袁術の皇帝僭称

春、「天の意志を示す瑞兆ずいちょう(吉兆)が下った」という司隷しれい河内郡かだいぐん出身の張烱ちょうけいの説を採用して、ついに袁術えんじゅつ寿春じゅしゅん天子てんし皇帝こうてい)を僭称せんしょうしました。

袁術えんじゅつは国号を「ちゅう」とし、九江太守きゅうこうたいしゅ淮南尹わいなんいんと改め、公卿こうけい以下百官を置き、南郊なんこう北郊ほっこう祭祀さいしを行います。

また袁術えんじゅつは、

  • 陳珪ちんけい
  • 徐璆じょきゅう
  • 金尚きんしょう

らをまねきましたがみな断られ、袁術えんじゅつは逃亡した金尚きんしょうを殺害してしまいました。

袁術と呂布の戦い

5月、袁術えんじゅつ呂布りょふと手を結びたいと思い「呂布りょふの娘を自分の息子の嫁に欲しい」と申し込みます。そして呂布りょふは、一旦はこれに同意しましたが、陳珪ちんけいの進言により婚約を破棄。袁術えんじゅつの使者・韓胤かんいん豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに送ってさらし首にしました。

これに激怒した袁術えんじゅつは、韓暹かんせん楊奉ようほうと連合して、歩騎数万を徐州じょしゅう下邳国かひこく下邳県かひけんに向かわせて、7つの道から呂布りょふを攻めます。

ですが、陳珪ちんけいの献策によって韓暹かんせん楊奉ようほう呂布りょふに寝返ったため、袁術えんじゅつ軍は大敗してしまいました。

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袁術えんじゅつ討伐の詔勅

夏、朝廷(曹操そうそう)は、

  • 徐州牧じょしゅうぼく呂布りょふ
  • 呉郡太守ごぐんたいしゅ陳瑀ちんう
  • 会稽太守かいけいたいしゅ孫策そんさく

袁術えんじゅつ討伐の詔勅しょうちょくを下しますが、この隙を狙った陳瑀ちんうが、秘かに孫策そんさく統治下の郡県を離反させようとします。

そして、これに気づいた孫策そんさく陳瑀ちんうを攻め、敗れた陳瑀ちんう冀州きしゅうに逃亡したため、この「袁術えんじゅつ討伐の詔勅しょうちょく」は、実行に移されることはありませんでした。

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12月

建安2年(197年)12月の三国志群雄勢力図

建安2年(197年)12月の凡例

建安けんあん2年(197年)12月の三国志群雄勢力図

曹操そうそうの東征

袁術の陳国侵攻

この年、飢饉ききんのため長江ちょうこうから淮水わいすいにかけての地域の民が互いに食らい合う有り様となりました。

秋9月、袁術えんじゅつ陳相ちんしょう豫州よしゅう予州よしゅう)・陳国ちんこく太守たいしゅ]・駱俊らくしゅんに食糧の援助を申し込みましたが、日頃から袁術えんじゅつにくんでいた駱俊らくしゅんは、まったく相手にしませんでした。

これに腹を立てた袁術えんじゅつは、秘かに刺客を送って駱俊らくしゅん陳王ちんおう劉寵りゅうちょうを暗殺させ、豫州よしゅう予州よしゅう)に侵攻しました。

曹操の東征

袁術えんじゅつ豫州よしゅう予州よしゅう)に侵攻すると、曹操そうそうみずから東征の軍を起こします。

曹操そうそうみずから出陣したことを知った袁術えんじゅつは、配下の将、

  • 橋蕤きょうずい
  • 李豊りほう
  • 梁綱りょうこう
  • 楽就がくしゅう

らを残して自分は軍をて、淮水わいすいを南に渡って逃走しました。曹操そうそう橋蕤きょうずいらを撃破してすべて斬り、許県きょけんかえります。


袁術の沛国侵攻関連地図

袁術えんじゅつ沛国はいこく侵攻関連地図

赤線淮水わいすい

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曹操そうそうの2度目の南征

曹操の南征

冬11月、曹操そうそう南陽郡なんようぐんは再度みずから南征を開始して宛県えんけんに至ると、淯水いくすいのぞんで、この年の春に張繡ちょうしゅうの反乱によって命を落とした将兵をまつりました。

その後曹操そうそう南陽郡なんようぐんは、湖陽邑こようゆうを拠点とする劉表りゅうひょうの将・鄧済とうせいを攻撃して攻め落とし、生け捕りにされた鄧済とうせい曹操そうそう南陽郡なんようぐんに降伏します。

また、曹操そうそう南陽郡なんようぐんは続いて舞陰県ぶいんけんを攻撃し、これを陥落させました。


曹操の南征関連地図

曹操そうそうの南征関連地図

赤字淯水いくすい

献帝の東遷に従った者たちの死

この年、献帝けんてい東遷とうせんに従った、

  • 楊奉ようほう劉備りゅうびに殺害され、
  • 韓暹かんせん杼秋令ちょしゅうれい張宣ちょうせんに殺害され、
  • 胡才こさい仇敵きゅうてきに殺害され、
  • 李楽りがくは病死し、

そして郭汜かくしは配下の将・伍習ごしゅうに襲撃されて、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんで殺害されました。

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建安けんあん2年(197年)、淮南わいなんではついに袁術えんじゅつ天子てんし(皇帝)を僭称せんしょうし、中原ちゅうげんでは曹操そうそう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん張繡ちょうしゅうと争いを繰り返していました。

また曹操そうそうは、華北かほく袁紹えんしょうを将来の強敵としてとらえ、当初の標的を袁紹えんしょう討伐時の障害となるであろう呂布りょふに定めました。

呂布りょふ討伐のため曹操そうそうは、長安ちょうあん鍾繇しょうようを派遣して西方の安定をはかりましたが、曹操そうそう関中かんちゅうを完全に掌握しょうあくするまでにはまだ数年をようします。

またこの年、李傕りかくと共に朝廷を専横した郭汜かくしが、配下の将・伍習ごしゅうに襲撃されて殺害されました。

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